第2話「夜を征く者達2」旅館幽霊篇
「……にしても、暑い」
手を翳して降り注ぐ太陽光を遮って、青空を忌々しげに見つめる。熱気が周囲を包み込み、むんと重たい空気が身体から水分を奪っていく。早くも渇きを訴える喉に、バッグから取り出したペットボトルのお茶を流し込んだ。この暑い中、本当に行くのだろうかと今更に不安になってくる。車と言っていたが、春日がまともな車を用意するだろうか。不安が口からついて出る前に、事務所の輪郭が見え始めた。思ったとおり、既に車が事務所前に停まっている。春日は手回しだけは早い。さっさと冷房にありつこうと駆け寄りかけた、その時である。
「あっ、レンじゃん。お久しぶりー」
車からひょっこりと顔を出した人物にレンの足が凍りついた。そのまま大きく迂回して回れ右の姿勢を取ろうとしたのを、車から駆け寄ってきたタンクトップの影に首根っこを引っ掴まれた。
「何? 走ってきちゃって。私がいるのがそんなに楽しみだったのかしら、あんたは」
快活に笑いながらも目は笑っていない。レンは振り返って首根っこを強引に掴んで引き寄せようとしている主を睨んだ。
ショートカットの黒髪に、整った目鼻立ちをしている女性だった。切れ長の黒曜石のような瞳に、すらりとして引き締まった体躯に黒のタンクトップとタイトなジーンズがよく似合っている。しかし、レンはこの女性の本性を知っているために、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「こいつぅ! 相変わらず男の癖にちっちゃいわね!」
レンの頭に拳をぐりぐりとめり込ませ、女性は太陽のように笑った。だが、レンからしてみれば冗談ではなかった。空の太陽が働きすぎなほどに暑いというのに、地上にもう一つ太陽があっては堪ったものではない。レンは身体をばたばたさせて抵抗した。
「うっせぇ! 離せ! ミヤビ!」
「あら? ミヤビお姉さんでしょ?」
ミヤビと呼ばれた女性がレンの首筋に腕を引っかけてそのまま絞め殺さんばかりに圧力を加える。レンは腕を叩きながら、「ギブ! ギブ!」と叫んだ。
「あーあー」と言いながら後頭部を掻く春日は明らかに部外者の位置でミヤビとレンを見つめていた。
「てめぇ、春日! 助けろ!」
「いや、しかし、僕じゃミヤビさんのヘッドロックを解くことはできませんね。僕が間に入ろうにも、ミヤビさんとレン君はぴったりと引っ付いていますし、引き剥がすには相当な力がいります。僕は力自慢ではないので、この状況をどうにかするのは難しいでしょうね」
「冷静に分析してんじゃねぇ。結構、食い込んで、苦しいんだよ」
今にも意識が落ちようとする中、春日の後ろから控えめな影が顔を出した。その姿にミヤビが気づいて、「おっ」と声をかける。
「アカリちゃん。レン、来たよー」
レンはその瞬間に緩んだのを見逃さずにミヤビの腕から離れて距離を取った。すると、春日の後ろにいた人影と視線が合った。
長い黒髪にオレンジ色の髪飾りが眩しい少女だった。小さめの顔にある大きな瞳は僅かに紫がかっていて、水色のワンピース姿と大き目の麦藁帽子が太陽の下で映えている。レンは視線に射止められたかのように、身体が硬直するのを感じた。レンよりも少し背の高い少女はレンを見て、大輪の笑顔を咲かせた。
「おはよう、レン君」
「……ああ。おはよう、アカリ」
レンは視線を逸らして後頭部を掻く。訳知り顔の春日とミヤビがそれを観察するように眺めているが、今のレンには構っている暇はなかった。アカリはレンのバッグを指し示し、「すごい大荷物だね」と言った。
「わたし、ちょっとしか荷物持ってきてないの。ミヤビさんがわたしの分も持ってきてくれるって言ってくれて。それに春日さんもわたしの荷物をわざわざ家まで取りに来てくれて」
その言葉に春日とミヤビに睨む目を向ける。
――えらく俺と待遇が違うじゃねぇか。
