第88話 パラサイティズム
追跡を続けるヘルメット魔人は、コンドルの怪物に合図を出した。
「鷲の速度が落ちたぞ、今だ!」
コンドルの怪物は一気に距離を詰める。そして、ヘルメット魔人が手に握るジャベリンの射程に鷲を捉えた時、その手から武具が投擲された。
速度が落ちた敵を撃墜するのは、腕の良い奴隷戦士でもあったヘルメット魔人には容易だった。豪速で放たれたジャベリンは鷲の頭部から顔面眼窩部にかけて突き刺さり、鷲は視界と同時に意識を失った。落下が始まる。
闘いの美徳とはこの様な時に語られるべきであろう。意識を消失し、あとは心臓の停止と避けられぬ死を待つだけの鷲だが、リモスと猿を抱え込む様に羽翼を伸ばし、二体を墜落の衝撃から守った。
敵の死に際の献身に、ヘルメット魔人は心を打たれずにはいられない。しかし、それでも猿は討たねばならなかった。
完全に動きを停止した鷲の体から抜け出たリモスも、ここまできて猿の死体を見捨てる気にはなれなかった。その考えだけで、まだ完全には死んでいない猿の体を引っ張っての逃走を開始したのだ。手足を伸ばし、口で咬え、引きずっていく。
既に鷲の死体の側に猿もリモスもいない。当たり前だ。ヘルメット魔人が視線を左から右へ動かした所に、必死に猿の体を引っ張るリモスがいたのだから。
「なんとも痛ましい光景だ。が、やむを得ない。猿を始末するのは勿体無いとは思うが、共にリモスも始末してしまおう。それが慈悲だな」
ヘルメット魔人は一流の戦士である。殺気も凡人や雑魚が浴びれば恐怖によっておどろきとまどってしまう類だ。この時に放たれた殺気を、リモスはまともに浴びた。死と消滅を思わせる痒みにも似た刺激が、粘液体の全身を駆け巡る。
成長や進化は危機において発揮されるものであるが、生きている者どもはこの事に意識を向けたりはしない。無意識によってこそ、真の発展はあり得るのだ。
とどめを刺すため二体に近づいていくヘルメット魔人は、首を捻る。いつ迄歩いても、距離が縮まらぬ。そして歩幅を広げはじめると、我が目を疑った。どう見ても重症の猿が、急に全力で走り始めたのである。しかもリモスを抱えたまま。
「いや、奴には腕がないのだから、リモスが捕まったまま走っているのだろうが。凄まじい生への執着だ。そして俺も自身の任務の達成にもまた執着するべきなのだ」
ヘルメット魔人は力強く地を蹴り上げ、駆けはじめた。それを見たコンドルの怪物は、空からの追跡を再開する。
「速い!」
それは負傷しているとは思えない程の速さであった。両腕のない猿が、足だけで凄まじい勢いで走り抜け、岩場を飛び、雑木を抜け、それこそ猿らしく三角飛びを駆使して距離を広げて行く。
「このままでは逃げられる」
ヘルメット魔人は上空を飛ぶコンドルの怪物はに合図を放った。コンドルの怪物は、急降下して体当たりによって動きを止める体勢をとった。目標に対して狙いを定めたコンドルの怪物は、強弓から良く放たれた矢の如く、動いた。
衝突の瞬間、猿の体は紙一重のタイミングでそれを避けた。衝突確実と確信していたのだろう。コンドルの怪物は受け身を取る事に失敗し、そのまま大木に激突、失神してしまった。
「ああ……」
奴隷時代にしこたま鍛えられたヘルメット魔人の脚力を超える速さと持久力で走り続けた猿は、そのまま山野を逃げ去った。辺りには気絶したコンドルの怪物と落葉に包まれた冬枯れの景色が広がる。
「動けるか、しっかりせよ」
追跡を諦めたヘルメット魔人は、コンドルの怪物を介抱する。意識を取り戻したコンドルは、まるで信じられない、というように見たものを報告した。
「猿は明らかに気絶していました。白目を剥き、舌は伸び出て、涎が垂れていましたから。不思議なのは、猿の腕の切断面から伸びる様にしてリモスがいた事です。明らかにくっ付いていました、あれは。あれほどの速度で攻撃したのに、それを交わした猿の体から、リモスは振りほどかれなかった。まるで猿の体をリモスが操っているかのようでした……」
