これはこれで、それなりの未来

まりる*まりら

これはこれで、それなりの未来


 静かな夏の日だった。

 レースのカーテンが、ふわりふわりと揺れていた。

 僕はソファに寝転がって、ただぼんやりとしていた。もしかしたら、眠っていたのかもしれない。ソファは、はっきり言って寝心地が悪い。たかだか五年前に買ったばかりなのに、もう弾力はなくなって、体が沈みこむばかりだ。夏の日にそんなソファで居眠りしてしまうほど、まあ僕は暇だった。

 じゃり、じゃり、と敷石を踏む音。じゃり、じゃり、と機械のように正確なテンポで。

 ドアの開く音、閉まる音。パタパタと、廊下を歩く音。

 そして、

「あら、ノゾミ、こんなところで寝てると、暑いでしょ」

「んー」

 僕は上半身を起こした。

「外は暑いわよー」

「ん」

「何か飲む?」

「うん」

 お母さんは、冷たい麦茶の入ったグラスを二つ、テーブルに置いた。

「どうも」

 グラスは冷たすぎて、僕はほんの少しだけ口をつけた。またソファにひっくり返る。背中が生ぬるい。

「どこ、行ってたの?」

 お母さんは麦茶を半分以上、一息に飲んで、大きく息をついた。

「正木さんのところ。今日、出発だったの。だから、お見送りにね」

 正木さんはお母さんの友だちで、二人は妙に気が合うらしく、いつも一緒になにかやっていた。お母さんより少し年配で、かなり長い間、市内の小さな医院で受付の仕事をしていたけれど、一年ほど前に退職していて、旦那さんは早くに亡くなっており、ひとり娘は関西方面に進学して、そのままそっちで就職してしまった。などということを、僕は知っているけれど実は会ったことはない。

「じゃ、娘さんのところへ?」

「うん、そうだって」

 と言って、お母さんはため息をつく。

「それは、遠いね。じゃあ……」

 僕はその先は言わなかった。お母さんだって、わかっているはずだから。

 多分、正木さんと会うことは、もう二度とないだろう。

 お母さんは言った。

「秋にはオーストラリアだって。遠いね……」

 窓の外、遠くを見る目だった。ついさっき出発したばかりの正木さんは、まだこの町から出てはいないだろう。それなのに、三ヶ月後には、二人の立っている場所は、1万キロも離れてしまうことになる。

 僕は部屋を見回した。殺風景な部屋。最低限の物しか置かれていない。僕らだってもうすぐ。

「ノゾミの支度は、もういいの?」

「うん」

 条件反射で返事してしまうくらい、何度もきかれた質問だった。それでもお母さんは繰り返すだろう。多分、出発する直前まで。

「あと、二週間しかないのよ」

 壁にかかったカレンダー。二週間後の日付には、大きなバツ印がついている。我が家の、いやこの町に住む人々にとってのXデーだ。

「それにしても」と、お母さんは残りの麦茶を飲み干して言った。

「お兄ちゃんは、どうするつもりなのかしらね」

 難しい顔つきになっている。

「さあね」

 それも繰り返される会話のひとつ。どうするもこうするも、兄貴が何も言ってこないのだから仕方がない。こちらから連絡しようたって、繋がった試しがないんだから。

「ふう」

 肩で息をして、お母さんは立ち上がった。

「なんだか、疲れちゃった。ちょっと横になってくるね」

 正木さんが行ってしまったことが、かなりショックだったのだろう、お母さんは奥の部屋へ引っ込んでしまった。

 また、静かになった。

 僕は窓の外を見た。カーテン越しでも明るい陽射しが眩しい。部屋の中が暗く感じる。暗い場所で、じっとりと生ぬるいソファに横になっている自分……

 急に、外へ出なくちゃ、と思った。僕のいるべき場所はここじゃない。明るい光の中こそがふさわしい。

 サンダルをつっかけて、ドアを開けた。

 眩しい。刺さるような熱。太陽は、あんなに遠い場所にあるのに、僕の皮膚が感じるほどに凄まじいエネルギーを出している。僕らを焼き付くしてしまうのなんて簡単なことなんだろうな、と夏になるといつも思う。

 と。

 じゃり、じゃり……。

 誰かが近づいてくる。僕は目を細めて音がする方を見た。

 汚れたスニーカー、色が完全に抜け落ちたジーパン、よれよれのTシャツ。

 無精ひげに囲まれた口が開く。

「よう、ノゾミ。なにやってるんだ」

 兄貴だ!