その意思が届いたのか。ミヤビは涼しい顔をして口笛を吹き、春日は苦笑した。
「では、乗ってください。出発しますから」
春日が運転席の扉を開けて促す。レンは「ちょっと待て」と春日に耳打ちした。
「ミヤビもついてくんのかよ」
ミヤビへとちらと目を向ける。ミヤビはアカリと話していたのでその視線には気づかなかった。
「言い忘れていました。昨日、話したら行きたいとのことでしたので、お誘いしたんですが」
「あんな暴力女がいたんじゃゆっくりもできないっての。今から何とかして、帰ってもらうわけにはいかないのか?」
「聞こえてるわよー。レン」
背後から聞こえてきた言葉にぞくりとして振り返ろうとすると、頭を二、三度叩かれた。
「ちっちぇえことは気にすんな、レン。身長も伸びないぞ」
「大きなお世話だ!」
手を払いのけて、車の後部座席に乗り込んだ。フロントミラーに映る自分の姿を見る。赤毛で小柄な身体はまるで猿のようだった。確かに、ここにいる誰よりも身長が低い。身長が低いことはレンにとって大きなコンプレックスだった。牛乳は毎日のように飲んでいるのだが、どうしてだか身長は伸びず、高畑に「坊」と呼ばれるのもそれが一因としてあった。
春日が運転席に乗り込み、助手席にアカリが座った。後部座席に乗ってきたのはミヤビだった。レンは露骨な嫌悪感をあらわにする。
「何? 私が隣なのがそんなに嬉しいの? レン」
レンは窓の外に視線を向けながらおざなりに答えた。
「逆だ、逆。お前、いいのかよ。祈祷師としての仕事は」
「ああ、お休みもらったから」
ミヤビの本職は霊や妖怪などを祓う祈祷師である。金海市、金海神社の巫女でもあった。本名は桐坂ミヤビといい、一時期はテレビにも取り上げられていた。「美人霊能力者」という触れ込みだったが、そのキャッチコピーがとんだ見当はずれだったことをレンや春日は知っている。見た目は美人かもしれないが、中身はオヤジそのものだ。
「休みって、そんな簡単に出るのかよ。世も末だな」
「まぁ、私が祈祷師として名があったのはもう過去のお話だからね。今はただの女の子に戻ったってわけ」
「……ババァの間違いだろ」
ぼそりと発した言葉に、ミヤビの腕がすかさずレンの首にかかり、またも絞め落とそうとしてくる
「はい。出発するんで、そこまでにしてくださいミヤビさん。シートベルトを締めてくださいね」
春日の声でようやく中断され、レンは荷物を足元に置いてシートベルトをつけた。四人の乗る車は車体を揺らしながら、ゆっくりと発進した。
「んー、どうしましょうかねぇ」
春日の発したその言葉にレンは眉間に皺を寄せた。
「まさか、迷ったなんて言うんじゃねぇだろうな」
周囲を見渡すと、金海市からは随分と離れ、田んぼと山や森しか見えない。道路を行きかう他の車はなく、ほとんど立ち往生の状態だった。山の木々が風に揺れ、大きな鳥が木の天辺から飛び立つのが見えた。
「この辺りのはずなんですが、一向に見えませんね」
「何で、カーナビの一つもないんだよ」
「いや、お恥ずかしいことですが機械には疎いものでして」
レンが舌打ちを漏らした。ミヤビは傍観者を決め込んでいたが、地図を一読するなり、「よし」と意気込んだ。
「春日。このまま真っ直ぐ、二キロ直進」
まるで部隊長のようにはきはきとした口調で命令を下した。それに従い、春日が車を再発進させる。レンは意外な展開に驚いていた。ミヤビに地図を読む心得があったとは思わなかったのだ。
上り坂を決して乗り心地がいいとは言えないワゴン車が進んでいく。がたがたと車中が揺れ、レンは尻が痛くなった。車は徐々に山中へと入っているようだ。木々の緑が深くなり、枝葉の網を突き破りながらワゴン車は道を切り拓いていく。もはやここは獣道ではなかろうかと思ったレンは、ミヤビに尋ねた。
「なぁ、本当に地図分かってんのか?」
