第5章 史上稀に見るサンタクロース


 1


 クリスマスでも昼時に混むのは銀行の常だ。実際に全国の利用客を調べたわけではないので、憶測に過ぎないが。

 銀行裏の駐車場。そこに薄汚れて灰色に近くなってしまった白のバンが駐まっている。

「ほんと、マジでやんのな」

「何よう、ビビってんの? 一番でかい図体して、肝っ玉の小さい男ねー、ミノルっちは。あーあ、情けない」

「いや、まあ、何言われてもいいんだけど。正直、ビビってる」

 耳に仕込んだ小型のヘッドセットを通して、ミノルは笑った。

「安心してください。僕も怖いです」

 タムラの声にも笑みが含まれていたが、微かに震えていたような気もする。

「正直、ここまで来るとは思わなかったよね」

 サカモトの落ち着いた声は、どこか感慨深げだった。

「この際だからよ、一応、聞いておきたいんだけど……」

 全員がミノルの次の言葉を待った。

「お前らってもれなく全員馬鹿じゃねえの?」

「失礼ねー」

「いやいや、だってさ、普通よ、普通はさ、あんな馬鹿に付き合うはずがねーじゃん。だって銀行強盗よ? 頭おかしいじゃん。どう考えたって、狂ってんじゃん。普通、耳さえ貸さないような、そんな話じゃん。なのに、どうしてこうも、あの馬鹿の思い通りに集まったわけ? お前らが馬鹿じゃなければ、何だって言うのよ?」

「その筆頭が君のはずだが」

 ナガタの冷静な声が届く。

「いや、まあ、うん……」

「んー、でもモモたんって何か不思議な魅力があるのよねー。馬鹿だけど」

「ミーちゃんも馬鹿じゃん」

「んだとぅ」

「全員馬鹿なんだよ、きっと」

 ナガタが静かに言う。

「そしてそんな馬鹿達が、とんでもない馬鹿に不思議と惹かれたんだ」

「…………」

「……うん」

「そうだね、きっと」

「あの馬鹿は、計画が失敗しないと、絶対に成功すると、信じて微塵も疑っていない。完璧だが、だがそれゆえに無茶苦茶な計画を、まるで恐れていない。普通という言葉を使うなら、信じられないだろう。あの馬鹿以外に、こんな計画を立てる者がどこにいる?」

 淡々とした口調だったが、その言葉には強い想いが乗せられていることが全員に伝わる。このメンバーの中では最も冷静で、頭の良いナガタらしからぬ言葉のようにも感じられたが、もしかしたら最もナガタらしかったのかもしれない。

「あいつの強さだ」

 この中ではモモと最も付き合いの長いミノルが、言った。

「あの馬鹿は信じて疑わないんだよ。こんな無茶苦茶にもほどがある計画に付き合うと、協力してくれると、本気で俺達のことを信じてやがる。信じる、っていう言葉が不適切なほどにな」

 そこで言葉を切り、一つため息をついた。

「……だったら、力になるしかねーじゃんかよ」

 最後は少し恥ずかしがっているようにも聞こえた。照れていることは顔を見なくても全員がわかっていた。少なからず、全員が同じ気持ちを共有している。

「どんな天才でもこんな計画は立てられない。盲目なほど、仲間を信じられなければ、絶対に」

 ナガタも同意を示す。

「嬉しかったよねー、正直」

「馬鹿かもしれないですけど、僕は尊敬してますよ」

「うん、僕もだ」

「俺はあんな馬鹿を尊敬なんかしてねーぞ」

「でも憧れているのだろう?」

「そ、そんなことねーよ」

 全員が笑った。

 リーダーの男は呆れるほどの馬鹿だ。

 だが、その男のことが全員好きだった。

「時間だな」

「……あの馬鹿が信じてるんだ。俺らも信じようぜ」

「うん」

「よっし、じゃあ、派手に行こうぜ!」


 2


 十二月二十五日。

 世間にとって見れば一年の中でもかなり重要なラヴイベントであるクリスマスだったり、宗教上とても大切な日だったり、中にはこの日に誕生日を迎える人もいたり、あるいは、まったく別のことで重要な日だったり……。

 警視庁捜査一課に籍を置く刑事である小泉進こいずみすすむにとっても、その日は大きな意味を持つことになる。彼がそれを知るのは、数時間後のことだった。

 天候は雪。

 にもかかわらず世間の平和な人達の中では数年ぶりとなるホワイトクリスマスということもあり、幸せな笑顔を見せながら、クリスマスカラーに彩られた街をより一層、賑やかにしていた。

 それを横目に、小泉はため息混じりの吐息で両手を温めた。

 不思議な日だ、と小泉は思う。

 今日はクリスマスなのに、どこかでは、もう、それも終わっている雰囲気がある。盛り上がっている街も、その余韻を楽しんでいるだけで、一番騒がしかったのは他でもないイヴである昨日だった。

 プレゼント交換なども済ませているからこそ、笑顔などではないのか。そんな、気がする。

 街中は笑顔で溢れている。それはそうだ。そうでない人間は、こんな日にわざわざ幸せを見せつけているカップルを見に外には出てこない。

 この街中を、沈んだ表情で歩いているのは小泉ぐらいだった。

 恋人がいないことが原因ではない。そんなものいなくても、充分に楽しくクリスマスを過ごすことはできる。

「歳末特別警戒実施中」

 まるで呪文を唱えるかのように、小泉の口からそれは漏れた。舌打ちをし、首の関節を鳴らした。

 特別な日は、何かと事件が多くなる。事件に繋がらないような些細なものでも、それが呼び水となって、結果として今の自分を苦しめていることになる。

 刑事になってみて、初めに感じたことといえば、地味だった。その一言に尽きる。

 ここだけの話、小泉の夢は名探偵になることだった。

 推理小説に出てくる、あれだ。

 どんな事件でも解決してしまう論理的なヒーロー。

 小学校のころからの憧れだった。

 だが、実際にはそれは作られた話の中だけの人物ということをいつというわけでもなく気づいてしまい、その日を境に彼の夢は名探偵に近い仕事、警察官になることに変わった。

 だから、警察官になれて、しかも警視庁捜査一課の刑事とくれば、それはもうとても嬉しいことには違いなかった。

 もちろん、待っているのは厳しい現実ということも心の中では理解していたつもりだったし、それに立ち向かう覚悟もあった。だから激務に根を上げたことはない。今朝の小泉の気が重いのも、歳末特別警戒中という、忙しいこと自体が直接の原因ではなかった。

