第5話 繋がるテカセ
びくんと体が跳ねて、私は布団から起きた。ドッドッドッと自分の激しい鼓動が聞こえる。体からは汗が滲み出し、合わせて呼吸も細かく、早い。額に持っていった手が熱を感じる。じっとりと汗も出ている。それに、涙も出ている。
何に涙が出たのか分からない。
揺らめく視界から見えている風景は、残念ながら自分の部屋ではなかった。当たり前のことだし、分かっていたことだ。頭を振り、呼吸を整える。心臓を落ち着かせ、私は落ちていく感覚を思い出す。
空が見えていた。
次第に意識が遠のいていき、けれど落ちた感覚はなかった。そこで誰かを見た気がしたのは錯覚だったかもしれない。思い出せない。
私は布団から這い出ると立ち上がった。服は薄いブルーのワンピースのままだ。室内だと青さは感じられず、汚れもなくただ真っ白のワンピース。一度伸びをしてから、左右を見渡す。
「起きたか?」
突然障子の向こう側から声がする。カミカドのものだ。私は驚いたものの、はい、と少し遅れて言葉を返す。私の返事を確認してから、彼は障子を開けて部屋に入ってきた。
「立って大丈夫か、まだ横になっていたほうがいいんじゃないか?」
「大丈夫です、私……」
「あやかは倒れていたんだ。ここの入り口の鳥居のところで。覚えている?」
私は首を振った。
「そうだろう。時間になっても戻ってこないから、一度ひと通り町を見て回ったんだが、いなかった。あやかの気配を探ってみたら、もう鳥居にいた。驚いた。結構距離があったはずだ」
「私、どうして?」
「どこにいたんだ?」
「お城の途中の……」
「なるほど。そこから鳥居までだと、普通じゃ間に合わないな」
「そこで、急に階段の段がなくなって……私、落ちたの。もう訳が分からなくて、どんどん遠くなっていって。それで、意識がなくなって……今、急に目が覚めて」
「よし、分かった。何も心配するな。何かがあやかを守ってくれているんだ」
「何かって?」
「それは分からない」
「心配」
「お腹、空いたか?」
私の言葉を遮るように、カミカドは表情を和らげて微笑んだ。
「もう昨日のことなの?」
「そう。だからあやかは丸一日何も食べていない。今からみなで朝食なんだ。こちらへおいで」
「でも」
「さあ」
カミカドは私に手を差し出した。私は、確かにお腹が空いているけれど、カミカドの言う、みな、というのがどうも気になる。それに、今日はまだ水浴みをしていない。
「手を差し出されたら、差し返す。それが礼儀」
顔は笑っていたが、カミカドの目は私をしっかりと見ている。私が遅れて手を差し出すと、彼は私の手をしっかりと握った。
「よし、行こう」
彼は障子を開けて、私の手を引いたまま廊下を進む。きゅっきゅっきゅっという足音が心地よくて、でも、それに比べると私の足音はまだトタトタとしている。玄関の前を通り過ぎ、先に続いている廊下を左に曲がって、カミカドはその右手にあった一つ目の障子を開けた。
「準備はできてる?」
「はい、カミカドさま。どうぞこちらへ」
「ありがとう。さあ、あやか」
カミカドの陰に隠れていた私だったが、さっと彼が動いたため私はその光景を眺めることができた。さっぱりとしたダイニングルームだ。中央に置かれたテーブルにサラダやトーストが置かれている。和風な雰囲気を勝手に描いていたこともあり、少し面食らう。椅子はテーブルを囲むようにして六つある。今そこに座っているのは二人。
いや、二人と表現するのは間違っているだろう。それは人間ではない。たいそうな衣をまとった猿と亀だ……亀というよりも河童か。二人はちょうど私が入ったところから向かいに隣り合って座っていて、にこにこと笑っている。そしてその後ろには、まだ三十代くらいだろう人間の女性だ……たぶん。カミカドと同じで、見た目は私と同じだと思う。
「ほら、あいさつ」
耳元でカミカドが囁く。私の心臓はやはり激しく打っているけれど、昨日初めてカエルに会った時に比べてみると落ち着いている。おかしなものだ。
「あの、おはようございます。あやかです。すいません、突然」
「どうぞどうぞ、座ってくれよ」
猿が応える。その言葉に従うように、私は河童の正面に座り、隣にカミカドも席につく。
