ep.「薄膜の先」前編
今日の朝食は、目玉焼きだった。
ただ卵を割って、フライパンに落として待つだけだと思っていたその料理は、ぼくの思っていたよりもずっと手間がかかっていたのだと、正親さんの手を眺めながら知った。
卵を割る、フライパンに落とす。それだけなのだと思っていたのだけれど、正親さんはその後、フライパンに水を入れて、蓋をする。焦げ付いたりとか、固くなりすぎたりとか、そういうのを防ぐためにやるのかな、なんて、ここ最近で覚えたばかりの、あるとも言えない程度のうすぼんやりとした知識を総動員して、その理由を考える。親子丼の、あの、うえの。ご飯に載っているところを作る時も、たしか、卵だけじゃなくて水を入れていた。あれとはまた意味が違うのかもしれないけれど、あの時、卵はたしかにふわふわになっていたのだから、きっとこのひと手間が、なにか大切な役割を果たしているには違いないのだと、思う。
ぼくが単純で、簡単だと思っていたことに、こんなに手間がかかっていただなんて知らなかった――というか、その手間を知らなかったから、単純で簡単なのだと思っていたし――から判断はつかないのだけれど、もしこれが一般的なんではなくて、正親さん流のやり方なんだとしたら、ぼくにとってシンプルなことのひとつひとつが、正親さんにとってはそうではないのかもしれない、なんて、そんなことを思いもした。
ちまちまと箸で切り分けて半熟になった卵を崩し、流れた黄身をもったいなく感じて白身ですくいながら。目玉焼きのひとつを見て、こんな思いになるのは初めてだった。
薄膜の先に
とろり、あふれ出す黄身を見ながら、昨日のことを思い出す。単純だとか、そうでないとか、そういうことを考えていたかた、思い出そうとなんてしていないのに、思い出してしまったのだ。ほんとうは、後悔ばかりで反省のひとつもないうちに思い出すだなんて、意味もなければ、ぼくにとってひとつの利益もないことなのだと思うし、だからこそ、考えない、と、昨日ひとりぼっちの布団の中で、決めたことだったのだけれど。
セックスなんて、単純なことだと思っていた。特に、そこに「愛」が関係ないなら。そんな考えだからこそやってしまった、昨日のこと。ぼくは今まで単純なセックスしかしてこなかったし、そうでないのは、数少ない恋人との行為だけ。でも、「愛」が伴っているならなおさらのことで、ただ愛していると囁くためだけに、セックスをしていたように思う。結局、ぼくにとってのそれは、愛があろうとなかろうと意味の変わらないものだったのかもしれない。愛がなかったとしても、商売として、金のためにしていたことだとしても、ぼくはそのさなかには決まって満たされた気持になっていたし、それに、終わってしまったあとは決まって、次をねだっていた。
もちろん、固定客、という金づるのためであった、というのも一つの理由には違いないだろうけれど、商売としてセックスをしていた時のぼくは、よく考えなくても、それがなければ眠れもしないほどに、ぽっかりと寒々しい穴を埋めるかのように、毎日それに明け暮れていた。
ぼくにとっては単純なことが、正親さんにとっては、そうではないのかもしれない。
さっき感じたばかりのそれが、ぼくの中に、罪悪感をしんしんと、雪のように降らせるものだから、ぼくの気持ちはぼんやりと曇って、雪の重みにたわむ安っぽい、たとえばトタン屋根か何かのように、沈んでいく。
ぼくにとっては単純な、「愛されている」という幻想のためのセックスは、正親さんにとってはもっと複雑だったのかも、しれない。したくない理由があったとしても、なかったとしても、したい理由もなかったろうし、何より、ぼくが「愛されている」と感じるために求めたセックスなんて、正親さんにとっては考えるまでもなく、何のメリットもなくて、迷惑なもの、だったんだろう。
「……昨日、ごめん。」
正親さんがこうしてぼくを追い出しもせず、ここに置いてくれているということ。それだけでぼくは、赦されたのだと思っていた。だって彼は優しいし、昨日だって、あの後もひとことだって、ぼくを責めたりなんてしなかったから。言葉の少ない彼のその行動に、その時彼が何を思っていたか、なんて想像もしないで「赦し」だと受け取ったのは、ぼくが単純にできているからに他ならない。けれどぼくをここに置き続けてくれている正親さんの気持ちは、きっとそれだけじゃないのだ。なんて、積もった罪悪感、それが溶け出すように、涙がにじんでくる。
「ほんとにごめん。自分のことしか、考えてなくて。」
正親さんの目を見ることもできないで、返事を待つのもできないで、繰り返した。けれどきっと、こんな謝罪だって、ぼくのためだけの、ぼくが、ぼくの気持ちを軽くするためだけのものなんだろう。なんて、久しぶりに自己嫌悪が湧いてきた。人生なんて単純だと、気楽に生きていくんだと、そんなふうに勝手に決めてから、長く親しみのなかった感情。ちゃぷん、と軽い音がして、手に持った味噌汁の椀の、茶色い湖面が揺れた。
「……なんで泣く、」
正親さんの、戸惑ったような声。
それを聞いた時ぼくは、そりゃあそうだろう、なんて、泣いているのがばからしくなった。だってそうだ。正親さんにとっての昨日のぼくは、勝手に盛って、勝手に甘えてきて、そして勝手に満足したのだから。
