ep.「水際の乙女」後編




 髪を撫でる、手。

 それはぼくに今まで触れた誰よりも暖かく、大きく、かたい。さっき見た、太くて、骨ばったその手の指が、乾き始めてぎしりと軋むぼくの髪に絡まる。


 洗いたてだろうシャツを手に持ちぼくの後ろに立っていた彼の、その胸の中に飛び込んだのは、衝動的にだった。なんにも後先なんて考えないで、もしかしたら彼がそんなスキンシップを嫌がってぼくを押しのけるかもしれないことだとか、それから、そのままぼくをどこかへ追いやるかもしれないだとか、そんな、考えなくてはいけないことまで何にも考えていなかった。


 けれどきっと、彼の胸にそうして飛び込んだのは、ぼくにとっては正解だった。


 ゆっくり、ゆっくりと痛みのないように髪を梳くその手つきに、あるはずがないと分かっていても、愛を感じる。時折絡まったその髪を指先でくるりくるりとほどいてくれる手つきも、また優しく、いつくしみすら感じる。

 空虚な期待だと分かっていても、その喜びがじんわりとぼくの身体にしみこんでいくように、心の底から、ふわりと浮き上がるような気分にすらなる。

 あぁ。と、嘆息した。ぼくの期待するそれが、ほんとうに、欠片だけでも、小指の爪の先ほどでも構わないから、ほんとうに、あればいいのに。そうしたら、そうでなくとも、そうと信じることさえできれば、ぼくはもっと、あたたかく、幸せになれるのに。

 そんな独りよがりで、ワガママで、どうしようもない思いがぐるぐると頭の中をめぐるのを、深呼吸して、意識の海の底の方まで沈めて、そんなことを思って泣きじゃくる小さな自分と一緒に、心中させた。


 「……おじさん、」

 ぼくが意を決して、自分の意識をそんな水死体から逸らすために声を掛けると、ウオズミだ、と、訂正が入った。

 「魚墨、正親。」


 「……正親さん。ぼくのこと、なんで拾ったの。」


 返答は、なかなか訪れない。沈黙。

 きん、と耳の奥で甲高い音が響く。そして風の音も。甲高い音は風の音と混じって、ぴいい、と、小鳥か子供か何か、小さい生き物の死ぬ時の声のようにも聞こえて気が滅入り始めたころ。ぼくは脳味噌を内側から細断する糸鋸の痛みに耐えかねて、また口を開いた。

 「……殺す、つもりだった。」

 すると、今度は沈黙ではなく、違う、とだけの返事。たったそれだけでも返ってきたのが嬉しくて、ぼくの気持ちはまた、自分勝手に舞い上がる。

 彼は、話すのが好きではないのだろうか。

 なんて、楽天的にもほどがある思考。そうすると、それでも返してくれる言葉が嬉しかった。けれど、それと同時に、ぼくにはもうそれしか縋るものがないんだという残酷な実感が湧いて出た。頭の中で響く誰かの声が、愛おしい。言ったじゃないか、気づいてしまったら終わりだって。その言葉をぼくに植え付けた相手の顔は、もう覚えていない。


 「……じゃあ、ここにいさせてくれない。料理はからきしダメだけど、できることなら何でもする。正親さんとならセックスもできる。もちろん、正親さんがしたいなら。無理に乗っかろうだなんて思ってないし、……あ、信用ないかもしれないけど、病気持ってたりもしないから、大丈夫。ね、お願い。ここにいさせてくれない。」


 きっとこの先何度も思い返しては、みっともなさに頭を抱えることになるんだろう、なんて、考えなくとも分かるくらいに必死に、懇願した。もう、ぼくが生きている理由はとっくにない。生きていていい理由だってない。目の前の彼にその辺りのものを与えられなければ、ぼくが生きていることを、ぼく自身が許せない。せっかく死ぬと決めたのに死に損ねて、そして、せっかくついさっき、また生きると決めたのに生き損ねるだなんて。生まれない方がましだった人生には違いなかったけれど、さすがにそこまでいくと、笑い話にもなりやしない。

 震える右手が、彼のシャツをくしゃくしゃに握りこむ。満足に曲げることもできない左の薬指が、シャツを掴もうとしてひっかく。ぶるぶると、それはもう惨めに。両の手でこんなに必死になっても、彼の胸板にすり寄せた耳には、静かな心音しか聞こえなかった。せめて少しでも、その鼓動が早くなってくれていればよかったのに。


