妖魔世界図

オンドゥル大使

第1話「夜を征く者達1」旅館幽霊篇

『慰安旅行を計画しようと思うのですが――』

「断る」

 一言で切り捨て、電話口から次の言葉が発せられる前に電話を置いた。通話を示す明かりが消え、帷(とばり)レンは息をつく。春日(かすが)から突然かかってくる電話は、いつだってよくない通知ばかりだ。春画師という仕事柄、お世辞にも胸を張れない連中とつるむことが多い春日に関われば自分まで腐ってしまうような気がする。せめて顔を合わせる必要のない日ぐらいはゆっくりとしたかった。落ち着いて、茶でも飲もうと電話から離れようとした直前、またも電話が鳴った。レンは電話を取り、「もしもし」と声を吹き込んだ。

『ああ、よかった。繋がって。急に切らないでくださいよ。間違ってかけたかと思ったじゃないですか』

「お前は間違ってかけた相手に慰安旅行を提案するのかよ」

『やだなぁ、レン君。そうカリカリしないでくださいよ』

「お前からの電話は嫌な予感しかしねぇんだよ。で、用件は?」

『ああ、そうそう。慰安旅行を――』

「断る」

 再び電話を置こうとすると、電話口から『ちょっと! ちょっと!』とこの男にしては珍しく大声が返ってきた。レンはため息をついて電話を耳に当てる。

「なんだよ」

『何もそう嫌がることないじゃないですか。いつもお世話になっているから、こうして慰安旅行を計画しようとしているんですから』

「いつもお世話してやっているから、察してくれるんじゃねぇのかよ」

『レン君の気持ちも分からないでもないですけど。最近、疲れることも多かったでしょう? 学校もようやく長期休暇に入ったんですから。本来なら学生であるレン君にも休んでもらおうと思うのは当然でしょう。この機会に羽根を伸ばしていただこうと思いまして』

「疲れることの九割がお前の持ってきたことだろうが。学生が長期休暇に入ったこと知ってんのなら、なおさら余計なことでかけてくんな」

『まぁまぁ。最近暑くなってきましたし。どうですか、温泉でも』

 レンは窓の外に視線を投げた。高く遠くまで望める青空が広がっており、太陽の熱線がじりじりと空気を焼いていく。地表から湧き上がるむんとした空気は窓一枚で隔てられているが、それでも部屋が完全に涼しいわけではない。電話の対角線上に位置するカタカタ音を立てる扇風機がなければ、夏を乗り切ることなどできないだろう。

「男同士でか? 気持ち悪いっての」

『いけませんかねぇ……』

「いけませんかね、ってなんだよ。生憎だが、俺にはそっちの趣味ねぇからな。ただでさえ暑いのに、しょうもない想像させんな、馬鹿馬鹿しい。じゃあな。この夏はてめぇにだけは会いたくねぇ」

 電話を切ろうとしたその時、電話口からぼそっと声が聞こえてきた。

『……アカリさんも来るんですけどねぇ』

 その言葉に、レンは手を止めた。数秒間、身体を硬直させた後に電話を耳元まで持ってくる。今度は春日の声がより明瞭に聞き取れた。

『アカリさんにもう言っちゃったんですけどね、レン君も来るって。でも、来れないのなら仕方がないですよね。それでは、レン君は不参加ということで……』

「ちょっと待て」

 レンは話を区切ろうとする春日の声を押し止め、額に手をやって思案を巡らせた。レンを呼び止めるために春日の思いついた嘘という線も捨て切れない。しかし、もし本当だった場合、アカリが春日と二人きりという最悪の想定が思いつく。もちろん、アカリはよしとはしないだろうと考えられるが、アカリならば一度交わした約束を裏切ることもまたしないだろうというのが、幼馴染である自分の結論だった。レンはできるだけ落ち着いた口調で、取り澄まして応じた。

「誰も行かないとは言ってないだろ」

『僕とは会いたくないんじゃないでしたっけ?』

 わざとらしく確認してくる春日に苛立ちを覚え、電話を叩きつけたくなったがその衝動を必死に押し止めて冷静沈着な自分を演出する。

「あれは冗談だ。仕事仲間に会いたくないわけがないだろ」

 我ながら心にもない台詞だと思いつつ、発した直後に胸焼けのようなものを感じた。どうやら身体が拒否反応を起こしているらしい。それほどまでに今の言葉は不快感を催すものだったようだ。

