ep.「薄膜の先」中編



 ざく、ざく、と足音の賑やかな道中。正親さんと、買い物に。というよりは、正親さんと、ここを出る。ということすら、実はまったく考えていなかったぼくは、自分でも呆れてしまうくらい、浮かれている。浮かれているなあ、と自覚していてもなお足取りが軽くて、かつてこんなに浮かれたことはあったろうか、なんて、きっとあったのだろう過去の幸せを忘れるくらいには、浮かれたままのぼく。


 朝だって、あの時驚いて知らず落としてしまった痕に箸にようやくつまんだ目玉焼きをまた落とした――もちろん皿の上に、だから、その後きちんと食べた――し、いつものようにぼくより早く朝食を食べ終わってしまった正親さんの、その気が変わらないうちに、はやく食べないと、と思って食べた目玉焼きは、すっかり冷めきっていて、そのせいなんだかぼくが浮かれすぎて――もしくは慌てすぎて――いるせいなんだか分からないくらいに、「ただの食べ物」だった。そもそも、食べた、というよりは、口に押し込んで飲みこんだ、と言ったほうが正しいのかもしれないくらいの、作ってくれた正親さんだとか、もっと言えば卵を作ったにわとりに、とか、そのにわとりを育てた誰かに、失礼なくらいの食べ方だったようにも思うけれど、ぼくはそれどころではなかったのだから、勘弁してほしい。ピクニックに行った子供だって、きっとはやく遊びたいから、なんて、お弁当を押し込んだりするはずだ。

 そうしてタンパク質の塊にしか思えなくなった目玉焼きを口に詰め込み、ご飯も、いつもより大きなひとくちぶんを次々に押し込み、すっかり冷たい味噌汁を飲み干して、どたばたと台所で洗い物をしたのが、朝のこと。だいたい、一時間前だろうか。

 今にして思えば、あれだけ慌てて洗い物をしたというのに、皿を割ることはなかった。そこに関してだけは、なかなかにいい仕事をした、気がする。


 そんなことを思い出して、考えて、ふふ、と笑ったぼくを、隣で正親さんが見下ろしている。

 きっと、こいつはどうかしたんだろうか、なんて。


 ほんの少しくすぐったい彼の視線から逃げるように視線を下へ向けると、ざくざくと砂利だか石だかを踏みしめながら歩く二人の靴は――もちろんぼくが正親さんの予備を借りているからなのだけれど――おそろいで、正親さんの足を窮屈そうに抱え込むそれと、ぼくの足には余りすぎてかぱかぱ揺れるそれの対比が、楽しい。

 正親さんは、今ぼくたちが、まるでカップルのようにおそろいの服を着て歩いていることに、気づいているんだろうか。きっと、気づいてはいるけれど、あまり意識をしていないのだろうな、なんて思う。彼にとっては、たぶん、そこまで気にすることではないのだ。ぼくと彼が同じ服を着ていたところで、彼にはなんの不都合もなくて、なんにも、特別なことではないのだ。

 ただそれしか着るものがないから、着ている。

 そして、彼にとっては、たったそれだけのことがぼくにとっては舞い上がるほど嬉しいのだということも、きっと、思いつかないくらい、普通のことなんだろう。


 「……ね、ほんとうに、いいの。買い物。」

 なんて、聞いたのがたぶん、三十分くらい前のこと。その頃になって、準備を済ませて靴を履いて、そうしてようやくぼくは少し冷静になって、気付いたのだ。正親さんはなにかしら、例えば昭和のホームドラマやアニメなんかに出てくる、ミカワヤ、のような、訪問販売というのだろうか、そんなものを利用していたのではないか、なんて。だとしたら、わざわざぼくを連れて外に出る必要も、ないわけで。

 正親さんが普段つくってくれるご飯の材料、例えば野菜は、いつもあの部屋の隅の陰にある段ボールに、入っている。炊いてくれるご飯のお米は、たしか、近くにあった紙っぽい袋から、出していた気がする。そしてそれらはぼくが見ている限り一度も補充されたことはなくて、どうやってあの家に来ているものなのか、すら、分からない。

 生活に必要なそれらのものを、彼がどうやって補充しているのかも知らないぼくは、それすら知らなかったことに気付いた分、浮かれていた分、急激に怖くなって、聞いたのだ。

 やっぱりだめだ、なんて言われることも怖くはあったけれど、自分と彼の考え方の違い、とか、違うかもしれないということに気付いたぼくには、何も知らないことの方がよほど、恐ろしかったから。


 けれど、正親さんはというと、ぼくに「何を言ってるんだ」というような胡乱な目を向けて、さっさと背中を向けてしまった。今回に関しては、ぼくの心配事はどうやら、まったく必要のないものだったらしい。

 そして、嬉しいことに、正親さんと、ついでにぼくの生活を支えてくれている卵とか、米とか、野菜とか、そういうものを補充するやり方――というか、買い出し先の場所だとか――を、この買い物のついでに、見られるかもしれなかった。些細なことではあるけれど、それさえ知ってしまえば、ぼくは「お使い」と称して生活のたすけになれるのだ。料理もできないで、薪を運ぶのひとつとっても満足にできなかったことは、案外ぼくの中で、コンプレックスとかそういう、引っかかりになっているのだと、気付く。


