第3話「夜を征く者達3」旅館幽霊篇


 食事の席では、既にミヤビが酔っ払っていた。酒臭い吐息を振りまき、ミヤビはレンに突っかかった。

「レンー。ようやく来たかー。まぁ、食べなさいよ」

「ああ」

 短く応じて、レンは箸をつける。しかし、味がほとんどしなかった。その疑問をそのまま、ミヤビに投げかける。

「ミヤビ。これ、味するか?」

「んー。いいんじゃない、薄味で。お酒がおいしいからさぁー」

 どうやらミヤビは相当出来上がっているようだ。今の彼女にまともな返答は期待できないだろう。アカリに尋ねようかと思ったが、アカリは行儀よく食べており、レンの視線に気づくと小首を傾げた。

「どうかした? レン君」

「……いや。別に」

 アカリの前では言葉少なになってしまう。レンは春日へと視線を移した。春日も同じように感じていたのか、「確かにほとんど味はしませんけど」と応じた。

「こういうものなんじゃないんですか、旅館の料理って。僕はあまりよくは知らないですけど」

 春日の言葉に納得しかけたが、先ほどの女将の台詞が脳裏に引っかかった。他に客がいないという言葉。ありえるのか、と自問したが、ありえない話ではない。しかし、だからといって従業員が女将一人なのはどこからどう考えてもおかしいだろう。この料理も女将が全て作ったというのか。それとも他の従業員がいるというのか。だが、それらしい気配は全く感じない。

「なぁ、この料理って女将が運んできたのか?」

「いえ。僕らが来た時には全ての準備が整っていましたけれど」

 たった三十分で、とレンは料理を見渡す。山菜の天ぷらや凝った郷土料理が並んでいる。並みの数ではなかった。作りおきでもしてあったのだろうか。それにしては、まだ料理が温かい。

 違和感は重いしこりになり、レンは喉元が狭まるのを感じた。箸を置き、「俺はもういい」と言って立ち上がる。

「ほとんど食べてないじゃないですか」

 春日の声に、「食欲ないんだよ」とレンは返した。ミヤビがレンの浴衣の裾を引っ張り、「まだ飲んでないぞー、レン」と言った。

「飲めねぇし、お前一人で随分と出来上がっているじゃねぇか。酔っ払いの相手をする趣味はねぇ。じゃあな」

 踵を返すと、ミヤビは「つれないなー」とまた飲み始めた。レンは廊下に出ると、女将とすれ違った。先ほど言葉の片鱗も見せず、女将はただ会釈しただけだった。


 部屋に引き返して二十分ほどすると、春日たちも部屋に戻ってきた。春日はぐでんぐでんに酔っ払ったミヤビを担いで連れてきた。

「ミヤビさん、飲みすぎです。明日二日酔いになっても知りませんよ」

「んー、うっさいなぁ、もう。どれだけ飲もうが私の勝手でしょー」

 ミヤビが赤ら顔でレンの姿を認めると、カッと目を見開きレンへと一目散に駆けてきた。レンは咄嗟に足を振り出し、ミヤビの顔に蹴りを見舞った。

「春日。こいつは駄目だ。さっさと寝かせちまおう」

「そうですね」

「あー。まだ寝ないっての! 私は朝まで起きてるんだから!」

 ミヤビが虫のようにわさわさと両手両足をばたつかせながら這い回る。それをレンと春日は呆れた様子で眺めていた。

「……修学旅行じゃねぇんだから。布団の上に寝かせるとすぐに寝るだろ。そっちの部屋、布団用意してるか?」

「今、アカリさんが用意してくれています」

「じゃあ、春日。運んでやれ。俺は疲れた」

「だーめだって、レン。レンが来なきゃやだー」

 ミヤビがレンに寄りかかってくる。レンがちらりとミヤビを見やると、ミヤビの浴衣がはだけていた。カッと熱くなる顔を逸らし、ミヤビに忠告する。

「ミヤビ、浴衣」

 簡潔に告げたその言葉に、ミヤビは「わけわかんないんだけどー」と間延びした声で返す。レンは顔を伏せて向き直り、「ああ、もう!」とミヤビの浴衣の胸元を直した。それを見て、ミヤビがにたりとしまりのない笑みを浮かべる。

