第109話 訣別の輩共
戦いは一方の敗北により終結した。時が停止したような静寂の果てに、リモスは魔王を殺さないと決める。そして、猿を呼んだのだ。近くまで来た戦友に、リモスは瞳を向ける。二体の間では、それだけで十分だった。
敗北輩の首を掴んでいた鬼の剛腕を収めたリモス。満身創痍の魔王と、ようやく対等以上の条件で、会話が成立するかもしれないのだ。少々緊張気味にだが、リモスは魔王へ要求を伝える。魔王の名誉にかけて、また勝利した褒美として、約束を誓ってほしい事として。
一つ、リモスを軽視してきたことへの謝罪。
一つ、この戦いで命を落としたタコをはじめとするモストリア衆の弔いの実施。
さらには、命を摘み取る権利を返すから、以後リモスと猿を追跡しないでほしい、ということ。
否応なしに、一刻も早い治療と休息を必要とする魔王はこれを認めるしかなかったが、本当はこう言いたかったのだ。
「妖精女を討った我輩への謝罪要求はいいのかね?」
この事を視線で問い続ける魔王だが、リモスと猿も全く反応しなかった。特にリモスとは戦闘中に確かな視線のみの会話が発生していたのに、とこれには深く心の底から失望した魔王であった。あるべき復讐を受けてたったつもりである魔王の騎士道精神は汚辱に沈んだ。
ここでひょいと姿を現した色黒伝道師も、自身の免責と放免を魔王に求めてきた。その全く悪びれない振る舞いに、狂的な精神すら認める事ができそうだ、とリモス、猿、魔王ともに共通の感想を持った。彼に対しては、魔王も条件を付けた。以後、がいこつ勇者一行による暗殺停止がそれである。
「……がいこつ達はもう死んでいるが、どうせそなたが骨を接いで、元通りにしてしまうのだろうから……彼らが再び変な気を起こさないようにするのだ……」
苦し気にそう告げた魔王に対し、色黒伝道師は自身の技術的名誉にかけてその遵守を誓った。一連の会話が終わると、再び沈黙が流れた。その気配を察して、魔女が薬を持って飛び込んできた。そして、次のような気遣いによって治療を促すのだ。
「陛下、魔王としての責務を果たされたそのお姿、他の何よりも優れてご立派です。どうぞこちらへ」
心遣いを感じ取ることが出来た魔王は、いつもの成熟した精神状態を取り戻していた。
「ああ助かるよ。我輩ら怪物世界の秩序を守るために、健康には留意せねばならないからな」
「はい。陛下がそうなさらないと、ラがきっとお小言を言うに決まっていますからね」
頭巾の怪物たちの手を借りて魔王は立ち上がった。去り際に魔王は一言、リモスに曰く
「そなたの望みは叶えよう。そして……すまなかった」
これだけを無感動に口にした。魔女が頭巾の怪物達に魔王の搬送を命じると、彼らはその場から去っていった。その間、彼女はリモスへも猿へも、一度も視線を向けなかった。大きな寂しさを覚える二体であった。去りゆく魔王らの背を見やりながら、リモスが、つまり鬼の体が大きくぐらついた。
「リモス、どうしたんだ」
「いや、大丈夫。なんでもないよ……あっ」
「おい、その体……」
「うん、もう……」
猿の目には、リモスの体からインポスト氏の体が落ちたようにも見えたのだが、膝から崩れていった鬼の肉体は、激戦に耐えかねて、煙を上げ崩れ行く。リモスはもはや物言わぬインポスト氏の体を労わり撫でながら曰く、
「実は戦っているときも、インポスト氏の声が聞こえたんだ。痛い、痛い、もう止めろって」
慚愧の念に堪えないリモス。しかし、心底嫌っていたインポスト氏の死を歓迎し、密かに満足している猿は皮肉を飛ばす。
「ふん、どうせ凡夫、とも言っていたんだろうが。そうだろ」
それを聞いて苦笑するリモス。猿はしかし、灰になり行くインポスト氏から僅かに離れて遠吠えする。
「この旦那がこんな最期を迎えるしかなかったのは、報いと言うしかない。お前が責任を感じる必要は何一つないんだ」
「報い?」
「そうとも。怠惰、怯懦、無能、愚劣、幼稚、粗雑、豹変、虚栄……ああ、いくらでも出てくるな。おっちょこちょいでぐうたらだし、見事なまでにチャランポラン、そして野放図。盲動的でわがままで前後の見境なく冒険に走ることもあり、大言壮語の癖が酷く、でたらめで無軌道で実は快楽一辺倒のナルシスト。大切な時は常に腑抜けのようで、被承認願望が強いくせに他者の都合をまるで考えないその場しのぎの頬かむり職場放棄野郎だ」
