第四話 楽しい理科実験

六月も半ばを迎えたある日の三時間目。三年五組では、理科の授業が理科室にて行われていた。クラスメート達は水道備え付けの大きな机に、クラスの班と同じメンバーでまとまって座る。

「今回の実験では、皆さんの頬の内側に付いている細胞の観察をします。各班の誰か一名が代表して、爪楊枝を使って頬を擦ってね」

 理科の教科担任、高嶋先生からの指示。細長いお顔に四角い眼鏡、スチールウールのような髪型、まさに理科の先生という感じの男性だ。

 貞之が実験道具を取りに行って戻って来た後、

「ねえ、お口の中くちゅくちゅ、誰がやる?」

 実鈴が他のメンバー五人に問いかけた。

「ワタシは嫌だなあ、二年生の時、デンプンの働きを調べる実験で唾液出したもん。ビーカーから垂れ落ちて大変だったよ」

「何で垂れるの? ストローでやるでしょ?」

 茉里の思い出話に、乃利子は迷惑顔。

「面倒くさいからそのままビーカーにべえええええーって出したんだよ」

「きっちゃなっ。バカじゃないの。このフグ!」

「言ったな、出目金」

「ハリセンボン」

「ホッキョクグマ」

「ベローシファカ」

「レッサーパンダ」

「ダチョウ」

「ウーパールーパー」

 ついには互いの悪口? を言い合い、取っ組み合いが始まってしまった。

「二人とも、ケンカしちゃダメだよ」

 そんな乃利子と茉里を、実鈴は微笑ましく眺める。

「放っておこう」

「そうやな」

「そのうち、収まるでしょう」

 自分には全く関係ないよという感じで座視しておく同班男子三人。

「茉里さん、最近太って来たんじゃないの?」

「ノリコちゃんの方こそ!」

「こらそこぉっ! 授業中にぎゃあぎゃあ騒ぐなっ。おまえら小学生か」

 とうとう高嶋先生に注意されてしまった。

「ごめんなさぁーい」

「すみません、高嶋先生」

 すると茉里と乃利子の小競り合いはすぐに収まる。

「あのう、最初に言い出した、私がやるね」

 茉里と乃利子がケンカを始めてしまったのは自分のせいだと責任を感じた実鈴は、苦笑いを浮かべながらそう言うと爪楊枝を手に取り、口の中に突っ込む。歯磨きをするような感じで爪楊枝を上下に動かした。

「こうすればいいんだよね?」

 取り出すと、粘液の付いた方をスライドガラスに擦り付ける。

「その通りよ。それじゃ、これかけるね」

 乃利子は酢酸カーミンの容器を手に取り、スライドガラスの上に一滴だけ垂らした。数十秒待ち、カバーガラスをかけて、光学顕微鏡のステージ上に置く。

「じゃあ、私から見るね」

 実鈴は接眼レンズに目を当てて、覗き込んでみた。

「すごーい、私の細胞ってこんな風になってるんだ。新発見だよ」

 感心している最中、

「ワタシが先」

「わたし! 茉里さんまだ何も作業して無いくせに」

 茉里と乃利子は順番を巡って、ポカポカ叩き合いを始めてしまった。

「仲良くしなきゃダメだよ。また先生に叱られちゃうよ」

 実鈴は優しくなだめる。

「ごめんねミスズちゃん」

「申し訳ないです」

 今度は二人ともすぐにやめてくれた。

「貞之くんも、聡也くんも、栄作くんも覗いてみて」

 実鈴は三人に向かって言うも、

「おっ、俺は、いい」

「ボクも。なんとなく、罪悪感に駆られますのでぇ」

「僕もいいよ。教科書にも人の頬の細胞の写真載ってるし」

 三人とも恐縮してしまう。

「ダメだよ。ちゃんと真面目にやらなきゃ。内申に響くよ」

「理科の勉強っていうのは、教科書や資料集を眺めるだけじゃ不十分よ。何のために実験があると思ってるの?」

 実鈴と乃利子から不機嫌そうに注意され、三人は貞之、栄作、聡也の順にしぶしぶ実鈴の頬の内側にある細胞を観察したのであった。

「次は、〝カエルの解剖〟を行うぞ。後片付けまで終わった班から自由解散やー」

高嶋先生は次の指示を出す。彼が用意したのは班の数と同じ六匹の、体長二〇センチはあると思われるウシガエルだった。

「先生、止めて下さいよ」「めっちゃきもい」「ギャァーッ!」「でか過ぎーっ」

 予想通り、女子生徒達を中心に悲鳴が沸き起こる。

(うるさいなぁ、三次元共)