「レンってば、むっつりだなー」

「うっせぇ。春日。さっさとこいつ寝かせるぞ」

 レンがミヤビの片腕を担ぐ。春日も頷き、反対側を担いだ。ミヤビは足に力を込める気は全くないらしく、男二人の力でどうにかミヤビを部屋の布団の上に寝かしつけることができた。アカリがすまなそうに頭を下げる。

「ごめんなさい。わたし、何もお手伝いできなくって」

「いいんですよ、アカリさん。ミヤビさんはいつものことですから」

「それじゃあ、おやすみなさい。レン君も、おやすみ」

 レンはアカリの顔を見ずに「……おやすみ」と短く告げた。部屋に戻り、布団を敷きながら春日がレンに話しかける。

「そんな無愛想に振舞っていると、嫌われますよ」

「うっせぇな。余計なお世話だ」

「確かに余計なお世話といえばそうですけど、見てられないんですよ。もっと素直になったらどうですか?」

「俺なりの事情があるんだよ。関係ないだろ」

「まぁ、確かに恋愛の形は人それぞれですけど……」

 春日の発した「恋愛」という言葉にレンは顔を赤くして、布団を手離し、ふるふると首を振った。

「れ、恋愛とかじゃねぇよ! 何言ってんだ、春日てめぇ!」

 春日はため息を漏らしながら、布団の準備を完了させて頷く。

「まぁ、それを自覚するのも本人次第ですからね。僕は所詮、他人なのでアドバイスと言っても他人事になっちゃうんでしょうねぇ」

「いらん。何だ、アドバイスって」

 レンも布団を敷き終わり、携帯の充電をしようとコンセントを探して周囲を見渡すが、どこにも見当たらない。

「春日。コンセントどこだ?」

「その辺にあるんじゃないですかね」

「いや、ないから聞いてんだけど」

「最近の旅館はそういうのに凝っていますから、インテリアの一部になっているんじゃないですか?」

「そ、そうか? でも……」

 レンは目を凝らすが、どこにもそれらしいものはない。携帯を開いて電波を確認するが、電波強度は一もなかった。圏外という表示が出ている。

「春日。この辺って圏外なのか?」

「そりゃ、山の中ですからね。繋がらないのも無理ないかもしれません」

「お前の携帯、新しい奴だろ。そっちはどうだ」

 春日が浴衣の胸ポケットから携帯を取り出す。画面を見て、「おや?」と声を上げた。

「圏外ですね。ほとんどの場所で繋がるはずなんですけど」

 レンは顎に手を添えて、圏外の表示を眺めた。先ほどの視線、女将の言葉、不自然な料理、それに電波の繋がらない、コンセントもない旅館――。おかしいといえばおかしいが、どれも山の中だから、という言葉で片付けられなくもない。

「まぁ、今日は寝るとしましょう。電池が持たないわけじゃないでしょう」

「まぁ、な」

 違和感を払拭しきれずにレンが応じると、春日は電灯から吊り下がった紐に指をかけた。思えばこの機構も古臭いが、全く存在しないわけでもないのだろうと納得はできる。紐を二度引くと、電気が消えた。

「では、僕は寝ますんで。おやすみなさい、レン君」

「ああ」


眠りにつくこともできず、起き上がって窓へと静かに歩み寄った。

窓の外から覗き込んでくる視線も気配も今は感じない。窓に耳を近づけると、どこからか鳥の鳴く声が聞こえてきた。その鳥の声が部屋を透過して反対側からも聞こえてくる。

レンは春日へと視線を向けた。春日は全く気づく素振りもない。寝入っているのが分かった。携帯を手に取り時刻を確認する。相変わらず圏外のままだったが、時間だけは正確に分かった。午前一時半だ。どうやら二時間近く寝付けなかったらしい。

レンは画材ケースから石の棒を取り出した。右手首の数珠を確認し、部屋を出ようとした。直前に春日に声をかけるべきか悩んだが、違和感を覚えているのは自分だけだ。ひょっとしたら、〝何か〟は自分だけを狙っているのかもしれない。あるいは――、と考える。

春日と出会ってから感じている既視感。それが同じような形で現れたか。

どちらにせよ、行動しなければ何かを探ることもできない。レンは石の棒を片手に部屋から出た。廊下には必要最低限の照明しか点けられていなかった。かろうじて足元は分かる程度だ。踏み歩くと、廊下が軋んだ。四人で行動している時には気づかなかったが、どうやらこの旅館はそこそこ年数が経っているらしい。真っ直ぐに廊下を歩くと、突き当たりに人影が見えた。ゆらりと身体を傾がせ、ゆっくりとこちらへと振り返る。