もしかしたら、たまにはそんな日もある、なんて、思ってくれていたのかもしれないし、もしかしたら、気持ちよかったから許す、なんて、ぼくみたいな単純なことを、思ってくれていたのかもしれない。
もうちょっと、言葉にしてくれたっていいのに。自己嫌悪が一周まわって、ほんの少しの八つ当たりじみた気持ちが湧いてきた。ぼくが悪い、なんてことは分かっているのだけれど、それにしたって、正親さんはあんまりにも、言葉が少ない。
それで、思っていることが伝わると、考えている。なんてことはまずない気がする。でもそうなると、彼は伝えることを、理解されることを諦めているだとか、その必要はないだとか思っている、という風にしか考えられなくて、そうなってくると、ぼくはまた、自分が勝手に、ここにずっといさせてもらえるものだと思っていただけで、彼にとっては長くて一か月とか、そんな風に思っていたのかもしれない、なんて妄想も、膨らむ。
涙の引っ込んで冷えた頭で、考えた。
「だって、正親さんが嫌かもしれないとか、そんなこと、何にも考えないで、昨日、迷惑かけたから。」
泣いた理由、ではないけれど。涙の原因になったほんとの理由は、きっと正親さんに話したところで、それこそぼくの自己満足にしかならないから。だからただ、ぼくが謝った理由だけを、伝えることにした。
ああ、正親さんも、もしかしたらこういう理由で、ぼくに何も、伝えないのかもしれない。そう思ってみると無性に淋しくなったけれど、この際、正親さんもぼくと同じ淋しさを味わえばいいのだ。そうすれば、もう少しだけでも、話してくれるようになるかもしれない。
子供じみた気持ちで、ぐす、と、涙と一緒にうまれてきたんであろう鼻を、すする。
正親さんの目は、じっとぼくを見ていた。その目から、視線から、何を思っているのか、なんて想像がつくほど、ぼくはできた人間ではなかったけれど、きっと正親さんだってそうなのだ、と、感じる。伝えなければ、言葉にしなければ伝わらないのだ。ぼくの気持ちも、彼の気持ちも。いつか素直になれたら。いつか、何も隠さずに、面倒がらずに、諦めたりなんてしないで、話してくれるようになれば、いいのに。
こんなに何もかもが分からないでは、愛されたいんだ、なんて、ワガママを言うことはできない。正親さんの愛は、ぼくのと違うかもしれないから。こんなの愛じゃない、なんて、求めておいて突き放すだなんて、ぼくなら絶対にされたくないから。
もやもやとする頭の中身を振り払うように、ぼくはふるふると首を振って、それから、精一杯の笑顔を浮かべて、顔を上げる。
とりあえず、出て行くつもりがないことだけは、伝えておかなくちゃいけないし、伝えておきたかった。
「買い物行きたい、一緒に。」
ぼくの言葉か、表情か、何かが意外だったんだろう。正親さんの目が今まで見たこともないくらいに――といっても、普段がちょっと眠そうな半開きだから、あんまり開いていないのかもしれないけれど――開かれる。なんとなく気の抜けるようなその表情を見て、ぼくはこれで良かったんだと安心した。
ぼくが来てから、ひとつしかない丸椅子はずっと――正親さんが絵を描いていて、ぼくが布団にいるとか、そういう時以外は――ぼくのお尻の下にあるし、それだから、食事の時はいつも正親さんが立ちっぱなしで、そろそろ申し訳なくなってきたから、まずは椅子を買いたい。それから、服だってずっと借りっぱなしだから、服も買いたい。あ、布団も正親さんのがひとつしかないけれど、今日から一緒に寝るから大丈夫だよね。なんてワガママも、さりげなくふてぶてしく、ついでに言ってみたけれど、正親さんはぼくがつらつらと買いたいものを並べたてるのを静かに聞いて、頷く。
「いつなら行ける、」
いいよ、と言ってくれたのに等しいそのやさしさが嬉しくて、今度はしようと思ってしたんじゃない笑顔に、目も、口元も、ゆるゆるになった。
今日すぐじゃなくていいし、正親さんの都合がつくまでいくらでも待つし、なんて、取り繕うように言葉を重ねるぼく。そんなぼくを見る彼は目にふわりとやさしいまるさを持って、ゆっくりと唇を開いて、「今日」と言う。それがあんまりにも意外で「きょう」と間抜けに聞き返す、ぼく。
金もないのに買い物に行きたいなんてワガママを言って、しかもその流れでちゃっかりと今日から一緒に布団で寝るんだ、なんて約束――正親さんがそれを守ってくれるつもりがあるかどうかは別として――までとりつけて、受け入れてもらえるだなんて思っていなかったから、そのぼくの顔がどれだけ間抜けだったところで仕方がない。
それに、そんな間抜け面をしたおかげで、だろうか。正親さんがふっと息を洩らして静かに笑うのを、ぼくはここに来てから初めて、見た。
二人でいるためのワガママは、彼にとっては、「いいワガママ」なんだろうか。一瞬でもとに戻ってしまった正親さんの笑顔の名残りを、目じりの皺や、いつもよりほんの少し上がった口角に探して、なんだか嬉しくあたたかい気持ちに包まれながら、ぼくの頭が考えている。
「顔、」
鳩が豆鉄砲をくらった時より間抜け。そう指摘するように正親さんは言って、「冷めてる」と、ぼくがすっかり存在を忘れていたせいで無様に箸からご飯の上へ転げ落ちていた目玉焼きを、指さした。
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