ep.「水際の乙女」前編
それから、次に目を覚ました時には日が昇っていた。あの夜が明けたのか、もうひとつくらいは夜を越したのか、わからない。ただ海の湿度が朝の霧か、靄かとなって視界をぼんやりと覆っていることだけが分かった。あぁ、寒い。
目を覚ましたぼくは、朝日のまぶしさを感じると同時に、自分の上に落ちる影に気が付いて。ぼくの身体の、ぼくに見えているところをぜんぶ覆い隠すくらいの大きな影の持ち主を探して、視線を上げる。
濡れて張り付き、首を持ち上げただけで軋む髪の隙間からまず見えたのは、無骨な手。そして、太い手首。腕。それから、ぼくの倍は分厚いのだろう、がっしりとした身体。首も太くて、きっと毛質も太いのであろう、短くばさついた髪が見える。
どのくらい、そうしてぼんやりと彼を見つめていたのか定かでない。時間の感覚なんてもうあってないようなものだったから。腹時計だってとっくに空っぽの腹は時報の役割すら果たさずきりきりと痛みを訴える。ぼんやり。眺めていた彼は、ふとその場にかがみこんで、ぼくを拾った。
そして、ぼくの前を歩く背中。
恋人だった男とは似ても似つかない、すこし猫背に見えるそれ。着てるものだって小汚い。絵具か何かでどろどろになっているそのシャツに、ぼくが濡らした肩のシミがじわり、じわりと灰色に広がる。
どこまで続くのかも分からない、どこへ行くのかも分からない道中、ぼくは彼の真意を図りかねて無言で、彼もまた、どうしてだか無言だった。
ただ彼はぼくに肩を貸し、歩く。
ざりざりと砂や小石の逃げる音と、ぼくの脚が、ずるずると地面に引きずられる音、それから、ぼくなんていう大荷物を支えて歩いているというのに穏やかな彼の呼吸音と、心音。それとは対照的に、運ばれているだけだというのになぜだか荒い、ぼくの呼吸音だけがしていた。
心も身体も、なんて言葉は満たされている時に使いたかったものだけれど、今はまさしく、ほんとうに、心も身体も寒い。だって心の方はたったひとつの小さな種火すらあの海に置いてきてしまったし、身体の方は、冷たい水をたっぷり含んだ服に包まれて、気温も上がりきらないうちから、どこへも力を入れることもなくただ肩を支えられ、ひきずられているだけのようなものだから。寒い。
放っておいてくれたらよかったのに。そうしたら、こんな寒さを感じることも、その寒さに素直に身をゆだねて死んでいいものか、それとも、なんて、悩むこともなかったのに。こんな行きずり未満の関係でさえ、気を遣ってしまう性分なんだ、ぼくは。
と、つらつらと胸のうちに溢れた不満を口に出すことは、結局、しなかった。彼の善意を信じようとするのも、そもそもこの行為が善意によるものだと信じようとするのも、そして、善意だからこそ無駄にしてはいけない、なんて考えるのもまた、性分なんだ。
吐き出しようもなく、消化のしようもない感情にぐらぐらと揺れるぼくの頭では、彼がどういうつもりかは分からない。ただひとつだけ、分かるのは、彼は当面――彼の家か、どこか目的地に着くまでかもしれないけれど――ぼくを生かすつもりのようだということだった。だって、そうじゃなければこんな大荷物、見なかったことにした方がいいに決まっている。だって、そうじゃなかったら、ぼくが今生きている意味だって、なんにもなくなる。
ぼくが今生きているのは、彼がぼくを生かそうとしていると信じて、それで余計な気を遣っている、ただそれだけだからだ。
相も変わらず、無言の道中。音はさっきのに加えて、ぼくの溜息が増えただけ。
風の吹き抜ける音すら鮮明な、時間。
その沈黙の中で考えて、ぼんやりした頭ではあるけれど、どうせこのまま彼に気を遣うのならば。彼がぼくをどうしたいにせよ、彼が行動を起こすまでは生きていよう、なんて思った。ぼくはそんな些細で、そして自分勝手な動機で、彼に初めて言葉をかける。
「……自分で、歩きます。」
彼はちらりとぼくの顔を見て、それから、肩にかけたぼくの腕を下ろした。ぼくの声は、ぼくが知っているいつものぼくの声よりも、ずっと掠れて、そして我ながら、なかなかにくたびれ疲弊した、それはもうセックスの後の名残りのような、色気のある声だった。まあ、そんなことはきっと、彼には関係ないことだろうけど。
