第9話 少年のカオ

 そっとのっとそっと立ち

 ゆったゆったとのっそりと

 くぐりを抜けて広がって

 速しはやし抜け抜けて

 さ川さかわをすと渡り

 やっとさおら町やってきた

 たいよ西からいなくなり

 お月さ空にぼんやりと

 よい子はおうちへ帰りましょ

 帰りましょうよ帰りましょ

 さまばさまばとゆったりと

 町さにそれば広がって

 お外の童ばひっつかみ

 それささらに広がって

 町さすべて覆い尽く

 良い子はおうちへ帰りましょ

 帰りましょうよ帰りましょ

 喰われるぞったら喰われるぞ

 そとのそっと立ち上がり

 夜さお家で静かにしましょ

 童ば喰われておっちぬぞ



 空を飛んでいる。



 目が覚めた。体のふしぶしが傷む。私は頭を抑えながら、体を持ち上げた。じゃりじゃりとした小石の上にシートが敷かれている。

「おはようさん」

 聞き覚えのある声に、私はそちらを向いた。カエルだ。器用に足を組み座っている。その手には釣竿が握られている。

「あれ、ここは?」

「昨日からずっと大物が多い。大漁じゃ」

 私は釣竿の先を見た。シンプルな釣竿だ。きれいな清水に釣り糸が垂れ下がっている。

「それだけ乱れとるということだな」

「アジラ、さん」

 私はおそるおそる彼に手を差し出した。横目でそれをみると、彼は緑の短い手を伸ばして私の甲を打った。

「ふぉっふぉっふぉ。あいさつくらい覚えたようじゃ。関心関心」

「ここは?」

「わしのお気に入りの釣り場じゃ。けれどこれは遊びじゃないんじゃよ」

 私は辺りを見渡す。

「ちょいと戻るのは骨だよ。だいぶ離れとるからな。なあに、ここならあいつらもやっては来ぬ。安心せい」

「あの、私、ゆっくりしていられないの」

「ふぉっふぉっふぉ。だからといって、すぐに行くこともできぬ。どこへ行けばいい? 分からぬだろう」

「それでも」

「まあ焦るでない。ここに座りなさい」

 アジラさんの言うとおり、私はどうすればいいのか分からず、彼が示した隣りに腰を下ろした。目の前は川面だ。右手からの太陽の光が反射していて眩しい。

「もうじきかかる。よく見ておれ」

 私はしばらく釣り糸の先を見ていたが、一向に何かがかかる様子もない。水は澄んでいて川の底が見えるほどだが、魚が泳いでいる様子は見られない。

「何が釣れるんですか?」

「あと、少しじゃ。今日は大漁じゃからな、すぐにかかる」

 しかたなくまた釣り糸の先を見る。

 さらさらと流れる清水に誘われて、断片的な意識が通り過ぎていく。カミカドと会って、坂を転げ落ちて、少年に声をかけられて、彼を探さないといけなくて、城にやってきて、町の広場で子供たちとわらべ歌を歌って……

