第2話

「あぁ?」

 電話口で開口一番そう言ってから、永原ながはらは激しく後悔した。相手が委縮したのが分かったからだ。

 しまったと思ったが、後の祭りだ。相手は押し黙ってしまった。

「…よく分からん。なんだって?」

 つとめて明るい声でたずねてみたが、もともと低い地声なので、どうしても詰問しているように聞こえてしまう。

 向かいのデスクで、上司の巻田まきたが不安そうにこちらを見ている。

 こっち見んな、ハゲ、という悪態は心中に留めておく。

 県警本部、生活安全課青少年及び女性安全対策室の部屋には、現在、室長である巻田と永原しかない。

 時刻は午後九時をとうに過ぎている。二人仲良く残務処理のため残業していたところへ、一本の電話が入ってきた。

 通信室からなぜか警備部を経由して、総務部からここへ回ってきた。

 受けた瞬間、面倒だと判断した巻田に受話器を押しつけられ、しぶしぶ応対したが、相手はかなり混乱していて、話の要領がつかめない。

 どうにか聞き出したのは、男が妻を殺したと言っているらしい、ということだった。

「らしい? っていうのはどういうことだ」

「分かりません」

「分かりませんじゃあ、こっちも分からない」

「あっ、ああ、すみません。あの、殺したとははっきり言っていないんです」

「じゃあどういうことだ」

「首を絞めたと」

「殺してんじゃねえか」

「いえ、殺したんじゃなくて、首を絞めて、と」

「埋めたのか?」

「いや、そうではなく…」

 巻田が目線を送ってきて、自分が受話器のコードを指に巻きつけて、握りしめている事に気づいた。

 イライラしない、と小声で巻田が言っているが、ハゲ頭を見るほうがイラつくので、視線を外して電話に集中する。

「結局どういうことなんだ」

「分かりません…殺人ではないかもしれません。DVの可能性もあるので、こちらにお電話差し上げましたのです。もう、本官の手には負えませんので…」

 相手は交番勤務の若い巡査だ。妙な敬語からもそれがうかがえた。

「どうします? マキさん」

 通話口を手で押さえ、頼りにならない上司に指示を仰ぐ。

 頼りにならない上司は、目だけ上げて永原を見た。

「仕方ないだろう、向こうは困ってるんだから。行ってあげなさいよ」

「誰が」

「誰がって…、お前以外に誰が行くんだ」

「嫌だ」

「嫌だって…小学生じゃないんだから」

「あんたが行けよ」

「嫌だよ」

「小学生じゃないんだろ」

 行く、行かないの押し問答が続いたが、結局巻田が折れた。

「分かった。この残務処理は俺がやっておくから、永原君、君が行きなさい。そうしなさい」

「汚ねえ」

「俺は上司、君は部下。はい、行ってらっしゃい」

 権力をかざされれば否やとは言えない。結局自分はただのサラリーマンだ。

 すぐにそちらへ向かう旨を伝えて電話を切り、上着をひっつかんで部屋を出ようとする永原に、巻田が言った。

「薬物対策の妹尾せのお君、つれて行け。もしかしたら薬物使用の疑いもあるから」




 めんどくさそう、とつぶやいた猫背の男は、永原の同期で妹尾という。一応刑事だ。主に薬物や銃器犯罪対策の仕事をしている。

もともと薬剤師になって、家業である薬局を継ぐはずだったのだが、どこで間違えたのか、刑事になってしまった。

ただ、天性なのか、薬物使用者を一発で見抜くという特技を持っているため、意外と天職なのかもしれない。

「お前のツレの、ほら、あのひょろっとしたやつ。あれはどうしたの?」

「ああ、あいつは今日は非番だ」

妹尾が言うのは、永原の仕事上のパートナーである各務野かがみののことだ。身長だけは一九〇センチ近い永原とほぼ同じだが、重さがないので、大体の人間が『ひょろっとした』という表現を使う。