 頭痛の種は、上司に当たる人間について。と言っても、本来ならば雲の上の存在であり、自身の悩みになることさえ適わないような人だ。

 その男の名前は九十九一。警視庁刑事部参事官。警視正。捜査一課を束ねる一課長のさらに上、刑事部のナンバー2である。

 九十九は、今の警察官僚にしては珍しく、物腰の柔らかい男だった。警察官といえば、正義感に飢えている朴念仁か、石部金吉のような者ばかりで溢れている。上へ行けば行くほど、その傾向は顕著だ。そう言う意味においても、非常に稀有な男だった。

 そんな彼の何が問題なのかというと、とにかく無茶苦茶だった。その一言に尽きる。彼に秩序という単語は絶対に登録されていない。それはもう何度も確認済みだ。

 警察庁のエリート刑事であるにもかかわらず、基本的にルールは守らないし、捜査方法だって独自のやり方が過ぎて誰もついていけない。上の人間からすれば最も嫌われるタイプの人間だった。もちろん、嫌われたら地方に飛ばされたりするのでそれで終わりだ。彼も国家公務員のエリート刑事には違いないので、当然、県を跨いだ異動もあるし、何か問題でもあればすぐに飛ばされるのがこの世界だ。

 だが、九十九の場合は違う。嫌われているにもかかわらず、刑事部のナンバー2にまで上り詰めた。

 答えは非常に明瞭だ。

 恐ろしく優秀だからである。

 どんなに煙たがられて嫌われていても、犯人を捕まえてくれば上も黙って見守るしかない。猛者が集う捜査一課において、無類の検挙率を誇っている。刑事部長の補佐役、参事官になってから直接捜査する機会は減ったものの、その手腕は半ば伝説化されている。

 しかし黙って見守ることにも限度がある。そう、なかなかに黙っていられないようなことをしでかすから迷惑なのだ。

 少し例を出そう。

 小泉が警視庁に配属されてから半年の間に、たった半年間に、七回近くも道交法違反で検挙されそうになったのだ。すべてスピード超過。一番凄いときで、制限速度四十キロのところを推定百三十キロで走っていたという。もちろん、完全にプライベート時である。捕まった経緯がさらに問題であり、巡回中だったパトカーにパッシングをして抜き去ったのだという。抜き去る際にわざわざ中指を立てていたというのは、見間違いであって欲しいところだった。

 そう、わかっている。ありえない。しかし、そのありえないことを平気でやってしまうのが九十九という男なのだ。

 本人曰く、制限速度で走っている車を追い抜いただけだ、だとか。

 パトカーなのだから交通ルールは遵守して走っているのは当然だろう。たしかに制限速度通りに走られては遅いと感じるのも頷ける。

 しかしだからと言って、パトカーに遅いからという理由でパッシングなんてしないだろうし、ましてやそれを追い越すだなんて冗談でもできない。無茶苦茶にもほどがある。

 通常、この場合ならば、文句なしの一発免停を喰らい、スピード超過で逮捕されるわけだが、ここでも少々問題が発生した。

 まず、このご時勢だ、警察官しかも国家公務員であるエリート刑事の不祥事はできる限り隠蔽したいのが上の考えであり、しかしだからといって見過ごすにはかなり派手なスピード超過である。とりあえず出された結論としては、逮捕・検挙はしないものの、免許は剥奪、無期限の自宅謹慎が言い渡された。

 もちろん、それで済むならばかわいいもので、わいわいとお酒を飲みながら肴になる喜劇で終わるはずだ。しかし現実は違う。

 刑事である自分の立場を最大限に利用し、あれは犯人を追いかけていた最中だった、交通課の馬鹿に邪魔をされた、おかげで犯人には逃げられてしまった、などとやりたい放題言いたい放題。

『犯人に逃げられたのは交通課のせいであり、あの邪魔がなければ犯人を確保することが可能だった』

 小泉が直接聞いた七回とも、懲りずに一字一句違わぬ理由で押し通したのである。

 そう、のである。

 もちろん通常ならばそんな理由が通るはずもなく、ただの戯言として聞き流される運命にあるのだが、ここは少し事情が違う。九十九の真に恐ろしいところはここにある。

 道交法違反で交通課に捕まった際に毎度そのセリフを言い、そしてその翌日には本当に一課で扱っていた事件の犯人を捕まえてくるのだった。

 苦しい言い訳のためについた嘘を、あたかも本当のことだったように、実際に犯人を捕まえてくるのだ。

 それも、七回ともすべてにおいて。

 もちろん、嘘だとわかってはいる。罪から逃れるためについた苦しい嘘だということは誰でも理解している。だが、それでも翌日には本当に犯人を捕まえてくるのだから、笑えない。

