第10話 マイチ文字

 ざざざという雨の音。そうだ、雨が降っていた。ひどい雨だった。だから近づいてはいけなかったんだ。止められていた……誰に?

 おばあちゃんの家の近くだ。目の前にあった川岸。夏休み?

 違う。夏休みなんて、まだなかった。

 私は前を走る彼の背中を見ていた。

 すごい雨だ。

 雨なのに傘もささずに。

 地響きが聞こえてきて。だから私は立ち止まって。

 でも彼は止まらなかった。

「危ないよ」

 私の声は小さくて、彼には全然届かなかった。

 山間の、いつもは太陽の光にまぶしくてきれいに輝いていた川。夏には裸になって、ママとパパと一緒によく泳いだ。

 地響きが近くなってきて。

 やんちゃそうな彼が振り返って、私を見て指差した。遠くからだったけど、私は彼の顔を覚えている。笑った後、きゅっと唇を結んで。雨に濡れた髪に、前髪が覆われていて。

 地響きと共に、飲み込まれた。

 あまりにも一瞬過ぎて、私は理解ができなかったんだ。

 雨があまりにも激しくて、自分が泣いていたのかさえ思い出せない。

 そこから先の記憶はあまりにも単調すぎてもはや覚えていない。思い出す必要もない。ただ、あまりにも衝撃的で、私は忘れてしまっていたんだ。

 なんで、こんな大事なことを忘れられるの?

 私は馬鹿だ。

 とても大切なことだったのに。

 彼は私の……



「お兄ちゃん」

 少年が私に抱きついていた。

「そうだ、思い出した」

「うん。僕にも分かった。ほら、だからもう」

 風景から闇が消えていた。丘の上に私と少年は立っていた。と、同時に少年の姿が薄らいでいく。少年は私から離れると、最後に笑顔を見せた。真一文字に結ばれた口元。私も笑顔を返した。返せたと思う。

 少年は空気のように掻き消えた。

「アヤカ!」

 聞き覚えのある声だ。私が振り返ると、そこにはカミカドが立っていた。走ってきたらしく、不思議な、修験僧のような服も少し乱れている。

「カミカド」

 私は言いながら彼に走りよった。

「ひとまず戻るぞ、いつやつらが戻ってくるか分からない」

「うん、そだね」

 曖昧に返事をしながら、私はカミカドの手をとった。カミカドが走り始める。それと並行するように風景が流れ移っていく。

 いくつもの鳥居を越えて、見覚えのある戸口に来ていた。

「お邪魔します」

 挨拶をしながら、私はカミカドの隣りを歩いた。そして以前泊めてもらった部屋まで来ると、そこにはレイチとカワタもいた。

「おう、無事だったか」

「わぁ、レイチ、心配で寝てない」

「うるせぇ」

 レイチがカワタの襟首を締め上げる。私は笑いながら、彼らの前に座った。カミカドもそこに座る。

「で、どうなってるんだ?」

「アジラさんに色々教えてもらって、さっき呼び子と話してきた。呼び子じゃないんだけどね」

「わぁ、本当?」

「そうだよ。ようやく探し当てたんだから」

 そう言ってカミカドを一度見る。

「カミカドはお城で魔女に教えてもらってたんでしょ」

「いや、本人から聞いた。城に行く途中で、言葉が通じたから」

「そっか。そういえばそんなこと言ってたね」

「じゃあなんだ、一件落着ということか」

「ひとまずは」

「まだだよ」

 肩を竦めたカミカドを制するように私は言った。

「魔女が真実にたどり着いてから来い、みたいなこと言ってたから。私、明日会いに行くよ」

「ああ、あれがなんなのか、てことな。意味あるのか?」

「わぁ、分からない」

「大事だと思う。彼だけじゃなくて、他の子たちにとっても」

 それから私は彼らに、彼が何だったのか、彼らが何なのかを説明した。アジラさんからの受け売りが多かったが、それでも少し驚いたように見えた。

「たしかに、火事場や地震場他にも色々なところで俺たちが救済して入るが、追いつかない」

 レイチが顎に手を持っていく。

「その間に合わなかった子たちが、あの影なのか」

「そうとも言える」

 カミカドも考えながら言う。

「確かに、あれが何なのか、正確には分からない。救われなかった魂がここにやってくることは確かだ。だが違う。魂は影にならない。町の住民になるはずだ」

「あとは明日私が魔女と話してくるから」

「俺も行く」

「いい」

 すぐに手を挙げたレイチに断る。

「いいよ、私一人で。もう大丈夫だから。それに、みんなは子供たちのために働いてね」

 私の言葉にみな肩を竦めた。カミカドも何か言いかけようとしたが止めたようだ。

「無理はしないように。いざとなったら駆けつける」

「わぁも行く」

「ありがと」

 それからしばらくは関係のないような話をしてから、彼らは部屋を出て行った。私はその後水浴をしてから、布団に入った。

 やけに心地がよかった。

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