 彼の分厚い胸板にそうして縋って、そこから見上げた彼の目は細められて、きっと、ぼくの右目を見ていた。おぞましい、恐ろしいと思われてはいない。それだけは彼の目で分かるけれど、ぼくの必死な問いかけにも、答えるそぶりはまるでない。白く濁った右目だって、嫌悪はされていない、とそれが分かるだけで、他にはなんにも分からない。右目は見えていないのだからそれはそうなのだけれど、そうではなくて、彼がぼくの右目に抱いている感情が、なんにも、分からないのだ。

 ねえ。こういうの、好きなの。

 そんな思いを込めて、好きでなくとも、少なくとも興味は持ってくれたのだろう、と、彼のために、まともに動きすらしないし、黒目も焦点もまるで判別できないからどこを見ているかだってきっと彼にも分からないけれど、右目も総動員で彼を見る。

 髪を梳く手が、止まった。


 「……好きにしろ、」


 なんて、それからもう一度だけ、髪の最後まで撫でたあと、正親さんは、ぼくを撫でていたのとは反対の手に持っていたシャツを、ぼくの胸に押し付ける。そして、ふい、とどこかを見てしまった。


 ぼくを見なくなった目が淋しくて、また背なかばかり見ているのが切なくて、すぐにでも抱き付いて、キスでもして、そのままでいい。抱かれたかったけれど、つい数分前に自分が言ったことばを思い出して、少しでも彼に嫌われたり、捨てられてしまう可能性を無くしたくて、安心したくて、渡されたシャツをぐっと握って、耐えた。ぼくを見てくれない目をいつまでも追うよりは、自分も、何も見ないでいればいい。


 「……ありがと。」

俯いて、言葉を返した。だから、「風呂沸かすから、シャツはその後に。」なんてまたぶっきらぼうな言い方が、その言葉がどんな表情で伝えられたのかが分からないから、気遣いを喜んでいるのだか、それとも、そっけなさに悲しんでいるのだか分からない、なにか得体のしれない感情が、じんと胸に来た。


 それでも、この人にいつか、愛されたい。

 そんなくだらないことを考えるのは、きっと悪い癖。こんなにきっちり「脈無し」だと示してくれているのに、どうすれば好きになってもらえるだろうかとか、どうすれば、愛してもらえるようになるのだるかとか、ぐるぐると、放っておけば永遠にそうしているのではないかとも思えるくらいに、考えてしまう。

 風呂を沸かすと言われてから、しばらく、玄関先に座ってぼうっと、考えていた。さっきの椅子に座っていると寝てしまいそうだったから。

 ここは、風が通り抜けて、気持ちいい。


 風通しのいいその場所で、心の中を吹きさらしにするような気分で、ぼくは彼に愛されるために、どうすればいいかを考えていた。けれど結局、何も思いつかないのだ。ぼくは彼を知らなすぎるし、彼だって、ぼくを知らない。ぼくは彼が何を求めるかを知らないし、彼は、ぼくが何をできるのかを知らない。

 彼の好きなもの、嫌いなもの、何をしたら喜ぶか、怒るか。つい数時間前に会ったばかりで、言葉数も少なく、無償の愛――という言葉がぼくは嫌いなので、そんな言葉は、使いたくはないのだけれど――にも似たものを持ってぼくに接する彼の事。分かるはずがなかった。

 ぼんやりとした絶望に足首まで浸った頃、「風呂、先入れ。」と、少し離れたところから、声がした。

 ぼくは考えるのをやめて、立ち上がる。絶望に足をとられないように、歩き出す。辺りを見回しながら、ゆっくりと。

 そうすると、何より先に、見えたのは正親さんの背中だった。あぁ、この背中なら、たとえ足をとられて転んでしまったって、支えてもらえる。そんな風に――とはいえ、それだって彼がぼくの倒れこむのを避けさえしなければ、だけれど――思う。


 「……初めて見た。薪。」


 彼の背中越しに薪を見ながら、そして、彼の背を通り過ぎながら、ぐしょぬれで、どうせもう使い物にならないからとズボンとパンツをその場で脱ぎ棄てる。べしゃり、ぼとり、と、重い布が落ちる音。

 通り抜ける風が、濡れて冷え切った肌を氷の流れ落ちるように撫でる。ほんのり、寒い。けれど鳥肌が立つほどではなく、心地いい。


 「割るか、後で。」

 「ぼくの力でもできるかな、」


 あはは、なんて響く自分の笑い声が、ひどくしらじらしい。初めて交わした、穏やかな言葉。初めて、冗談じみた軽さの言葉を交わしてみると、なぜか却って、空しい気持になったのだ。約束なんて、交わしたところでその「いつか」が来るとは限らない。

