ep.「薄膜の先」後編




楽しかった。


 正親さんと出かける口実に、というわけではなくて――すこしは、そんな気持ちもあったのだけれど――、ほんとうに、必要だと思ったものを買いに行こうと提案して、そしてそれらを買っただけだったのだけれど、楽しかった。買い物なんて昔はスマホですませていたし、食事だって、仕事終わりにコンビニででき合いのものを買ってくるくらいで、買い物らしい買い物に誰かと出かけるなんていうのは、仕事の前。キャバクラなんかでいうところの「同伴」、オプション料金が発生してのものだったから、ぼくにとってはただ金のために、ほどほどに楽しんでいる顔をして、にこにこして、話を合わせていればいい、なんて程度のものだった。

 買い物をこんなに楽しんだのは、初めてなのかもしれない、なんて思うし、きっと初めてなんだろうと思うくらいには新鮮で、楽しくて、嬉しかった。


 街へ出て最初に、ぼくの着る服と、履く靴を探しに、マネキンが回る大きな量販店に行った。系列の店には入ったことがあったけれど、そんな規模の大きな店に入ったことはなくて正直、あんまりに何階もにわたってそびえたっているものだから、とても驚いた。そこは、階ごとに女性ものや男性もの、と分かれていたから、ひとでごった返すその中を正親さんの手首を握ってずんずん進んだのだけれど、それはちょっとした探検気分になれて、わくわくした。

 「ねえ、これとかどう。」

 浮かれたぼくは、そんなふうに、ふざけて女物のワンピースをあててみたり――もちろん、ぼくに――もした。小さな花柄の散るそれは、ぼくが、ちょっとした遊び心とはいえ着てみたいと思うくらいには、ほんのすこし、女の子にあこがれるくらいには、かわいかった。これを着られる女の子だったら、正親さんに好きになってもらえたのかもしれない、なんても、考えるくらいには。だって、正親さんは何が好きなんだか、分からないからだ。

 「……どう、」

 と、いわれても。というように眉を下げる正親さんの困った顔は、なんとなく可愛らしく思えた。だからぼくは笑いながら、いたずらをするような気持でそのワンピースを買い物かごに入れたのだ。あからさまに嫌そうな顔をしたらやめておこうと思ったのだけれど、意外と正親さんは寛容なようで、そうではなかったから。女の子の格好をしてみれば、ほんの少しだったとしても正親さんがぼくのことを好きになってくれるかもしれない。可能性の話を考えたらきりがないのだ。さて、これをいつ着てやろうかな。なんて、ぼくは正親さんが、ぼくの知らない間にそのワンピースを棚に戻してしまわないように、買い物かごを持ちなおした。

結局、ぼくが心配したようなことはなんにもなくて。その後ぽいぽいと投げ込んだ紺や黒のワイシャツ、ジーパンなんかに潰されて戻すに戻せなくなったんだか、なんだか分からないけれど。正親さんがそのワンピースを買うことを、よしとしたのかどうかも分からないのだけれど、小さな花柄の舞う春らしい柔らかな布は、今、ショップバッグの中でくるりと丸まって、他の服とくらべるとかなり異様なその柄を、ちらちらと覗かせている。

 買ったばかりの服に着替えるタイミングは、正直あった。買うときに並んでいると、何人か前にいたひとが、「タグ切ってください、着るので」なんて言っていたから、そうして試着室を借りでもすれば、できた。さすがにワンピースじゃなくて、ワイシャツとジーパンにくらい、着替えようかなあ、なんて、思いもしたのだけれど、まだペアルックでいたかったぼくは、歩きにくいほどサイズの合っていない靴さえ履き替えないで、新品は、ショップバッグに入れたまま。

 あのワンピースをあててみた時以来、正親さんはぼくの悪ふざけに興味をなくしたのだか、はたまた、ほんとうに着ることはないだろう、なんて思っているのだか分からないけれど、いつも通りのちょっとぼうっとした顔のままだった。

