第2話 呼び子とカゲ
「ありがと」
私はその声に右を振り向いた。あの少年が鉄棒の反対側に立っている。
「あ、あんた!」
「僕を探してね」
「ちょっと」
待ちなさいよ、と言うよりも早く少年は坂を走りだした。いや、錯覚でなければ坂を、ではない。まるで空を、浮いているように走っている。
「ちょ、ちょっと」
待ってよ、と言葉になるよりも早く、少年の姿が薄くなる。
「お願い、必ず見つけてね」
姿と同じように、声もまた薄くなり、掻き消えた。
「ちょっとぅ……」
三度目の呼び止めの言葉だけが虚しく響く。
「行かないでよ。こんなところに一人にすることないじゃない……」
最後の方は声になっていなかった。私はその場に座り込む。鞄を脇に置き、頭を抱える。また涙が溢れてくる。何が起きているのか、理解できない。ありえないことが起きている。
「コレは夢だ。覚めろ!」
頭をぎゅっと抑えて私は吠えた。
「早く覚めろ。ここはベッドだ」
「誰だ!」
突然の声に、私の心臓が激しく跳ねた。
「誰だ、そこにいるのは!」
後ろから聞こえるその声は、ひどく怒っているように感じる。私の鼓動はどんどん早くなる。頭を抑えたままそっと後ろの様子を窺うと、傾斜の一番上に人の影が見えた。左からの太陽の光を受けて、オレンジ色に光っている。
「人間か?」
男性のようだ。年齢は私より上だろうが、まだ大人ではない。高校生くらいだろうか。
「立て! 早くこっちに来るんだ」
髪は短く見えたが、着ている服が不思議だった。印象で言えば
「早くしろ、時間がない!」
私はほとんど無意識に坂の下へ走りだした。ちっと舌打ちが聞こえたような気がしたが、とにかく後ろを振り返らず走った。
その走っている腕を強く握られる。前に行こうという意志を無視して、私の体は止まってしまった。腕を握っているのは、先ほどの彼だ。
「ついて来い。急げ」
彼はそう言うと、私の腕を握ったまま坂を駆け上り始めた。私の体は有無をいわさず坂を登っていく。不思議と足は動き、鉄棒よりももっと上まで走り続ける。
坂を登り切ったところで彼は急に止まると、その場で私の腕をつかんでいない手をついて旋回した。しゃんと錫杖が鳴り、合わせて体を伏せる。彼の動きに、私の体も自然と伏せている。
きゃっという私の悲鳴を無視するように、さらに彼は私の頭を押さえつけた。
「いいと言うまでしゃべるな。息も立てるな」
彼は私の耳元で言った。その視線が鋭く、厳しくて、私はとても口を開ける状態じゃなかった。不思議と息は上がっていなかったが、声なんて出せそうもない。
右手から太陽がゆっくりと沈んでいく。
赤かった空が、次第に薄れ、暗くなる。
左手から闇が広がり、やがて空に星が瞬き始める。
「ドンドン」
地を伝わってくるような音が聞こえた。太鼓を打ち鳴らしたような、低い音だ。私が顔をあげようとすると、彼は更に強く私の頭を押さえつけた。睨んでやろうかと思ったが、彼の目はもっと鋭かった。動くな、とその瞳が言っている。それからその目は、傾斜の下へと移される。
私は彼の視線の先を追った。
傾斜の中腹。ちょうど鉄棒があるところだ。
「ドンドンドン」
地底から響く音が一層大きくなる。そのまま地面までも揺れているかのようだ。
影が見えた。鉄棒から、何かが歩き出た。
「!」
開きかけた口を彼の手によって塞がれる。
鉄棒から斜面の下に向かって、次々と影が現れる。黒い頭巾でも被っているのか、はっきりとは見えないが、影はぼうっと透けているように見える。背後からでも、影の先に白い仮面らしきものが見えている。あるいはやけに小さく、あるいは大きく。あるいは浮いているものもあれば、地面を這っているものもある。
それが次々に、鉄棒から溢れ出ている。長い列は次第に横へも膨らみ、斜面はその影でいっぱいになった。それが下へ下へと移動している。最初に鉄棒から現れた影はすでに林に達し、それでも前に進んでいるようだ。
体が震える。響く音と同調しないように、がくがくと。
どれほどの時間が経ったのか、ようやく鉄棒から出てくるものはいなくなった。後はただ、斜面を下り、林へと消えていく。いや、よく見るとすでに川を越え、町へと影の集団は達していた。
影が完全に林に消え、私のいる場所も夜の闇に完全に閉ざされる頃、ようやく私を押さえつけている力が弱くなった。それでも、私の体はまだ震えている。
「よく我慢した」
彼は上半身を上げて座り直した。私は伏せたまま両肘を付き、頭を覆った。震えた体から、さらに涙も溢れる。
「さあ立て、行こう」
私は動けなかった。