「え……なにって、いや、なにも」

 言ってから、我ながらとぼけた返事だと思う。だけど、陽の光の下こそ自分にふさわしいと思った、なんて言えるわけもなく。

「相変わらず、のん気な奴だなあ、おまえ」

 ははは、と笑って、兄貴は僕の肩をぽんと叩いた。そのまま家に入っていく。ドアが、バタンと閉まった。一人取り残された気分なのは、なぜだ?

 理不尽だ。

 今まで消息不明だったくせに。

 のん気なのはどっちだ。はははって、なんだよ。

 一言くらいは言い返してやりたくなった。急いで兄貴の後を追う。

 ドアを開けて「ちょっと……」と言いかけて、僕は口をつぐんだ。

 玄関からは、正面の台所にいる兄貴の背中が見える。その向こうでお母さんの声がする。泣いているんだ。

 気持ちは急にしぼんでしまった。僕はそっと隣の部屋に入って、結局またあのソファに体を沈めた。

 部屋の入口には兄貴の小さなスポーツバッグが置いてある。

 このご時勢では、身の回りのものはなるべく減らしたほうが良いに決まっているけれど、それにしてもやっぱりそのバッグは小さすぎる。

 兄貴は、ここに長くいるつもりはないのかもしれない。

 だけど、とりあえず家族がそろった。

 お母さんの口ぐせがひとつ減るなあ、と僕はぼんやり考えた。


 感動の親子対面の後、お母さんはこの上なく機嫌が良かった。本当にわかりやすい人だ。母親ってそういうものなんだろう。僕にはよくわからない。

 元々、兄貴は調子の良いところがあって、両親の機嫌をとるのがうまかった。僕と違って頭の出来も良いので、お母さんにとっては余計かわいいに違いない。そりゃ、僕だってかわいがられていないとは思わないけど。

 お母さんはいそいそと食事の支度を始め、やがてお父さんが戻ってきた。一家四人がそろって食卓を囲む。何年ぶりだろう。兄貴一人が増えただけで、随分にぎやかになったように感じる。話題はもちろん、兄貴のことだった。

「今まで、どうしてたんだ、一体」

 お父さんも、やっぱり上機嫌だった。

「研究所は随分前に閉鎖になってたでしょ。今までどこにいたのよ」

 決して責める口調ではなく、お母さんもたずねる。

「まあ、いろいろとね。後処理とか、雑務っていうの? 閉鎖になりました、はい終わりですって訳にもいかないのよ。もともと人手も少なかったし。言ったっけ? 俺の後に入った後輩は全部早々にいなくなってさ、だから俺が一手に、って感じ」

 兄貴はそう言って笑った。爽やかな、極上の笑顔だ。

 出たぞ、と僕は思う。みんな、これに騙されるんだ。うまく誤魔化されても気が付かないまま、話題を変えられてしまってるんだ。だいたい、後始末をしてたからって、半年近くもまったく連絡がとれなくなるはずがないじゃないか。間違いない、兄貴は何か隠してる。