猿がしゃべり続けている間、リモスのパラサイティズムから解放された亡骸はその鬼の瞳だけが悪口の出元を恨めしげに睨みつけていた。が、体が完全に灰になるとともに、それも止んだ。風が吹くと、灰は排水溝へと流されていった。もはやリモスの耳に氏のどんな声も聞こえない。
風が止むと、色黒伝道師はリモスと猿を向いて曰く、
「やあ、未來都市以来だね」
「ああ、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったが、おかげで助かった。ありがとよ」
「私は何もしていないよ。彼らが……勇者たちが自身で動いた事さ。そこに考えがあるかは謎だがね」
「これからどうするんだい。あんたはもう魔王の下には居られないし、未來都市も滅んでいる。いっそ、俺たちと行動するか?」
「やあ、ありがたい申出だが、研究は続けているんだ。彼ら勇者のパーティは、素晴らしい可能性を秘めているように思えてね。まあ金とか居場所とか安全とか、世俗的な相談ごとが出来たら、君らを訪ねていこう」
「その素晴らしい……可能性って?」
「そうだな。一言でいえば、転生かな」
「それって生まれ変わりの事だろう?そんな事を口にする輩はいつの世も数多いが、誰もその証を立てられた奴はいない。難儀しそうな研究だな」
「だからこそ挑み甲斐があるんだ。ではな」
そう言って、あっという間に復元させたがいこつたちを引き連れて、色黒伝道師はグロッソ洞窟を去っていった。リモスと猿もグロッソ洞窟を離れることを決めた。心に誇りを取り戻したリモスの顔は晴れやかだった。それを見て安心した猿も、都市エローエ攻略の時から胸に宿っていた炎がようやく燃焼したかのように、爽快な心持であった。だがリモスへ、調子が良さそうだな、これでお前も一人前だな、などとは口にしない猿である。
「魔王からの謝罪も得た。俺たちの身の安全も承知させた。お前の完勝だ」
弱体な一怪物でしかなかった過去が気にならなくなる。その確かな実感を掴んだからこそ、次のように答える事も出来るようになったのだ。
「リモス、これからどこへ行こう?」
「どこにでも行けるさ。今のボクならば」
きっとそれはモストリアを越えた新天地になるだろうか。リモスは親友の目を見つめた。そこに宿る敬意と感謝の光は深くて強いものだった。
「それはそうと、先立つものを用意しようよ」
「なにかあるのか」
「ボクの家に金庫がある。その中身を全部持っていこうよ」
「これはさすがのゴールデン様々だな。しっかりと貯金していやがったか。よし、馬車を用意させよう……でもよ、お前カギなんて持っているのかよ」
「カギの形は覚えているんだ。あとはほら、ボクの体の一部を……こうすればいいんだ」
キメリズムによって造られた鉄の鍵を見て、猿は賞賛の言葉を惜しまない。照れるリモスへ最高級の賛辞を送る。
「素晴らしいぜリモス。もはや神々の領域の技だな」
温泉浴場にて治療を受ける魔王は、去来する虚しさに薄い泪を堪えている。
どのような経過があったにせよ、対決に敗北したのだ。無敗の王が、初めて膝を地につけた姿で相手の要求を飲んだ。詫びも入れた。無論、輩によっては、弁護してくれるだろう。
「タコ、猿、リモス、そしてシャチと戦った陛下は負けていない!そうだろう諸君!」
だが勝利できなかった事は間違いなかった。軍隊にも、勇者にも勝利してきた魔王に、この事実は重かった。この敗北が噂として広がれば、領域リザーディアは動揺し、秩序を乱してしまうかもしれなかった。それを防ぐためには、リモスと猿を血祭りにあげ、シャチを駆除しなければならないはずであった。
しかし約束は約束である。これを反故にすることはできない。自身のこれまでの輝かしい経歴と名誉にかけて、約束は守らねばならなかった。これに反する事は、彼の生き方を自ら否定することになってしまうのであった。
さらに魔王を悩ませる事実はがもう一つ。いざ戦ってみて判明したリモスの幼稚な願望に屈した事が、無念でならなかった。魔女の治療を受けながら、誰に言うとでもなく、言葉を漏らす。
「……あの輩は、恋人の仇討ちなど何も考えていなかったのだ……ただ単に、自分の優越を証明するために、こんな騒動を起こしたのだ……ゴミめ……そして我輩は、ゴミに敗れた……躓いたのではなく、敗れたのだ……」