「こんな時に非番かあ。嫌だなあ、俺、血とか駄目なんだよ」

「ただの痴話ゲンカだろ。殺人現場じゃない」

「ケンカだって、血が出るだろ」

「殺人現場ほどじゃない」

のろのろと準備をする妹尾の尻を蹴り上げ、車に押し込んで通報のあったという交番へ向かう。

県警本部からは十分ほど。市の中心部に近いが、住宅地が多いので、夜は閑散としている場所だ。

「で、なに? 本当に痴話ゲンカなの?」

「分からん。行ってみないことには、何も分からん」

「すごく不安」

妹尾は言うが、永原自身も不安だ。

なにせ、電話で得られた情報が少なすぎる。分かっているのは、殺人をほのめかしている男が、交番に出頭してきたということだけだ。しかも、本当に殺人があったのかさえ、定かではない。

「マキさんは、薬物使用を疑ってる?」

「だからお前をつれてるんだ」

「うーん、薬物臭くないんだけどなあ」

「だから、行ってみないと分からん」

などと言っている間に交番が見えてきた。

あまり外灯の多くない住宅街にあって、交番だけは煌々と明るい。その入口に、不安そうな顔をした、若い警官が立っていた。

永原たちの乗った車が横付けした途端、降りてきた二人にすがるように彼は飛びついた。

「あ、あの、県警本部の方でいらっしゃるのですか?」

動揺を隠さない彼の様子に、妹尾が噴き出した。

「本部の刑事でいらっしゃるよ。君が電話くれた人? こっちが電話を受けた人」

永原を、ぐい、と警官の前に押しやると、彼はおびえたように首をすくめた。

「す、すみません。ご迷惑をおかけして…」

まったくだ、という言葉はのみこんで、平身低頭する彼を尻目に、交番の中をのぞきこんだ。

「で、出頭してきたっていうのは、どいつだ」

決して広くはない交番の小さなテーブルの前に、男が座っていた。

中肉中背、やや骨ばった背中は曲がっている。細い肩の間に沈んだ頭は、巻田ほどではないにしろ、つるりとしていて、短く白い髪の毛が、申し訳程度にはえている。

「こ、こ、この男です」

警官に指さされて、男が顔を上げた。

落ちくぼんだ目はうつろで、見るともなくどこかを見ている。半開きになった口は、何か言いたげにぱくぱくと動いて、やがて息を吐いた。

「あんたか? 嫁さんを殺したとかいう…」

気だるげに視線を上げて、男は永原を見た。

だが、目は永原を見ていない。彼の目には、何も映っていない。

「おい…」

「――はい……」

男のつぶやきは呼吸音にまぎれ、かすれて消えた。

「…私は、私は妻を……」

何かを探すように目が泳ぎ、やがて、今初めて見つけたかのように、永原を捉えた。

「私は、妻をこの手で、葬りました――…」




「らちが明かん」

改めて男の向かい側に座り、正面から彼を見たが、憔悴しているが、受け答えはしっかりしている。

横に立つ妹尾を見ても、首を横に振っている。

――クスリじゃあないな…。

男は自分から名乗り、身分を明かした。

藤木勝利かつとし、五十六歳。もと中学教師で、昨年早期退職してから、塾講師をしている。現在は一人暮らしだが、別居中の妻がおり、今回その妻を殺害したと言っている。しかし――。

