ep.「カタバミに垂れる墨の色」後編


 正親さんの嗜好が具体的にどういうものなのかが、分かったわけではない。だから、もしかしたら血に興奮するんだろうか、とか、傷に、なんだろうか、とか、ぼくは考える。ケガをした、それ自体にかもしれない。何せ情報量、ヒントというものがぼくのその手にしかないのだから、少なすぎるのだ。

 少ないヒントでも、やっと得られたヒントなのだから。と、ぼくがなんとか彼の嗜好に辿りつこうと悶々と――でもきっと正親さんには間抜けなくらいぼんやりとして見えたんだろうなとは、思うのだけれど――考えていた、その間にきっと、彼も何かを考えたのだろう。ぼくの手を炙るようだったその視線は、ふいとどこかへ行ってしまう。もっと、見ていてくれたら良かったのに。そうしたら少しでも、例えば見られているところが具体的にはどこなのか、なんてピンポイントなところを知れたかもしれないのに。もっと見ていてくれたら、それだけで、何にも分からなくたってぼくは、嬉しかったのに。ぼくが視線に名残惜しさをおぼえていると、その代わりのように、声がかかった。

 「薪、そこに。」

 ぼくから彼の視線を奪った「そこ」は、きれいに割れた薪が小山になるように積まれた日当たりのいい場所。柱が太くて、薪の山にもたれることだってできて、そう。柱も薪もところどころ木の肌がささくれ立っているから、あそこでアオカンなんてした日にはきっとぼくのからだじゅう、ささやかとはいえ傷だらけになって、血も出て、正親さんがまたあの目で、ぼくを見てくれるんだろうな。

さんさんと照らされるそこを見ながら、妄想の中で、ぼくは背徳感と幸福感に溺れて笑っている。ここしばらくご無沙汰だったからか、それとも、会ってから何日かくらいしか経っていないというのに、もう正親さんに恋でもしたのか。さっきからこんなことばかり考えている、と、自覚してもそれは止まらない。


 そこでするのは、太陽に背中を炙られながら。もしくは、夜風に全身を撫でられながら。そして、正親さんの影に覆われながら。彼の体温に、あたためてもらいながら。そうして背徳感にまみれて拓かれるのは、正親さんの日常に染みこんだ場所に、そんな爛れた記憶をべっとりと刻みこむのは、どれだけ嬉しく、どれだけ心地いいものだろうか。


 なんて。現実でどれだけ相手にされていなかろうと、夢を見るのは自由だ。むしろ相手にされていないからこそ夢に見る。ぼくにとって、こうしてありもしないことを夢想するのは楽しく、そして満たされるものではあるのだけれど、ぼくがこんなことを考えているというそのことが、正親さんにとってはどうなのか。それすら未だ、分からない。ぼくの目か、指か、傷か、血か、その辺りの何かに欲をもってくれていることだけは分かるけれど、それが例えば、ぼくの髪が長いから「女の代わりに」とか、そんなことを考えての欲であるのなら、ぼく自身にはもう、望みがないわけで。それならばどれだけアプローチをしたって、嫌われる――嫌われなかったとしても、女の代わりに使えるオナホとして使ってもらうくらい――しかないわけで。

嫌われないと、何かの代用品にされるのではないと分かっているなら、煩悩まみれの夢想くらいは知られたっていいのだけれど、知られてしまったら、嫌われるか、そうでなくとも少なくともぼく自身を愛してもらえることはなくなるだろう状況。望みがあるのかないのか、それすらはっきりしていない以上、まだ踏み込むのは、ぼくの欲を伝えるのは恐ろしい。身体のことはどうしようもなくとも、きもちのことくらいは、ある程度制御はできる。あんまりにもぼうっとしている、と、不審に思われないためにも、それから、調子が悪いのか、なんて心配をかけないためにも、「はあい」と返事をしながらぼくはかがんで、薪をそこへ置く。

まだこの気持ちは伝えない。伝えるのは、盛ってしまったという身体の事情だけ。それなら正親さんだって、仕方ない、と思ってくれるだろうから。そう決めて。


 正親さんは、薪の置き場所を伝えたそれっきり、何もいうことはなかった。

 薪を置くためにしゃがんだ、すくなくともそう見える――というか事実そのためにしゃがんで、そしてそれから、立てない理由がくっついてきた、というのはきっとぼく自身しか知らない理由だから――ぼくがいつまで経っても立ち上がらない、それを、きっといぶかしんでいるんだろう視線が、ただ背中に注がれている。