「当たり前じゃない。お姉さんを信じなさい」
信じて欲しかったら普段からそれなりの行動をすべきだと、レンは冷たい眼差しを返した。
その時、春日が出し抜けに「おっ」と声を上げた。何だ、と思う間もなく車が急停車し、レンは運転席の後部に額をぶつけかけた。顔を上げると、開けた空間に出ていた。
そこにあったのは二階建ての建物だった。コの字型になっており、控えめだが特別こじんまりとしているというわけでもない。木造で、見たところ旅館のようだがここが宿泊先なのだろうか。春日へと尋ねる。
「春日。ここに泊まるのか?」
「いや。僕も電話予約と所在地しか聞いてないから、なんとも……」
春日は後頭部を掻いて弱々しく笑うが、今の状況でそんな笑い方をされても不安になるだけだった。その時、旅館の入り口から人影が歩み寄ってきた。赤い着物を着た背の高い女性だった。その女性はレンたちの前まで来ると、恭しくお辞儀をした。
「ようこそ、いらっしゃいました。春日様ですね」
「は、はい」
顔を上げた女性の顔は車のライトに照らされていたが、どこかこの世のものとは思えないほど白く見えた。
「ご予約を承っております。車はそこで結構ですので。それではどうぞ」
どうやら女性はこの旅館の女将らしかった。春日とレンは顔を見合わせるが、後ろから駆け寄ってきたミヤビが二人の肩を掴んだ。
「何? 着いたんでしょ? 早く晩御飯にしましょうよ。温泉も入りたいし」
「まだ食うのかよ。さっきまで菓子食ってたろうが」
「えー。お菓子じゃ、お腹いっぱいにはならないし」
子供のようなことをいうミヤビに、胸に微かに浮かんだ疑念は消え去った。アカリが車から出てきて控えめに言葉を発する。
「あの、ここなんですか?」
レンは空を仰ぐ。夕日はとうに沈み、月が空に出ていた。暗がりに没した山奥でいたずらに動くのは危険である。何よりも女将が予約を承っていると言っているのだから、断る理由もない。
「レン君。行きましょうか」
レンと同じことを考えていたのか、春日はレンに目配せした後、車へと荷物を取りに向かった。レンはしばらく旅館を見つめていたが、同じように車に置いておいた荷物を運ぶために身を翻した。
旅館のロビーは思ったよりも広く、入ってすぐのところに巨岩の彫刻があった。拳のような果実のような巨岩で、木の根が纏わりついている。レンは周囲を見回してみたが製作者の銘も作品の名も入っていなかった。
部屋は二階層の部分だった。隣り合う二部屋で、春日とレンは角部屋をあてがわれた。内装は落ち着いた和室で、木の座卓が一つと、座椅子が二つ、ベランダはなく窓が一つだけあった。
テレビは最近の旅館にしては珍しく、この部屋にはない。押入れがあり、そこに寝巻きや布団があるという説明を受け、女将は食事の準備は整っているので三十分ほどしたら呼びに来ると告げて部屋から引き返した。レンは何時間も車の中で座っていたせいか、思いのほか疲れが溜まっていたために畳に寝転がった。身体の奥底から息が漏れる。春日も運転疲れか、肩を回していた。
「先に温泉に浸かりますか」
春日の提案に、レンは頷いた。タオルと着替えの浴衣を用意し、部屋から出るとちょうど同じように部屋から出てきていたミヤビとアカリに出くわした。
「奇遇じゃない。あんたらも温泉に?」
ミヤビの言葉に春日とレンは首肯した。
「じゃあ、さっさと行くか、野郎ども」
自分も野郎みたいなものだろう、という言葉をレンは寸前で呑み込んで四人で連れ立って温泉へ向かう。一階にあった温泉は当然のことながら男湯と女湯に分かれていた。
「じゃあ、またね。あっ、そうそう、レン」
青い「男」と書かれたのれんをくぐろうとしている最中にかかったミヤビの声に半分だけ顔を出す。ミヤビはニヤニヤとしまりのない顔をして、レンを指差して言った。
「覗くなよぉー」
「誰が覗くか」