 無茶苦茶を無理矢理にでも押し通す、その手腕は、まさに豪腕だった。

 ちなみに、七回というのはあくまで小泉が体験した経験であり、実際には桁違いの数を誇る。恥じる、の間違いかも知れないが。

 この件に対して、上層部はもう関知することを辞めたらしい。交通課も、車両登録を済ませてあるので、無視することに決めたのだという。

 ここまであれば九十九という男がどんなに破天荒か少しは理解できただろうか。

 さて、そんな九十九に、何の因果か気に入られてしまい、事あるごとに呼びつけられる形になってしまった。通常であれば、参事官に気に入られるのはまたとない出世のチャンスであるし、これほど幸運なこともないだろう。だが相手は九十九という問題児である。おかげで妬まれるどころか、小泉を見る同僚の目は哀れみと慈悲に溢れ、また上層部からは九十九に媚を売る鬱陶しいやつという目で見られている。

 それでも、九十九がこのまま刑事部長やそれ以上のポストへ出世してくれれば、と期待の芽もあった。だが残念ながら、それも潰えてしまう。

 九十九は辞表を出していた。そして、それが受理されるのが十二月二十五日だった。

 嬉しいような、悲しいような。複雑な気持ちだった。

 九十九は、小泉の憧れだった名探偵という存在をどこか感じさせるような男だった。その男が、警察を辞めるということに対して、どうにも煮え切らない思いが胸の中にあった。

 なぜ九十九が警察を辞めるのか、それは皆目見当もつかない。誰にもその理由を話していないのだという。

 謎の多い人物だ。

 周りの人は彼のことを、『天才と馬鹿を足して二で割った人物』と揶揄している。

 天才と馬鹿を足して割ったらそれは凡人ではないのか。小泉はそう思っていたのだが、別の先輩刑事の話によれば、まったく違うとのこと。天才と馬鹿を二分する、つまり、九十九には二極の性質が共存しているのだという。

 まったくの馬鹿か、まったくの天才か。その薄めたところ、中間点なるものは存在しない。とにかく不思議な人物だった。

「さて、と」

 そんな九十九との仕事も今日で終わりだ。名残惜しいわけではないのだが、それでも何かを想うところはある。いつもよりも少しだけ気合を入れて、警視庁の建物の中に入った。

 階段を上り、一課の部屋へ向かう。

「おはようございます」

「ん、ああ、おふぁよ」

 部屋にいたのは九十九だけだった。彼は煙草をふかしながら、気だるそうに挨拶を返した。

「参事官だけですか? え、ていうか、何してるんですか?」

「うん。暇なんだよ、部屋は片づけちゃって、何もないし」

「いやぁ、だとしても……。参事官がこんなとこで……。てか、誰もいないし……」

 小泉は辺りを見渡すも、大部屋には人はほとんどいなかった。

「みんな忙しいんだろう」欠伸を噛みながらのんびりと九十九は言った。

 みんな忙しい?

 それで出払っているのか?

 え、じゃあ、あなたはここで何を……?

 心に思っていることが口に出そうになった。

 大方、九十九が辞めることに伴う人事で、各派閥が動いているのだろう。歳末の忙しさも相まって、出払っているのか。

「あ、そだ、小泉」

「何です?」

「何かして遊ぼうぜ」

「はあ?」

 小泉が顔を歪めるのに対し、九十九はぐっと親指を立てるとにこっと笑って立ち上がり、さらにはスキップをしながら部屋を出ていった。言い歳した大人のスキップほど見たくないものはない。

 仕方なく、小泉も部屋を出て九十九のあとを小走り気味についていく。廊下を嬉々とした表情でスキップをするエリート刑事。

 なかなかに速い。なんて歩行技術だ。そこまで優れたものだっただろうか、スキップとは。日常生活ではまったく役に立たないものだと思っていたが。そもそもお遊戯の時間以外にそれを使用した記憶は小泉にはなかった。

 九十九はそのまま自身の部屋に戻ると、ソファに腰を下ろし、内ポケットからトランプを取り出した。小泉を見ると、顎で対面に座るように促した。小泉が諦めて座るや否や、九十九は切ったカードを配り始めた。

 本当にトランプをするつもりなのだろうか。トランプを片手に最後の良心が働くが、他に人がいないことも受けて心が揺らぐ。揺らぐ時点でおかしいのだが。小泉にも九十九の影響が色濃く反映されているのかもしれない。

「おし、やろうぜ、蹴散らしてやる!」九十九は上機嫌に拳を握る。

「……ノリノリですね」小泉は半ば呆れていた。九十九にも、自身にも。

「おうさ。そうだな、もしも小泉が僕に勝てたら何でも好きなものを買ってやるぞ」

「え、マジですか?」

「勝てたらね」

「何でも?」

「そう言ってるだろ?」

「あ、あ、じゃ、今日の昼飯、寿司とかでもいいですか?」

「いいよ」九十九は快諾した。

 こうなっては俄然やる気が出てきた小泉だった。

 ああ、今日の昼は寿司か、銀座の高級店でたらふく食べさせてもらおう。と、彼の心は躍っていた。顔は思わずにやけそうになるのを、必死で我慢する。

「さて、と。やるか」

「寿司ですよ、寿司」

「わかってるって。勝ったらだけどね」

「何にします?」

「大富豪かなぁ」

「ルールはどうします? ローカル強いとあれですし」

「スペ3、8切り、イレブンバック。九枚配りの三連戦を三回戦」

「参事官、やる気満々ですね」

 小泉は苦笑しながら、配られた自身の手札を見た。それを強い順に並び替えると同時にカードを記憶していく。手札の強さは完全な運だが、切るタイミングが勝敗を分ける。

「負けた場合は、残りのカードは見せます?」

「いや隠したまま山に捨てて良いよ」

 ということはカード次第ではわざと負けることも視野に入れる必要がある。心理戦も重要になってくるだろう。

 どちらが先に出すかはじゃんけんで決めることになった。

 先攻は九十九。最初はハートの5、シングル。

 それを受けて小泉はスペードの7を出す。

 そこで九十九の手が止まった。早くも長考の構えを見せる。

 8のカードを持っているか。あるいはそう思わせたいのか。

 持っている場合は、ダブル以上のカードが二組はあると見るべきだろうか。しかし悩んでいることから、決定打となるような強いカードはなさそうだ。

 初戦からこの調子である。小泉は心の中で苦笑した。

 クリスマスに、何をやっているんだろうか。いや、それ以前に職務中である。

 九十九の表情は真剣そのものだった。普段よりも厳しい顔を見せているかもしれない。

 まあ、九十九らしいと言えばそれで終わることだ。

 このまま何もなければ、九十九の刑事生活は終わりを告げ、名残を惜しみながら酒を楽しむ予定となる。ただでさえ刑事の仕事には嫌気が差すのに、年の瀬の仕事などやりたくもない。