「おまえの所も、大変だったんだなあ」

「せっかく良い所に就職できたと思っていたのにねえ、残念なことになっちゃって」

 ほら、お父さんもお母さんもすっかり兄貴の術にはまってしまって。なんてことを考えながら、僕はもそもそとご飯をかき込んだ。

 お母さんが箸を下ろして言う。

「住民票、もう駄目なの? 間に合わない? せっかく帰ってきたんだから、一緒に行けるといいのに」

 そう、兄貴が帰ってきても、この町の住民でない限り一緒に出発することはできない。町ごとの移動が決められているから。

「無理かなあ。もう締め切ってるから。でもアメリカだろ? 俺はカンザス州。出発はまだ少し先になるけど」

 兄貴はお父さんのグラスにビールを注ぐ。

「そうか。こっちはニューメキシコに決まった」と、ご機嫌でグラスを空けるお父さん。

「じゃあ、行き来は簡単だよ。違う国になったんじゃ大変だけどさ。行ったらすぐに連絡するから」

 と言って、兄貴はグラスをちょっと上げてみせた。そんな仕草が、どうも芝居がかっているように見えてならない。

 だけど、ふと、正木さんのことが頭をよぎった。あっちはオーストラリアだ。

 僕らはアメリカ。

 世界中の国が、僕たちを受け入れてくれる。オーストラリア、アメリカ、中国、ロシア、ブラジル、ヨーロッパ……。各国が土地を提供してくれて、日本人街ができあがっていく。小さなところは数百人から、大きなところは数十万人規模の都市になるだろう。日本人は、世界中に散らばろうとしている。

「もう、あと二週間なのね……」

 お母さんが、ぽつりと言った。


 あと二週間。

 不思議な気持ちになる。だって、今、こうして僕らはこの家で普通に生活をしているんだから。

 それがいきなり国外退去命令だ。勧告でも指示でもなく、命令。つまりは、それほど事態は深刻だということだ。

 土地が汚染されているから。

 分厚い報告書が各戸に配られた。何度もあった説明会に、僕も話を聞きにいった。 報告書には、汚染物質が人体に決定的な悪影響を与えていると書かれている。百年以上もの間、複雑な要因で、しかも広範囲にわたって蓄積された汚染物質は、容易に除去できるものではないと。

 今の日本の人口は3000万人にも満たない。江戸時代よりも少ない。子供が生まれにくくなっているのは社会の構造的な問題だとずっと考えられていたが、違っていた。住んでいる、この土地が原因だった。

 科学の発達というのも、考えものだと思う。なんて言ったら非難されるかもしれない。でも、知らなければ、そのまま暮らし続けていただろう。たとえ人が減り続けようとも。まさかこの土地がそんなにいけないだなんて思いもしない。少なくとも、僕も、僕の周りの人たちも誰も考えていなかった。

 とにかくその進歩した最新技術のおかげで原因がわかった。そして、全員退去だ。町ぐるみで、いや丸ごと国の引越し。

 住み慣れた土地を離れることには、当然ながら反対する人が多かった。それでも自分の子供たち、孫たちに、安全な未来を渡したいと思うなら、決断せざるを得ないんだろう。実際、他に選択肢はないのだし。町全体で移動となれば、慣れない土地でも少しはマシかもしれない。

 でも正直なところ、僕としては、ちょっと楽しみというか、期待するところがある。両親がいるし、友だちもいる。丸っきり安心な僕の居場所がある。こんな冒険て、滅多にできるものじゃない。

 こういう気持ちは僕だけじゃないと思うんだけど。

 お父さんやお母さんは、どう思っているだろう。これについて話したことはない。


 僕は二人兄弟だけど、これは今どきはかなり珍しい。

 そのうえ、僕には姉がいた。三つ違いだった。過去形なのは、すでに彼女は死んでしまったからだ。僕が生まれてすぐのことだったらしい。

 その頃住んでいたのは九州だった。姉さんが死んだことで、特にお母さんは、普通の生活ができないほどに落ち込んでしまったのだそうだ。それで当時まだ元気だった祖父母を頼って、こっちへ越してきたと言う訳だ。