そこにいたのは女将だった。青白い顔が照明の下で浮き立って見える。すると、照明が点滅し、レンの姿と女将の姿を何度か闇の中に呑み込んだ。

 レンは右手に掴んだ石の棒をゆらりと持ち上げる。数珠が擦れ、鈴のような音を発した。その音に反応するように照明の明滅が激しくなる。

「なるほどね。いやがるな」

 すっと右手の棒を突き出す。すると、手首の数珠から金色の光が放たれ石の棒に纏わりついた。瞬間、棒が光を纏って両端がそれぞれ拡張する。レンの身の丈よりも大きい長さにまで伸長した。

レンは両手で長物を振り回し、風を巻き起こす。片方の柄を突き出し、レンは女将を見据えた。女将は動かない。息を吸い込んだ。それを止め、細く息を吐き出すのと同時に走り込む。一足飛びに跳ね上がり、棒を振り上げた。棒に纏わりついた金色の文様が輝きを増し、柄が女将の頭部へと打ち下ろされた。

 頭部を打ち砕いた、かに見えた柄はその実、女将の背後の闇を捉えていた。女将の背後で暗く凝った何かへと食い込んだ一撃は、次の瞬間耳を劈くような叫び声と共に弾けた。

 沈んだ柄を支点として、レンが飛び退く。女将の背中から飛び上がった影が天井に張り付き、バッタのように壁へと跳ね回る。レンは棒を握り直し、振るった一撃で影を引き裂こうとした。しかし、影は壁から壁へと跳躍し、レンの棒術の攻撃範囲を難なくかわす。舌打ちが漏れ、レンは振り返った。照明が点滅する廊下の中の闇を縫うように影が水音のようなものを立てながら階下へと向かって遠ざかっていく。

 すると、背後で女将が倒れた。駆け寄って抱き起こすと、どうやら気を失っているらしかった。ほとんど身体に力がない。着物から伸びる腕を見ると、どうして動いていたのか危ぶまれるほどに細かった。

「生気を吸うのか……」

 呟くと同時に危機感が身体を電流のように走る。だとすれば、春日たちに危険が及ぶ。春日とミヤビはかろうじて自力でも抜け切れるかもしれない。しかし、アカリは――。そう考えた途端、いてもたってもいられなくなり、レンは駆け出した。

直後、点滅する照明の下で妙なものが揺らめいた。壁や天井の隙間からぼうと浮き上がってくる。煙か、と口元を押さえたがそれらしい臭いはしない。靄のように見えた。靄は寄り集まり、渦を巻いて表層に三つの穴が開く。それぞれが眼窩と口に見える靄は、穴を大きく開き風が木の葉の合間をすり抜けるような甲高い音を立てた。

「低級霊かよ。今時のホラーショーじゃ流行らない、ぜっ」

 呼気を吐き出すと同時に棒を回転させ、レンは柄を靄の横っ面へと叩きつけた。棒に絡みつく金色の光が眩く輝き、靄から低い呻き声が聞こえたかと思うと霧散した。だが、それ一つではない。壁や天井から雨漏りのように靄が次々と出現している。舌打ちと共に駆け出そうとすると、道を阻むかのように前に現れる。

「……さっきの影を守ろうってのかよ。ってことは、あれに何かあるのか」

 レンが頭上で回転させた棒を振るい落とす。靄が弾け、血飛沫のようにその残滓が舞い散る。

「こいつら雑魚だ。でも、キリがねぇ」

 走り込む先から阻まれるのでは成す術がなかった。かといって強行突破するには廊下は狭い。レンの棒術はリーチの長さが強みであるが、それが今は仇となっていた。小回りが利きにくく、このままでは一歩も動けない。加えて、低級霊とはいえ相手に触れれば何かしらこちらに不調はあるかもしれない。棒以外では触れるわけにはいかなかった。

「このまま朝になれば消えてくれるか……」

 そんな呟きを発した時、足の裏に妙な感触を覚えた。足を持ち上げると、廊下がゴムのように足の裏に引っ付いていた。少し力を加えると取れるが、どうやら粘着性を持ち始めているようだった。