 警察の仕事には、楽しいことなどない。いろんな事情があるにせよ、罪を犯す者は罰せなければならない。被害者はもちろん、加害者だって、できる限りはその表情を見たくはないと常々思っていた。

 特に小泉の部署は捜査一課。扱う事件は強盗や殺人など、危険なものばかり。何よりこうした事件は被害者もかなり傷ついたものが多く、それはいつになっても慣れなかった。地味なくせに、精神的にきつい。憧れていた刑事は、脚色された虚像だったと、正直幻滅したものだった。

 その中で、やはり異彩を放っていたのは目の前の男だ。だけど、その九十九も、今日限りでその破天荒な刑事生活に終わりを告げる。

 嬉しいような、寂しいような。あるいは、悔しい、のか?

 辞めて欲しくないのだろうか、自分は。

 九十九は欠伸を噛みながら、ハートの9を切る。

 それに合わせて小泉もカードを出す。

「…………」

 こんなことしていていいのだろうか。今さらながら不安になってきた。

 年の瀬で一番酷いのが交通課である。毎日が激務だ。特にこの時期は忘年会やらクリスマスシーズンによる合コンなどで飲み会が多く、当然それに比例して飲酒運転が多発、各地で事故の報告が飛び交っている。

 捜査三課の面々も出払っている。この時期は窃盗や盗難も多い。交通課同様、こちらも大変そうだ。

「なんか九十九参事官、刑事じゃないみたいすね」

 つい、思っていたことを言ってみた。

 どんな反応をするだろうかと、九十九の表情を観察していたが、ただ笑うだけだった。

「はは、かもな」九十九は一人くすくすと笑う。「ま、今日で辞めるわけだからなぁ……」

「本当に辞めるんですか?」

「ん?」

「辞めなきゃいけない理由なんかないじゃないですか」

「ふふ、かもしれないな」

「だって、参事官ですよ? 捜査一課長の上ですよ? エリートだって、全員が全員……」

「もったいないかもな」

「だったら」

「九十九、いるか?」

 小泉の声に力が入りかけたとき、一人の男が入ってきた。

 ラインの入った高級スーツを身に纏い、髪形はオールバック。目つきは鋭く、刃物のような威圧感を醸し出している。

 ここにいるということは警察関係者なのだろうが、小泉は初めて見る人物だった。

「げ、法条ほうじょうさん」九十九の顔が引きつった。

「ん? それは過去分詞形か?」法条と呼ばれた男はわずかに首を傾げ、眉を吊り上げた。

「僕はドイツ語なんてわかりませんよ」

 ドイツ語の過去分詞形は不定詞の頭にge-をつける。そのことを指して言っているのだろう。

「そうか。しかしよくわかったな、ドイツ語の過去分詞形だと。ドイツ語はわからないんだろ?」

「……揚げ足取りをしたら敵わないや」

「まあそう言うな。なんだ、サボりか? そいつは、お前の部下か?」

「ええ。何か用ですか?」

「聡明な九十九参事官ならもうおわかりではないのかな?」

 法条という男は楽しそうに、九十九はシニカルに笑った。

 なんなんだ?

 とりあえず勤務中にトランプをしていたという後ろめたさもあって、小泉は成年向け雑誌に投稿する素人のように、手をかざして顔を隠した。

「あ、ま、紹介するよ、こっちの怖い人が法条さん。一応警察ということらしいけど、怪しい人だね。まあ、端的に関わりたくない人には変わりない。公安の人だ」

「公安?」

 公安という部署は警察の中でも特殊な部署であり、主な活動が諜報的なもの、端的に言えばスパイ活動を中心に国家単位での活動を展開しているという話を聞いたことがある。とんでもなく大きな陰謀が裏に潜んでいる場合、必ず聞くのが公安だ。昔の政治家の事件や、そうした大物の不良債権絡みの事件に暗躍していたということも。

 何にしても、情報が曖昧なのだ。

 それだけ、この公安という組織自体が霧のように掴みどころがなく、普通の人間が把握することのできない、そういった特別な存在であることには間違いない。

 その公安の人間が、目の前にいる。

 不思議な感覚だった。

「今日で辞めるんだろう? 九十九、公安に来い」

「嫌ですよ。あんな怖い人達に囲まれて仕事するなんて」

「切れ者のお前がよく言う。むしろ恐れられているのはお前の方じゃないか?」法条がおかしそうに笑った。「んで、こっちのかわいい子は? 見慣れない顔だな、新人か?」

「あ、どうも……」とりあえず頭を下げ、敬礼をした。

「今年から研修で入った新米ですよ。ま、おいしいわけじゃないんですけどね。ぼそぼそした雑穀米ってところかな?」

「な……」

「くく、それは雑穀米にもこの子にも失礼だろうが。なぁ?」

 まったくである。

「しっかしもまあ、かわいそうに。配属されて早々、九十九に目をつけられるとはな」

「どういう意味ですか?」少しむっとした表情で九十九は聞き返した。

「そのままの意味さ。上司にも部下にもしたくないランキングのトップを爆走し続けるやつも珍しい」

「僕はですね、これでもかなり人望が厚い方ですよ」

「人望、ね。それでもお前を部下として扱っている本庁や察庁の頭痛のタネは消えない、お前がいる限りは。だから、お前のこの時期の辞表だってすんなり受理されることになったろ?」