 ふいに糸が揺れたように見えた。

「よく見ておれよ」

 糸の先に目を凝らす。確かに何かが引っかかっている。それも大きい。

「やだ」

 目を覆おうとした私を制するように、サジラさんが大きな声を出す。

「目を離すな」

 それは人間だ。見間違うはずがない。小さな男の子だ。泣きじゃくっている。

「かわいそうだよ!」

「今まさに溺れとるんじゃ」

 彼は一気に釣竿を振り上げた。ざっぱーんという音と共に、水面から飛び出す。

 と同時に少年は消えていた。

 私は自分の目を疑った。糸の先には何もついていない。逃がしたのか、とアジラさんを見るが、満足そうに微笑んでいる。

「これで今の子は救われたんじゃ」

「今のは?」

「お前さんがこちらに来た日から多いんじゃ。あの日は大雨が突然襲った。夕立に逃げ遅れた子供が多くてな」

「アジラさんが釣ってるのって」

「溺れた子供たちじゃ。今はわししかおらぬ」

 再び座りなおすと、彼は釣竿を川に投げ入れた。

「親よりも先に逝ってしまうと、子供の魂は救われない。救われない魂は、天に昇ることができない。ずっとさまようことになる」

 私はびくっとからだが震えた。

「彼らは寂しいんじゃ。一緒に遊べる子供を捜している。そうして日々増えておるんじゃ」

「じゃあ、彼も?」

「それは分からぬ。カミカドから話を聞いたが、あるいはそうなのかも知れぬが、彼が何なのか分からぬ。だが、今は彼らと同じじゃ。仮面を被ってしまった」

 私は仮面を思い出す。丸く白い仮面。あるのは四つの穴。

「仮面は個を壊す。他者と自己の区別をなくしてしまう物じゃ」



「トモダチニナロ?」

「私トアソボ?」

「コワイヨー」

「ママァ」

「パパァ」

「ドコニイッチャッタノ?」

「私ハココニイルヨ?」

「ボクヲオイテイカナイデ?」

 私は黒い塊に飲み込まれてしまったときに聞いた子供たちの声を思い出す。



「ふぉっふぉっふぉ」

 その思考をアジラさんの笑いが吹き飛ばした。

「何もお前さんが気を揉むことではない」

「でも」

「カワタやレイチ、カミカドがおる。もちろん他にもたくさんのものが子供たちを救うために働いておる。わししかおらんのは、この川で釣りをするもののことよ。効率が悪いからな。ふぉっふぉっふぉ」

「でも」

「左に高台があるのが見えるか?」

 私は彼の言葉に合わせて左を向いた。

「川沿いにずっと歩いていくと、小さな橋がある。それを渡った先に続く小道を進むとそこにたどり着く」

「見えました」

「星見台とも呼ばれていてな、夜にはきれいなところだ。今から行けばちょうどよい時間じゃろう。行くといい」

「でも」

「彼らはここまでは来ない。大丈夫じゃ。それにわしも後で行く」

 もう一度その高台を見た。かなりの距離がありそうだ。

「そこから見える景色はさぞや爽快じゃ。さあ」

 私はアジラさんに促されるようにして立ち上がった。それからぺこりと一度頭を下げると川に沿って歩き始めた。

 時々振り返ると、その時々アジラさんは何かを釣ったかのように釣竿を動かしていた。私は前を向き川に沿って進む。川岸に広がる小石の地面が、昔は川の底だっただろうことを思わせる。あの、赤い橋があったところから比べると川幅はうんとせまい。私でもがんばれば向こう岸まで泳いで行けそうな距離だ。あまり得意ではないが。そう考えてふと、子供の頃実際にそうして川を渡ったことを思い出した。あれはいつのことだったか、少なくとも私の家の近くにそんなことができる安全な川はない。

 背後からの光はだいぶ低くなってきている。前方を見ると高台まではまだ距離が残っている。小さな橋はすぐそこに見えている。おそらく暗くなる前にはなんとかたどり着くことができるだろう。

 そういえば、私がここに来てどれほどの時間がたったのだろう。親は心配しているだろうか? しているだろう。今まで黙って外泊したことなんてない。警察沙汰になっているかもしれない。考えると恐ろしい。

 私は小さな橋を越えた。その橋は本当に小さく、一人しか渡ることができない。川幅はそれほど広くないので、すぐに対岸にたどり着くことができるが、きっとつり橋をイメージして作られたのだろう。絶壁にでもあったらきっと私は渡ることができないと思う。

 先に続く道は細い。獣道のようなものだ。左右を木に囲まれている。低くなった太陽からの光はあまり届かない。薄暗くなったそこからはいつ何かが飛び出してきてもおかしくない。そんなことを考えると私は急に恐ろしくなった。自分を抱きしめるように腕を締め、少し小走りに道を進む。

 道が開けると高台があった。矢倉作りの、何十年も前に立てられたような高台だ。上へ登るにはどうやらはしごを使うしかないらしい。私は首を持ち上げ、上を見た。高さは十メートルくらいだろう。私ははしごに手をかけて登りだした。木のきしむ音が、鴬張りの廊下を思い出させる。