 姉さんの墓は九州にある。こちらへ移したりせずに、そのままに。二、三年に一度は墓参りに行く。

 それも年数がたつうちに、だんだん旅行気分になっていった。お母さんだって楽しそうだった。

 時間が経てば、どんな感情でも薄れていく。ちゃんと生きていけるようになっている。

 だからこれから先、どこで暮らしても、どういう事態になっても、同じじゃないかと僕は思っている。

 こういうことを言うと、必ず言われるんだ。冷めた奴、もしくはのん気な奴って。主に我が家の長兄から。


 大学院を出た兄貴が就職したのは二年ほど前だった。大手企業の研究所で、バイオ技術関連の研究をしていたらしい。そのへんは社外秘で、いい加減そうな兄貴でも決して喋ろうとはしなかった。ただ、やりたかったことができる、と喜んではいた。

 その研究所も、今年の春に閉鎖。職員は全員解雇された。再開の目処が立てば、呼び戻してもらえるらしい。ただし、どこの国で、またどこの都市で再開されるかはわからないので、あてにはできない。

 兄貴はやりたがっていた研究に、わずか二年しか係われなかった。

 いや、今そんなことはどうでもいいんだ。兄貴は研究所が閉鎖されてから今まで、一体どこでなにをしていたんだろう。

 それと、もう間に合わない今頃になって帰ってきたことも引っかかる。

 兄貴は何を考えているんだ?

 二階の兄貴の部屋のドアをノックしてから開けた。

「なんだ?」

 とは言うものの、兄貴はこちらを見ようともしないで、小さなキーボードを叩いていた。

 スポーツバッグの口が開いていて、部屋の中は物が散乱している。このバッグの中に、どうしてこんなに物が入っていたんだろう。

 衣類やわけのわからないモノを退けて、腰を下ろした。なに気にディスプレイをのぞこうとすると、兄貴はさり気なくそれを移動させた。

「なんだよ、ノゾミ。なんか用か?」

 突っけんどんな言い方。明らかに迷惑そうだ。

「……兄貴さ、お父さんとお母さんの前じゃ、絶対そんな喋り方しないよね」

「おまえな、そんなこと言いに来たの? 俺は忙しいの。くだらないお喋りにつきあってる暇はないの。用がないならさっさと出てけ」

 さっきは、疲れてるからもう寝るって言ってたくせに。

「どこにいたのさ」

「あ?」

「今までさ。電話は通じない、メールは送れない、お父さんが社宅まで行ったけど、もう誰も住んでなかったって」

「連絡したじゃないか。一回だけだけど」

 僕宛てのメールで、野暮用でしばらく戻れない、と素っ気無い一文を送り付けてきた。警察に連絡した方がいいんじゃないかと話し合っていた頃のことだった。とりあえず無事ということがわかったので、捜索願いは出さないことになったけど。

「言ったじゃないか。仕事の後処理。同僚の自宅に居候してたの。絶っっ対、嘘じゃないからな」

 そのわざとらしいほどの強調ぶり。そこまで言うなら、その話自体に嘘はないと考えられる。でなければ、周到に根回しをして、嘘がばれない自信があるかだ。どちらにしても、言っていることがすべてとは思えない。

「……何か、企んでるな」

「おまえ、性格悪くなったな。前はめちゃくちゃ素直だったじゃん。お兄ちゃんは世界で一番エラい、とか言ってさ。それがなんだよ、かわいくねー」

 僕と兄貴は十歳の年の差がある。小さい頃は、確かにかわいがってもらった。面倒見の良い兄貴だった。僕は純真で兄貴は絶大な存在だったから、そもそも逆らおうと思ったことはない。でも、今にして思えば、どうもいいようにあしらわれていたような気がしないでもない。

「僕だって、いつまでも子供じゃないよ」

 と、つい言ってしまった。言ってから気がついた。こんなこと言うのって、ガキだ……

「へえ?」

 にやついた笑い。バカにした視線。余裕の態度。こういうとき、十歳の差を大きく感じる。社会に出ているか否かで、こんなにも違うものか? 駄目だ。もう気持ちが負けてるじゃないか。