『では、慰安旅行はどうします?』

 あくまでもレンの口から言わせたいようだ。

「行くよ。行けばいいんだろ」

『そうですか。では、レン君参加、っと』

 予定調和のように返された言葉に、レンは行く前からどっと身体が疲れたのを感じた。


 焼け付く日差しが重たく瞼の上に連なり、頭痛を伴わせて身体を包む。

激しい陽光を白い地面が反射して、憎々しいほどの高温に晒された身体の節々が悲鳴を上げる。

その逆光を背にして、一軒の平屋が立っていた。木造でさほど大きくもないのだが、この坂道は平屋の主の土地らしい。道の両端に小さな木々はあるが木陰を生み出すほどではなく、夏は暑く冬は寒い最悪の坂道だった。

「……呪うぜ、高畑のジジィ」

 恨み言を呟いてみても暑さが半減するわけではない。レンは着実に一歩ずつ坂道を重い足取りで進み、ようやく踏破して来た道を振り返った。

急勾配、という言葉が似合う道だ。レンは「高畑」と刻み込まれた玄関の表札を見やってから、扉を叩いた。二、三度叩くと、中から扉が開けられる。現れたのは若竹色の着物に身を包んだ初老の男だった。頭の上には同じ色の帽子を被っている。丸眼鏡の奥の眼がレンを見下ろすと、男はつまらなそうに呟いた。

「なんだ、レン坊か」

「なんだとはご挨拶だな、ジジィ」

男がくるりと身を翻す。レンはその後に続いて家の中に入った。

家と言っても、普通の家のように玄関がまずあるという造りではない。扉を抜けるとまずあるのは大きく間取りが取られた空間に、本棚の群れである。中央付近にはガラスケースの中に本が広げられて展示されている。

ここは店なのだ。

だが、本が置かれているからといって書店や古本屋を期待してはならない。

レンはガラスケースの中の本に視線を飛ばす。

男と女がくんずほぐれつしている姿を簡素な筆致で描いたものが大っぴらに広げられている。本、というよりは一枚の絵画のようである。端のほうが僅かに変色しているが、見劣りするものではない。それが何なのかは春日の下で嫌というほど見せられた。

それは春画である。ここにあるのは多くが江戸時代に作られたものだ。高畑と春日は珍しい春画を集めては交流する仲であったが、高畑が出不精であるのとレンが春日の事務所に現れるようになってからは二人の橋渡し役として、主にレンが出向くことになっていた。高畑は、レンではとてもではないが届かないほどの値で春画を流通させているその道のエキスパートである。春日曰く、「あの人の売る春画を一枚でも買えたら、それは一生の価値に匹敵する」とのことらしいのだが、レンにはそれは一生を棒に振るのと何が違うのか分からなかった。

「引きこもってエロ本愛読して、何が楽しいんだよ」とレンはこの交流が始められた当初、二人によく言ったものだが、二人の返答は決まっていた。

「芸術を愛好するのには方法が幾つもあるが、もっとも愛する方法は決まっている。自身の手元に置くことだ」と尋ねる度にそう答えられるので、もうレンはそんな疑問を浮かべることはなくなった。

当の高畑といえば、奥にある畳敷きのカウンターの中で扇子を開いて服の間に風を送っている。暑いのならばもっと軽装にすればいいのに、とレンは思ったが、この男なりの矜持なのだろう。高畑はいつでも同じ服だった。あるいは正装とでも思っているのかもしれない。

「なんだ。何か言いたそうだな、レン坊」

「別に。何でもねぇ。それよか、春日に頼まれていた奴。あんのかよ」

「ちょっと待ってろ。今、入れっからよ」

 高畑が慎重な手つきで箱に巻物を入れる。それほどに高価なものなのだろうか。既に金は支払い済みだと聞いたが、どれほどのものなのだろう。レンは気まぐれに訊いてみたくなった。