オヤジそのものなミヤビの言葉にレンは冷静に返した。しかし、よくよく考えればアカリもいるのだということに気づき、のれんをくぐってから顔が赤くなっていった。それを見た春日が、「大丈夫ですか?」と声をかける。レンは平静を装って、「何が?」と顔を背けた。
「既に湯あたりしているように顔が赤いですが」
「何でもねぇっての」
春日は訳知り顔でレンを見たが、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。レンは春日と共に岩で固められた露天風呂へと向かった。木の敷居で男湯と女湯が遮られている。他に宿泊客はいないようだった。それぞれ離れて湯に浸かりながら、レンは周囲の音に耳を澄ませた。鳥の鳴き声一つしない。他の宿泊客がいればその生活音ぐらいするものだが、それすらない。本当にここは宿泊用施設なのか。そんな疑問が浮かぶが、次の瞬間、疑問は掻き消えた。
「結構広いねー、アカリちゃん。こっちだって」
急に聞こえてきたミヤビの声に、レンは驚いて湯に顔の半分をつけた。それを怪訝そうに春日が見ている。
「どうかしたんですか?」
「何でもねぇって言ってんだろ」
妙にひそめた声で話すものだから、春日もそれに気づいたらしい。「ああ、なるほど」と合点したように言葉を発した。
「隣の女湯の声が聞こえるわけですね。……なるほど。想像力をかきたてられますね。ふむふむ」
何度も頷きながら、春日は恥ずかしげもなく女湯の物音に耳を澄ませている。レンは糾弾するように言った。
「変態め」
「何を言いますか。春画を愛好するものにとって、女性の裸体とは芸術の一部ですよ。それを頭に思い描くことに、なんら変態性などないのです。あるとしても、それは誇るべき自身の創作の原動力となるのですよ」
「屁理屈こねんな。結局、そういうことじゃねぇか」
「いやいや、レン君。君はまだ造詣が甘いですね。この程度で恥ずかしさを覚えることこそ、恥ずかしいことだと何故気づかないのですか。むしろ、積極的に聞いてあげたほうが芸術に帰依するという意味ではいいのですよ。ぜひとも、お二人の姿を描いてみたいですね」
その瞬間、レンの怒りが沸点を迎えた。温泉のせいもあったのかもしれない。レンは飛び上がるように、春日を怒鳴りつけた。
「何言ってんだ! てめぇ! そんなことしやがったら、ただじゃ――」
怒りで視界が滲み、レンはくらりと身体をよろめかせた。春日が心配して歩み寄る前に、レンはふらふらと怒りがしぼんでいくのを感じた。代わりのように身体がカッと熱くなり、思考が白く塗り潰された。
「のぼせちゃったのか、レン」
部屋に戻ってレンは寝転んでいた。春日に扇子で風を送ってもらっていると、ミヤビが部屋に入ってきた。春日が顔を上げ、「どうしましたか?」と尋ねる。ミヤビは親指で示しながら、「食事、できたって」と言った。そういえば女将が三十分後ぐらいに呼ぶと言っていたのを思い出す。春日がレンの顔を覗き込み、「食べられますか?」と訊いてきた。レンは額に手をやって首を横に振った。
「……ちょっと今は無理だ。春日、お前らだけで先に行っとけ」
「いいんですか? でも、扇子を扇ぐ人がいなくなりますよ」
「あとは自分でやるから。窓を開けときゃ大丈夫だろ」
「冷房は、ないみたいですね。扇風機もないですし。何かあったら携帯で呼んでください。駆けつけますから」
春日が立ち上がり、レンに扇子を手渡した。レンはそれで額に溜まった熱を逃がそうと扇ぐ。春日とミヤビが部屋の前で合流すると、扉の陰からアカリが顔を出した。
「レン君。大丈夫?」
その声に一度冷めかけた熱がまた上がりそうになる。そんなレンの様子を察したのか、ミヤビが明るい声で言った。
「レンは大丈夫だって。私らだけで先に食べろって。すぐに来るんだよね、レン」
「ああ、行ってこい」