 ぼくがそんな風に余計なことを考えて伏せていた目をふとあげた時、一言も話していないというのに雄弁な彼の背中が、さっさと靴を履け、と、いっていた。ぼくにはそれがまた、嬉しかった。


 ぼくは、ここ一日でようやく正親さんのことを、すこし、とはいえ、理解できるようになり始めたような気がしている。だから、今こうして隣を歩く彼の手を握ることだって、躊躇わなかった。もしも嫌だったら、きっと言葉にはしなくとも、例えば手がこわばったりとか、なにかの反応があるはずだと、思ったから。彼のことを分かりたい、と、思ってみれば、何かをする前に彼の反応を勝手に予想して怖がるよりも、なんにも分からないのだから、一度行動してみてから、その反応を見て考えた方がずっといい。そう考えるのは、簡単なことだった。

 正親さんの分厚く大きな手は、あたたかい。

 自分は冷え性だったのかな、なんて思うくらいにはあたたかくて、触れ合ったところがしっとりとしめりけを帯びる。なんだか、すこし恥ずかしくなった。


 「ねえ、人のいるとこでも、手。つないでていい。」

 だから、聞いた。彼の注意がぼくの手や、そこがしっとりしていること――もっと端的に言えば、手汗をかいていること――に向かないうちに、なんて思ったのだ。きっと彼氏と手を繋ぐのを嫌がったり、恥ずかしがったりする女の子がいるのは、こういう理由なんだろう。なんて思いながら。


 正親さんは、なにも言わない。

 ぼくは、もし手をつないだままで街中に出たら、周りのひとはどんなふうに思うだろうか、なんて想像して、彼の返事を待つことにした。


 たとえば叔父と甥、だとか、親戚のように思われるのだろうか。と、思ってもみるけれど、ぼくらはそもそもあんまり、似ていない。髪が黒いことと、ちょっと二人とも目つきが悪いことくらいしか似ていないのだ。体格だって、正親さんの方がぼくよりも頭ひとつぶんくらいは高いし、筋肉もついていて、立派にみえる。ぼくはそんなに背も高くなければひょろひょろだから、きっと親戚の線はないだろう。わざわざ「似ていない親戚」だと考えるひとがいれば、別だけれど。


 ぼくがそこまで考えても、正親さんは、まだ何も言わない。

 そんなに、考えているのだろうか。彼にとってはそんなに、考えることだったのだろうか。

 ぼくの手を離したりも、しない。安心感と、不思議に思う気持ちが一緒になったまま、ぼくはもう一度、考えることにした。


 親戚でなければ、やっぱり、商売だと思われるんだろうな。ぼくがウリで、正親さんがお客さん。それだと、目だとか指だとかがあんまりに露骨に傷ものなぼくを買う正親さんは「趣味の悪い奴」だと思われそうだから、すこし心配だ。

 と、そこでぼくはひらめいた。

 商売の線は、名案だ。「ウリと黒服」とかはどうだろう。正親さんは、たとえば、黒服じゃなくてアッシーでもいいかもしれない。彼はお仕事で仕方なく、ぼくみたいなのの世話をさせられているのだと、そんな風に振る舞ってみるのはどうだろう。これは中々、いいんじゃないかな、なんて、思えた。正親さんの行きつけのお店とか、顔なじみの人とかと出会ったりしても、得体のしれないぼくを連れて歩く彼の評判に、傷がついたりはしないだろう。……彼の仕事がなんなのか、知っているひとがいれば別だけれど、ぼくだって知らないことなのだから、それを知っているひとはきっとぼくよりも彼のことを知っているひとだろうし、それなら心配も無用だろう。


 「……手、」

 ふっと落ちてきた正親さんの声が、そんなぼくの、ばかみたいに先走った考えを落ち着かせてくれる。いつも聞いているはずの彼のその声が、耳の奥まで、脳みその中まで、じんわりと温めてくれたような感じがした。

 「うん。離したほうが、いいかな。」

 「……好きにしろ。」


 ぼくは初めて、ほんとうに優しい人を、好きになったのかもしれない。なんて、頭の中が、その言葉だけになる。脳みそを占領するその文言をしばらく、何度も、繰り返し読んで、それからやっと、気持ちが追いついた。

 「……ありがと、嬉しい。」

 ぼくは、それこそ小学生のとき以来に感じるんじゃないか、なんてくらいに純粋に、ただ、嬉しかったのだと、考える間もなくこぼれていたのだろう、自分の声が聞こえて初めて、思う。その声は、自分でも驚くほどに嬉しそうで、その気持に素直だったから。


 正親さんが、どういうつもりでそう言ったのかは分からない。手をつないだまま歩いていたところで、恋人だと思われることはない、と、ぼくと同じように考えたのかもしれないし、もしかしたら、ただ単に、手を繋いでいても邪魔にはならない、と、思ったのかもしれない。恋人だと思われてもいい、と、思ったのかもしれないし、ぼくが迷子にでもなったら困る、と、思ってくれたのかもしれない。

 ぼくは、彼からその言葉が出た理由を考えながら、彼の手を離して、繋いでいた手で、彼の手首を握ることにした。


 「じゃあ、これでもいい。」

 返事は、視線の上下だった。

 日射しはそんなにきつくないのに、頬がなにかに炙られたように、熱い。

ただ、嬉しかった。

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