ep.「カタバミに垂れる墨の色」



次の日。

 ぼくが目をさましたその視界には、昨日ぼくを拾ったおじさん、正親さんの背中があった。何か白くて平たい四角が、その背中の向こうに見える。開け放しの玄関扉の向こうには、ちらほらと何か花が咲いているのも見える。あれはなんて花なんだろう、と、疑問にも思ったけれど、きっと正親さんが植えたものではないし、だとすると、あの人は花の名前なんかをいちいち気にして調べたりするたちではないだろう――それに、ここには花の名前ひとつも調べる手段がないのだから、調べようもないだろう――から、聞いたところで何かは分からない。

 クローバーのような背の低い緑に映える、小さな黄色い花。そういえば、以前にもどこかの道端で見かけたことがある気がする。


「カタバミに垂れる墨の色」


 今はもう、昼過ぎなんだろう。窓から射し込む陽に、ほこりや何やの本来不快であるはずのものがきらきらと輝いて、美しい。それを美しいと思ったせいで、それにつられて、だろうか。正親さんの分厚く広い背中を覆うよれたシャツも、その腕に見える色とりどりの汚れも、なぜだか、きれいなものに思えた。

 陽の中で輝くほこりや塵も、正親さんのシャツのよれ、くしゃくしゃとしたその谷間に落ちる影も、光も影も問答無用で染める、絵具か草木の汁かのような汚れも。なんでそんなものを美しいと思うのか、ぼくにはまったく、分からなかった。

 

一心不乱に腕を動かす、目の前の背中。肩が、背中が、その先の見えもしない腕の動きを雄弁に語るのを、ぼくはじっと見ていた。それを見ながら、考えた。ただ待つのはとても淋しくて切ないことだったから、何か気を逸らすために、なんて、目の前に転がる、美しさの理由について考えた。見なくてもいいから、せめて、気づいてくれないか。一瞬、手を止めるだけでもいい。声なんてかけてくれなくてもいい。そんな無益な期待の合間に。

 動き続ける肩や首の筋肉。ぼくにはないそれらをじっと見ているうちに、その答えはふわりと浮かんだ。そう、それはもう唐突に。なんの脈絡もなく、「彼が生きている証拠だから」という考えが、降ってわいた。

 自慢できることではないけれど、ぼくは何にもできない。料理をはじめとして、セックス以外の何にも、ほめられた試しがない。だからだろうか。「彼が彼として、彼のできうることをして、生きている。それが、それだけで、美しいのだろう」という考えは、突拍子もないように思えたけれど、同時に、とても自然なことのようにも思えたのだ。彼が生きているから、ほこりもちりも舞い上がり、陽に照らされる。彼が彼にできることをしているから――むしろ、できないことはしていないから、かもしれないけれど――、シャツはよれて影に彩られるし、そして汚れる。

 ひとが生きている、というのは、こんなにも美しいものなんだ。心中未遂の海の中から引き上げられて、こんなことまで考えるようになって、しまいには、無駄だと分かっていても期待を――これに関しては昔から、かもしれないけれど――して、こうして、ずっと、彼が振り向いてくれるのを待っている。

 ばかばかしい。

 変化は悪いとは思わない。一概にそうだとは思わない。けれどこれは、今のぼくがしていることは、あまりに望みがなく、無意味で、阿呆らしいことだというのは、分かった。変わったからといって、愛されるようになったわけではないのに。

その証拠に、結局彼はぼくがどれだけ見ていようともまったく気にならないようで、その手はぼくの思考がうつくしさの理由に結論を見出すまで止まることはなくて、そして、ぼくはそのあんまりの淋しさと切なさと虚しさに、それ以上待つのをやめる、と決めて布団を出た。


 ねえ、何してるの。

 邪魔してしまって、嫌われてしまって、出て行けと言われるかもしれないと思ってもそれ以上待てないと、ぼくがおじさんの背から首に腕を回し、彼にしなだれかかるように、抱き付いて聞いたのは陽に色がつく、その少し前。傾き始めた陽と、彼の背中の先に見える小さな花の色が陰りはじめたのが視界の隅にちらついて、ぼくの気を逸らせた。