「むぅ、うるさいなぁ。僕はですね、刑事になんかなりたくなかったんですよ! 無職ってわけにもいかないし、世間の目を気にして、それで仕方なく……」

「し、仕方なく警察庁に入ったんですか?」

 年間でたった二十人程度の枠だ。そんな、中小企業に就職するのとはわけが違う。わかっているのだろうか。日本一偏差値の高い大学を卒業したって、国家一種を通るのは至難の、茨の道である。

 小泉も、一浪してやっと入った国立で死ぬほど勉強して、それで血反吐や血尿を出し尽くしてやっと手に入れたエリート街道の通行許可証だった。

 それなのに。

 無性に腹が立ってきた。

「希望した部署だって、本当なら女の子の多い交通課や広報に回りたかったのに!」

「ええぇー……」

 頭痛がしてきた小泉である。

「公安に、若くて美人な子がいるぞ?」

「ほ、本当ですか?」

「喰いつくのかよ」

 思わず突っ込んでしまった。

「で、何しに来たんですか、法条さん」

「スカウトだよ。お前はどうか知らんが、公安としては本気でお前を欲しがってる」

「あ、そうですか。興味ないですね」九十九は首を振る。

「ま、断られるだろうとは思ってたけどな」法条は鼻を鳴らして片手を上げる。「気が向いたら連絡くれ。いつでも迎いを回す」

「ていうか、本当にそれだけのために来たんですか?」

「ああ」そこで法条はシニカルに笑った。「お前らと一緒で、歳末ともなるとこっちは暇でな。雑務から逃げてきたんだよ」

 それだけを言うと法条は帰っていった。本当に九十九をスカウトしに来ただけだったみたいだ。公安が帰ったあと、とりあえず、勝負を再開することになった。

「これから、どうするんですか?」

「何が?」

「いや、だって刑事辞めるんでしょう? どうすんのかなって。公安に行くのは頑なに断ってましたけど。何か予定でもあるんですか?」

「聞きたいか?」

「え? ええ、まあ」

「実はな……」

 九十九が神妙な表情になる。

 意外な表情に、思わず唾を飲み込み、次の言葉を待った。

「秘密」

「ええー? 何ですか、教えてくださいよう」

「嫌だよ、何でお前にそんなことまで教えなきゃいけないんだよ、馬鹿。僕にだっていろんな都合があるんだよ」

「ここまでもったいぶる必要がないじゃないですかぁ。ちぇ、参事官のけちんぼ」

「おい、ちょっと待て。お前、上司に向かってなんて口の利き方だ、おいこのクソガキめ!」

「俺の上司でいられるのもあとちょっとですよ」

「上等だぁ、このクソガキが!」

 そんなとき。

 九十九の刑事生活最後の日。

 神様の悪戯か、電話が鳴った。

 部屋の電話。

 嫌な予感が走った。

 お互いに顔を見つめる。

 小泉が受話器に手を伸ばそうとしたとき、九十九の携帯電話も鳴った。九十九は舌を打つと、電話に出た。

「はい。……はい、ええ、……はい、…………」

「…………」

 部屋の気圧がぐっと上がったようだった。

 耳鳴りまでしてくるような、そんな息苦しさを覚える。

「部長は? ふん……、なるほど……。課長は? ええ、了解。ええ……」

 電話を終えると、九十九の形相は一変した。今までに見たことのない、厳しい表情。持っていたトランプを投げ捨てるように、机へ戻すと、大きく息を吐いた。

「事件ですか?」

「そうだ」九十九は短く頷くと、ソファから立ち上がった。「銀行強盗だ」

「はっ?」

 銀行強盗?

 そんな馬鹿な。

 このご時世、そんな無茶な馬鹿をいったい誰が……。

「人質を取って立て籠もっているらしい」

「なっ、そんな……」

「犯人側は銀行内に立て籠もっているらしいが、詳しい状況は不明。特殊犯捜査係の出動要請と現場への急行を求められた」

 警視庁管内で発生した事件はすべて警視庁捜査一課長が捜査指揮を執るが、特に重大な事件、今回のような人質を取った立て籠もり事件の捜査は一課長の上、刑事部長が執り仕切ることになる。

「小泉」

「はい」

「準備しろ」

 最後の日。

 クリスマス。

 九十九にとって、彼は刑事人生に終わりを告げるはずだった。

 何の因果で、最後の最後で、こんな事件に……。

「小泉!」

「は、はい!」

「現場に向かう! 車を出せ!」

「はい!」

「ったく、最後の最後で馬鹿みたいな残業だよ!」


 3


「騒ぐなよ!」

 犯人の一人が人質を威嚇するように大声を張り上げた。

 女性客の小さな声にならない悲鳴のほかは、ほとんど静かなものだった。

 一瞬の出来事だった。

 わずか数十秒で銀行員を含めた人間が無力化された。

 今は人質の全員が目隠しをされている。手足も細いプラスチックの何かで縛られてしまっている。恐らくは結束バンドだろう。安価で大量に、かつ容易に手に入れることができ、人を拘束する上でこれほど便利なものもない。

 目隠しをされる前のわずかな時間で確認できたのは、犯人は三人以上で、背格好や声などから判断して全員が男。目だし帽を被っており、顔は確認できなかった。

 拳銃のようなものを持っていた気がする。

 ライフルというのだろうか、両手で持つような、大きな銃だった。

「いいか、一人でも妙な真似をしてみろ、連帯責任で全員殺すかんなぁ! わかったか!」

 上手い。

 人間の心理をよくついている。視覚を奪った上で、下手な真似をさせないよう巧みな言葉で制限をした。

 連帯責任で全員を殺す。

 たったこれだけのことでも、下手な正義感で動くことを抑制している。視覚が奪われていればなおさらだ。人質同士での連携も封じている。犯人が今どの位置にいるのかわからない状態だ、誰も手出しはしないだろう。