「……もう、いいよ」

 僕は言い返す気力を失って、立ち上がった。画面の文字が、ちらっとだけ見える。短い文章。メール? 月日と時間が書いてあるようだけど、はっきりと読み取れなかった。

 部屋を出るときに、ふと思いついて言った。

「兄貴さ、向こうで会えるんだよね」

 一瞬、兄貴の動きが止まったように見えたのは、気のせいか。

「ああ。出発は来月だから、それ以降になるけど、なんでだ?」

「いや。お母さん、今まで心配してたから」

 そう、ずっと、そればかり心配していた。お母さんは兄貴がいなくなることをとても恐れている。

「そうか」

「あんまりさ、心配かけないようにした方がいいんじゃない?」

 返事はなかった。

 仕方なく、僕はドアを閉める。

 僕なんかが言わなくても、兄貴は十分わかっているとは思う。けれど、それでも言わないではいられなかったんだ。


 翌日から、兄貴は毎日のようにでかけては夜も遅い時間に戻ってくるようになった。友だちと会っているって言っていたけれど、どうなんだろう。

 そして出発の日まで、あと三日。

 持って行くことのできる荷物の量は、厳密に決められている。自分で持つことができるものだけ。だから家具などは持っていけない。早い時期なら業者に引き取ってもらいお金に変えることもできたけど、出発が近くなるとそれもできなくなった。仕方なく処分をあきらめて、そのまま置いておく人も多い。もったいない話だ。

 その点、我が家には最初から価値のある大きな家具などはなかった。お父さんとお母さんが早い段階から準備を始めていたからだ。退去の話がまだ単なる噂だったときから、人に笑われながらも家具を売り払った。その決断はすごい。

 僕の荷物は、衣類などを詰め込んだスポーツバッグがふたつ。一応高校生なので、教科書や参考書などの本が十数冊。これは紙袋に入れてぐるぐるに縛って、スポーツバッグと一緒にキャリーにくくりつけた。モバイル機や、僕にとっての貴重品、どうしても手元に置いておきたい本などが少し。これはバッグパックに入れる。あとは多分お母さんの持ちきれない荷物を運ぶことになるだろう。

 僕は自分の部屋をぐるりと見回した。たいして物のなかった部屋だけど、こうして見ると置いていくものも結構ある。隅にたたまれた布団。小学生のときから使っている机。スチール製の古い整理棚には雑多なものが乗っかったまま。クローゼットの中には持っていかない洋服が残っている。僕が発った後も、これらのものはそのままの形で残っているんだろう。

 もしこの町に誰もいなくなって、その後に宇宙人がやってきたら、一体この部屋をなんだと思うだろう。人ひとりいない町。生活した後はあるのに生物の形跡はない。きっと不思議がるだろう。

 なんてことを考えているうちに馬鹿馬鹿しくなった。宇宙人は来ないだろうし、僕もその他の誰かも、帰ってくることはないだろう。だとすれば、もうこの部屋にも町にも、何の意味も価値もないじゃないか。必要とする人がいなくなって、認識する人がいなくなれば、もうそれはないものと同じだ。

 僕らはこの町をなくしてしまう。どこかで落としてなくしてしまった紙切れのように。ただそういう町があったと、いつかは薄れる記憶の中に残るだけだ。

 ふと、棚にあった一冊の本が目に入った。さんざん迷って、置いていこうと決めたものだった。決めたのに、また手にとってしまった。好きな作家だけど、あまりおもしろいと思わなかった小説だった。