「ジジィ。それ、いくらぐらいすんの?」

「国が傾くくらいだな」

 すぐさま返ってきた声に、思わずレンは目を見開く。高畑は目を大きく開き、にたりと笑う。妖怪めいたその笑みにぞくりと総毛立った。

「冗談だ」


 箱を受け取り、レンは帰路についていた。

 坂道を下り、街中へと向かう。高畑の家は街の中心部から少し外れた場所にあり、二十分ほど歩かなければ街へと向かうバス停にすら辿り着けない。

バスに揺られながらレンは、今持っているものがもしバスの中で広がったら自分は捕まるのだろうか、と考えた。

その場合の罪状とはなんだろうか。

公然わいせつ罪だろうか。

ならば、とレンは二つ前の座席に座っている中年男性を見つめる。

彼はバスの中で十八歳未満お断りの動画を観ているようだった。立っている女子中学生がちらちらとその男性を見て、何かしら呟いている。中年男性には聞こえないようで、動画を食い入るように観ている。

あれも何かしらの罪にはなるのだろうか。決めかねているうちに、中年男性も女子中学生も降りて、レンも目的の場所に辿り着いて降りた。

 色とりどりの金魚の提灯が軒先に居並び、煌びやかな装飾と涼しげな鈴の音が、熱砂の塊のようなアスファルトの街の中に響き渡る。

「もうすぐ、祭りの時期か」

 金魚を御神体とするこの街――金海市にはこの季節になると涼しげな装いの金魚の置物や提灯がぶら提げられる風習が古くから根付いている。金海祭りでは金魚すくいなどは禁止されており、御神体として崇めるだけに留まっていた。

そのためか、金魚そのものの生息数はほとんどないが、金魚を象った代物は多い。時期を問わず、街を出歩けば出目金に会うことができる。

 レンは華やかな街頭を抜け、裏通りに入った。提灯がたゆたう光の列が消え、人工の明かりが静かに照らし出す夕暮れの街の最深部に、雑居ビルがある。全体的には小豆色のモダン風の建物なのだが、どこかじめっとした印象を与えるのはこの雑居ビルの主のせいかもしれない。

入りかけると、「おぅい」と呼ぶ声がしてレンは顔を上げた。雑居ビル同士を繋ぐように走る電線に目を向け、それの元である電柱に視線を転じると、電柱の上で手を振っている少女を見つけた。電柱の上に座っており、足をぶらぶらとさせている。レンはため息をついて、額を押さえた。

「馬鹿。何やってんだ。降りて来い」

「ここが都合いいんだよー。見晴らしもいいし」

「そいつは結構なことで。でもよ、見えてんぞ」

「何が?」

「黒」

 少女はバッとスカートを押さえ、レンに向かって飛び降りてきた。

ふわりと風を服に纏わせながら、木の葉のように着地した。

胡桃色のショートボブで後ろに尻尾のように長い髪をひと括りにして垂らしている。黒の短いスカートに、エプロンドレスのような服装である。頭から猫耳が生えており、金色の眼が好奇の光を伴ってレンを見つめた。少女は上目遣いの涙目でレンに抗議した。

「見るなんてサイテー」

「お前があんなとこにいんのが悪いんだろうが。いいのかよ。その姿で」

「誰にも駄目だって言われてないもーん」

 少女は歌うようにそう言ってくるくる踊った。レンは周囲を気にしながら、「目立ちすぎんなよ」と告げた。

「今日、何軒怪しい店に誘われた?」

 少女はその言葉に唇の下に指を当てて考え込んだ。

「えっと……、四軒くらいかな」

 その言葉にレンは呆れたため息を漏らす。この容姿のせいで怪しい店からの勧誘をよく受けるのだが、本人は意に介していないらしい。おかげで周囲の人間のほうがあたふたするはめになる。

「でも、今日は少ないほうだよ?」

「そういう問題じゃねぇっての。お前、自分のこと分かってんのか?」

「女の子」

「じゃなくってだな、その姿の時はいいとしよう。でも、なんかのはずみで戻ったりしたらだな――」

「そんなドジ踏まないもーん」

 少女はまたくるくると踊りながら、笑みを咲かせる。能天気ここに極まれりだな、と息をつきながら、レンはここまで心配してやるのも馬鹿らしいと結論付けた。本人が気にしていないのならばいいだろう。