ベッドに横たわった魔王は目を左手で覆い、溜息を吐いた。看病する魔女には掛ける言葉が何もなかった。こんな時、魔少女が側にいてくれれば機知に富んだ適切な言葉で魔王を勇気づけてくれたであろう。その早い帰還を、願わずにはいられない魔王と魔女であった。
馬車に大量の金を詰め込んで道を進む二体。自然、前途洋々、明るい手綱さばきになる。
「リモスよ、インポスト氏の肉体が崩れちまった以上、新しい肉体を探さないとな。強靭で堅固で……前よりカッコイイのでないとな」
「それならある程度はもう解決しているよ。はい」
「おお、そりゃ魔王の手じゃねえか。いつのまに。ほんとスゴイな。やっぱり戦いの中で、読み取ったのか」
「あれだけ流血沙汰があればね。ただ、トカゲの閣下の体も実に優秀だけど、インポスト氏程の潜在能力はなさそうだよ。閣下のあの強さは、鍛錬と克己のたまものなんだろうと思う。ボクの能力ではそこまでは真似できないか」
「でもよ、タコの言葉じゃねえが、確かにズルい能力だな」
「そうかい?戦いの中で、色々な怪物に能力を仕掛けたから、いろいろ記憶することが出来たよ。だから、こんな事もできる」
猿の怪物に化けたリモス。しかも、雌である。ちょっとドキドキする猿だが、複雑な気分だ。
「どう?君の好みだと思うけれど」
「いやまあ、ねえ。だがね、俺はお前を仲間、同僚のつもりでここまでやってきた。そりゃ確かに好みの雌だが……馬鹿にしてんのか?」
「僕には性別が無いんだ。無機物な粘液体だからね。そういう恥じらいは元々無いんだ」
「へえ、なら妖精女に慰めてもらってたのは?」
「水面を良くなでてもらっていたけれど、そこに性交は無かったよ。なにせ性が無いからね」
「うーん」
「この姿のボクにグッとくる?それならば好きにするといい。ボクも君の事は信頼している。ここまでやってきた仲だしね」
「うーん、男としているような気がして、イマイチ気が乗らないぜ」
「性が無いんだから、男であった事すらないんだけれど」
「だから、お前は戦友なんだよっ」
「君にとって、戦友とは男、あるいは男的でなければならないの?」
「まあ、そうかもな」
「ならば口調や音調を変えてみようか……これならどう?」
「うわっ、お前本当にリモスかよ、そりゃ妖精女の声だろ」
「記憶をたどって模してみたのだけれど、どうかな?」
「確かに生物的雌の声には違いねえが、あいつは俺たちを抹殺しようとした怖い奴だからなあ」
「それならば……これならどうかね?」
「……老嬢の声じゃな」
「好みがうるさいね……それならばこれはどうだ」
「おっ、どこかで聞いたことがあるぞ。でも誰だったかな……」
「判らないなら、なおいいでしょ。気が散らないだろうし」
「まあなあ」
「ところで、君には親兄弟とか、家族とかはいないの?」
「ああ、俺は故郷を離れてグロッソ洞窟に行ったからな。言っておくが帰る気なんてないぞ。生まれ育った群れを離れて自分の群れを作るために生きていくのが、俺たちの種族の一つの生き方なんだよ」
「それなら、ボクと新しい群れを作ろうよ」
「おいおい、無性別なんだろ?」
「性を模写できるからね」
「模写?」
「そっくり真似るわけだね。今なら簡単だ」
「性転換ってやつか。うーん、だがとどのつまりは無性別のお前とか」
「男ではなく、女でもなく、無性別。ここにはどんな恥じらいも無ければそれに伴う喜びも無い。だからシッミアーノ、君がボクにそれを教えてくれればいい」
「そうさなあ」
「まだ抵抗があるのかい?それならば……」
「おおっ、すごいな」
「気に入った?それならこれはどうだ?」
「うおっ!何という破廉恥な!恥知らずで大胆な!あられもなき不埒な!」
「ここをこうして、こうしてこうして、さらにこうしてこうしてこうするのはどう?」
「おお……堪らんなあ。しばらくご無沙汰だったから、なおさらだぜい、ぐびっ」
「唾を飲み込むほど?凄い音だね……」
「満足気ではないか」
「それはもちろん、ふっふっふっ」
「無性ってのは本当かね。いやしかし……そうだな……もうちょっとここを、こう……そうそう、そうだ」
「なに?ここをこう……それでこうか……なるほどこうだね!」
「いいか、口調も大切だぞ。女らしい喋り方、言葉、単語というものがやはりあるのだ。それを聞いて、男たちはおっ勃つのだから、それがなければ、性の別とは言えないぞ」