「ここに縫い付けて、消化でもする気かよ」

 言ってから冗談にもならないと思った。つまりはこの旅館自体が相手の胃袋の中というわけだ。朝までは待てそうにない。できる限り動きながら相手にするしかなかった。しかし、今も靄は増え続けている。消化液のように垂れ下がってくる靄を叩き落とし、レンは息をついた。

「どうにかしねぇと。どうにか……」

 その時、この場には似つかわしくない鼻歌が聞こえてきた。レンが来た方向から聞こえてくる。照明が明滅し、その人影を映し出した。

「ミヤビ!」

 その名を呼ぶと、ミヤビがびくりと肩を震わせた。レンを下から上へと見やり、寝ぼけ眼で首を傾げる。

「どったの? レン。如意棒なんて持ち出して。まぁ、いいや。トイレどこ?」

「そんな場合じゃねぇんだよ! 鉄甲、持ってんだろ!」

「えっ、持ってるけど? 一応、言われた通り肌身離さず……」

 戸惑うミヤビへとレンは手を振り翳し、素早く指示を出した。

「鉄甲つけて、この辺殴れ! 時間がねぇんだよ」

 レンが周囲を指差すと、ミヤビは怪訝そうにレンを見つめた。

「何も見えないんだけど……。なに? また私には見えない奴なの?」

「いいから! この辺だよ、この辺!」

 大声で怒鳴り散らしていると、ミヤビは頭を押さえながら、「大声出さないでよ、頭痛いんだから」とぼやきつつ、黒い手袋を取り出した。指の部分が出るようになっている手袋で、手の甲に当たる部分には丸い鉄の装飾があり、鉄にはそれぞれ文字が刻み込まれていた。それを両手にしっかりとはめ、ミヤビは構えを取った。

「なに? レンの周りでいいの?」

「ああ。とりあえず、早く」

「急かすな、っての!」

 深く吸い込んだ呼気を放つと同時にミヤビの拳がレンの眼前を薙ぎ払った。黄金の光が明滅し、靄が根こそぎ吹き飛ばされていく。これがミヤビの法力だった。ミヤビは霊や妖怪なるもののほとんどが見えない。だが、法力だけは持っているためそれを拳に凝縮して放つことができる。それも全てレンの如意棒と同じように春日が考案したものだ。

今だ、とレンは踏み込み、駆け出した。

「えっ、ちょっと、レン!」

 代わりのようにその場に縫い付けられたミヤビがレンへと顔を振り向ける。レンは「悪い」と片手を出して謝った。

「俺はこの現象の根幹を叩く。お前はその辺を殴っといてくれ。そうしたら、低級霊はお前に標的を定めるはずだ」

「それって、囮になれってことじゃないの! 私見えないのに嫌だってば!」

「見えないんじゃ原因を突き止めることもできねぇだろ。俺に任しとけ。十分程度で終わらしてやるよ。じゃあな」

「レンの奴! トイレ十分も待てないってば!」

 それでも叫ぶことに意味はないと悟ったのか。ミヤビは何を殴っているのか分からぬまま、拳を放った。


 階段を滑り落ちるように駆け降り、一階を見渡す。

壁や天井からまたも靄が溢れ出している。レンは如意棒を回転させ、靄を吹き飛ばしながら考える。

こういう時に春日ならばどう判断するか。

一行の中でもっとも妖怪や霊なるものに造詣が深いのは春日だ。春日を叩き起こしてこの事態の究明をさせる手もあったが、部屋まで戻ってから影を追うのは効率が悪い。階下への道を封じられればそれまでだ。一階に降りた今こそが、好機なのである。レンが思案を巡らせていると、靄が吸い寄せられるように一箇所に固まった。瞬く間に巨大な靄の塊となり、入道雲のようにもくもくと湧き上がる。巨大な三つの穴が開き、口に当たる穴を大きく開いてオオン、と獣のように鳴いた。

靄から細い手のようなものが生え、それを地面につく。

レンは舌打ちを漏らした直後、走り出した。靄が両手を伸ばして、レンへと猪突する。レンは跳び上がって、壁を蹴りつけた。その勢いを借りて、靄の真正面に出る。靄の二つの眼窩がレンを正面に捉えた瞬間、レンは如意棒を横薙ぎに振るった。靄の頭部が黄金の光に根こそぎ剥ぎ取られ、身体を刃のように引き裂く。

