ep.「カタバミに垂れる墨の色」中編


 茄子っていうのはアレの暗喩だ、なんて知識しかなかったぼくだけれど、ぼくが正親さんに渡した二人分の茄子は、味噌汁の中身と、それから、ほんの少しからい炒め物の中身になった。食材をあまり意識して食事を摂ったことのなかったぼくにとって、いちから料理ができていく、という光景を見るのはとても新鮮で、面白く、そして、これは茄子だから、茄子の味はこんななのだな、なんて気づきに満ちた、食事そのものの意味を変えるくらい、楽しいものだった。

 料理をおぼえる、という名目で正親さんの後をついてまわりながら作業を見て、そして食卓で思ったのは「ぼくに料理は無理かもしれない」ということと、それから「正親さんは意外と器用だ」ということだった。ぼくの倍くらい太そうな――実際比べていないから分からないけれど、あれに中を拓かれたら、きっと気持ちいいんだろうな、なんて思うくらいには太い――指が、ぼくの指先なんかよりも細かい動きをする。ぼくの指なんてセックスの時くらいしかちゃんと仕事をしないんだから、比べるのがまずおかしい、のかもしれないけれど。なにせそんな指が器用に動いて作りだしたその料理と同じものは、ぼくにはどうにも、作れそうになかった。何をしているかは分かっても、それをぼくが再現するとして、どうすればいいのかは分からない。

 まず、正親さんが茄子に何度か、撫でるように包丁を刺して切ったのが、そのいちばんの例だ。そもそも手に茄子を持ったまま、そこに包丁を入れるだなんて、ぼくがやったら流血間違いなしだろう。それに、その力加減は慣れでなんとかなるかもしれない、と希望的に考えても、それにしたって、その後こう、なんというのだろう、定食についてくる千切りキャベツよりすこし太いくらいのほそさにまで茄子を切るのも、ぼくがやったら何枚か指先の皮――もしかすると何きれか肉が入るかもしれない――が混じる、悲惨な結果に終わるだろうことはあんまりにも簡単に想像ができた。

 ぼくが食べていたコンビニのサラダや、スーパーの惣菜。宅配の弁当なんかも、こんな技術があってできていたものなんだな、と、今までまったく知らなかった、ありがたみ、が湧いてくる。


 そして、早めの夕ご飯か、それとも遅めの昼ご飯か。悩むくらいの微妙な時間に食べた正親さんの炒め物と味噌汁は、ずっと見ていた手つきから想像していた通りに、ぼくには無理だなあ、と考えていた通りに、美味しかった。ぼくが作った料理なんて過去に片手の指で足りるくらいしかないけれど、たとえば黒くてどろどろしたカレーとか、ぱりぱりのパスタとか、ちゃんと炊いたはずなのに乾いてたご飯とか、そんなものとは比べてはいけない味がした。

 童謡にあるような、「おなかとせなかがくっつく」くらいの空腹もその美味しさに拍車をかけていたのかもしれないけれど、それにしたって、きっと満腹の時に食べたってこれは美味しい。と、しみじみと――もしかしたら、ぼくが今まで食べていた「手料理」というものがあんまりにも酷かっただけかもしれない、とも同時にしみじみと――思った。


 「あのね、正親さん。茄子のこれって、ぼくにもできるかな。」


 きっと手に持って包丁で撫でていた、あのときにできたものだろう。皮のところがぴらぴらと捲れる茄子を、箸でつつきながら聞いた。何かに似ていると思ったらあれだ、女の。とひらめいたけれどそれは黙っておく。

 「……慣れれば。」

 できるかな、なんて期待するように聞いておいて、実は、正親さんがぼくに「できない」というと思っていた。だから、ぼくの心は、今日何度目だろうか。また少し、舞い上がる。こんなに舞い上がっていちゃあ、そのうち風に吹いて飛ばされるんじゃないか、なんても思うけれど、飛ばされたってここにいる限り飛んでいく先は正親さんしかいないし、きっとどこか遠くへ行こうとしたって、あの人の大きな背中にぶつかって、それでしまいになるだろう。そう考えると、すこし嬉しい。