(四班の女子を見習って、もう少し静かにして欲しいものですね)

 聡也と栄作の今の心境である。

「コラッ、特に女の子、気持ちは分かるけど騒ぐなっ。貴重な体験やのに。高校入ったら生物習わん子もおるんやから、ここで体験させとかんとあかんかなと思ってん」

 高嶋先生は熱く語る。

「これは、男の子が全部やってね」

 実鈴から苦い表情で頼まれた。

「えっ、俺ら?」

「ボク、ウシガエルは、怖いです。ぬいぐるみやキーホルダー、二次元のデフォルメされたカエルは好きだけど、これは無理ぃーっ」

「僕もあんなの触るの、絶対無理だ」

 男子三人はこぞって怖がる。

「あなた達のおウチでは、台所とかでゴキブリさんが出たら、お母さんに捕って貰ってるでしょう?」

 乃利子はにこにこ笑いながら質問してくる。

「そりゃそうだろ。あれは母ちゃんの役目だろ」

「I agree.」

「僕んちでは母さんが積極的にスリッパで退治してくれる」

 男子三人は怯え顔で答えた。

「情けないなあ。わたしは殺虫剤があれば倒せるよ」

 乃利子はにこにこ顔で言う。

「ワタシもゴキブリめっちゃ苦手だ。ナメクジもね」

 茉里は苦笑した。

「僕もナメクジは苦手だな。カタツムリは平気だけど。あのう、解剖用具、僕が取りに行って来るね」

貞之はハサミ、メス、ピンセットなどの入った解剖用具セットを。

ウシガエルは乃利子が運んで来る。すでに解剖皿に乗せられ、絶命状態で仰向けにされ虫ピンで固定されていた。そこまでの作業は高嶋先生他数名の、理科の教科担任が事前に行ってくれていたのだ。

「磔の刑にされて、かわいそう」

 実鈴は涙をぽろりと流しながら、そんな天に召されたウシガエルを見つめる。

「そういや最近、学校行く途中に田んぼ横の道路で、ぐしゃって潰れて二次元化したカエルさんよく見かけるよ。田植えシーズンだもんね」

「やめてやめてやめてーっ!」

 茉里からの伝言を聞き、実鈴は咄嗟に耳を塞ぐ。

「るんるんるるんぶるるんぶるるん、つんつんつるんぶつるんぶつるん、河童の皿を月すべり、じゃぶじゃぶ水をじゃぶつかせ、顔だけ出して踊ってる」

 そして突如、恐怖心を紛らわそうとしたのかこう呟き始めた。

「あっ、『河童と蛙』だ! 中学入って最初の国語の授業で習ったよね、懐かしい。このウシガエルさんはもう仏さんになってるから、ぐぶぅ、とも鳴かないけど」

 茉里は笑いながら突っ込む。

「そういえば、一年の最初の国語の中間テストで『河童と蛙』の作者名、草野心平なのに間寛平って書いてたおバカさんがいたね」

 乃利子は茉里に冷ややかな視線を送る。

「だって似てたんだもん!」

 茉里はぷくぅっとふくれた。

「寛平さんに失礼よ。タイコウチとタガメくらい違うじゃない」

「それじゃほとんど同じだよ」

「全然違うっ!」

「同じ、同じ!」

 またしても取っ組み合いのケンカを始めてしまった。

「まあまあ二人とも、また叱られちゃうよ」

 けれども実鈴が優しく言うと、二人はぴたりとケンカを止めてくれた。

「解剖はわたしがやってあげるよ。わたし、部活でも解剖実習、何回かやったことがあるから。カエルさんのお腹、サクッといっちゃうよ」

 乃利子はビニール製の透明な手袋を両手にはめると、慣れた手つきでピンセットで皮膚をつまみ上げ、ハサミを用いてウシガエルの腹部をザクザク裂いていく。お腹がパカリと開かれ、内臓が露になった。

 肝臓、心臓、胃腸、他いろいろ。

 血はほとんど出てなかった。

 高嶋先生から配布されたプリント、さらに理科の資料集にもカエルの解剖の手順が載っていたのだが、乃利子はそれには一切頼らず、他の班の子達と比べてもテキパキと作業をこなしていく。