「殺したんだろ? で、遺体をどうしたって? 捨てた? 埋めた?」

「…殺したのではないです。……捨てても、埋めてもおりません…」

「さっき葬ったって、自分で言っただろうが!」

「…ええ、ですので、葬りました…私が、この手で…」

自分の手の平を見つめ、藤木は顔をゆがめた。

永原と妹尾は顔を合わせ、同時に溜め息を吐いた。

「…こりゃあ、どうにも…どうしようもないねえ」

薬物使用の疑いはないということで、妹尾はすでに興味を失っている。スマホを取り出していじり始めた。

藤木は先ほどからずっと同じ話をくり返している。殺したのではない、遺棄もしていない。

だからどうした、と言いたい。

結局何がいいたのか分からない。決して気の短くない妹尾でさえ苛立ち、短気が服を着て歩いているような永原は、すでに爆発寸前だ。

「あんたの家はこの近くか? 自分の家でやったんだろう? 現場を見せてくれ」

現場を見ないことには、何の判断もできない。

藤木はゆっくりうなずき、この近くのアパートです、と言った。

「なら、今から行こう。おい、お前」

気配を消し、置物に徹していた若い警官が、びくっと体を震わせて、敬礼した。

「はっ、はいっ!」

「案内してくれ」

「かしこまりました!」




藤木の住むアパートは、本当に交番から近かった。

歩いて五分ほどで着いたそこは、二階建ての木造建築で、見るからに築年数が経っている。お世辞にもきれいとは言い難い外観だ。

藤木の部屋は、二階にあり、三部屋並んでいるうちの、一番奥の角部屋だ。玄関ドアに貼りつけられている紙の表札は、恐らく筆ペンで書かれているのだろうが、やや線が細いが達筆だ。

「ここだな?」

藤木が黙って頷くのを見て、永原はノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。

ゆっくり開くと、むっとした臭いが鼻をついた。

「生ごみ溜まってんの? ちゃんと掃除してる?」

妹尾が茶化したが、藤木は反応しなかった。

ただ、暗い室内をぼうっと見ている。――うつろな目で。

玄関脇に電気のスイッチがあり、点けると入ってすぐは、台所になっているのが分かった。

キッチン、と呼んでいいのか分からないが、四畳半ほどのそこは、小さな冷蔵庫が置かれ、食器も調理器具も、比較的よく整頓されている。

もと教師という性質なのか、割と几帳面なようである。

だが、シンクに視線を移して、永原は眉根を寄せた。

汚れた包丁とまな板が、ぞんざいに投げ込んであり、三角コーナーには、入り切らない生ごみがあふれていた。

――魚…、肉か?

魚のアラのような、モツのようなゴミが、生臭さの原因だったようだ。

妹尾も目にとめて、あからさまに顔をしかめた。

「ああ、これが臭いのもとかあ。だめだよ、ちゃんと片付けなきゃあ」

そう言われて、藤木もゆっくりと頭をめぐらして、シンクを見た。

そうして、何事もないように言った。

「ああ…、それは、妻なのです…」

空気が止まった。

気温が下がるのを、皮膚が敏感に感じ取る。

「……なに?」

大概の人間が目をそらす永原の視線を、藤木は受け止めた。

「…それは妻です。妻の一部、と言いましょうか…」

「え? ちょっと待って、何言ってるの?」

妹尾の顔から血の気が引く。冷や汗が額から落ちるのが、目に見えて分かる。

永原も、自分の心臓の音を、耳元で聞いた。

「あんた、何を言っているんだ…?」

問われた藤木のほうが、不思議そうに首をかしげて永原を見返してくる。

「これは、妻の体の一部です…。できるだけ、きれいにすべてを葬ろうとしたのですが…、どうしても処理しきれない部分は出てしまうのです……。それは捨てました…」

悲しそうな顔をして、藤木は三角コーナーを見た。

永原も妹尾も、その視線を追う。

そして見てしまった。捨てられた肉片の中に、よく見たことのある形を。丸く先端を整えられ、真っ赤なネイルの塗られた――人の爪を。

「…あんた、嫁さんに何をしたんだ……?」

自分でも声が震えているのが分かった。

何かを見ているようで見ていない、うつろな目で永原を見て、藤木はつぶやく。

「…私は妻を、食ったのです…。そうして、葬りましたのです……――」

どだん、と妹尾が倒れる音がした。

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人を食った話 @makoto-yamasato

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