「俺はレイチ。んでもって、こいつがカワタ。にしたって、カミカドも変わったもん拾ってくるよな。今度はどこだったんだい?」
「わぁ、カワタ。こいつ口悪い」
「せぇ。かわいい嬢ちゃんだって言ってるんじゃないか」
「オメガさん。トーストはできてるか?」
「はい。ただ今焼けるところです」
「で、どこで拾ったんだ?」
「二日前のことだ。もう覚えていない」
「あの、私……」
「野菜、食え。さぁ」
「ありがとうございます」
座っていた席の前にはフォークとナイフが置かれている。今までも朝はパンだったが、そんなときでもフォークやナイフなんて使ったことがなかった。サラダや目玉焼きがあるときでもいつも箸だった。私は慣れない手つきで、皿に盛られているキャベツを口に運んだ。
「おいしい」
自然と口からこぼれる。
「そりゃそーさ。新鮮そのもの、今朝取ったもんだからな」
「取ったの、わぁ」
「俺も手伝ったっての」
「裏の畑で野菜を作ってるんだ」
「本当、おいしい。ドレッシング?」
「そのドレッシングに味はないよ。栄養を補ってるだけ」
へぇ、と私が驚きの声を上げると、ちょうど奥からチーンという音が聞こえた。パンが焼けたようだ。それをオメガと呼ばれた女性が皿に乗せるとテーブルへ運んだ。
「オメガさんは食べないんですか?」
「わたくしは後で食べますから」
それからしばらくは皆朝ごはんに集中する。本当においしくて、私も会話以上に夢中になっている。確かにずっと何も食べていなくてお腹も空いていたけれど、それ以上に口内に広がる味が新鮮に思えた。そこはかとなく、祖母の家の味を思い出す。
食事も一段落し、テーブルにコーヒーが運ばれてくる。そのカップに手を伸ばしながらレイチが切り出す。
「で、何を手伝えばいい?」
足を組んで椅子に深く座っているレイチに対し、礼儀よくちょこんと座っているカワタの姿がおかしい。
「呼び子を探して欲しいんだ」
「断る」
「この子の呼び子だ」
「聞けよ」
「だが、呼び子ではないかもしれない」
「どこにいる?」
「分からない」
「最悪、川向うで夜ってこったろ? 俺ぁやだね、あいつらと対峙する何さ」
「夜は避ける」
「だが手がかりがないんだろ」
「あいつらの中にいるとは思わない」
ふん、とレイチが鼻を鳴らす。私が隣で静かにカミカドとレイチの話を聞いていると、前からカワタが手を差し出した。一瞬心臓がドクンと打ったが、私は同様に手を伸ばすと、その甲を軽く打った。その様子にカワタはくくっと笑う。
「わぁ、やるよ。手伝う。いい子だ」
「ありがとう。レイチは?」
「そりゃあ、ま、手伝いはするさ。でも、どうしろってんだい」
「もうあまり時間が残されていないからね。一緒に町まで行って欲しい」
「カミカドの、あやかの?」
「あやかのだ」
「お前は?」
「いつでも行ける。それまでに準備をしておく」
「あやかの町はどんな町なんだ?」
「あやかに聞いてくれ」
突然カミカドに話を振られ、私は彼を見返す。
「あやかの町はどんな町だった? 僕もざっと見たが、説明が難しい」
「どんなって」
「昨日見た町の様子を話してくれればいい。それから、そこに住んでいた人たち」
でも、と私が口ごもっているとカミカドが口角を上げて優しい表情を見せる。
「言っただろう? 僕とあやかとでは違うんだ」
「ああ、そんなことも分からないのか」
「まだ二日だ」
「あそこの川、そこが境界」
「俺とカワタ、カミカドだって別々ってことだ」
よく理解できなかったが、とにかく私は昨日の町の様子を彼らに話した。レンガ造りの町並み。広場。金髪の少年少女と和風の遊戯。そして透明な門と城への石畳。そこにそびえる西欧風なお城。最後に、突然の落下。
「かーっ。乙女チックパワー炸裂って感じだな」
「オトメチック?」
「わぁ、可愛い」
「んー、オッケィ。なんか見えてきたよ、カミカド」
「だから協力をお願いしたんだ」
その後玄関へと案内され、そこで待たされる。できれば水浴みをして、服を変えたかったが言い出せなかった。しばらく待っていると、レイチとカワタが先ほどと同じ格好のまま、玄関へとやってくる。
「さあ、行こうか」
「カミカドは?」