その時、足の裏に妙な感触を覚えて視線を落とす。またもや床が粘着剤のようになっていた。これでは跳躍ができず、沈ませた姿勢が逆効果になる。レンが体勢を整えようとする前に、靄が眼前に近づいてきていた。三つの穴を開き、そこから目には見えない何かを吸い上げる。

眩暈とふらつきを覚え、レンは棒から手を離しそうになった。生気を吸い取られている。それが分かったが、攻撃に転じる姿勢ではない。

靄がさらに穴を開き、生気を吸い込む速度を速める。どうやら勝負を急いでいるらしかった。薄れゆく意識の中で、レンはただアカリのことを考えた。春日とミヤビと自分はいい。こちら側の道を選んでしまった人間だ。しかしアカリは無関係なのだ。せめてアカリだけは、と命乞いしてみたところで無駄だろう。相手は低級霊だ。こちらの意思が通じる道理はない。

今にも意識が闇に没すると思われた瞬間にもレンはアカリのことだけは諦められなかった。

――アカリだけは、必ず助ける。

心の中はそれだけだった。指の筋肉が弛緩し、棒を持つことすら危うくなる。このままではと思われた時、春日の言葉が思い出された。

「低級霊には必ず、核となる霊が存在します」

 いつもの事務所の風景だった。自分はその時には何をやっていただろうか。本を読んでいたと記憶しているが、何を読んでいたかまでは覚えていない。

「核となる霊の依り代さえ破壊すれば、霊はその場に留まれなくなる。この場合、この世と彼の岸を結ぶような自然物が依り代となる場合が多いです。神木や、霊石などが」

 自然物などない。この旅館自体が依り代だというのならば、旅館をまるごと破壊しなければならない。しかし、そんなことは不可能だ。ならば自然物とは――。

 その時、レンは脳裏に閃くものを感じた。眼前に迫る靄へと鋭い眼光を飛ばす。靄が一瞬たじろいだように見えたのを、レンは見逃さなかった。

「縮め、如意棒!」

 叫ぶと同時に床についていた如意棒が再び拳二つ分ほどの長さへと縮まり、レンはそれを逆手に握ってナイフのように振るい上げた。靄の顎から額へと一直線に黄金の粒子が切り裂く。靄は呻き声を上げて退いた。レンは後ろへとよろめいたのを感じたが、ここで尻餅でもつくわけにはいかなかった。足を寸前のところで踏み止まり、ほとんど感覚のない足に最後の活力を込めた。それでも足は粘着する床からなかなか離れない。靄が再びレンへと近寄ろうとする。レンはぎりと奥歯を噛んだ。

「冗談じゃねぇ! 動け、足!」

 叫ぶと同時に如意棒の一撃を膝に叩き込んだ。

瞬間、鋭角的な痛みと共に感覚が僅かに戻ってきた。レンはそれを逃さず身を翻し、足を床から剥がす。駆け出すと、緩慢な動きだった靄が身体から無数の手を生やし、今までの鈍さが嘘だったように追いかけてくる。やはりこちらにあるのだ、という確信と共にレンは旅館のロビーへと向かい、目的のものを視界に捕らえた。

 それはロビーにある巨岩だった。木の根が纏わりついていた巨岩は、今、血のように赤く染まっている。木の根はまるで血管のようで、巨岩は心臓かと思われた。

「あれが、この現象の心臓部……」

 レンは呟くと同時に右手に力を込めた。レンの意思に反応した如意棒が光に包まれて再び伸長する。

 巨岩には腫瘍のように黒い影が纏わりついていた。レンが如意棒を構え、柄を突き出した時、黒い影が泥のように粘りを持ってその身を靄の頭部と同じ形状に変えた。三つの穴を開き、そこから搾り出すような声が響く。