 「明日のご飯、つくってみてもいい。」

 行儀が悪いかなあ、とは思いながらもさっきつついていた茄子を口に運ぶ途中で聞いてみると、正親さんは少し悩んでいるようだった。眉間に皺が、ぐうっと、寄っていて。いかめしい表情なのに、なんだか愛らしい。そこに指をつっこんで皺を広げてやりたい気持ちを、「まだ早い」なんて思いでこらえながら、返事を待つ間に茄子を口に入れた。もう何口めかも分からないけれど、それでもやっぱり、美味しい。じんわりと広がるしょっぱめの旨味と、ぴりっと少しだけのからさ。それから、ぼくの記憶にある限りではスーパーの煮物か味噌汁くらいでしか感じたことのない、茄子の甘さと柔らかさが口を満たす。どれが何味、というか、どんな調味料を使ったのかがまったく想像できないのだけれど、からいから、七味か何かは使っているはずだ。と、のんびり考えてはじめて、あれだけ正親さんの後をついて回って料理するところを見ておいて、食材や彼の手つきにばかり気をとられて、調味料を見ていなかったことに気が付いた。なにかの大きなボトルとか、あと、冷蔵庫から出したなにかをスプーンですくってフライパンに入れていたのは見たけれど、あとがぜんぜん、記憶にないのだ。

 なんて、頭の中で勝手に食通ぶってみてその間違いというか、間抜けさに気付いた頃、正親さんはゆっくりと首を横に振った。ダメだった。

 「明日じゃなきゃ、いいの。」

 ダメだ、と言われたようなものだけれど、それでもぼくはめげずに問いかける。だって正親さんは、今のところ、押しに弱い。ぼくのワガママをたくさん、聞いてくれているから。どうしてもやりたいことは、やりたい、といえば――言わなけば伝わらないのは当然のことだから、おいておいて――きっと分かってくれる。正親さんはふいと視線を逸らして「いつかな」という。いつか。そのいつかが来るまでは、ここにいさせてくれる、そういうことだと、思っていいんだろうか。ぼくはまたほんのりと浮かれて、それにつられるように、顔が自然に笑顔を作った。今日はぼくがどうこう顔を作ろうとする前に勝手に筋肉が動いてばかりいるから、明日は顔じゅうが筋肉痛になるような気がする。


 「分かった、じゃあ、それまで正親さんのを見て勉強するから、料理するとき、呼んで。あ、寝てたら起こしてね。寝起きはいいって褒められたこともあるから、大丈夫。心配しないでいいよ。」

 えへへ、と緩む顔が、だらしなく見えていないだろうか。なんて、また少し気になったけれど、今はそんなことどうでもいい。だって、そんな顔をしているぼくは、きっと幸せだからだ。ぼくの幸せはぼくのもの。それが誰かの不幸の上にあったって、今までずっとそうだった。だからこそ、今みたく誰も不幸でなくて、ぼくが幸せなら。それをもし、正親さんがよく思わないのなら別だけれど、そんな顔はしていないのだから、それって今までのどんな幸せよりも、最高に幸せだから。


 それから、何日か経った。

 正親さんはぼくが寝ていても「朝飯」と――絵を描いていると時間が分からなくなってしまうのか、その時間が明らかに朝ではないくらいの時もあったけれど――起こしてくれるようになって、ぼくは正親さんの言うままにあの陰の段ボールから野菜を取ってきたり、お鍋に水を張ったりした。けれど、いくら勇気を出して、邪魔になりはしないか、なんて気持ちを圧し潰して「ね、今できることない。」なんて声をかけても、それ以外のことは何にもさせてもらえなかった。