 彼に抱き付いて見たあの背中越しの「白くて平たい四角」は作業台のようになっていて、そこには、鉛筆だろうか。たくさんの美しいひとが描かれていた。顔は判別できないような、ざっくりとした線。絵を描いていたんだな、と理解して、ぼくは、彼の口から答えを得たわけではないのに、なんとなく、嬉しくなった。彼は、言葉でなくて行動や、痕跡で語るんだろうか。そう思ったら、少なくとも、ぼくの気持ちは楽になるのではないだろうか。そんな風に、気付いたからかもしれない。ぼくの求めるかたち――ぼくを見てくれるとか、声をかけてくれるとか、それでなくとも、気にかけてくれる、とか――では、彼からの愛を得られないと分かったからこそ、自分が彼のかたちに合わせることで、すこしでも、その彼の愛のかたちがぼくの器を溢れたとしても、かたちが合わないでほんのひとかけらしか受け入れられなかったとしても、愛してもらえてる、なんて、思うことができるんじゃないか。そう思ったからかもしれない。

 ひとりでそんな風に考えて、ふふ、と笑ったぼくを、正親さんが不思議そうな顔で見上げる。その口元がほんのすこし動いて、なにかを話そうとしたのが見えて、卑怯なぼくは、彼の言葉を「ぼくの言葉への返事」にするために、彼に先立って口を開いた。

 「……おはよう、正親さん。」

 「おはよう。」

 ぼくの思惑通り、ぼくはそんなほんの少しのやりとりですら嬉しくて、また笑いがこみ上げる。そして一人で笑ってばかりなのに気づいて恥ずかしくなって、ふと視線を下げた。そうすると、白くて四角い板の上に立てかけてあるよりもずっとたくさん、あの鉛筆描きのような絵が床に散らばっていた。


 それらはどれも、長い黒髪のきれいなひとが、横になっている絵のようだった。


 そのたくさんの紙は、正親さんの愛のかたちであるように思えた。さまざまな角度から描かれた、黒髪のひと。それはきっとぼくじゃないけれど、ぼくの知っている誰でもないから。嫉妬する相手が紙の上にいるんでは、嫉妬のしようもない。ぼくはそれを受け入れたつもりで、ぼくが愛されるよりも、彼の愛をたくさん、集めた方が幸せになれる、なんて思って、ふわりと正親さんから離れ、目についたものを拾いあげる。

その紙は、一枚拾った下にまた一枚。ぼくが思っていたよりもずっとたくさんあったようで、気になってどんどん拾い集めていると、気付けば片手に持てるだけいっぱいの紙束が出来上がっていた。

あぁ、正親さんは、こんなにもこの行為を愛してるんだ。なんて、その量の膨大さに思い知らされたような気がして、負け惜しみのようにすこし、笑った。


 「正親さん、すごいね。朝からずっと描いてたの。」

 「……いつものことだ。」


 絵を描く、ということが彼の愛なのだろうな、なんて思ってみればぶっきらぼうな答えは照れ隠しのようにも思えたのだけれど、ふと、もう日暮れも近いんだということを思い出した。そしてそれから、ちゃんとご飯を食べているんだろうかと気になった。

ぼくは、料理ができないことを初めて、後悔した。だって例えば、正親さんが朝から何も食べていなかったとして。それでも、ぼくが彼のために食事を用意する、なんてことが、できないんだから。ぼくがいくら心配したところで、ぼくの食事も含めて、食事を摂るタイミングを決めるのは、今のところ、正親さんだ。彼に全権があるのだ。だからきっと、食べてるの、なんて言葉はお門違いというか、なんというか、むつかしい言葉は分からないけれど、とにかくそういう、ぼくが言うべきじゃない言葉なんだ。


 どうしたものか。料理を教えてもらって、ぼくが作れるようになればいいのだけれど、そうなるにしたって今日すぐには無理だ。ぼくが料理を用意できるようになるまで、どうしたら、正親さんにきちんと、食事を摂ってもらえるようになるだろう。なんて、腕に抱えた紙束を眺めながら悩んだ挙句、ぼくは名案をひらめいた。


 「ね、おなかすいた。片付けしておくから、正親さん、一緒にご飯食べよう。」


 ね、作ってよ。と、正親さんの座る椅子の隣にしゃがみこんで、彼の目を見上げる。昨日の行動を思い返すに、ぼくが甘えたら、自分の食事も一緒に用意して、食べてくれる。彼はそういう、優しい人だ。