 ――貴様、何故邪魔をする。

「邪魔も何も、襲ってきたのはそっちだろうが」

 ――こちらは網にかかった獲物を取っているだけだ。自らあだなす害悪ではない。ここに来た貴様らが不運だっただけだ。

「そいつはお互い様だな。お前も、俺がここに来たのが不運だったのさ。今まで散々、食い散らかしてきたんだろ。それも今日までだって話だ」

 レンは如意棒の柄を真っ直ぐに巨岩へと向ける。影の泥はその身を揺らして嗤った。

 ――馬鹿な。貴様一人程度で、何ができる。ここは我々の餌場だ。溶けて消えるがいい。

 ずぶずぶと音を立ててレンの足場が沈んでいく。レンはそれでも影から視線を外すことはなかった。影が哄笑を上げる。

 ――ここまでだ。朽ち果てろ。

 背後に迫った靄が三つの穴を開け、レンの生気を今度こそ吸い尽くそうと覆い被さろうとする。その瞬間、レンはぼそりと呟いた。

「冗談」

 如意棒に光が纏いつき、次の瞬間、光が弾け、音もなく伸長した如意棒の柄が影を捉えていた。影がそれに気づいて顔を向ける前に、レンは如意棒を食い込ませるように握り直した。

「腹の中に収まるのはゴメンだな」

 影から叫び声が迸るのと同時に、覆い被さろうとしていた靄がレンに触れる前に掻き消えた。壁や天井から垂れ下がっていた低級霊が霧散し、床から粘度が消えていく。レンは如意棒を縮ませながら、巨岩へと歩み寄った。影は如意棒の先端に刻まれている龍の文様に食いつかれて動けなくなっていた。影の眼前でレンは言葉を発する。

「それに、お前は標的にしちゃいけない人間を標的にした。朽ち果てるのは、お前だ」

 その言葉と共に振るい上げた如意棒を打ち下ろした。影が縦に断絶され、断末魔の叫びが木霊する。呪いの言葉だったのかもしれないが、レンには関係がなかった。如意棒の汚れを落とすように振るい、踵を返す。振り返ると、巨岩は真っ二つに裂けていた。木の根も朽ち果て、見る影もない。照明の点滅が収まり、レンは階段を上った。二階の廊下で、まだミヤビは拳を振るっていた。とっくに床の粘性は切れているのに、その場から動こうとしない。レンは声をかけた。

「ミヤビ。終わったぞ」

「え? ホント?」

「もう動ける。ためしに動いてみろ」

 ミヤビが足を上げると、ずっとその場で見えないものと戦っていたせいか少しよろめいた。


 翌朝、春日に事の顛末を伝えると、それは旅館型幽霊だという言葉が返ってきた。

「旅館型幽霊?」

「聞いたことないわね」

 時刻は早朝の五時半である。ミヤビは春日たちの部屋に来ていた。アカリだけを部屋に残すことに一抹の不安は感じたものの、自身の手で事は終結させたという自負はあった。春日は窓を開けて朝の風を部屋に取り込みながら続ける。

「いわゆる群体の幽霊ですね。個体じゃなくって。つくもがみと似たところがあります。旅館という、個人や集団を問わない場所がいつの間にか意思を持って人を食らうようになったということですかね」

「どうして人を食らうようになったんだ? おどかすとかが先じゃないか?」

「もちろん、最初はおどかすなどが主だったんでしょうけど、この山奥です。次第に人も途絶えたのでしょう。人の行き来がない宿泊施設は駄目になりますからね。これは家でも同じことが言えるわけですが、このように旅館となるとそれがさらに深かったのでしょう。見たところバブル以降に建てられた旅館のようですし、そう古いわけでもない。原因は、やはり人の往来のなさでしょうね。立地が悪かったと言えましょう。加えて、ロビーの巨岩です」

「巨岩って?」とミヤビが尋ねるので、レンはロビーにあったものだと説明した。

「見た記憶ないんだけど」

「それはお前が温泉やら食事やらで騒いでいたからだろ。そういや、食事とか温泉とか、何だったんだ? 女将一人しかいないのにおかしいだろ」

「食事は多分、幻術だったんでしょうねぇ。砂や葉っぱでも食わせられたのかもしれません」

「す、砂?」

 ミヤビが吐く真似事をするが、今更どうしようもない。レンは無視をして、「じゃあ、温泉は?」と尋ねる。

「温泉は本物だったんでしょう。幻術で綺麗に見せていたかもしれませんが、確認しに行きますか?」

「いや、いい」

 旅館型幽霊の幻術が切れた今となっては、恐らくは寂れた温泉が見えるのだろう。湯だと思って浸かっていたのも、もしかしたら泥水だったのかもしれない。確認して気分を害するよりは、そう思い込んでいたほうがいいこともある。

