ヒトシズク
なつ
第1話 夕立のオト
☆☆☆
ざざざっと音がする。
突然の夕立が、正面の窓を打ちつける。私は今でも雨が苦手だ。右手に持っていたシャープペンシルを指で弾く。くるりと回って、乱雑に書かれたノートの隣に落ちると、私は引き出しを開けた。龍の形をしたキーホルダーを取り出して眺める。申し訳程度についている鍵が、カランと音を立てた。私は、まるで空に昇っていくかのような龍の姿を見つめ、耳を澄ます。窓を打ち付けている音があたかも聞こえないかのように。時折響く雷の光にその龍を重ねるように。
心が乱れ、鼓動が早くなる。けれど、私はそのキーホルダーを握りしめた。確かな、ギザギザの感覚が両の手の平から伝わってくる。だから、私は信じることが出来る。夢の様な、けれどもリアルな。私を作る世界が、いつかまた私の目の前に現れてくれることを、信じることができる。
稲光に、私の思考は過去へと飛んだ。
☆☆☆
公園。
何人もの子どもたちが走り回っている。高く張られたネットのおかげで草野球もできる。そこがたまたま通学路だった。去年まではここが集合場所で、班長の後について一年生から六年生までみんないっしょになって登校したものだ。セーラー服に腕を通すだけで大人になれるなんて思っていた自分が馬鹿げている。去年は、中学生になれるのが待ち遠しかったのに。これで変われると思っていたのに。何も変わらない。友達だって、半分以上が同じ中学。私みたいに、中学受験に興味のない子なんて、私の友達には多かった。私は全然変わっていない。できるなら、あの子どもたちと一緒に走り回りたい。
両手に持った鞄が重かった。まるで鉛でも入っているみたいな重さだ。学校が終わって、もう少しで家だというに、どうしてこんなにも重いのだろう?
子どもたちを眺めながらため息を付いていると、不意にその子たちが悲鳴のような声を上げる。
「うわっ」
「きゃぁ」
みんな両手を頭の上に持ってきていて、変わらず走り回っている。けれども……
ざざざっと音がする。
夕立が迫ってきていた。すごい勢いで、私に向かって一直線に。
「きゃっ」
私はとっさに鞄を頭に持ってきた。夕立が突き抜ける。
ザーッ
「濡れちゃうよぅ」
ザーッ
「うわぁぁぁ」
「じゃあねぇ」
ザーッ
「うん、またね」
「こっちだよ」
ザーッ
「ばいばい」
「早く!」
「また学校でー」
耳障りな音が私を貫き、子どもたちが散り散りに公園から飛び出していく。
「早く、こっちへ」
一人の子どもが私の脇を通り抜けた。無地のシャツにハーフパンツ。雨に濡れた肌が一瞬強い印象を残す。
私は振り返った。
少年も、少し離れたところで立ち止まり、こちらを振り返っていた。息を切らしている。雨に濡れた長い髪が目を隠している。小学生の高学年くらいだろうか、私よりも背が低い。その少年が、肩で息をしながら、私をまっすぐ見ている。
その口が真一文字に広げられ、先ほどと同じ声を出す。
「早く、こっちへ。急がないと、遅れちゃうよ」
距離よりも遠くから聞こえる、低い声だ。降り続けている雨のせいかもしれない。少年は再び後ろを向くと、走りだした。まるで、雨に残像を残すように。まるで、スローモーションのように。
ざざざっという雨の音が一瞬消え、私は彼を見失ってはいけないと直感した。理由は……後で考えても分からない。
私が走りだした時には、雨の音が耳障りなほど聞こえていた。それに頬に強く当たる。けれど不快じゃない。
公園に掛けられた小さな黄色い橋を越えて、柵の役目をした植木が続いている。景色が早く、けれどもゆっくりと後ろに流れていく。不思議と鞄は軽く、まるで何も入っていないかのようだった。
少年は、樹木が開けた遊具置き場に立っていた。鉄棒のすぐそばだ。私も息を切らしながら、そのまま少年に近づいた。
「急いでよ! 時間がない」
「あ、あんたねぇ。一体何なのよ」
少年が再び真一文字に口を結んだ時、その顔に見覚えがある気がした。
「こっちへ、さあ!」
少年の動きはとても遅く見えた。でも、私の反応はもっと遅かった。少年が私の背後に周り、私の背中を押した。
「何?」
という私の叫びは遅すぎた。
鉄棒の下をくぐった時、私は地面がなくなる感覚に襲われた。いや、実際に地面がなくなった。
カクっと足が折れ、すぐに見つけた地面は草に溢れている。合わせて、視界も大きく下がったが、あまりにも突然なことで、ほとんど何も見えなかった。
うそーーーーっ
そのままその草地を転がり落ちている間、私の頭は叫んでいた。
次第に斜面が緩やかになり、私の体も止まった。最初は体の痛みに目をつぶっていたが、息が整ってくると、私は目を開けてみた。
青空が広がっている。
青空?