「リモスが猿を操るだって。そんなことが可能なのか。他に事例を知っているか」
「いいえ、知りません。しかし、見た、ありのままはまさしくその通りで……」
ヘルメット魔人はリモスと猿が逃げ去った方角を見た。そう言えば、片腕を切断したはずの猿なのに、地面を見るとそれほど出血していない様にも見える。ヘルメット魔人は決断した。
「お前はこのまま未来都市の行政府へ戻れ。どこにも立ち寄らず、総督に見たままを伝えるんだ。私は追跡を継続する」
リモスに異変が起こった。彼自身なにも気づいていない。しかし、全速力で逃げているイメージと、猿を引きずっているイメージが合致しているかの様であった。モストリアの荒野をどこまでも駆けつづける。
コンドルの怪物もじっくりと見る機会があったとすれば、猿の腕の傷跡にリモスが癒着しているように見えただろう。それにより止血は為されていた。
必死に逃走を繰り広げていたリモスは、自分の体が猿の腕に沈んでいるかのように見える事に気がついていない。しかし全力で逃走するイメージは、猿の体を通して体現されていた、完璧に。
逃げ続け、走り続け、跳び続け、ふと追跡の気配がない事に気がついた。同時に、自分の体が猿の傷口に埋まっている事、それによって血が止まっている事、傍の猿の意識がまだ戻っていない事、そして自身の意思で猿の体を動かしている事にも。
その一生涯、諦める事の多かったリモスにとって、これは驚くべき事だったが、我を忘れる程の衝撃は無かった。自然と、自身の体の作用で猿を操作している事を受け入れていた。
「傷口に粘液体を塗り込むなんて、試した事のある奴はいなかっただろうなあ」
しかし、体の操作性が悪くなって来た事に気がついた。
「ボクは全力で逃げて来た。シッミアーノの体には負担だったに違いない。ここで休憩させないと、死んでしまう」
辺りはモストリアの荒野で季節は冬、満足な食事などあるはずもないが、猿の右腕となっている今、落ちた木の実を拾い、猿の口に放り込むことは容易であった。それを咀嚼させる程度の操作はなおのこと。
リモスには医療の心得など無いし、基本頑丈で生命尊重の伝統がない怪物世界では医療は発展しなかった。だからこそ勘は働くのだ。心臓の音や脈の具合で猿の体力を見て、逃走と休息と蘇生を繰り返した。
小さな水溜まりの水を飲ませた時、猿は意識を取り戻した。
「リモスよお、互いに生きていたか」
「ボクらは。鷲はそのために助からなかった」
「そうか、可愛い手下を失うのは辛いな。腕を失うよりもっと辛い」
「……」
「追っ手は諦めたのかな」
「解らない。でも、しばらく気配を感じないよ」
「それより、この傷口というか、右腕はお前が治療をやってくれたのか、こんなことできたんだな」
「ボクも知らなかったよ。まさかこんな風に怪我を治すことができるなんて」
「なんだか死ぬほど疲れてる。全速力で走った後のような感じだ。すまないが一眠りさせてもらう」
恐らく猿は状況を完全には理解できていないだろう。しかし、今は休ませてやりたい、とリモスは強く思った。猿が自分に示してくれる友情を、リモスはついに腑に落とした。そして心の底から、この好意に報いなければ男ではない、と思ったのである。
だがリモスはこうも思った。はて、自分は男だったっけ…と。雌雄の軛から自由な粘液体なのに、男気が湧いてくるとは。
「シッミアーノの気概に当てられたかな」
リモスは眠った猿の体に負担をかけないように操作し、食料と安息が取れる場所を求めて動き出した。
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