「きれいに切腹されちゃったね」

 茉里はにこっと笑う。

「きゃああああああああああっ! 乃利子ちゃん、残酷だよぅ。ウシガエルさん、ものすごーく痛そう」

 実鈴は悲しげな表情を浮かべながら大きな悲鳴を上げた。

「ミスズちゃん、落ち着いて」

 茉里は実鈴の両肩をなでなでする。

「あの、実鈴さん、わたしが今やってることは、お魚さんを捌くのと、同じようなことだから。実鈴さんお料理上手だからそれは出来るでしょ?」

「出来るけどぉ、それは食べ物だからぁ」

 乃利子から苦笑顔でされた質問に、実鈴は瞳を潤ませながら答えた。

「もう、資料集のイラストで見りゃ十分なんじゃねえ?」

「ボクも同意。カエルの解剖なんて昭和の理科の授業の定番で、もはや時代遅れですよん」

「グロテスクで、怖いよね」

 男子三人は教室後ろ隅の方へと逃げていってしまう。

「ちゃんと観察しなきゃダメだよ」

 茉里はそんな男子三人に向かって注意した。

「ええわ」

「ボクもけっこうでありますぅぅぅ」

「僕もいいよ。こんな気味悪いの見たら、給食が食べれなくなっちゃいそう」

彼らは解剖されたウシガエルに一切目を向けようとはしない。

「男子みんな怖がりだなぁ。このカエルも食用なのに」

 茉里は解剖されたウシガエルを見つめながら大きく笑う。

 隅の方で佇んでいる男子三人をよそに、女子三人はカエルの心臓は二心房一心室であることの確認、解剖図のスケッチなど、高嶋先生から指示されていた作業を着々と進めて行く。

一通り観察を終えたあと、茉里が解剖用具の洗浄、実鈴がそれの返却、乃利子がウシガエルの後片付けをした。

「カエルさん、片付けたよ。みんな戻っておいでーっ」

 茉里がこう伝えると、

「やっと終わったかぁ」

「じつに古臭い不要な実験ですね」

「実鈴ちゃん、天羽さん、衣笠さん、迷惑かけてごめんね」

 男子三人はすぐさま元の席へ戻って来た。貞之は大変申し訳なさそうにしていたが、他の二人はそんな素振りは全く感じられなかった。

「四班の男子はみんな草食系やなあ。他の班では大体男子が率先してやっとるのに。次の授業の時に今日の感想レポートを提出してやー」

 高嶋先生は四班メンバーのいる場所へ近寄るなり苦笑した。感想レポート用のプリントを六人に一枚ずつ渡す。それには感想を書く欄以外に穴埋め問題も二つ設けられており、一問目はカエルの特徴に関する次の文章の(  )内に当てはまる適当な語句を埋めよ。

 カエルは気温の変化と共に体温も変化する(  )動物で、卵は( )が無く、(  )に産む。カエルの受精卵が(  )を繰り返し、親とよく似た形まで成長していく過程を(  )という。

 こんな記述がされてあった。二問目は細胞に関する内容となっていた。

「問い1は変温、殻、水中、細胞分裂 発生かなぁ?」

 実鈴が自信無さそうに答えると、

「その通りやっ。ちゃんと復習出来とるな」

 高嶋先生は笑みを浮かべた。

「当たってて良かった」

 実鈴はホッとする。

「ちなみにカエルの卵は、植物極側に卵黄が偏る端黄卵で、不等割です」

 乃利子が雑学を伝えると、

「よう知っとるな。さすが生物部。高校生物の範囲やのに」

「さすが乃利子ちゃん。博識だね」

 高嶋先生と実鈴は感心する。

「ノリコちゃんの知識量はすご過ぎるよ。ワタシなんて一、二年の内容どころかつい最近習った範囲でもすぐに頭から抜けちゃうのに。高校受験では五教科とも三年分の内容が出るみたいだし、覚えなきゃいけないことがあまりに多過ぎるよ。高校受験でもこんなに出題範囲が広いんだから、大学受験ってもっともっと大変なんだろうなぁ」

 茉里がため息混じりに呟くと、

「……そうとも言い切れんなぁ。国公立や慶應、早稲田とかの有名私立大目指すならまだしも、それ以外の私立大学は、入試で英語と、あと一科目か二科目しか課されんし、それどころか推薦やAOで、学科試験を受けずに大学生になってる輩も大勢いるからな。きみたちの今の中学生レベルの学力のまま……もっと言えばそれすらろくに身に付いてなくても、入れる大学はけっこうあるねんで」