そもそもぼくの「おねがい」が聞いてもらえなかった場合はぼくにはもうどうしようもないから、考えないことにして。とりあえず当面は、こうしておねがいをするか、もしくは、作れるようになりたいから、と教えを乞うついでに食事を摂ることにするか、の、どちらかで何とかなるだろう。どちらにせよ、今日みたく寝坊をするのはやめなくてはならない。なんとか起きないと、朝どころか、昼ごはんだって、正親さんが食べてるのかどうかすら分からないで、ぼくはまた気をもむことになるし、もしかしたら、そんな日が続いたら、彼の腕も、背中も、薄くなってしまうかもしれないし。

 ぼくは彼のその太くて分厚い身体に開かれる陽を楽しみにしているんだから、やせてもらっては困るのだ。……自分勝手だけれど。

 上目遣いに彼を見上げて、そんなとりとめないことを考えながら返事を待っていると、驚いたようにほんの少しだけ視線が上がって、開かれていた瞼が戻って、それから、正親さんの目がどこかへ、ふい、とそれた。

 「……片付けはしなくていい。」

 待ってろ、という言葉に、ぼくを見なくなった目は照れ隠しなのかな。おじさんもかわいいところがあるな。もしかして、ぼくのことを少しは意識してくれているのかな。なんて己惚れて、はあい、と、嬉しさを隠しきれずに子供のように幼さの洩れた声で、返事をする。ぼくの甘えに、わがままに、応えてくれる。それだって愛だと、思っていいはずだ。

 椅子の脚をがたつかせてそそくさと立ち上がり、日当たりのいいその場所から、キッチンのあった方へと歩いていく正親さんの背中。ぼくはまた、その背中を眺めていた。

 そういえば、鶏か何かの本能に、すりこみ、なんてものがあった気がする。生まれてはじめて見たものを親だと思いこむ、本能。もしかしたら、ぼくのこの気持ちはそれに似たものなのかもしれない。もしくは、つり橋効果。心中未遂。いちど社会的に死んで、ぼくは、生まれなおしたようなものだから。生まれなおして初めて見たからとか、死にかけで心拍の早い時にずっと一緒にいたからとか、ぼくの気持ちが愛や恋でないと決めつける理由は、たくさんあった。

 けれどそんなもの、知ったことじゃない。

 好きなんだ。ずっとこうして、背中であっても見ていたいくらいには、ぼくは彼が好きで、そして、愛されたいと思ってる。考えすぎは、毒にしかならない。大丈夫。ぼくはちゃんと、恋してる。


 海へ向かうことを決めた時のように暗い方へ落ちていこうとする頭の中を無理矢理に片付けて、なんにも考えないことにして、正親さんの言葉を思い出す。片付けはしなくていいと言われたけれど、とりあえず、散らばったものだけは集めておこう。そしたら、少なくとも集める手間くらいは省けるだろう。台所に立つ彼の背中を見ながら考えて、また視線を床へ向けた時。さっきの正親さんの「照れ隠し」が、ほんとうはそんなものじゃなかったことに気付いた。

 昨日寝た時の記憶があまりにおぼろげで、そして、起きてからなにも不快に感じなかったから、あまりに慣れすぎた格好だったから、忘れていたことだった。


 正親さんに借りたぶかぶかのシャツ。その下はまっぱだか。しかも、唯一着ているシャツだって、ボタンをいくつか掛け違えているし、掛け違えていないボタンはそもそも、留められてすらいなかった。

 我ながら、あんまりに間抜けな格好だと思う。

 そりゃあ、見てられないわけだ。


 暮れていく日と同じに沈んでいた気持ちが一気に、ばかばかしさゆえに舞い上がり、笑ってしまった。抱えた紙束をぼくの使っていた布団の傍にまとめておいて、正親さんのそばに、小走りに向かう。

 「ね、見てていい。いつかさ、ぼくも、正親さんに料理、作れるようになりたいから。」

 返事は期待していなかったけれど、正親さんはぼくの予想に反して、ああ、と小さく頷いて、それから、部屋の隅、いつも陰になっていそうなところへ置かれた段ボールを指さして、言う。

 「茄子、二本。」

 「はぁい、二本ね。」

 そのやりとりはまるで熟年夫婦のようだと思えて、ぼくはまた、嬉しくなった。

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