 一番上のはしごから体を乗り出したとき、一陣の風が私を通り抜けた。私は驚き一瞬目を閉じる。心地いい。私は片手で髪の毛を抑えると、最後の段を上りきった。

「待っていたよ」

 突然の声に私は目を疑った。アジラさんだ。

「あれ?」

「ふぉっふぉっふぉ」

 烏帽子を取り、彼は顎の髭を擦っていた。

「こう見えても、結構脚力に自信があるんじゃ」

 何かを言おうとするが、私は言葉が浮かばなかった。彼は後ろを向き、そこからまっすぐ前を見た。私は彼の隣りに立ち、同じ方角を見つめる。

 太陽の逆光に黒く光る高い影。あれは城だ。町全体も黒く光っている。町の右隣を大きな川が流れている。さらに右には林がある。林は傾斜し、やがて山肌が見えている。

 時々吹き付ける風に私は髪を抑えた。

「自分の世界を見るのはどんな気分?」

「不思議。気持ちいい」

「なかなかある機会じゃない」

 言いながら彼は声を出して笑った。

「目を逸らしてはいけない」

「ドーン!」

 彼が言ったとたん地響きが起こった。驚いて私は、一歩退いた。

「ドンドン」

 聞き覚えのある音だ。

「ドンドンドン!」

 地の底から響いてくるような太鼓の音。

 私は右手側にある、傾斜した山肌を睨んだ。その一角から黒い影が広がり始めている。あっという間に、黒い影たちは林に飲み込まれ、さらに増えていく。

「あの中に、少年もいるはずね」

 私は影を睨んだ。しかし距離がありすぎる。個体を判別することなど到底できない。それどころか、影全体が胎動しているようで、一つの生物のようにさえ見えるほどだ。

 川を越え、町に達する。

 まるで一つの闇が覆い尽くしてしまったかのようだ。

「夜の始まりだ。一言で、印象は?」

「気持ち悪い」

「ふぉっふぉっふぉ」

「なんだか、うん……学校みたい……私たちの社会みたいで」

 期待していた世界はなかった。

「ふぉっふぉっふぉ。そうかも知れぬ」

 個人が存在しない。集団の中でもがいているような、白い仮面。上下左右に動き回る仮面。あれは私たちにそっくりだ。

 その風景はあまりにも不気味で、私はいつの間にか涙を流していた。

「それは一つの答え。だが、それでも社会に反抗するものもいるもんじゃ。ふぉっふぉっふぉ。大人が嫌いな人種だ」

 私は必死に世界を見渡した。

 黒い闇に覆われた町。

 然と立つ白い城。太陽が沈んでから一層白く見える。

 川。

 林。

「いた」

 私の視線は丘に達した。小さな黒い点だ。ただ一人反対側へと進み、佇んでいる。

「飛ばすぞ」

「はい」

 くいっと私は上方へ引っ張られた。

「それ!」

 というアジラさんの掛け声とともに、風景が後方へと移動する。

 空を飛んでいるのだ。だが不思議と怖くない。圧力に胃が圧迫を感じているが、気持ち悪さもない。ジェットコースターを怖がっていた自分が遠くに見える。

 目を開けていても、目に風圧を感じない。景色がきれいに後方へと流れ、私の体は一直線に丘の上へと向かっている。

 さすがに地面が近づいて来た時はどうしようかと思ったが、再び襟首に力を感じ、私の体は垂直に立った。そしてそのままふわっと着地をする。

 鉄棒のまっすぐ上。ちょうど私がカミカドにはじめて会った場所だ。

「待って!」

 私はすぐ目の前をゆっくり移動している影に声をかけた。相手は後ろを向いているというのに、仮面が透けて見えている。中空に浮かび、四つの穴が微かに動く。首を捻っているみたいだ。

「待って」

 私はもう一度呼びかけた。今度は確実に相手の耳に届いたようだ。仮面の位置がゆっくりと移動している。

 仮面が正面を向いた。

「私、分かる?」

 私の問いかけに穴の位置が三十度右に傾いた。

「大丈夫、怖がらないで、大丈夫だから」

 私は両手を差し伸べた。仮面が再び正面を向く。と、同時に仮面がまっすぐこちらに迫ってきた。驚いて私は両手で顔を守る。

 ぶつかる直前に仮面は動きを止め、代わりに影が私を包むかのように覆った。一瞬にして世界が暗闇に包まれる。夜の闇よりも遥かに暗い。電気の通わない片田舎で、新月の日に外に出たかのような暗さだ。足も地に付いている感覚がなくなり、不安定な世界に落とされてしまったかのようだ。