 唯一笑える要素があるとすれば、それは今現在のぼくの格好だろう。古いのも新しいのも、痣だらけの身体をなんにも隠さずに、ぼんやりと立っているぼくの姿。それだけ。

 切なくなるだけの冗談もほどほどに、湯加減は調整してくれているはず、とそんな身勝手な信頼で、裏口――お水のビルの勝手口とか、通用口とか、それから怪しい薬のあるバーの入り口に似ている――のような扉から、風呂へ。そう広くはない湯船に丸まって浸かると、昨日から随分水に浸かっていたものだから、ぼくの手はすぐにしわくちゃになる。指先と手のひらだけが、いっきに四十年は老けたようだ。

 なんて、すこし笑っているときに、薄い壁越しでくぐもった声が聞こえた。


 「……加減は、」


 ぼくはそれに、気持ちいい、なんて返事をしながら、聞こえていたんだか分からないさっきの一人笑いをごまかすように、ちゃぷちゃぷと湯を腕にかけていた。海の中でぶつけたのかもしれない。ああでも、もしかしたら、その前からあったのかもしれない。揺れる水の合間から、由来も分からない体中の痣が見えた。

 なまっちろい肌に散々浮く、青や赤や紫。ぼくはこの色が大好きだけれど、正親さんが好きかは分からない。

 そういえばさっき、全裸で前通った。よなあ。

 なんて少しの後悔。その内訳は、これが原因で嫌われていたらどうしよう、が半分。もう半分が、これを好きかもしれないんだから、前を通るとき、ちらりとでも振り返って、彼の表情を見ておけばよかった、と、そんな気持ち。


 確認のしようもない不安と挽回のしようがない後悔を溜息をぶくぶくと泡に変え、目だけを湯から出した戯れ半分の視界に、固形石鹸のひとつあるのを見つけて、ぼくは湯船を出て、身体を洗うことにした。

 のんびりしすぎたかな、なんて。正親さんに嫌われてないか、面倒だと思われてないかを考えて、ひとしりき身体を泡で覆って、それを流した後はすぐに風呂を出て、そういえば水滴を拭くのにタオルが欲しいな、なんて考えながら、雑に手のひらで身体の表面を撫ぜ、水気を切ってからシャツを着る。


 本来の持ち主たる正親さんとぼくとの体格差を考えれば当たり前以外の言葉が出ないが、そのシャツは案の定ぶかぶかで、ホットパンツを履いた時よりも露出の少ない格好になった。


 これは、好きかなあ。


 襟元に鼻を埋めると、ほんの少しだけ、小学校の図工室のような匂いと、染みついてしまったのであろう、汗の匂いがした。なんとなく嬉しくて、表情が緩む。ぼくはこんなに分かりやすいけれど、きっと正親さんは、そういうのが顔に出ないタイプだ。彼の好みを知るためには、たくさん試して、たくさん悩まないといけないんだろう。

 苦労することを約束された見合い結婚の妻のような気持ちだ、なんて考えて、あまりの気の早さに我ながら、笑った。

 正親さんは、シャツの襟元に鼻から下をすっぽり埋めて、笑いながら出てきたぼくに、ほんの少し、眉を上げてみせた。驚いてるんだろうか。それとも、呆れてるんだろうか。あんまりにも予想通りに分かりにくい反応で、ぼくはまた、おかしくなった。


 「ね、それさ。その顔、びっくりしてるの。」

 そうやってまだ笑いながら発した疑問に正親さんは視線をどこかへ逸らして、そして、ほんの少し気まずそうだか恥ずかしそうだかの顔をして、小さく頷く。わかんないよ、やっぱり。


 疲れと眠気のせいで頭が回っていなかったんだろうか。箸が転んでもおかしいような、妙にふわふわと幸せな気持で、ぼくはそのまま、正親さんに腕を引かれて布団に入った。ねえ、とか、正親さんはどうするの、とかたくさん質問をした気がするけれど、彼が返事をしてくれたのかすら覚えていない。

 だって、ぼくはそのまま、すとんと眠ってしまったから。ただ覚えているのは、ずっとぼくの頭を撫でてくれていた正親さんの手の感覚。

 時々ふわりとぼくの頬を包むようにも撫でるそれはやっぱり、あたたかくて、優しかった。

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