「わかった……わ。うん、わかったわ。これから気を付けるね。君……あな……た……貴方の言う通りに、貴方の好みの雌猿になってみせるわ。基本は承知してるつもりよ」
「なんで?」
「グロッソ洞窟の娼婦達を手本にするから」
「……」
「……」
「……」
「……どうしたの?」
「いや、こういう生き方もあるよなって思ってたところだよ」
「?」
「オラッ!」
首を傾げたリモスに張り手を食らわす猿。猿の手は粘液体となっている。粘液で粘液を打っても水の滴りの如くである。リモス、困惑して曰く、
「な、何を?」
「あー、違う。違うよリモス、そこでの俺が求める態度はそれじゃない。思い出せ。グロッソ洞窟の売春窟での女たちの振る舞いを」
「……奇ャッ!」
「なんか微妙だ」
「……キャッ……!」
「そうそう、それだ!それなんだよ。それが自然に出れば、無性のお前も有性のメスブタどもに近づけるだろうよ」
「メスブタ?売春窟でそんな単語を聞いた覚えがあるよ」
「そうだ。それが男達が秘め願う永遠かつ最高の女の絶対条件だ」
「ふーん、勉強になるよ……なるわ」
「そこそこ。そこで御礼を言わなけりゃならん。偽りで構わん。そのセリフが出てくるか否か、男たちにとってこれは大きいぞ」
「こうかしら。……そんなこと全然知らなかった。私、勉強になったわ。ありがとう、シッミアーノ」
「そうだ、いいぞ!」
「ね、シッミアーノ。貴方の性別は男でしょ。わたしが上手く女を演じることが出来るように、知っている限りの事を試してみましょう」
「そうだな、まあこんなアブノーマルさも経験だよなあ」
ここに、穏健都市方面から急ぎ戻ってきていた魔少女と鎌使いが追いつく。彼女らはすでに伝令モグラを通して、魔王の敗北とリモスらの出奔を知っていた。そして、魔女が一刻も早い帰還を願っている事も。
路端に立ち、通り過ぎようとしてる馬車を見る魔少女は、そこで猿ともう一匹の雌猿を見た。それだけで、リモスの変貌について彼女は全てを理解してしまう。リモスを兄と思い長く暮らしていた時期があるのだ。愕然とし、立ち尽くした。言葉も出ない。二体の間に何があるのか、または起こるのか。彼らの、というよりリモスの猿を見る視線を通して、これも全てを理解してしまったためだ。そもそも起こり得るのか、という疑問も湧き起こり、魔少女は彼女はらしくない混乱の中にあった。
せっかく追い付いた馬車が先へ先へと離れていく。それでも魔少女は、追い縋りたい、と一歩、二歩、と足を送る。やがて、馬車が地平線の彼方へ姿を消すまで。呆然と立ち尽くす魔少女の背を、鎌使いが押さえてくれなければ、座り込んでしまっていただろう。
「……話しかける事もできなかった」
私は兄を失ったのだ。そして今、父まで失うわけにはいかない。気持ちを持ち直した魔少女は背の高い鎌使いの顔を見上げた。そして頷いてくれたこの護衛役と、再びグロッソ洞窟へ向けて歩みを開始した。本当に真剣な時に、言葉は不要であった。
道の先にグロッソ洞窟が見えてくる。勤労の先にある黄金と、いくつかの決定的な勝利とによって彩られた魔王の新都の存在は、魔少女にとって命を賭けるに値する。黄金の立役者は去った今、勝利の請負輩までが倒れたら、洞窟は終わる。しかし、武の主を支えるもの、それは一体なんだろう。その答えは、魔少女の悩みを察してくれた鎌使いが出してくれた。
「愛でしょう。本来、この地に生きる全ての者共が備えている、数少ない美徳の一つです。ただ、これは排他的であるからこその感情です。そのために貴女様も、幼き過去を思い出にしなければならないでしょう」
「……それは過去との別れ」
魔少女の脳裏に現れたのはリモス、猿、魔女、妖精女と過ごしていた遠き日々であった。所はリモスの家。せっせと掃除洗濯をし、魔女に教えてもらいながら食事を作り、みんなで食卓を囲った日々。魔女が教えてくれた勉事、酒とギャンブルに打ち込むだらしない妖精女の世話、毎日遅くまで働いて帰ってくるリモス、豪快で下品でも優しい猿。それは単純で単調な優しい日々。振り返ってみれば、すでにセピア色の思い出である。
「大丈夫。私にとってそれはすでに……」
早く魔王に会わなければ。グロッソ洞窟へ向け走る二人。瞬間、過去の中で弛たんでいた魔少女は泪をきって現在へ向けて駆けていった。
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