「イッショニアソボ」

 仮面が回転しながら言った。

「何して遊ぶの?」

 私は腕を下ろすと仮面をまっすぐ見た。仮面はその場でくるくると回転を始める。

「何するの」

「イッショニナルノ」

 回転していた仮面がいつの間にか二つに分かれている。その片方がゆっくりと私に近づいて来る。

「一緒になんなくても遊べるよ」

「アソベナイヨ」

「遊べるよ」

 仮面は止まらない。

「名前は?」

 その言葉に二つの仮面が同時に動きを止めた。まるで世界が止まってしまったかのように。自分の鼓動の音だけがうるさい。

「ボクノ、ナマエ?」

「な・ま・え」

 私はもう一度ゆっくりと発音した。

「ボクハ、ボクダヨ」

「ボクハ……」

「ボクハ、ボクダ」

「ボクハ、ダレ?」

 突然壊れてしまったオルゴールのように、不可解な音律で仮面が連続して言葉を発する。

「ダレナノ?」

「私は綾香。神坂綾香」

「カミサカ、カミサカ」

「カミサマ?」

「カミカド?」

「か・み・さ・か・あ・や・か」

「アヤカ、シッテル」

「ボクハ、アヤカヲシッテル」

「ナンデ?」

「私は、あなたに呼ばれてきたの」

 胸に手を当てて言う。奥の仮面が時折首を捻るように回転している。

「ボクガヨンダノ?」

「そう。探して、見つけて、て頼まれて」

「ボクヲミツケテ?」

「そうだよ」

「ジャア、ボクヲミツケテクレタノ?」

「あなただけ一人でいたから」

「ジャア、ボクハダレナノ?」

「だからお話をしに来たの」

「ボクハボク」

「そうだよ。あなたは彼らとは違う」

「イマハ」

「大丈夫、私を信じて」

 私は一歩踏み出しで、一つ目の仮面を避けると、もう一つの仮面の目の前に移動した。そしてそっと手を伸ばす。

「大丈夫」

 私の手が仮面に触れると、仮面はまるで灰になってしまったかのようにその場から落ちた。その下には、あの少年の顔があった。

「あ、れ?」

「ね、大丈夫」

 その顔がしゃくりあげる。私が見ていると、首から下が次第に輪郭を帯びてきて、少年は暗い闇の中にすっくと立った。

「怖かったよぅ」

 少年は目に涙を溜めていた。私は彼を抱きしめた。

「もう大丈夫よ」

 しばらく少年は私の小さな胸の中で泣いていた。

 少年の動きが小さくなり、泣き止んだことを確認すると、私は彼の両肩を持って顔を正面に持っていった。

 長めのストレートのヘアが少年の目の前で揺れている。

「どうして私を呼んだの?」

「忘れちゃった」

 小さな声で少年が答える。

「忘れちゃったから」

 言い終えて少年の口が真一文字に結ばれたとき、私は何故かまた懐かしいと感じた。

「いきなりだったから、私どうしていいか分かんなくて」

「ごめんね。でも、ありがとう」

「ううん、いいよ」

「あの雨が僕を手伝ってくれたんだ。どれだけ願ってもなかなかアヤカの世界に入ることができなかったのに、あの雨のおかげで」

 学校帰りの夕立を思い出す。もうずっと昔のことのようだ。

「僕は呼び子にはなりたくなかったから。呼び子は仲間を作るために子供を連れてくる」

「呼び子……」

「アヤカをあそこに連れて行けば、カミカドが助けてくれると思ったから」

 確かにそうなった。

「そうなれば、自由にアヤカはこの世界を歩き回れる。僕を、見つけてくれると思った」

「ごめん」

「ううん、僕だって十年かかったんだから」

 そう言って、少年の口が再び真一文字に結ばれた。

 懐か、しい?


 記憶が逆流する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る