だって、こんなところで、こんな運命的な確率で出会った人間が、同類であるだなんて。そんなこと、あるはずがない。
寒い。ならば、生きるためには、身体をあたためないといけない。そのもくろみ通りに、歩いている間にぼくの身体はあたたまり、じっとりと重く冷たいシャツに、くしゃみが出た。腹が鳴りさえした。
ぼくの動機がどれだけ適当で矮小なものであれ、ぼくの身体はきちんと、生きようとしている。
それからしばらく歩いて、空腹と寒さ、濡れた服の重さに覚束ない足取りではあるけれど、それでもほんのりとぼくの額に汗がにじむ頃に、ぼくは彼の家へと迎えられた。
そこはひとけのない、山の中だった。
さほど広くはない家。テレビもパソコンも何もなく、まるで、世界から、文明から追いやられたような家だった。ぼくが住んでいた家だって広くはなかったけれど、というか、ワンルームだったけれど、それでもテレビはあったし、ボロとはいえエアコンも、最初からついていた。そろそろ死ぬのかと思っていたくらい年代物の冷蔵庫だって、この家にあるのよりも新しかった。
「……そこ、」
初めて聞いた彼の声は低く、穏やかだった。声や口調には性格が出るというが、それが本当なら、子の人はこんなところには住んでいるはずがないくらい、むしろ郊外の学生用アパートの管理人でもして、ったくさんの人に慕われていそうなくらいの、声だった。
そんなくだらないことを考えながら、ぼくは、端的なそれに導かれるままに、小さなテーブルのわきにある丸椅子に座る。まさか、一人分のフルコースも載らないようなこのテーブルと、脚のがたついた丸椅子が、彼にとってのダイニングセットなのだろうか。そんなことも考える。
視界に映るコンロには、鍋がひとつ、かかっていた。
ぼくは、彼に殺し直されるんだろうか。
彼が世間から排斥された人間なのは、なんとなく分かる。そもそも、こんなところに住んでいるのだから、彼自身が厭世家であり不便を良しとする人間でない限りは、住む理由なんて、住まざるをえないくらいの何かしかないだろう。その理由は分からないけれど、いちばんそれらしいのは前科とか、そういう、所謂「悪い人」だってことだと思う。
どうせ殺されるんなら、首を絞めてがいい。
殺すという明確な意思、欲。それが手から伝わってくるだろうから。包丁やら縄やら、モノを使うのは味気ない。淋しい。だって、ぼくを殺すんにしたって、彼がその時饒舌になるだなんて考えられないから。
ぼくを殺すのがどういう意味を持つのかとか、どれほどそうしたいと思っていたのかとか、そんなことを伝えてくれるなら、まだその味気無さや、淋しさも紛れるんだけど。
そんな失礼なことを考えながら、ぼくは何も言わず、動く彼の背なかを目で追う。見たことはないけれど、きっとひぐまっていうのは、こういう動き方をするんだろうな。なんて、思った。
彼はシンクへ向かい、鍋に火をつける。炊飯器をあけて――これだけ文明から置き去られていても炊飯器はあるんだ。なんて多少の感動をおぼえたことは置いておいて、このとき、ほんとうにゲンキンなことに、ぼくの腹の虫は大騒ぎした――、湯気の立つご飯を椀にふたつ、よそう。炊き立てのごはんの甘い香りがする。
それから彼は、件の、人間にして齢九十はくだらないであろう冷蔵庫からタッパを出して、菜箸で小皿に取る。その冷蔵庫、都内のアンティークショップなんかに同じ型があるんじゃないかな。
なんて、ぼくがそうこう無駄なことを考えている間に鍋の具合がよくなったらしく、彼の体格に持たれてひどくこぢんまりとして見えるおたまで、これまた椀にふたつ、味噌汁だろう、茶色いものを。
彼にとって、ぼくを拾ったのは朝の散歩のついでだったのだろうか。ほんとうに、殺す殺さないは置いておくとしても何にも、他意はなかったんだろうか。そんなことすら思うまでに、彼の動作はよどみなく、優しい。