 ただ。

 そう、ただ、川島沙雪が言ってたから。「いつか貸して欲しい」って。

 同級生の川島は、背が高くて、髪が短くて、スポーツができて、はきはきと喋る。要するに、僕は第一印象的なことしか彼女についてはなにも把握していない。今はまだ。

 彼女のことを思い浮かべて、僕は結局作った荷物をほどいた。

 川島はこの町にいる。あっちに行っても、また同じ学校で会うことができる。

 川島だけでなく、僕は一番仲の良い友だち二人とも一緒にいられる。僕はこれまでとほとんど変わらない生活を送れるだろう。

 僕の世界はこんなにも狭い。兄貴なんかよりも、ずっと狭いだろう。今はそれで良かったとしみじみ思う。


 兄貴がいなくなった。

 昨夜はとうとう帰ってこなかったようだ。あさって僕らは出発してしまうと言うのに。

 もう日が暮れる。連絡はない。お母さんの顔が曇っている。何も言わないけれど。

 兄貴が何を考えているのか、僕には全然わからない。

 深夜になっても、家の電気は点いたままだった。明け方になっても。そして、そのまま夜が明けた。

 憔悴したお母さんの顔。お父さんも難しい顔をしている。

 誰も喋らない。

 よく聞く噂があった。

 国外退去という国の方針に反対して、行方をくらます人がいるということ。国内のどこかに潜伏して、完全に連絡を絶ってしまうのだ。そういった人たちに対して、国はなにもしないことになっている。死んだものとみなされる。いなくなった人はそれまで、諦めろということだ。

 諦めろと言われても、そんなに簡単ではないに決まっている。捜したいのは当然だ。けれど、もうそんな仕事を警察はすることができない。最低限の人員しか残されていないのだから。

 そうでなくとも、既に無人になった町ではひどい状態になっているところもある。暴れたい放題、やりたい放題。火をつけたり、爆弾や重機で建物を崩壊させたりなんてこともあるらしい。それを止める者はいない。

 兄貴がそんな中に加わっているとは思いたくなかった。そんな思想を持っているとはどうしても思えない。

 後は……

 先行きに絶望して、自ら死ぬ人も多いという。

 でも、それこそは絶対に兄貴らしくない。ありえない、と僕は思う。

 夜が明けて、お父さんとお母さんはうとうとしていた。僕は昇ってきたばかりの太陽に誘われて、外に出た。

 真横からくる光は昼間ほど強烈ではない。どちらかというと、優しい光。

 じゃり、じゃり、と足音。

 兄貴?

 本当にそうだった。

「あ、」と僕が大声を上げる前に、兄貴の手が口をふさいだ。

「しっ」

 兄貴は家の様子をうかがう。お父さんもお母さんも、すぐそこの窓の向こうにいるはずだけど、動く気配はなかった。

「こっち、来い」

 兄貴は僕の腕を引っ張って、家の外に出た。

 トラックが止まっていた。小さな2トントラックだ。

 兄貴は助手席側のドアを開けて、僕に乗れと言った。そのまま反対側に回って運転席に乗り込む。言われるままに僕は座ってドアを閉めた。

「ここだと目立つから、少し離れる」

 兄貴は言って、車を出した。家が遠くなる。

 町を出て山に入ると、小高い所にちょっとしたパーキングエリアがある。ベンチがいくつかとトイレがあるだけだけど、そこは町全体を見渡せる景色の良い場所だった。

 トラックが止まって、兄貴はさっさと降りてしまった。僕も後に続くしかない。

「きれいだなあ」

 兄貴はのんびりと言った。眼下に町並み。山の木々は濃い緑。熱いはずの陽射しは、日陰にいると感じない。静かだった。葉の擦れ合う音と、ときどき聞こえる蝉の声だけ。山にはまだ蝉がいるんだ。

「うん、きれいだね」

 僕はあいづちを打つ。言いたいことはたくさんあったけど、何をどう言っていいのかわからなかった。

「やっぱりのん気だな、ノゾミは」

 兄貴は笑う。

 あれ? と思った。

 腹が立たない。

 兄貴の顔は、このあいだまでとは少し違って見えた。僕の言いたいことがたくさんあることをよくわかっていて、僕が何て言っていいのかわからないことまでちゃんとわかっていて、そのうえで言っている。だから腹が立たない。

「兄貴だって、のん気じゃないか」

「そうかな」

「うん。でもまあ、いいよね。ドライブも」

 景色が、本当にきれいだと思った。

「なんか、おまえ、いつもと違うな」

「そうかな」

「ついこの前まで、突っかかってきてたじゃないか。ちょっとからかっただけでさ」

「そうだけど」

 と言ってまた、あれ? と思った。

 もしかして、兄貴はずっとそうだったのかな。僕が理解できなかっただけで。だとしたら、変わったのは僕の方なのか?