 誰もが震えて何もしゃべらなかった。

 かくいう自分も、緊張で手足どころか全身震えていた。

 事件発生の数分前。

 薗部愛そのべまなみは貴重な休日を使って、自宅から最寄りの銀行支店へ訪れていた。真面目に働いている者にしてみれば、銀行法ほど迷惑なものもない。おかげで銀行へ行く、というその行為自体が予定として組み込まなければならない。インターネットやコンビニといったニーズに合わせて洗練されていくものとは違う、前時代的で非常に無駄な、腹立たしい時間の使い方を強要されるのだ。

 せっかくの休日を、限られた時間を、それだけ無駄にされる。これほど馬鹿馬鹿しい話もない。精神衛生上、好ましくもない。

 ネットに口座を開設すればいいと友人は軽く言うが、利便性だけの問題でもない。ネットのセキュリティに対して、そこまで信頼を持っていなかった。

 損な性格ではあると、自覚している。心の中で愚痴をこぼしながらも、結局はこうして直接足を運ぶ選択をし続けているのだ。面倒な女だと、友人に笑われている。

 薗部の苛立ちとは反対に、幸い、それほど混んではいなかった。五人ほど待てば、済む。これを幸いと取る辺り、自分はとても優しい人間だと、気の長い人間であると思う。誰もそれを評価してくれないが。

 待っている間、今の仕事について考える。

 辞めようかどうしようか。

 恋人にプロポーズでもされれば、喜んで辞めてやるのに。

 薗部は顔を引きつらせるようにして笑った。

 どうにも、その可能性はなさそうだ。お互いに今の関係が楽だと感じてしまっている。言葉は悪いが、都合のいい恋人同士なのだ。たまに会うだけで維持できている今の関係性を、心地よいと互いに思っているのだ。言葉にしないだけで。

 それ以上を、と望まなかったわけでもない。でも、いつの間にかその感情もどこかへ潜めてしまった。きっと、あれが若さだったのだろう。

 若くはない自分に苦笑した。

 たまの休日を、それもクリスマスを、恋人と過ごしていないことからも、それは明らかだった。

 仕事を辞めたら、どう思うだろう?

 驚くだろうか。驚くだろうな。

 もしかしたら、今の関係性も、大きく崩れてしまうかも知れない。そうしたら、どうしよう?

 わからない。

 どうでもいいのかもしれない。

 もう、何もかも、考えるのが面倒だった。

 置かれている雑誌に手を伸ばそうとしたとき、女性の声が聞こえた。

「え?」

 思わず、顔を上げた。

 様々な雑音に溢れている銀行内において、女性の声など特別不思議なものでも何でもなかった。

 ただ、それは、明らかに通常のトーンとは異なっていた。

 顔を上げた瞬間には、理解できた。

 全員の息を呑む音が、聞こえたようだった。

 銀行強盗だった。

「騒ぐなぁ!」

 男がそう叫んだ。

 突然のことで、周りの客達は悲鳴を上げる暇もなく、ただただ唖然としていた。

 男は天井に向けて発砲した。

 そこで初めて悲鳴が出た。

 金を下ろしていた若い女だ。

「騒ぐなぁ!」

 男はもう一度叫んだ。

 男は三人。二人が銃を突きつけ、もう一人が無力化した客や行員を縛り上げていった。

 手前にいた薗部は早い段階で拘束されてしまった。目隠しをされてしまった今では、様子を窺い知ることはできない。

 若い女の啜り泣く声が聞こえる。

 わけがわからない。

 どうしてこんなことになるのか。

 たまの、貴重な休日に。

 信じられない。

 どこの馬鹿だ、いったい。

 銀行強盗。

 ああ、もう。

 どうしよう。

 嫌だ。

 どうしよう、どうしよう。

 まったく急なことで、回避のしようがなかった。

 それにしても……。

 ああ、まいったなぁ。

 薗部は心の中で舌を大きく鳴らした。

 まさか刑事である自分が休日に銀行強盗に巻き込まれるなど、予想できるはずもない。

 絶対みんなからいろいろ言われる。

 せっかくの休日だっていうのに。

 今日なんか、見栄を張って休みを取ったのに。

 くそう。

 現状よりも、その後の方に危機感を覚えていた。

 それにしても。

 刑事だと言っていても、結局、こんな場面では無力である自分が情けなかった。

 まるで抵抗ができなかった。

 犯人に言われるがまま。

 それほどまでに、手際が良過ぎた。

 プロの仕業?

 いや、それなら銀行を直接襲うなんて真似はしないはず。輸送車を奪う方が何倍も効率がいい。それに……。

 どういうこと?

 どうして人質を取るの?

 考え始めると、次々と疑問が沸き起こってくる。

 今は別に警察に包囲されているわけではない。

 わざわざ人質を取る必要がどこにあるというのか。時間の無駄ではないのか。そんなことをしている暇があれば、さっさと金を奪って逃げればいい。

 何を考えている?

 たしかに中にいた客を外に逃がせば強盗がばれてすぐに警察が駆けつけてしまう可能性は高くなる。

 だが。

 だからといって拘束までする必要があるだろうか? 丁寧に目隠しや手足まできちんと縛ってまで。

 わからない。

 犯人が何を考えているのか。

 こんなの……。

 嫌な予感がする。

 馬鹿の仕業でもない。

 恐らく、犯人には犯人なりの意図がある。

 怖い。

 初めて、恐怖が襲ってきた。

 通常、こういう事件は人質に危害を加えるケースは少ない。

 しかし、これは通常の秤をすでに超えている。

 だめだ、怖い。

 刑事である自分が、まるで何もできない。

 嫌だ、怖い。

 助けて。

 何も見えないということが、一切の情報を手にすることができないということが、恐ろしい効果を発揮している。

 考えれば考えるほど、深く落ちていく。

 もう今では恐怖でわずかさえも動けなかった。

 震えている自分に気づく。

 助けて欲しい。

 どうなるの、これから……。

 お願い、助けて……!