片手を上げてぶらぶらと振るう。アカリはミヤビに背中を押される形で扉の陰に消えた。春日が心配そうにレンに一瞥をくれてから部屋から出て行った。部屋にはレンだけが残される形になった。窓から吹き込む風が思ったよりも涼しく、そういえばここが山中であることを思い出させる。ざわざわと木々が騒ぎ、鳥の羽ばたく音が聞こえてくる。大きな鳥だったのか、声が朗々と響き渡る。
その時、しんと澄んだ空気の中に一点の濁りを感じた。
レンは立ち上がり、窓の外に目をやる。冷たい風に一瞬、纏わりつくような生温さが混じった気がして、レンは近くに置いてあった画材ケースを手に取った。右手首に視線を落とす。数珠はある。先ほどの温泉でも外していない。
窓に駆け寄り、暗闇に目を凝らした。闇そのものが蠕動するかのように、ざわりと総毛立つ気配がどこからか向けられている。視線だ、と感じたレンは画材ケースの蓋に手をかけた。茫漠とした闇がレンを手招くように騒ぐ。挑発のような感覚に、レンは口元に笑みを浮かべた。
「……そっちがその気なら、乗ってやるよ」
画材ケースの蓋を開き、するりと中から拳二個分ほどの棒を取り出した。石の棒である。端のほうには円環を描く龍の装飾があり、自らの尻尾に食いついている。レンの右手首の数珠が擦れ合い、鈴のように澄んだ音を響かせる。絡みついた金の文様が捩れ、薄く光を発しようとした。
その時、レンは背後に衣擦れの気配を感じ振り返った。
そこにいたのは女将だった。レンの部屋の扉が開いたままだったためか、何の言葉もかけずに部屋に入ってきていた。レンは窓に足をかけた状態だったため、すぐさま佇まいを直し、咳払いを一つした。それで気づいたのか、女将は、「失礼いたします」と今更にそんな言葉を発した。レンは浴衣の袖に石の棒を隠しながら、窓の外に意識を飛ばす。気配はもう探れなかった。女将を見やると、氷枕を持ってきていた。どうやら春日たちが気を利かせてくれたらしい。
「氷枕をお持ちしました」
女将が抑揚のない声で告げる。レンは座卓を指差して、「そこに置いといてください」と言った。女将はその通りに行動する。
レンはまだ窓の外が気にはなっていた。今の気配は何だったのか。視線のように感じたが、こんな山中で何が見ているというのだろう。猿か、獣の類かとも思ったが、それにしては生々しい。野生特有の鋭さよりも、人間のような薄気味悪さが先行している。
「いかがでしょうか、当館の泊まり心地は」
そのような思考に気を取られていたせいだろう。女将の言葉の意味が一瞬分からなかった。レンが顔を向けると同時に、女将はすっと顔を上げた。照明の下なのに、読めないような表情をしている。顔から表情を形成するパーツが抜け落ちたような印象だ。レンは何度か頷いて、ようやく意味を咀嚼した。
「別に。悪くないんじゃないですか」
こういう時にどう返すのが正解なのかレンは分からず、結果として失礼な言い方になってしまった。しかし、女将は気にする素振りもなく、「そうですか」と無表情に返した。
「どうか、ごゆっくりなさってください。他に宿泊されるお客様もいらっしゃいませんし」
その言葉に引っかかるものがあったが、それを追求する前に女将は一礼し、「失礼いたします」と言って去っていった。
再び一人取り残されたレンは、窓の外に視線を向けた。見られている気は、今はしないが気分のいいものではない。レンは窓を閉め、明かりを消して春日たちのいる食事のための間へと向かった。鍵をかけなければと思って、先ほどの女将の言葉が脳裏に蘇った。
他に宿泊客はいない。確かにこの山中では宿泊客は稀だろう。しかし、それにしては不審な点が多い。女将しか従業員がいないように感じる。あまりにも人の気配がない。そのくせ、獣の気配の一端も感じない。
レンはしばしの逡巡の後に、鍵をかけた。
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