 高嶋先生がこんなことを伝えてくる。

「そうなんですか。ワタシ安心しました」

「いやっ、安心するなよ」

 茉里の反応に、高嶋先生は苦笑いした。

「わたしも学科試験を課さない推薦やAOにはあまり良いイメージを持っていません。わたしは高校受験も大学受験も、一般入試で正々堂々と挑みますよ!」

 乃利子はきりっとした表情で決意を伝える。

 四班男子三人はすでにここにはいなかった。プリントを受け取るとすぐに理科室から退出し、三年五組の教室へと向かって行っていたのだ。


「ウシガエルさん、化けて出て来ないでね」

 お昼休み、実鈴は給食を食べた後、中庭にある、解剖されたカエル達のお墓を訪れた。

四分の一くらい残された、給食で出されたオレンジゼリーをお供えして手を合わせてあげたのであった。


「ねえサトヤくん、今日の帰り、三宮行くでしょ。ワタシも行くから一緒に行こう」

 同じ日の六時間目終了直後、茉里は隣の席にいる聡也に話しかけてみた。

「いや、いい」

 きっぱりと断られる。

「あーん、恥ずかしがらなくてもぉー。ワタシも今日発売のキャラソンCD買いに行くのにな。じゃあミスズちゃんとノリコちゃん、付いて来てね」

茉里は月に一、二回程度、学校帰りに電車に乗って三宮へ遊びに行くことが一年ほど前からの習慣となっている。主にお目当てのアニメや声優のCD、マニアックな月刊・隔月刊誌が発売される日だ。一人で行くことはなく、いつも実鈴と乃利子、または他の文芸部員の子達に付いて来てもらっている。

茉里、実鈴、乃利子の三人は四時過ぎに学校を出て、最寄り駅へ。電車を乗り継ぎ三ノ宮駅で降りると人ごみを掻き分け南口を出て、センター街へと向かう。そしてお目当てのアニメグッズ専門店へ立ち寄った。

 発売中または近日発売予定のアニメソングBGMなどが流れる、賑やかな店内。

 彼女らと同い年くらいの子達が他にも大勢いた。

「あっ! これ、サ○テレビで今放送中のやつだ。ブルーレイのCM流してる。ワタシ、このアニメのブルーレイめっちゃ集めたい。でも三話収録で八千円もするんじゃ手が出ないよ」

 茉里は店内設置の小型テレビに目を留めた。

「洋画や子ども向けアニメに比べたら、高過ぎると思うわ」

 乃利子は率直に意見する。

「ワタシ、このフィグマもめっちゃ欲しい。けど二五〇〇円は高いよ。これ買ったら今月分の小遣いすっからかんだ」

茉里は商品の箱を手に取り、全方向からじっくり観察する。

「買おう!」

 約五秒後、魅力にあっさり負け、購入することに決めた。

「茉里ちゃん、清水の舞台から飛び降りたね。私も欲しいグッズがあるの。あのぬいぐるみさん」

「二人とも、衝動買いは程ほどにね。きっと後悔するわよ」

 乃利子は笑顔で忠告しておく。

 実鈴と茉里は当初買う予定の無かった商品もカゴに入れ、レジに商品を持っていく。

「四三五〇円になります」

 店員さんから申される。

代金は茉里と実鈴で出し合った。ポイントカードも差し出す。常連客なのだ。部活で使う画材道具を買い揃えるためにも利用している。会計終了後、この二人は嬉しそうにアニメグッズの詰められたレジ袋を通学カバンに詰め込んだ。

三人が店から出たその時、

「おまえらなんでここにおるねん! これ何やっ? 娯楽施設寄るなって風叡館の塾規則に書かれとったやろうがぁっ。字ぃ読めんのかっ! こういうくだらん店立ち寄るなって入塾式で言ったこと、覚えてないんかい?」

 出入口から十数メートル先で、上背一四〇センチもないであろう小学生っぽい女の子二人組が、三人を見下ろしてきた風叡館の講師と同じ字が書かれた鉢巻を締めた、一八〇センチは超えていると思われる四〇歳くらいの、金剛力士像のような厳つい表情をしたおっさんに厳しく叱責されているのを目撃した。

 女の子二人組はしくしくすすり泣きしていた。

「あの人、風叡館の先生だよね? 今、私の目には、あの人に、二本の角が生えてるのが見えたよ」

「……塾外でも、監視されていたのね。一〇キロ以上は離れてるのに。あの女の子達、トラウマ物ね」

「これは……やばいよ。期末テストは、本気で頑張らなきゃ」

 三人はその光景をちらりと見て、恐怖におののいた。

「なんとしてでもいたいけな茉里ちゃんを、あんなアウシュビッツみたいな恐ろしい所から回避させなくては。茉里ちゃん、あの地獄へ行くことになったら、こんな楽しいお店に立ち寄れなくなっちゃうよ。期末テスト、一生懸命頑張ろうね」

「うん、ワタシ、期末は死ぬ気で頑張る!」

 実鈴に励まされ、茉里のやる気はますます高まった。

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