 それは料理以外の時もおんなじで、正親さんが風呂用か台所用かの薪を割っていたり、運んでいたりする時に同じように聞いても、「いい」と手伝いを断られたし、何故だかは分からないけれど、この数日の間、ぼくが手に持ったものといえば箸と茶碗と野菜、それから鍋の取っ手くらい。

 だから。


 「ねえ、今日こそ手伝うからね。」

 この通り、もう死にかけじゃないんだから。なんて、できもしない力こぶを見せるように腕を折り曲げて、正親さんに借りっぱなしのシャツの袖をまくって、ぶかぶかのズボンの裾を折って迫っても、仕方ないだろう。なんて、思う。むしろ、ぼくは今まで、よく何日も我慢したな、と思うくらいだ。出された食事を口に運ぶばかりの生活で、食べるか寝るかの毎日を送っていたせいで、ぼくのお腹はすっかり柔らかくふよふよするようになっていたし、べつに体型を維持しようとは思っていないけれど、それにしたってこれは酷い、と、今朝起きた時、折り曲がった腹にもちもちと段ができているのを見て、思った。


 正親さんもそれは同じ思いだったのか、今日は断らなかった。薪のたくさん割れて転がっている中であまり太かったり長かったりしないものを指さして、「持って、ついてこい」と、言ってくれたのが嬉しくて。そして、死にかけではないと言いながらも、事実そうでありながらも元が貧弱で、力仕事や体力勝負なんてベッドの上でしかしてこなかったぼくにはあんまりに重たいものは持てないだろうから、その気遣いは、純粋に嬉しかった。

 ぼくは喜び勇んで――それこそ母親に手伝いをねだり、買い物袋を預けられたこどものように――薪に駆け寄って、抱え込む。思ったよりは重かったけれど、正親さんはこれを何本も持っているのだから、ぼくだっていつかはそうなれるはずだ。同じものを食べて、――絵、以外はだけれど――同じことをして生きていくんだから、きっとやればできるはずだ。なんて、これからのことを期待もしてみながら、ざらざらと乾いた木の肌を、えい、と気合いを入れて、抱えなおす。

 そんなぼくの気合いを入れた持ち直しが、重たすぎるからではないか、なんて心配でもしてくれているんだろうか。ちらちらとぼくの方を見ながら先を歩く正親さんの背中が、そしてその理由が言葉にはならない不器用さが、たまらなく愛おしい。今夜こそ、あの背中に爪痕を残してやろうか。なんて、考えるほどには。なんて考えて、そしていつもぼくが使わせてもらっている布団に皺を刻むことまで想像しているうちに、「おい、」と、声がかかって、ふっと意識が帰ってきたような感覚。その直後、どん、とぼくの額が、彼にぶつかる感じがした。どうやらぼくが煩悩にまみれている間に、薪を置いておく場所にでもついたらしい。ぶつかった反動もあって、一歩下がれば十分なのに慌てて何歩か、後ろに下がって。

 ぼくは、ぶつかってしまったことに対して、ごめん、と言おうとした。

 そして気付いた。


 初めてここに来たあの日。

 あの時正親さんがぼくの右目を見ていたのと、同じ目をしていることに。

 そして、その視線の先には、ぼくの手があることに。


 欲の匂いがひそむその視線がぼくは好きで、あぁ、ほんとうにぼくは今晩、彼の体温を感じて眠れるかもしれない、なんて期待すらした。

 その理由が知りたくて、どうすれば、その視線を向けてもらえるんだろう、なんて、彼のその熱の先を追うように視線を落とすと、ぼくの手には血がにじんでいた。ささくれとかではなく、薪の皮が刺さったか、それかひっかけたかしたんだろう。いろんなところ、結構な範囲に、ぽつぽつと血がにじんで、そして、薪の腕の中でずれるのに合わせて、べた、と線を引く。

 あぁ。なんて。ぼくの心の中に、どろりと熱い、とかした鉄かガラスのようにねばっこい気持ちが、湧いた。


 正親さんに好かれるには、こうすればいいのか。

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