人間である自分とは生きている軸が違うのだ。

少女のスカートの中から二本の尻尾がひょっこり出ている。髪の色と同じ、胡桃色の尻尾をレンは掴んで思い切り引っ張った。

少女がびくりと肩を震わせ、髪の毛が逆立ったかと思うと、その姿がポンと消えた。

少女のいた場所には一匹の猫がいた。二股に分かれた尻尾を持っており、毛の色は胡桃色だった。猫は全身の毛を逆立たせる。

「見ろ。こんなすぐに元に戻っちまうじゃねぇか。尻尾掴まれたら終わりなんだから、もうちょい危機感持てよな」

「うっさい! レン君のバカ!」

 猫の口が動き、そう言葉を発する。レンは猫の額を指先で小突いた。

「馬鹿はお前だ。猫の状態で喋るな」

 猫は前足で小突かれた額を拭いながら、恨めしそうな眼で言った。

「レン君だから喋っているんだよ。他の人には喋らないもん」

「そういう問題じゃねぇっての。猫の状態でも二股の尻尾が目立つんだから大人しくしてろ」

 その言葉に、猫は前足で目元を擦りさめざめと泣く真似をした。

「レン君のケチ。あたしはこんなにも苦労してるって言うのに……」

「嘘つけ。苦労している奴はのほほんと人間形態で出歩いたりしねぇよ」

 レンは箱を持ち直し、猫の頭をもう一度撫でて立ち上がった。

「じゃあな。俺はこれを事務所に持ってかなくっちゃいけないんだ」

「それ何? おいしいの?」

 猫が前足でレンの足に寄り添い、這い登ろうとする。レンは屈んで、猫の額にデコピンを食らわせた。

「馬鹿丸出しの発言してるんじゃねぇよ。春日の荷物だ」

「春日さんの? ああ、えっちな奴か」

 猫はデコピンされた額を掻きながら、得心したように頷く。その後、口元に前足をやって、

「まさか、レン君。ついにそういう興味が……!」

 嘆かわしい、とでも言うように叫んだ猫の耳をレンは引っ張った。

「んなわけねぇだろ」

「痛い! 痛いよ! 動物は大事に!」

「大事にして欲しい動物は、自分でそんなこと言わねぇよ」

 耳から手を離し、レンは歩き出した。その背中へと猫が声をかける。

「レン君。アカリちゃんは引いちゃうかもしれないけど、あたしはえっちなのが好きなレン君も大好きだよ」

 レンは立ち止まり、苦虫を噛み潰したような顔を振り向けた。

「アカリのことを引き合いに出すな。あと、猫に好かれる趣味はねぇ。じゃあな、ミャオ」

 ミャオと呼ばれた猫はその名の通りの鳴き声を返して、ゆっくりと路地裏の闇の中へと消えていった。


 春日の事務所は一階が書庫になっており、二階が事務室である。

レンはまず階段を上り、事務室に向かうことにした。事務室に入ると同時に、むわっとした熱気が身体を包んだ。窓を開けておらず、冷房も入っていないのだ。

テレビはついているが、音量がほとんどないために、外の蝉の鳴き声のほうが大きいくらいである。レンはソファに寝転がっている男を視界に捉えた。服装は白いワイシャツに、スーツのズボンだ。読んでいる本は村上春樹訳のサリンジャーの作品『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。

息をついて箱を執務机の空いているスペースに置くと、男へと歩み寄り、その腹へと拳を振り下ろした。男が呻き声を上げ、本が宙を舞う。頭に当たりかけた本を空中で受け止めて、レンは腹を押さえて蹲っている男を見下ろした。

「起きろ、春日」

「……もう、起きてますよ。なんですか、藪から棒に」

 その言葉にレンはずいと顔を近づけて言い放った。

「俺が暑い中、お前の使いで行ってやったのに居眠りとは大層な身分じゃねぇか。え?」

 春日はずれた眼鏡の角度を直して、「まぁまぁ」と取り成すように言った。

「怒らないでくださいよ。レン君には感謝しているんですから」

「感謝しているんなら、それなりの待ち方っていうのがあるだろうが」

「高畑さんから預かってくれましたか?」

「ああ、執務机に置いといた」

 春日は執務机へと向かい、黒い箱を見てプレゼントをもらった子供のように目を輝かせた。

「開けていいですか?」

「……どうぞ」

 対照的にレンは半ばげんなりとした様子で返す。なにせ中に入っているのは、子供の純粋な心とは正反対の大人のための絵巻なのである。春日が箱を開け、中から巻物を取り出して、ほうと感嘆した声を漏らす。