「ま、いいや。それよりさ」

 と、兄貴はあっさりと話題を変える。少しがっかりした。もうちょっと、成長したっていう自覚を確かめたかったんだけど。

「俺、ちょっと九州、行ってくるわ」

「えっ?」

 意表をつかれた。

 兄貴は嬉しそうにトラックを眺める。

「俺たちの研究成果、残してこようと思って」

「九州って……」

 あのトラックで? 何時間かかる? 燃料はどうするつもりだ? それよりなにより、なんの為に?

 頭がクエスチョンマークだらけの僕に、兄貴は荷台の荷物を見せてくれた。

「木?」

 正確に言うと苗木だった。大きいものでも膝までの高さしかない。小さいものは、出たばかりのような芽が平らな箱の土に生えていた。全部で何十本とある。

 奥には、高さが50センチほどの円柱のガラスケースがあった。中は液体で満たされている。よく見ると、何かが浮遊している。液体は対流しているようで、浮遊物は上から下に、下から上にと踊っている。

「これが、俺たちの研究成果だ」

 兄貴は自慢気に言った。

「全部サクラの木なんだ。俺が何を研究してたか、知ってるか?」

 知るわけない。聞いたって教えてくれなかったんだから。

「俺さ、土壌を浄化する植物を作りたかったんだ」

 一本の苗木を取り出した。

「このサクラは、他の生物の遺伝子が組み込んである。これは成長が早くて、普通の八倍から十倍の早さで成長する。見ろよ、この苗木は二週間前に発芽したばかりなんだぜ」

 それは、既に芽の状態ではなかった。平箱に並んでいる芽は全体が緑だけど、その苗木はもう幹の部分が茶色く変わり、木そのものの形をしている。

 僕は息をのんだ。この木で汚染を除去できる?

 なら、僕らはいずれ戻ってこれるのか?

 僕の疑問を察したかのように、兄貴は言う。

「残念ながら、研究途中だ。成長してどれだけの汚染物質を取り除けるか、環境にどれだけ影響するか、試してみなくちゃわからないことが山ほどある」

「わからないの?」

 兄貴はうなずく。

「この木を植えたからって、何も変わらない可能性もあるっていうこと?」

「そういうことだな。実のところ、その可能性の方が大きい。ただ成長が早いサクラってだけで。なにしろ新米研究員が関わらせてもらえるような研究で、そんなすぐに大層なモノができるわけないしな」

「……それじゃ、意味ないじゃないか」

 兄貴はおおげさに顔をしかめる。

「キツイこというなあ、おまえ……」

 ジ、と鳴いて蝉が飛び立った。

「俺が何かをやったってことに、意味はないか?」

 僕はそれに言い返せない。その資格はないから。

「まあ、いいか」と兄貴は苦笑いした。

「……九州なんだ」

 僕が一番気になるのは、そこだ。

「そうだ、九州だ」

「ひとりで?」

「いや、仲間が三人。途中で拾って行く」

 あのときのメールは、この日のことだったんだと思い当たる。

 それにしたって。九州。

 僕の知らない姉さんが眠っている場所だ。そこにこのサクラを。

 姉さんは兄貴の記憶の中で生きているのか。死んだらそれで終わりじゃないのか。

 僕には、よくわからなかった。それは今までわかろうとしてこなかったからだと思う。

「親父とお袋のことは、おまえに頼むよ」

 言外に、もう会えないかもしれない、と含ませている。

 この時期に遠くへ旅をするのが危険なことくらい、僕にもわかる。見さかいのない奴等に狙われたら、命どころじゃないだろう。ビルをぶっ壊すような奴等を相手にできるとは思えない。