 正親さんの視線は、言葉よりずっとおしゃべりだ。


 「……ねえ、ちょっと、こっちきて。」

 ぼくが立ち上がらないのは、しゃがんだその視界で見た景色にふっと、ドギーもいいな、なんて思ったからだとか、そんなわけではなくて。疼いてしまったそこを隠すためとかでもないのだけれど。そう、決して、そういう下心のせいなわけではないし、さっき、気持ちさえ伝えなければいいんだなんて思ってしまったから、でもないのだけれど。数歩離れた先の正親さんを呼びつけて、何がしたかったのか、なんて、そんなことぼくにはひとつしかなかった。


 商売の時に、よくした仕草。

 ざり、と彼の脚が進む音だけを聞いて、それを頼りに、彼の方をちらとも見ないで、勢いよく、しなだれかかるように抱き付いて、彼の頬に両手をあてる。視線は、それでもくれてやらない。彼のシャツの胸元から見える、厚い筋肉。それが生む影だけを見て。

 手のひらの傷がほんのりと痛み、ずるり、と、血で肌がすべる感覚がした。じわじわと、傷から生まれた熱と、それから、正親さんの肌からしみてくる熱が混じって、ぼくの手がいつもよりずっと、熱を出した時くらいに、あつくなる。その感覚が懐かしくて、愛おしい。あとは愛されさえすれば、それでいいのに。


 「……こういうの、きらい。」


 正親さんの胸元をずっと見ていた目を、やっと、彼の視線と合わせる。それに合わせて胸元をぴったりとくっつけて、彼の好きなんであろう傷を、血を、彼の頬にすりつけるように、そして彼の吐息を吸いこむくらいの近くに顔を寄せて、誘う。ひとりでは立っていられないくらいに彼に密着して、すり寄せるぼくの、脚の間で主張する熱。彼のそこは相変わらず静かなものだけれど、ぼくはもう一瞬だって我慢したくないくらい、張り詰めてしまっている。そこをぼくのと、正親さんのと合わせて二枚の、粗いズボンの布ごしにすりつけると、ほんの少しだけ欲が満たされるような気分がした。けれど、それと同時に、満たされたその倍くらい、彼の熱を感じたくて増す、疼き。

 ぼくはこんなに必死だし、しかも最初に会ったあの日よりは上等に――まあ、一晩三万はつくかな、というくらいの差だけれど――ねだれたような自信はあったのだけれど、正親さんにはこれでは、まだだめだったようで。彼の視線に依然熱を感じていても、それが言葉になったり、行動になったりすることはなかった。視線の熱が消えなかったことだけが、突き放されるような、ぼくの嫌いなあの目をされなかったことだけが、救い。

 ぐい、と掴まれた手首に期待して、調子に乗って唇を合わせようとつま先立ちになったぼくの重心が、そのままぐらりと前に、引かれる。


 「遊ぶな。」


 正親さんはそう言って、彼に重心を預けきっていたせいで未だにふらつくぼくの手首を掴んだまま強引に、水場へ連れていった。

彼に悪意とか、嫌悪感とかはないのだろう。きっとぼくの手のことを気遣ってくれてのことだ。なんて、考えはするけれど、ぼくはもう彼の手の引くままに歩いて、公園にあるようなちいさな蛇口を、ぼんやりと眺めるだけ。あそこまでやってだめだったのだから、次はどうやって誘えばいいんだろう、なんて、性懲りもなく次のことを考えて消沈してしまって、何をどうすることもない。たしかにヤりたくて、愛されたくて必死ではあったけれど、こんなに気分が落ち込むほどにぼくが、正親さんに、愛されたいのだとは思わなかった。涙が出そうな気分にすら、なる。

ひやりと冷たい水が手のひらにかけられて、せっかく正親さんに気に入ってもらえた手のひらの血が洗い流されてしまうのを、眺める。そしてそこから跳ねた水が彼のズボンの裾と、ふとももを濡らすのを同じに、眺めた。涙は結局出なかったけれど、ぼくの手を、ほんのすこし赤くなった水がざらざらと流れていく光景をじっと見ていると、まるでその水がぼくの涙であるかのように思えて、寒くもないのに、鼻をすすった。