だって、恐らくはぼくの腹の音を聞きつけてか、そうでなくともぼくのことを考えて、二人分の食事を用意してくれたんだろうし、食事の準備が終わって、それで彼は、というと、テーブルに二人分の食器を置いて、ぼくに箸を与えて、ぼくの座る丸椅子のすぐ近くにある柱に、立ったまま背をあずけて食べ始める。
「……あの、椅子、」
「いい、気にすんな。」
家主に立たせ、自分は座っているという肩身の狭さもあって、どうしていいか分からないで、せめて椅子は家主に使ってもらおうとした言葉はすっぱりときれいに切り捨てられ、やることなんてもう出されたものを食べるほかにないぼくは、いただきます、と、とりあえず手だけは合わせて、結局、丸椅子に座ったままみそ汁に口を付ける。
視界に入る彼の身体は、やっぱり、最初に思った通りに、ぼくの倍は分厚かった。死の危険を感じた身体の、生存本能、種の保存のための本能とでもいう部分が、だろうか。顔はまるきり好みでもないし、昔の彼氏に似ているとかいうこともないのに、ふっと、抱かれたいな、なんて思った。本能にしては逆だから、単に溜まってるのかもしれない。あの海に行くまでは、毎日セックスしてたしなあ。
ところで、自慢できることではないが、ぼくは料理はからきしだめで、この間まで食べていたものもほとんどがスーパーのできあいだった。チンして温めたのではない、誰かの手料理だなんて、何年ぶりだろう。それも相まってか、それともただただ空腹のためか、あたたかい味噌汁も、ご飯も、素朴な浅漬けも、涙が出るほど――実際に涙が出たわけではないけれど――美味しかった。優しくて、家事ができて、料理が美味い。いい男だなあ、なんて呑気に、思うほどに。
食事中もそんなことをつらつらと考えていたものだから、もともと一人前の食事も摂らず、箸も遅いぼくが食事を終える頃には彼はとっくに食べ終えていて、食器をシンクへ置いた背中を見たきり、どこかへ行ってしまっていた。別の部屋だろうか。得体のしれないぼくみたいなのを置いていくだなんて、彼もぼくに負けず劣らず呑気なんだろうと、ぼくはまた余計なことを考える。
そうして残されて、ひとり黙々と食事を口に運んでいたぼくはというと、結局腹八分にも至らないくらいで――身体の方が、とりあえずこれだけ入れておけば死なないから、と安心でもしたのだろう――眠気に襲われて、身体が冷えたらまた今朝のような死にそうな思いをすることになるから、と濡れたシャツを脱いで、玄関の外へ置いた。さすがにズボンは脱がなかった。脱ぎたかったけど、それをしだすとぼくはもう全裸になるしかなくなるし、十中八九ストレートだろう彼にとっては迷惑な話だろうから。
一応、ぼくにだって良心はある。常識はないと散々言われてきたけれど、常識と良心は別物だ。
風の通り道。玄関先から見た景色には、とくべつ、何も感じなかった。ただぼうっと、なんとなく、すこし離れたところに見える樹々の数を数えながら、立っていた。開けた視界に、こんなところ、まだ日本に残ってたんだ、なんてことは、ふっと、頭を過った。
視界の樹を十五本まで数えて、あの樹は数えたっけ、あれは、と頭がややこしくなり始めたころに、背後から、視線。
振り向くと彼が、その手に彼のものだろうシャツを手に持って、じっと、ぼくを見ていた。
どこかへ行くなら止めはしない。そう言われている気がして、背筋がぞっと凍る。
愛されようと思っていたわけじゃない。愛してくれると思っていたわけでもない。そんな運命を夢見るほど、平和な人生を送ってもいない。けれど、だからこそ、その不干渉の瞳がおそろしく、ぼくの不安をかき立てる。嵐のように、「捨てられる」という恐怖がぼくの心をざんざんと揺らす。難破船の板切れにすら縋りつく漂流者の気持ちが、今なら分かる。
身体が傾ぐ。
どたばたと音がする。
気づくとぼくは彼に抱き付いていて、分厚いその身体にすがりついていた。
「……ね。そのシャツ、貸して。」
深呼吸をひとつ。嗅ぎ慣れた男性の、そのままの匂い。そして、知らないせっけんの匂い。声の震えを押しとどめて言ったことばはどうしようもなくチープで、一晩一万の売女だってもっと上手くやるくらい、みっともない。
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