「どちらにせよ、ここに長居するのもよくなさそうですね。女将さんは、どうですか?」

「空いている部屋に寝かせてある。免許証を持っていたから、あとで連絡しとけば何とかなると思う」

 女将は結局、麓の町の女子大学生だった。恐らく行方不明の扱いになっているのだろう。どうしてこの旅館にいるのかはあまり追求しないことにしておいた。自分たちと同じように何も知らずに来たのならば、恐らく連れはもういないだろう。財布に入っていた何人かで撮られた写真を思い返し、レンは顔を伏せた。

「なら我々はここで帰るのが望ましいでしょう」

「俺も、それがいいと思う」

「えー、朝御飯はどうするのよー」

 状況を分かっていないミヤビの言葉に、レンは眉根を寄せた。

「昨日持ってきた菓子の余りでも食っておきゃいいだろ。それとも、砂か葉っぱがいいのか?」

 そう言うとミヤビは、「むぅ」と膨れっ面をしたが黙り込んだ。

「アカリさんには知らせないでおきましょう。ミヤビさん、キーを渡しておくので、先にアカリさんを車の中へお願いします」

 春日がミヤビにキーを手渡す。ミヤビが部屋を出て行く時、春日は窓の外を眺めていた。

「春日。お前、勘付いていただろ」

 レンの声に春日は振り返らずに応じた。

「いいえ。どうしてです?」

「幻術程度ならお前が分からないはずがないからだ。俺に如意棒を渡した張本人だろ。それぐらいの心得がないのはおかしい」

「買いかぶりすぎですよ」

 レンはあの巨岩に取り憑いていた影を思い出す。自分たちの餌場に迷い込んできたのが悪いと言っていた。それは確かにその通りだろう。誰もこの場所に踏み込まなければ害はないのだ。ならば自分は罪なき命を葬ってしまったのかと考えたが、その思考を読み取ったように春日が言葉を発する。

「しかし、僕らだってまだ死にたくない。抗う権利くらいは持っているはずです」

 何もかもお見通しというわけか、とレンは合点して立ち上がった。窓の外から涼しい風が吹き込んでくる。昨夜のような視線や生ぬるさは感じない。これがこの旅館の本来のあるべき姿なのだろうとレンは感じ、まとめた荷物を肩にかけた。

「先に行ってるぜ、春日。長居する気はないんだろ」

 その言葉に春日は「ええ」と応じながらもその場から動こうとしなかった。春日の目には何が見えているのだろうか。分からぬことを考えても仕方がないと思い、レンは身を翻した。


 車に揺られていると隣にいるアカリが目を覚ました。寝ぼけ眼を擦りながら、アカリが周囲を見渡す。旅館の布団の中ではないと気づいたアカリが、「ここは?」と腑抜けた声を出す。その言葉に運転席の春日が応じた。

「ちょっと旅館のほうでトラブルがありまして。どうやら手違いだったようで、早朝に追い出されることになったんです」

「ホント、大変だったんだから」

 ミヤビが助手席から顔を振り向けて言った。

「あの程度の待遇だったのに、一泊分きちんと料金取られるし。もうちょっとゆっくりしたかったなぁ」

 後半は本音が滲み出ていた。アカリはゆっくりと身を起こす。すると、先ほどまで自分が膝枕されていた相手が固まっているのを見て小首を傾げた。

「どうしたの? レン君」

 レンは、「何でもねえって」と素っ気なく応じながら、前の座席にいる春日とミヤビを睨みつけた。春日は微笑み、ミヤビは口笛を吹いて素知らぬ顔で前を向いた。アカリはまだ眠いのか、目を擦り小さく欠伸を漏らした。

「レン君。もう少しこのまま寝かせてもらってもいい?」

 その言葉にレンはブリキ人形のようにぎこちない動作でアカリに顔を向け、何度も頷いた。

「お、おお。まぁ、うん。いいけど……」

 アカリが再びレンの膝に寝転がって、目を閉じる。長い睫が陽光に照らされて柔らかく輝く。「よかったねー、レン」とミヤビが前の席からレンを茶化した。レンは怒鳴りつけようとしたが、静かに寝息を立てるアカリを見て躊躇った。春日はまだ笑っている。

「レン君。慰安旅行。いかがでしたか?」

 レンは窓の外を見ながら、赤くなった顔を背けて鼻を鳴らした。

「まぁ、悪くはなかったな」

 こんな機会があっても悪くはない。そう、レンは思えた。


第一章 旅館幽霊篇 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る