 「……遊んでなんてない。」

 そう言った声は、我ながら、拗ねた子供のようだった。


 正親さんには、もうぼくの熱はばれている。というか、さっき分かるように押し付けたのだから、それで分かっていない方がむしろ、心配になるくらいだ。それに対して、ぼくはどうやったら正親さんをぼくと同じにできるか、具体的には、興奮してもらえるのか、なんてことがまったく、分からないまま。蛇口からあふれる水、ぼくの涙の代わりに流れるそれに濡れた、正親さんのズボンの染み。もうこうなったら、これだけ切ない気持になるのだったら、いっそ嫌われてでも、追い出されるきっかけになったとしても、最後に一回くらい、いい思い出をもらったっていいんじゃないだろうか。なんて、ぼんやりと、自分勝手に考える。

 だって。

 こんなひとけのないところで生活していれば、自然とご無沙汰にだってなるだろう。それに正親さんの生活をすべて知っているというわけではないけれど、それにしたって、彼には右手と戯れている時間すら――少なくとも今までは――なかったように思う。ぼくが来てから遠慮してくれているのかもしれないけれど、そうだとしても、少なくともぼくがここに来てからはなんにもシていない、というわけだ。

 身体の大きな人、筋肉量の多い人は性欲も強いというし、ほんとうにそうなのかは分からないけれど、この年で、この体格で、枯れているならぼくのこの「最後」の決意すら無駄にはなるのだけれど、それならそれで諦めもつく。何よりそうでなかったら。そうでなくて、ぼくが彼に手を出さなければ、つかめたはずの一回のチャンスすら逃してしまうことになる。そんなのは嫌だ。なんて思いが、ぼくのその「最後」の決意を固めた。それに、たとえ男がダメであったって、正親さんはさっき、ぼくの何かにたしかに、欲をおぼえてくれていたはずだ。ということは、ぼくが顔を伏せてさえいれば、髪の長いのだけを見せていれば、女の代わりにくらいは、してくれるはず。だってご無沙汰なんだから。


 なんて。最初で最後の一回になるはずだから、と、言い訳を重ねる。もちろんそれは頭の中で。じゃぶじゃぶと流れる水の音、ぱたぱたと落ちる水の音。あんまりにも無機質なそれがほんとうに、今度こそ泣いてしまうほど切なくて、ぼくの知っているあの、なまぬるく、ねばっこい音を混ぜる、その覚悟も、決めた。


 追い出されたら、いやだなあ。今度こそほんとうにひとりぼっちで、どこかで、死ぬしかないんだろうなあ。なんて、後ろ髪を鷲掴む思いを振り払うように、未だ流れ出す血をはしからきれいにしようとする正親さんのその手を振り払って、正親さんの脚の間、ズボン越しに、そこに手を伸ばす。

 「じっとしててくれたら、それでいいから。」

 そしてその場に膝をついて、ぼくは、ジッパーをかちり、と、噛んだ。


 結論からいうと、正親さんは枯れてなんていなかったし、ぼくは追い出されやしなかったし、それに、彼は――女がどうかはさておいて――男もいけるタイプの人間のようだということが、この日、分かった。

 ズボンのジッパーを下ろし、そのままパンツごしに舌でひとなでしたそこは、彼の体格にしては当然なのかもしれないけれど、ぼくが想像していたよりは大きかった。そこを唇で包むように、まだ柔らかい、けれどきちんと熱を持ち始めてくれたことに喜びながら、大きく口を開けて、それを舌でちろちろと弄びながら、口の端から唾液が垂れるほど期待に満ちたぼくの、あつい頬肉に触れさせる。じゅく、と、そこから音がした。自分の内側から聞こえる淫猥な音、久しぶりに聞いたそれに、安心感と、それから愛おしさをおぼえた。

 そして、溜息と共に伸ばされた正親さんの手が、もうぱんぱんに張り詰めたぼくのそれに触れてくれたのがとびっきり嬉しくて。ぼくの口の中でむくむくと育っていく彼の欲が、嬉しくて。

 えづくほど奥に迎えたそれに犯されているような気分で、散々ねぶって、しごいて、顎が疲れるほどに奉仕してやっともらえた彼の欲、ねばっこく熱いそれに満たされているような気分で、この日、ぼくは久しぶりに欲を吐き出した。


 残ったのは、ぼんやりとした淋しさ。

 諦めさせてもくれないで、勝率の低い期待ばかりをぼくに抱かせて、正親さんは、どうしたいんだろう。

 そんな、自分勝手な淋しさが、もう慣れたはずの布団の中を、いやに冷たく感じさせた。

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