「夏が近づいているとは言え、夜は暗い。直に何も見えなくなる。家に行こう。そこで話そう」
彼がもう一度私の腕を掴んだ。ほとんど無意識に、私は腕を払っていた。見ていなかったが、その時彼はきっと困った表情をしていただろう。
「あまり泣くな。戻ってくるかもしれない。食われるぞ」
その言葉に、私の体がびくんと震える。戻ってくる? 食われる? 真っ白な仮面に、穴が四つ開いていた。両目と鼻と口のように。どれも大きさは同じ丸い穴だった。それだけが透けることなく存在し、体は黒いのに、向こうが透けて見えていた。それが浮いたまま、すーっと音もなく近づいてくる姿を想像する。
私は顔を上げた。両膝に手を当てて、こちらを覗きこむように彼が見ている。
「僕はカミカドと言う」
そう名乗り、彼は私に手を差し出した。涙は止まっていなかったが、私はその手に掴まった。彼は強く私の手を握り返すと、目を細めて、口角を上げて笑った。
「よし、行こう」
次の瞬間、私の体は引き上げられた。そのまま彼に引っ張られるようにして走っていく。自分の足も動いていながら、信じられないような速さだ。丘の上の草原を抜けて、木が茂った場所を通り、途中いくつもの鳥居が後方へと流れた。さらに石の階段を駆け上がると、その先に小さな佇まいの庵のような建物があった。近づくとその扉がさっと手前に開き、私と彼は中に入った。
よし、と彼は言い、ようやく止まった。急に止まったというのに、私の体もすっと止まり、前に流れることもなかった。それに、いつの間にか涙も止まっていた。
彼は私の手を離して、そこで履いていたわらじを脱ぐと、石で出来た段を上がり、板張りの床に移った。それから錫杖を近くの壁に立てかける。私もローファーを脱いで彼に続いた。
「疲れたか?」
私は顔を横に振った。彼はまたよしと言いながら頷き、玄関から続いている廊下を歩き出した。
「今帰った。食事を用意してくれ。一人分」
彼は声を大きく張った。どこからか、女性の声で分かりましたと返事が聞こえる。
板張りの廊下が小気味の良い音を立てる。きゅっきゅっきゅっと、まるで鳥が鳴いているみたいだ。とたとたという、自分の足音は
「とりあえず、ここで待っていてくれ」
彼は廊下の先にあった障子を開けると、私を中へ入れた。
「すぐに戻るから」
再び障子を閉めると、彼の走る足音が聞こえた。私はその場にぺたんと腰を落とした。畳の床で、わらといぐさの匂いが懐かしかった。おばあちゃんの家の仏間を思い出す。今年の春休み、中学に上る前に家族で泊まったのはほんの数カ月前のことだ。それなのに、懐かしい。
「お母さん、心配してるかな」
懐かしい、と感じたせいか、家のことを思い出す。日が沈み、かなりの時間が経っている。九時ぐらいだろうか、部屋を見渡したが、時計はどこにもなかった。部活がある日でも、こんなに遅くなったことなんて、今まで一度もなかった。
早く帰らないと。
その思いはあったが、まるで足に力が入らない。それにどうすれば帰ることができるのかも分からない。私は大きくうなだれた。涙は出なかったが、その代わりにため息がこぼれる。
今日の、数時間前には学校にいて、面白くない授業を受けていた。小学校の頃と変わったことと言えば、教科ごとに先生が違うことくらいだ。あとは算数が数学なんて、洒落た名前に変わったけれど、やっていることに変わりはない。先生の説明を聞いて、問題を解いて、間違えたら怒られる。先生は自分の教え方が悪いなんて考えもしないらしい。勉強が好きな子は、先生がいなくたって勉強できる。先生は決まって、そんな子が好きなんだ。
学校は好きじゃなかった。
中学に憧れていたのに、その憧れはすぐに壊れてしまった。早く大人になりたかった。どうすれば大人になれるのだろう。
取り留めもない考えが頭を支配し始め、それが一層私を悲しく感じさせる。今そんなことを考えてもしかたがないというのに。そうため息をこぼすと、ふと、外から香ばしい匂いが漂ってきて、意識が現実に引き戻される。
「入る」
カミカドの声が、障子のすぐ裏で聞こえた。すぐに障子が開けられ、手に四角い盆を持った彼がさっと中に入ってきた。ほとんど音も立てずにその盆を彼は私の前に置いた。ご飯とお味噌汁と、後は野菜のサラダにつけものという質素な料理だ。
「冷めない内に食べてくれ。僕が作ったわけじゃないけど、まあ、美味しいと思う」
「あの、あなたは?」
「僕はもう食べた。遠慮するな」
彼は口角を上げて笑った。どうやらその笑い方は彼の癖らしい。とても爽やかで、見ていて気持ちがよかった。
「あの、それじゃあ、頂きます」
