第3話 回るカエル
寝付きは悪かったが、結局どれくらい眠っていたのか分からなかった。ぼーっと目を開けると、全身に布団の感覚があって暗い。私はそっと、背を伸ばすようにして布団から顔を出した。
明るい光は太陽のものだ。寝転んだまま伸びをして、それから上半身を起こす。ちょっとだけ、もしかしたら今までのことが夢で、自分の部屋に戻っているんじゃないか、と期待したが、眠ったところと同じ畳の部屋だった。
体にまとわりつくセーラー服が気持ち悪い。薄手の夏仕様だったが、それでも汗に強いわけじゃない。服を着たまま寝たのは失敗だった。
左右に首を回す。障子が二面にあり、襖と壁。鴨居の上にある欄干は、熊だろうか、装飾はとても細かい。それから視線を落とすと、枕元に手紙が置いてある。
私は手を伸ばして手紙を取った。折りたたまれていたが、開いてみるときれいな字が並んでいる。書き出しは、よく眠れたか、だ。
「朝起こしにきたのだけど、まあ、よく寝ているようだから、無理に起こすのは止めることにした。疲れていたのだろう、と周りには説明をしておく。昨日使わなかった障子から外に出て、廊下を左にまっすぐ進むと扉がある。左が
最後にカミカドと書かれていた。手紙の時も口調が同じで、私はなぜだかおかしく感じた。それから立ち上がり、手紙の指示通り入ってきた時とは反対にある障子を開けた。廊下は左右に伸びていて、正面には別の部屋への障子がある。私は廊下を進みトイレを済ませると、離れに移動した。
外を歩いているとき、太陽はすでにだいぶ高いところにあることに気がついた。もしかしたら、もうお昼ごろかもしれない。周りに時計がなかったので、今の時間は分からない。離れまでは石畳が続いていて、すぐに辿り着いた。ちょっとした小屋だ。入り口の扉に手をかけると、抵抗なくその扉は横にスライドした。中は明るく、太陽の光が直接入ってきている。上を見ると、天井がなかった。首を回して見ると、足元に木製の籠があって、中に服と……布が入っている。服は聞こえよく言えばワンピース、だがどう見てもただの貫頭衣だ。腰の辺りできつく出来るように、簡単な紐が入っているだけのようだ。
私はそれを脇に置くと、代わりにセーラー服をたたんで籠に入れた。それから下着と靴下も脱いで裸になる。奥に進むと、見覚えのある蛇口があって安心する。井戸があったらどうしようかと思ったが、そんなことはなかった。脇に置かれていた桶を使って、私は水浴みをする。髪の毛もしっかり水で洗い、気持ちがよかった。シャンプーやリンスがないのは残念だけど、贅沢は言っていられない。とにかく何度も水を溜めて浴びていると、昨日の汚れが少し落ちた気がした。
夏も近く、太陽が昇ると暖かい。それでも、上から吹き下ろされる風に当たると、少しだけ身震いをした。私は布を取ると、タオルの代わりに体を拭いた。それからワンピースを着る。膝丈を越える長さがあり、太陽の光に当たると、わずかに青く光って見える。下着は、悩んだけれども着けるのを止めた。
「これからどうしよう」
クリアになった頭に浮かんだのは、今という現実だ。どうしよう、どうしたらいいのか、どうすればいいのか、何も分からない。私は頭を振って、セーラー服を手に持った。小屋の扉を開けて、私は本堂まで石畳を進む。自分が昨日眠った部屋に戻ると、すでに布団が片付けられていた。もう一度、私はセーラー服をたたみ直してそこに置いた。下着はその下に。それから私は、表へ回るために、もう一つの障子を開けて外に出た。
渡り廊下は左右に続いていて、正面には庭がある。叔父の家にあった日本庭園を思い出させる作りだ。小石で作られた白い池から大きな岩が突き出ている。
私は左右を見渡してから、左へと廊下を歩き出した。確か、昨日こちらから来たはずだ。
「カミカドー?」
裸足で歩くと、きゅっきゅっという音が耳に心地よく聞こえ、他にもたくさんの鳥の鳴き声が聞こえている。
「カミカドー、どこにいるの?」
廊下は突き当りで左に折れ、その先は玄関もあるちょっと広めの空間だ。そこで立ち止まると、私は再び辺りを見渡す。板張りの廊下と、正面の部屋に続く障子。欄干には複雑な動物が描かれており、下駄箱の上には金魚鉢が置かれている。
「カミカドー?」
三度目は少し大きな声を出した。表というのがどこかよく分からなかったが、おそらくここのことだろう。私は両肘を抱えるようにしてそこに立っていた。すると、反対の廊下から走るような足音が聞こえてきた。
「あやか!」
ぬっ顔を出したのはカミカドだった。
「ようやく起きたか。あまりにも遅いから、二度寝をしてしまった」
彼は昨日とは違い、深い緑と淡い緑に白のストライプのシャツを着ている。印象を言えば、寝具というよりもパジャマだ。この格好の彼を見ると、私はあまりカミカドと年齢が違わないのではないかと思った。
「おはようございます」
私は頭を下げた。
次の瞬間、玄関が開けられた。ガラガラという音がしたので、私がそちらを向き直ると、一瞬視界が定まらなかった。
「いっ?」
私は悲鳴ともつかない声を上げるとともに、一歩大きく飛びのいた。全身にぞわぞわと寒気が走る。
「めずらしいの、客さんがおろうとは」