ところどころにちぎれた雲がいくつかあるものの、夕立を降らせたような雲なんてどこにもない。私は疑問符が浮かんでいる頭を傾けて、視線を草地の上に向けた。
遠くに鉄棒が見える。ずっと上の方だ。傾斜の途中にぽつんと一つ、鉄棒が立っている。
「何よ、これ?」
自分の身に起きたことが理解できず、私は上半身を起こした。あちこち打ち身はあるものの、思ったよりも頑丈だった私の体は痛みはあるものの、自由に動かすことが出来る。
「えーっと」
声に出してつぶやく。夕立に襲われて、私は走った。ハーフパンツの少年を追って。それで、遊具広場の鉄棒の隣でその少年に背中を押されて、抵抗する間もなく、鉄棒をくぐって。
私はもう一度鉄棒を見上げてみた。草地の中腹に、不自然に立っている。私は頬をつねってみた。痛い。それから頭もポカポカと叩いてみる。やっぱり痛い。
「悪い冗談でしょ?」
頭でも打って、ここに来た記憶でも失ったのか。私は反対の頬をつねってみた。涙が流れたのは痛いからじゃない。何度も何度もつねった。涙は止まらない。
鼻を鳴らすと、私は鉄棒を見上げた。そして立ち上がると、坂を一気に駆け上がる。斜面はきつかったし、何度も転びかけたけれど、休まずに。鉄棒の近くまで来た時、また私の息は上がっていた。体をあずけるように、鉄棒を支えている棒に触れた時、そこに柔らかい感覚がした。見ると、お札らしきものが貼られている。
ひっと思い、とっさに手を離す。お札は幾重にも、古く、重なるように、びっしりとある。
手を引っ込めて初めて、私は鞄を持っていないことに気がついた。あたりを見渡してみると、鉄棒の斜め下に落ちている。きっと私が転がっている途中に、手を離してしまったのだろう。私はそこまで降りると鞄を持ち上げた。それから胸と両手で挟むと、私は一気に走り上がって、鉄棒の下をくぐった。
「お願い!」
くぐる瞬間、私は目を瞑った。
けれど、足はそこが草地だと感じている。目を開けてみると、やはりそこは傾斜した草地だ。私は両手をだらんと下ろした。
「何よ、もう」
また涙がこみ上げてくる。それを食いしばると、私はもう一度鉄棒を見ようと振り返った。
風が吹いている。
坂を登るように、正面からの風だ。
ふわっと髪が浮き、まるで一緒に体全体が浮いたような錯覚を起こした。けれどそのおかげで、私は初めて周りの風景に視線を向けることができた。私は片手で髪を抑えると、鉄棒のところまで歩いて降りる。その間、両目は風景を追っていた。
傾斜の先にはちょっとした林があり、その向こうには横切るように川が流れている。その川を越える赤い橋が少し離れたところに掛かっていて、その先には町が見えている。レンガ造りの暖かそうな町並みだ。ところどころに高い建物があり、煙突が伸びている建物も見える。もくもくと煙も出ている。
さらに向こうには一際大きな建物がある。古い西洋に見られるようなお城だと思った。尖塔がいくつもある城だ。
その向こうには海。
水平線が遠くに見える。空との教会は曖昧だったが、丸みを帯びている。
右からの太陽の光が少し赤らんでいる。
いつの間にか涙は止まっていた。
私は鉄棒に右手をかけると、風を感じて立っていた。
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