「お留守番。後で来るって」
私は少し残念に感じる。レイチとカワタが玄関を出て行くので、私も二人に付き従うように、外へ出る。高い場所から照らす太陽の光が眩しい。二人の、やや早い足取りに送れないように歩き、幾つもの鳥居を進んでいく。やがて草地に出て、そこを斜めに走る道を三人で並んで歩く。
「で、で、で、いつよ?」
右にレイチ、左にカワタ。私が真ん中で慌てるように足を動かしていると、レイチが聞いてきた。何のことだろう、と思い右を向いてレイチを見る。確かに猿だ。何度見ても猿なのだが、以前ほどあまり気にならない。そのレイチが目を細めて、私を見ている。
「何が、ですか?」
「何がって、おめー、何が」
「わぁ、そんなこと、聞いては、ダメ」
「いいだろー、気になるじゃないか」
「何が?」
「最初は、まぁ、違和感だろうが、二度目は違うめぇ」
「何が?」
「カミカドったって、あやかの居場所へ後で行くことはできないんだ」
「何が?」
「一緒に橋を渡らないと、カミカドでもあやかの町を見ることができないんだ、普通」
「もう、分かんないよ!」
何を言いたいのか理解できず、私はレイチを睨み上げた。
「わぁ、ちゅぅ」
カワタの表現に合わせるように、レイチが口をすぼめる。
「ぱっとね」
そして目をさらに細めて、私を見る。
「カミカドは接吻することで、その人の町へ行けるからな」
「は?」
「気になるところだ」
「ちょっと待って」
「あらかじめ考えてたってことだな、ありゃ」
私は立ち止まり、左右を見る。レイチとカワタは構わずに先に歩く。
「あやかが、時間になっても戻ってこないだろーこと。ん、どした?」
「何よ、それ!」
「だから、いつよ?」
接吻って……
「知らない! 知らない!」
「てことは、おめー、寝てる間にか?」
レイチは手を首の後に回して、ガハハと笑い声を上げた。私はすぐ二人の間に戻ると、カワタの服を引っ張った。
「もう一度、説明して」
「わぁ、町、違う」
「普通、橋の向こうは別の町になってるってことはいいな?」
私は、納得はできていないが、理解はできていると思い頷く。
「俺には俺の、カワタにはカワタの町がある。あやかの町はさっき聞いた。ついでにカミカドの町は、まぁ、俺達が寝泊まりしてる佇まいのようなもんがいっぱいあるらしいな」
もう一度頷く。
「別の町へ行くには、まず一緒に行かなければならない。もちろん、他にも条件はあるんだがな。とにかくだ、別のタイミングで他人の町へ行くことは、通常不可能なんだ、分かるか?」
私は首を振った。
「橋を渡ると、自分の町へ入ってしまうからだ。だが、カミカドだけは、特別だ。他の人の町へ入ることができる」
「なんでカミカドだけなの?」
「カミカドだからだろ?」
当たり前だろという表情でレイチが答える。
「ただし、それにも条件がある。それが」
「ちゅぅ」
「……」
私は頬が熱を帯びているのを感じる。キスをした? 私が、カミカドと? いつの間に? 知らない。したことがない。今まで。一度だって。
「どーゆーことよ」
「ん?」
「どーゆーこと? 知らない!」
「何を怒ってる?」
「知らない! 嘘でしょ?」
ガハハとレイチがまた大きな声で笑う。
「なら、後で確かめてみなよ」
気が付くと、橋は目の前に迫っている。牛若丸と弁慶がそこに向かい合って立っていそうな、和風の作りだ。おそらくカミカドの町へ続いているのだろう。おぼろげながらだけど、私はそう理解した。
「わぁ、これ」
左を見ると、カワタが手に手錠のようなものをつけていた。片方が開いていて、それを私の手へと促す。
「何?」
「これを付けておけば、同じ町へ入れるってことだ。失礼」
レイチが手際よく、自分の左手を私の右手と繋げる。それに習うようにして、私もカワタとつながる。先ほどの話がまだ途中で、全然消化不良だったけど、とりあえず棚上げ。後でカミカドに聞けばいい、と自分に言い聞かせる。
「うっし。これであやかの町へ入れる。乙女チック爆発のな」
そして今度は、うっしっしっと噛み殺したような笑い声をレイチは上げた。
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