 4


 通常、警視庁管内で発生した事件の捜査は警視庁刑事部捜査第一課の課長が捜査指揮を執る。しかし人質を取っての立て籠もり事件の場合、捜査第一課長の上、警視庁刑事部長が特別捜査本部の設置を発令、刑事部総務課に対策室を設置し捜査指揮を執ることになる。

 だから今回の事件も、そうなるものだと考えていた。

 しかし実際は、現場の捜査指揮を執るのは刑事部長ではなく、参事官である九十九警視正だった。

 それは、様々な思惑があることを隠そうともしない、いかにも前時代的な上層部の、露骨な采配と言えるものだった。単純な話、すべての責任を、警察を辞める九十九に被せる腹積もりなのだろう。上手く解決に導いても、その手柄は別の人間のものに……。

 だが、そんな組織内の思惑とは関係なく、九十九の指揮は凄まじいの一言だった。

 通報からわずか十一分後にはすでに銀行支店を完全に包囲。機動隊や捜査員など延べ百人以上がすでに集まっていた。

 これが、本気か……。

 小泉は小さく息を漏らした。

 現場である銀行支店は交差点に面しており、道路を挟んだ向かい側には駅のロータリーになる。ロータリーの隣には駐輪場があり、その向こうには交番もあった。今は周辺を封鎖してあるが、駅前ということもあり野次馬が酷かった。まだマスコミの連中は見えないものの、SNSの発展のおかげで野次馬の携帯電話がその代わりとなる。それを抑えるために余計な人員を割かなければならない。

 現場に着くと一人の刑事が小泉達のパトカーまで走り寄ってきた。その刑事は敬礼をすると手短に現況を報告する。

「事件発生は午前十一時三十二分ごろで、そのとき支店内から銃声のようなものを聞いたということで近隣の住民が通報、またほぼ同時期に人質数名が解放され、駅前の交番勤務の巡査が確認し、事件が発覚しました」

「人質が、解放?」

 九十九も小泉も思わず聞き返した。

「子供連れや高齢者は目隠しをされた状態で、早々に解放されたようです」

「紳士だな」

 九十九は笑おうとしたのか、頬を軽く引きつらせた。

「居合わせた客が十数名、行員が四十名近くいるとのことです。今のところ負傷者は出ていない模様です」

「犯人側の要求は?」

「ありません」

「え、ない?」小泉は思わず聞き返した。「ないって、どういうことです? ないわけないでしょう。じゃ、なんで人質を拘束してるんですか?」

「わかりません」現場の刑事はただただ首を振るだけだった。

「犯人側の人数及び武装等は?」一人焦らず淡々と九十九は質問を重ねる。

「確認できているだけで最低三人、武装は軍用ライフルなどを確認しています」

「銀行にはいくらぐらいの金がある?」

「そ、それが、百億を超える金が用意されているみたいです」

「ひ、ひゃっ?」

「わかった。二課の清水しみずさんにも連絡を取って、その前後に何かないか洗ってもらうように。あと情報がどこから漏れたのかも」

「わかりました」刑事は敬礼すると足早に戻っていった。

「ど、ど、どうするんですか? な、なんで百億なんて金が」

「落ち着け、お前が焦ったところで何かが変わるわけじゃない」九十九は冷静な声を掛け、銀行支店の建物を遠目に見つめる。

「そ、それはそうですけど……」

「小泉、とりあえずこの支店の見取り図を取って来い。もうすぐ課長も現着するころだろう。五分で済ませろよ、いいな?」

「わかりました」

 小泉は九十九の命令通りに、交番近くにいた地元の警察署の人間から銀行の見取り図と周辺の地図を受け取った。

 足早に九十九のもとに戻る。

 心臓が痛いほど、強く鼓動を打っていた。

 刑事になってから、これほど大きな事件に出くわしたことはまだなかった。嫌な緊張がずっと体を蝕んでいる。物々しい現場の雰囲気に飲まれていないと言えば嘘になるが、それだけが原因でもなかった。

 得体の知れない、不気味な恐怖を感じる。

 自身の両頬を軽く張り、嫌な考えを振り払う。

 小泉はパトカーのボンネットの上に、銀行支店の見取り図を広げた。赤いマジックで出入り口に印をつける。

「よし」

 九十九は無線で警官達に指示を与える。

 一段落したのか、九十九は小泉の肩を叩いた。

「しっかりしろ」

「え、あ、はい。すみません」

「……お前には荷が重いか?」

「い、いえ! そんなことは」

「ならそれを示せ。寝ぼけるなよ」

「は、はい」

 慌ただしく動き回る現場の中、ゆったりとした歩調で近づいてくる初老の男性の姿が目に入った。濃いグレーのスーツに、茶のコートを着ている。その後ろには三人ほどの部下がついている。

「九十九参事官」

「ああ、粂田くめださん」

 叩き上げである粂田は、軽く鼻を鳴らして九十九を睨んだ。階級は九十九と同じ警視正だが、刑事歴は圧倒的に粂田の方が長く、風格も比べ物にならない。警視庁刑事部捜査第一課長、粂田警視正。

