未完の黒髪

魚倉 温

ep.00


恋人だった男と、心中した。


「水際の乙女」


 春が終わったといっても、夏にはまだ遠い。夜中の肌寒さに加えて海水はひどく重く、それが染みこみきった服が、つめたく張り付く。

 つい数分前に死ぬと決めたのに、その数週間前から、死のうかな、なんて、楽観的とはいえ考えてもいたのに、今だって死ぬためにここにいるのに、からだは意思に反して、生きようと空気を求める。塩辛くクソ不味い水を胸いっぱい呑んだ。

 がぼ、と汚い音が何度もして、それからようやく音が遠くなっていく。どうやらぼくのからだの方のあがきも、もう最期のようだった。これで、安心だ。もう何にも心を乱されることはない。不安も、疑いも、自己嫌悪もない。

 ぼくと一緒に沈んだはずの、その彼が死ねたかは分からない。ずっと目だけは閉じているから。愛していたし、愛しているけれど、彼の最期の顔なんて、見ようとも思わなかった。それはきっと、その愛が与えられなくなることが怖いから。与えるばかりになるのが恐ろしいから。

 塩水は目に染みる。苦しいのはいいけれど、痛いことなんて、ベッドの上でだけで十分。

 ゆらり、と髪がただよう感覚。自慢じゃないがぼくの髪は長い。沈んでいるのだろう間もずっと、首を引っ張るような重さがあったのが、ようやく消えた。何も感じない。


 死ねるんだ。


 そう思った時、身体がふわりと軽くなったように感じた。髪が軽くなったのも、こんなふうに身体ごと全部の軽くなる、その前触れだったのだろうか。とうとうほんとうに最後なのだ、と、ぼんやり喜びをかみしめながら、好きなものでも思い出して死のう、なんて。


 ―――けれど、そうしてたしかに水の中に沈んでいったはずのぼくの身体は、死ぬこともまともにできなかった。結局、生きていた。どことも分からない水際で、意識を手放す直前よりも、もっとぼんやり考える。まあ、いいか。じっとしていたら、少なくとも餓えて死ねるだろう。


 なにもかもが、ひどく、どうでもいい。

 なんだって、ぼくには満足にできなかった。きっとこれからだってそうだ。


 恋人ができた時は、嬉しかった。

 彼は優しくはなかったけれど、ぼくを愛しているのだと、何度も何度も言ってくれた。彼を愛していると言いながら縋ることしかできないぼくに、彼はそれでも繰り返し、愛していると言った。


 愛しているから、殴るのだ。そう言った。


 彼の真摯なのは、それを付き合ってから明かすんではなかったこと。そういうところがある。多くの人がきっと思うだろうが、ぼくもやはり、普通ではないと思った。けれど、ぼくにはもう彼以外に縋れるひとはいなかったし、愛しているひともいなかった。自分の異常性を理解したうえで告白し、そしてぼくには理解を求めず、ただ受け入れることだけを求めて、それでもいいなら、と項垂れる彼にキスをした、その日の晩。


 彼は、ぼくの指を折った。


 愛しているから、と痛い思いをさせられるのははじめてではなかったが、指を折られるのも、骨が折れるのも、はじめてのことだった。

 痛かったなあ。


 ぼんやりと視界に映る薬指。

 左手の、薬指。

 指輪なんてはめられないほど歪んだ、薬指。


 「……愛されてたなあ。」


 なんてひとりごと。ぽつりと、軽いことば。きっともうそれは波にさらわれて、どこか見えないところまで、流れていってしまっただろう。

 けれどたしかにあの時、ぼくはそれを愛だと思った。今でもたしかに、ぼくはこの薬指が、愛のあかしだと思える。ぼくの愛は曖昧で、彼にも、それまでに会った誰にも、与えることなんてできなかったから、こうしてひとりで見つめても実感できる、そんな思い出を、愛を、くれた彼のことは、今でも愛してる。

 あの時感じた痛みだって、愛おしかった。指を折られたその痛みは間違いなく痛みだったが、それと同時に湧き上がった喜びと愛おしさに射精寸前まで昂ったことも、折れた指をいつくしむように撫でた彼の指が、その後ぼくの後ろに入ってきたことも、その後の幸せなセックスも、全部覚えてる。


 周りは暗い。きっと夜なんだ。心中を試みてからどのくらい経ったかは分からないし、もしかしたら案外、あの夜のまま、明ける前なのかもしれない。もしかしたら、あれから一日か二日経っているかもしれない。なんにせよ、餓死するためにはあと何度かの夜と朝を待たなくては。

 重たい気分を払拭するように、顔のすぐそばについた手、その浮きたつような不健康な白さ、骨の浮いた気持ち悪さ、曲がった薬指、手首と、それから手の甲にも点在する痣を見る。自分の身体は気持ち悪くて、嫌いだ。けれどそこに残された彼からの愛の証は、大好きだ。不格好な薬指と青紫色の皮膚を脳裏に焼き付けて、目を瞑る。もう寝よう。今なら、幸せに眠れる気がする。


 もう春は終わったっていうのに、誰かの身体がない、愛してくれる人がいない、それだけで、真冬のように身体が震えた。そして同時に、ぼくは与えられる愛を求めるばかりで、それに縋るばかりで、何にも与えられなかったことを思い知る。だって、それができていたのなら、今頃こんなことにはなっていないはずだから。幸せな未来を描いて、二人、生きていたはずだから。


 乾きかけていた頬にじわりと、ぬるい温度がひろがる。あと何度こうして眠れば、二度と目覚めないですむんだろうか。こんなこと、もう、考えたくない。

 ざざ、と寄せて返す波の音の中、ぼくはひとり、惨めだった。

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