 いっそ帰ったら、さっそくワンピースに着替えてみようかな。ぼくの中のいたずら心は、ショップバッグの中を見つめるほどに育っていく。


 その後は、椅子を探しに行った。

 テレビをつけるといつも見かけた、あの緑の看板の家具屋に行って、丸椅子をひとつ買った。正親さんの家に元からあったアレは、もしかしたら正親さんのお気に入りなのかもしれない、なんて思って、自分用の、正親さんにはちょっと小さいかもしれないくらいの丸椅子。折りたたみ式で、背もたれのある、座面と背もたれのクッションの水色がお茶目な感じのするもの。

 正親さんの部屋にある家具はどれも木の色だったり、素朴な感じだったし、それに、正親さんの描く絵で、ぼくが見たことがあるものも――あんまり正親さんの絵を見たことがない、という、それだけかもしれないけれど――、白黒の絵ばかりだったから。ちょっとくらい、こういう遊び心、みたいなものがあったって、いいんじゃないかな、なんて思ったから。それから、「ぼく専用」のものを正親さんの家に増やすことに、きっと意味があるのだと、そんな風にも思えたからでもある。

 だって、ぼくは正親さんにとっては、いついなくなってもおかしくないものかもしれないのだから。だって、いなくなってほしい、と思っていなさそうなことをなんとか想像するので精一杯のぼくは、彼が未来のことに関してどう思っているのかなんて、想像もつかないから。

 だからせめて、「ぼくはずっといる」と、いたいと思っていることくらいは、伝えておきたいと思った。そして、それを伝えるには、言葉じゃきっと足りないんだとも思った。人の気持ちはすぐに変わる。昨日好きだって言ってくれた人が、次の日ぼくに消えろと言うことだってあった。だから、ぼくの気持ちが変わらない保証もないのだけれど、変えたくないと思っていることは、なにかの形として残しておきたかった。

 たとえばぼくがあの家を出て行くことになっても、正親さんのシュミじゃない水色の、あのポップで小さな丸椅子が、ぼくが今、正親さんと過ごしたいと思っていたことの証拠としてあるはずだから。


正親さんには内緒でこっそりとひとつの欲を満たしたぼくは、もうすっかり満足した気分だ。これからの買い物先は、ぜんぶぼくのではなくて、正親さんの好きにしてもらおう。なんて思いながら、ひとでごった返す街を歩く。ぼくは、あの洋服屋のショップバッグを。正親さんは、緑の家具屋の紙袋をもって。荷物のない方の手で、ぼくは、正親さんの、これまた荷物のない方の手首をぎゅっと、はぐれないように、握りしめて。


幸いにして、大きな荷物を二つも抱えたぼくたちを気に留める人たちは、みんなそのバッグとか、その中身のほうばかりを気にしていたようで、ぼくら、というか、正親さんが街中で、変な目で見られることはないようだった。それは、その後の買い物でどんどんと荷物を増やしていっても変わらない。道行くスタイリッシュな格好の人たちは、いったい何を持っているのだろうというくらいに小さな鞄を持っていたりする。ぼくの知らないところで変わっていた街と人に、ぼくはさみしさではなく、安心感をおぼえた。


 そんな平穏で幸せな買い物の後の、帰路。


 ぼくの腕がぐい、と、引かれた。

 それをしたのは正親さんではなくて、正親さんと繋いでいた、というか、彼の手首を握っていたぼくの手は、その力に負けて、引きはがされた。あんまりにも突然のことで、なすすべがなかった。

 なにをするんだ、なんて、振り返った先に見えた顔は、忘れかけていたけれど見慣れた、女の顔。


 「ヨウ、ちょっとあんた、」


 かたいビニールの袋がぼくの手を離れて道に落ちる耳障りな音すら、遠く聞こえたような気がした。




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