不思議なもので、理解ができないことが立て続けに起きているというのに、時間が経つとお腹は自然と減るものだ。箸を両手で持ってお辞儀をしてから、私は茶碗を持った。私が食べ始めたのを見て安心したのか、彼は私の前に座り直した。
「どうしてあそこにいた?」
私は箸の動きを止めた。それは私も知りたいことだったし、答えようがない。
「いや、その前に、名前は何という?」
顔を上げると、彼は笑っていた。先の質問に答えなかったことに腹を立てている様子もない。
「あやか。
「あやか、か。どうしてあそこにいたのか、分からないのか?」
私は大きく頭を垂れた。
「あそこに人間が迷い込んだのは初めてのことだ。すぐに駆けつけてよかった。もし遅れていたら、食われてしまっただろうからな」
「あの、あれは何なの?」
「知らないのか?」
彼は両目を見開いた。けれど、驚いた表情は、合点がいったのか、すぐに元に戻り二度ほど頷き、ふうと息を吹き出した。
「実のところ、あれが何なのか、正確には分からない。太陽が沈むとあそこからやってきて、町へと行くんだ。それで夜に外を歩いているものを食べてしまう。町では悪魔と呼ばれているが、実際は不明だ」
顔を横に向けて、彼は遠い目をした。
「だから、町では昔から夜、外を出歩かない。そんなわらべうたもあるくらいだ。それで、夜明けとともに、あれはいつしかいなくなる」
それから彼は顔を戻すと、口角を高く上げた。
「ここは大丈夫だ。あいつらはなぜか下へ行くが、こちらへは来ない」
「ごちそうさまでした」
「お、もう食べたのか。足りたか?」
「はい。美味しかったです」
「それはよかった」
「あの、ありがとう。遅くなったけれど、ありがとうございます」
私は箸を置くと大きくお辞儀をした。あまりの出来事に気が動転していたが、私は彼に助けてもらったんだ。ようやくその事実に思い至り、感謝しなければと思った。彼はまた音も立てずに盆を持つと、障子を少し開けて外に置いた。それからまた障子を閉めて、こちらを振り返る。
えっと、と私から切り出した。とにかく、自分に起きたことを説明しなければ、と思ったからだ。
「私ね、夕立にあったの。その、数時間前に。家の近くの公園で。突然で驚いてしまって。たくさんいた子どもたちが走って帰っていく中で、その中の一人に声をかけられたの。こっちへって。なぜかその子のことが気になったの。それで私、その子を追いかけて。それでね、鉄棒のところに彼が立ってて、私もすぐそこに駆け寄って。そこでいきなりその子に背中を押されて、鉄棒をくぐったの。そしたら、あそこにいた。あの鉄棒のところに。その後で、その子が私に言った。必ず見つけてって。それで、その子が消えてしまって」
私はゆっくりと話した。自分でも支離滅裂だと感じるが、とにかく自分に起きたことを伝えた。その間彼は、相槌を釣って聞いてくれていた。
「なるほど」
腕を組むと、彼は片方の口角だけ上げて、同じように目も上に上げた。
「それはもしかすると呼び子かもしれないな」
私は彼の顔を見つめる。
「時々、そんな悪さをするものがいるんだ。人間を連れてきて、ぽんとこの世界に落としてしまう。あれの好物は人間だからな」
「人間……」
当たり前な言葉だが、どうも聞き慣れない響きがある。
「そう。だから、夜になるとあれに食われてしまう。だが、あんな場所に落としたことは今までにないし、それに鉄棒を利用するなんて話も聞いたことがないな」
眉を歪ませながら、彼は口元に何度も手を持って行き、顎に当てている。
「よし。明日町まで行ってみよう。何か分かるかもしれない」
「あの、私……」
気が付くと私は泣いていた。涙が頬を伝わっているのを感じる。彼も気がついたようで、私を見ると口角を上げて笑顔を見せた。それから立ち上がると、ぽんと私の頭を叩く。
「心配するな。僕も一緒だ。今日はもう休め」
「あの……」
「明日話そう。今日はいろいろありすぎた。布団で眠れるか?」
さっと彼は襖を開けると、一セットの寝具を取り出した。それから手際よく畳の上にそれを広げる。鼻歌でも歌っているかのような軽快さで、私は声を掛けられなかった。すぐに布団が丁寧に準備されると、彼は障子へと移動した。
「ちゃんと休めよ」
そう言い残して彼は出て行った。そのすぐ後に、私はうなだれるように頭を下げたが、きっと見えていなかっただろう。
人間を連れてくる……。
ぞっとする物言いだ。私は布団に潜り込んだ。頭まで布団を被り、小さくなった。自分が震えているのが分かった。
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