それは、ふぉっふぉっふぉっと笑った。それは、はっきり言って人間ではなかった。いや、はっきり言えばカエルだ。私の腰をわずかに越えるくらいの背丈。口には立派な口ひげがあり、烏帽子をかぶっている。そして片手に釣り竿が握られている。
「アジラさん、どうしたのですか、今日は」
「ふぉっふぉっふぉっ。昨日は大荒れだったが、今日はの、天気が良いから釣りでもどうかと思ったんだが、忙しいか?」
「今日は町までこの子と出かけてまりいます」
私はカミカドに背中を押される。ぬっと、そのアジラと呼ばれたカエルも私に近づき、空いていた手を差し出した。ぬめり気のありそうなその手を見ると、私は足先から全身に鳥肌が走った。
「何だい、この子は。挨拶くらいできんのかね」
カミカドは体を屈めると、カエルと同じ手を差し出して、その甲を自分の甲とぶつけてみせた。
「さあ、やって」
私の耳元でカミカドが囁く。私は首を振る。カエルは苦手だった。昔からだ。梅雨の季節に無数に潰れたカエルが気持ち悪くて、学校を休んだことがあるほどだ。
「どした?」
カエルは不思議そうに顔を傾けると、私の顔を見上げる。私はもう一度首を振る。
「まだ慣れていないんだ。すまない、アジラさん」
ふぉっふぉっふぉっと独特な笑いを繰り返すと、カエルは手を引っ込めた。
「まぁ、珍しい客人だからよかろうて。さりとて、町へ行くなら挨拶くらい覚えんとな」
引っ込めた手であごひげをさすり、カエルは首を左右に倒した。コキコキっという骨の音が微かに聞こえる。
「ところで、今日は何を釣るつもりですか?」
「さて、何にしようかの。撒き餌は何が豊富だい?」
「先の川に行かれるのでしょう。ならこちらを持って行って下さい」
カミカドは持っていたのか、カエルに何か袋のようなものを差し出した。その中を見て、カエルの口が横に大きく開く。
「ほほう、これは結構なものじゃぁないか」
「昨日は突然の夕立がひどかったので、さぞかし多いでしょう。休まず釣って下さい」
「ふぉっふぉっふぉっ。ありがとうよ、カミカドや。娘さんも、また会いましょうや」
カエルは機嫌よさそうに手を振ると、くるりと向きを変えて玄関から姿を消した。私はというと、未だに鳥肌が立ったまま、首がふるふると震えている。
「互いの手の甲をぶつけるのは友好の合図だ。覚えておけ」
カミカドは握手をする要領で自分の手を差し出した。やれ、という意味だろう。私は自分の手を差し出して、コツンと甲をぶつける。
「そう。ただそうすればいいだけだ。難しくないだろう?」
「ごめんなさい」
「僕に謝っても困る。次会ったら、自分から手を差し出すんだぞ」
怒っている様子もなく、カミカドはただ口角を上げて笑った。
「お腹、空いているか?」
「大丈夫です。朝はいつも食べないから」
「もう昼だけどな。それじゃあすぐに行こう」
カミカドが人差し指をさっと上に向けると、一瞬彼を中心に風が起きる。かと思うと、カミカドの着ていた服が変わった。昨日の服だ。戦国や江戸時代の修験僧とでも表現したらいいのか、もっと古い時代の絵巻物に出てきそうな衣装だ。その格好になると、カミカドの年齢が幾分上がって見えた。
手、と彼は言い、犬にお手をさせるかのように、私の前に手を差し出した。
「帰りもあるからな。遅くなってしまったし、町まで急いで行こう」
私が恐る恐る伸ばした手を彼はぎゅっと握りしめた。玄関に用意されていた布製のわらじをお互いに履くと、一気に走りだす。
後ろで玄関が閉まる音が聞こえ、いくつもの鳥居が後方へと流れていく。
「お先に失礼!」
途中、先ほどやってきたカエル……アジラさんと呼んでいたかな、を追い越すと、アジラさんはひえーっという声とともに、くるくると回転した。私は後ろを振り返り、小さくなっていくアジラさんを見ていた。なかなか滑稽な姿だ。
「前を見てなよ」
私が前を向くと、すぐに林を抜け、草原に出た。斜面を音もなく下り、途中斜面を斜めに横断している小道があって、そこを一気に走り下りる。その前方には真っ赤な橋が迫ってくる。まるで牛若丸がそこで待っているのではないかと思わせるような橋だ。カミカドはその橋の手前で止まった。
「これを持て」
円形のロケットの付いたペンダントをカミカドは私に差し出す。私は素直にそれを受け取ると、蓋を開けてみた。中には文字盤が刻まれていて懐中時計のように思えたが、見慣れた時計ではなかった。
「その針が一回りする前に、ここに戻ってくるんだ」
よく分からず、私は首を傾けた。
「僕は今、これ以上一緒にいくことができないんだ。ここで待っている」
えっと、私は驚きをこぼす。
「大丈夫だ。あやかなら問題ない」
「一緒に、来てくれるんじゃないの?」
「この橋から向こうは別々だからね。僕とあやかとでは違うんだ。僕は自分の買い物を済ませて、すぐに戻ってくる。だからあやかも、ひと通り歩いたらここに来るんだ」
「でも……」
「大丈夫。いざとなれば、僕が無理やりあやかを連れて帰るし、今日であの例の呼び子を捕まえられるなんて思ってないから。今日は町を楽しんでくるんだ」
よく分からなかったが、私は頷いた。カミカドはそれを確認すると、一気に一人で橋を渡ってしまった。橋の途中から、すっと彼の姿が薄くなり、消えてしまう。私も慌てて橋を渡り始めた。
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