 それに、もし出発に間に合わなくなったらどうする? もちろん兄貴はそういうことを全部承知で決めたに違いないんだけど。

「いいの? 本当に」

 兄貴の無事な姿を見て、お父さんとお母さんはあんなに喜んでいた。兄貴がなにをしようとしているか知ったら、きっと心配するどころじゃなくなる。なにしろ向こうに行けばすぐにでも一緒に暮らせると思っているくらいだ。

 お母さんの心の中にも、まだ姉さんのことが強く残っているに違いない。だからこそ兄貴がいなくなることをあんなに恐れている。

「お袋のことは特に、頼むな」

「そんな……」

 無理難題を押し付けられた。もし姉さんのときみたいになったら……

「あのな、」と兄貴が言う。

「怖いのは、昔のような自分になるかもしれないってことじゃないのかなあ。あのときみたいになるのが怖いんだ。と、思う。でもさあ、お袋だって、そのこと、わかってるんじゃないかって思うんだよ」

 兄貴は、ちゃんと考えてた。

 かなり楽天的ではあるけど、僕が心配するより、ずっと真剣に。それを僕に話してくれた。

 嬉しかった。

 ……それなら、僕にできることはこれだけだ。

 できるだけでかい態度で言ってやった。

「わかったよ。じゃあとっとと行って、やることやってこいよ」

 兄貴はにやりと笑った。

「言うじゃねーか」

 僕の頭を小突く。

 僕は背中を力いっぱい叩いてやった。

「痛て! おまえな、ここに置いてくぞ!」

 悪態をつく兄貴を後ろに、僕はさっさと車に乗り込んだ。

「早く出しくれないかな」

「おまえな、ほんとに」

「親父とお袋には、僕から、ちゃんと、うまく言っとくからさ」

 と言って、余裕の笑顔を見せてやる。

 ほんとはそんな自信ない。だけど、見栄をはらなきゃいけないところなんだ、ここは。

 兄貴の顔は歯が痛むみたいに少し歪んだ。

「……ノゾミくんは大人だから、意地悪なことはしないよね」

「さあ? 大人の僕としては、握った弱みは有効に利用したいけどね」

 余裕の態度で言ってやった。どうだ。

 すると。

「……俺さ、川島沙雪のプライベートメールのアドレス、知ってるんだ」

「え……えっ? なんで」

 意表をつかれて、僕は完全に動揺してしまって。

 兄貴はにやりと笑った。

「俺にはすべてお見通しなのだよ。君がアドレスを知りたいなら、教えてやらないでもない。どうだ? ノゾミくん」

 はい、と答える以外に、どうしろっていうんだ。

「約束だぞ。これは人間としての尊厳をかけた、命にも優ると劣らない大切な約束だ。いいか、破ったりしたら、おまえ、人間じゃないぞ」

 わかりました、って言うよりほかに、どうしろって?


 僕らが生きている状況は、決して良くなんかない。最悪と言ってもいいほどだと思う。それでも、僕らは生きている。そして、これからも生き続けるために、行動しようとしている。

 なんのために?

 考えたって、今の僕にはわからない。死にたくないから、としか言いようがない。それが精一杯。

 兄貴がやろうとしていることだって、僕にはよく理解できていない。命を張るほどのことなのか、そんなに大きな意味があるのか。

 僕にはまだ、そういうことを理解する頭がない。

 けれど、いつかきっと、わかってみせる。そのときがきたら、兄貴と一緒に思い出話をしたい。

 いつか、きっと。

 大きく成長しているだろうサクラの森で。


 川島沙雪のアドレスなんて、海外に行ったら使い物にならないじゃないか、ってことに気がついたのは、翌日、飛行機の中だった。

 あんなにしつこく約束を迫ったのはそのせいか。

 兄貴……

 バカヤロー。

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これはこれで、それなりの未来 まりる*まりら @maliru_malira

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