「さすが高畑さんだ。一級のものを用意してくださったようですね。どれどれ、保存状態は……」

 春日が白い手袋をつけ、ゆっくりと巻物を解き広げていく。レンは事務室のエアコンの電源を入れた。首から風を入れながら、「どうだー?」と声をかける。春日は何度も頷き、眼鏡の奥の瞳を細めた。

「素晴らしい。レン君も見ますか?」

「俺はいい。どうせ、春画だろ」

「まぁ、春画ですが。写本ですけど、これほど良好な保存状態のものも珍しい。一見する価値はあると思いますけどね」

 レンは春日にかなりの数の春画を見せられているために今更見る価値のあるものなんてないと思っていた。そもそも、芸術作品に自分は疎いのだ。

「そういや、ミャオを見た」

 先ほど事務所の前で見かけたミャオの話を振ると、春日は巻物を元に戻しながら、「よく見かけますよ」と返す。

「彼女も大変ですね。猫として生きるわけにもいかず、人間として生きるのも難しいなんて」

「あいつにそんな悲壮感があるとは思えないけどな。猫娘なのに、普通にその辺出歩いているし」

 ミャオは人間ではない。

長いこと生きた猫が人間の姿かたちを取る猫又と呼ばれる種類の妖怪に属している。

だが本人にその自覚は全くと言っていいほどなく、妖怪界隈では変わり者の妖怪として忌み嫌われ、人間として生きるにはその習性が邪魔をしている。

春日の言うように普通ならば悲哀を誘うような生き方だが、当の本人は自身の境遇をさほど不幸とも思っていないだけに、周りが可哀想がっても仕方がないとレンは思っていた。

ミャオという名もいつから付けられていたのか分からないらしい。

春日とも交流があるが、これは春画の関係ではなく春日のもう一つの顔のせいだ。

どこかの大学で民俗学を教えているらしく、何度か教壇にも立ったという。

まだ子供のレンには嘘か真かを判断する術はない。ただ春日が妖怪や霊的なものに詳しいのは確かで、その知識に何度か救われたことがあるのも事実だった。ミャオを人間と妖怪の板ばさみから救ったのも春日だと聞くが、それも真偽のほどは分からない。

 春日は巻物を箱に戻し、レンを呼んだ。

「これを下の書庫に持っていってくれますか。今じゃなくても、帰りでいいので」

「俺は今すぐ帰りたい気分だけどな」

「まぁ、そう言わずに。明後日の慰安旅行の打ち合わせもありますし」

 春日が執務机から手帳を取り出し、万年筆を片手に予定を見始めた。レンは先ほど春日の読んでいた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のページを適当に捲る。春日の声が蝉時雨に混じって雑音のように聞こえてくる。

「明後日の十時に、事務所前に集合としましょう。車は僕の持っている奴を使います」

「誰が運転すんだよ」

「僕が運転しますよ。不安ですか?」

「ああ」

 正直に答えると春日は肩を竦めた。眼鏡のブリッジを上げなおし、

「参加者はレン君とアカリさん。それに僕の三人ですね」

「ミャオは誘わないのかよ」

「ミャオさんは猫の集会があるそうです」

 突然に春日の口から出たファンタジックな言葉にレンは眉根を寄せる。ファンタジーの世界ではお決まりのように使われる言葉も、現実で唐突に現れると違和感の塊のようにわだかまる。猫の世界も妖怪の世界も詳しくは分からないが、人間の世界と同じような構造なのだろうか。ならば、複雑怪奇という表現もあながち間違ってはいないのかもしれない。

「お茶くらいは入れていきますけど」

「いらねぇし、帰れるのなら早めに帰りたいんだよ」

 レンは箱を片手に事務室の扉を開けた。その背中に声がかかる。

「慰安旅行。忘れずに来てくださいね」

 断りたい気持ちでいっぱいだったが、アカリと春日を二人っきりにさせるわけにはいかない。

「ああ」と返答して、レンは片手を上げた。春日がそれに返したかどうかまでは確認しなかった。

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