「大変なことになりましたな、参事官」

「ええ、まあ。僕で残念でしたね」九十九は白い歯を見せる。

「何のことですか?」粂田は鼻から息を漏らす。「部長よりラッキーだなんて、誰が言ってるんです?」

「聞かなかったことにします」

「そうしてください」そう言うと粂田は振り返り、銀行の建物を見上げる。「しかし解せませんな……」

「ええ」

「犯人は何を企んでいるのか」

「さあ」

「未だに要求はありませんか」

「ええ」

「人質は無事でしょうか」

「今のところは」

「数名は解放されたと聞きました」

「ええ」

「何が狙いなのか」

「とりあえず、出入り口にはすべて機動隊を配置しているので犯人は逃げられないはずですけどね。今のところ目立った動きはないです」

「そうですか。とりあえずここにいる者は参事官、あなたの指揮で動きます。何でもおっしゃてください」

「どうも」九十九は淡々と頷いた。

「ここまで包囲されていれば逃げられんでしょうが、それでも犯人が逃げるつもりなら車を用意しているはずです」粂田は振り返り、後ろの管理官に尋ねる。「近くにそれらしいものはないのか?」

「それを当たらせています。が、それらしい報告はありません」比較的若い管理官は首を振る。「銀行の裏に位置する駐車場ぐらいです」

「これから仲間が来るかもしれん」もう一人の細身の管理官が言った。

「可能性はあるな」

 九十九と粂田は頷いた。

「犯人は、どうやって逃げるつもりだ?」粂田は口元に手をやりながら呟くように言う。

「さあ。逃げるつもりなどないかもしれません」

「どういうことですか?」粂田は眉をつり上げる。

 言葉にしないだけで、小泉も同じく首を傾げた。奥の管理官二人も同様だった。

 しかし九十九は簡単に首を振り、答えた。

「いえ。ただの可能性の一つです。寒さを凌ぐためにわざと刑務所に行く人いるでしょ? 特に三課で扱う盗犯に多いと思いますけど、どうです?」

 九十九は近くにいた別の刑事に意見を求めた。

「あ、ええ……。たしかに、珍しくはありません」

 罪の意識がないことよりも、そういう場合は性質が悪い。刑期を終えてもすぐに盗んで戻ってくる。本当にきりがない。

 だが、それはあくまでも軽犯罪の場合だ。捕まりたいのならもっと手短な方法があるだろう。わざわざ銀行を襲ったりするだろうか。

 その点は引っ掛かる。

 だから、犯人の目的は単純に金目当てだろう。だが、それにしては少々効率の悪い方法を取っているように思える。

 なぜ立て籠もる?

 いくら九十九の指揮とはいえ、警察が到着する前にいくらでも逃げられたはずだ。

 人質も数人解放しているため、逃げ遅れたということもない。

 いずれにせよ、不可解な点が多い。

 小泉にはわからないことだらけだった。否、この場にいる誰にもわからないはず。犯人の狙いは何なのか。

「プロのやり口とは違う」

「そうですね。プロは銀行など襲いません。それこそ、プロと呼べる人間を相手にするのは二課。部署が違います。歴戦の粂田さんでも経験はありませんか?」九十九は少しばかり茶化すようにして聞く。

「ありませんね」粂田は簡単に首を振った。「銀行強盗自体、それほど多くはありません。人質を取った立て籠もりも、わずかです。百億もの金額があるみたいですし、何かあるんでしょう」

「…………」

「九十九参事官、どう思われますか?」

「うーん、犯罪に関して言えば、銀行強盗をチョイスするあたりが素人臭いですね。だけど、そのやり口は天才的だと思います」

「天才的、ですか。犯人が天才だとするならこのまま終わることはない、と?」

「このまま終わりませんよ。もしも犯人が馬鹿なら、すでに何らかのアクションがあってもいい。だけどそれがない。逃走車両の要求ぐらいあるのが普通ですけど……。つまり、そういう我々の想像しやすい行動をとらないということは、やはり犯人は馬鹿じゃないということでしょうね」

「組織的な犯行?」

「わかりません。具体的に今何人いるのか把握できればいいんですけど」

 現場に緊張が走っている最中、九十九だけはいつも通り気だるそうにしている。良い言い方をするなら一人冷静で落ち着いていた。年齢や身に纏う風格もあって、粂田課長の方が上司らしく映る。そんな歴戦の刑事である粂田をもってしても、緊張を隠せずにいる。

 九十九の指摘する通り、小泉も犯人が只者ではない気がしていた。

 ここまでの数の警察に完全に包囲されていながらも、まるで動く気配がない。普通なら焦って人質を盾に何らかの行動を起こしても不思議ではないと思うのだが。

 それをしてこないということは、する必要がないからではないのか。つまり、何か秘中の策を持っている可能性が高い。

 銀行強盗。

 他の犯罪に比べれば成功確率は極めて低い。

 一般人とは違い、銀行にはそうしたマニュアルもあり、カラーボールなどの装備もある。たとえ一時的に金を持って逃げることに成功しても、いずれは捕まる。現代では防犯カメラも街中に設置されている上に、警察にはNシステムもあるのだ。

 相当緻密な計画を練らなければ、警察から逃げることなどできない。最近は不祥事続きで市民の信頼を損なっている日本警察ではあるが、腐っても日本警察、世界規模で見ても日本の警察が優秀であることには変わりない。

 金目当ての犯行ならば、何も銀行を襲わなくてもいろいろな方法が存在する。割りと簡単なのはリベートだ。見積もり予算を通常よりも多く設定する、賄賂。こうした知能犯を扱う部署が捜査二課なのだが、銀行を襲うことを考えれば遥かに簡単で成功しやすい。

 それなのに、なぜ……。

 犯人はどう動く?

 そろそろそちらのカードも見せる頃合ではないか?

 銀行の出入り口正面には機動隊が盾を構えて、出入り口へのステップを取り囲むようにして並んでいる。その後ろから一人の刑事が拡声器を使って説得を試みている。

 しかし銀行内からは何の返事もない。防犯用のシャッターが下りているため、中の様子を窺うことはできない。

 小泉は腕時計で時刻を確認する。

 警察が到着してからすでに一時間以上が経過していた。

 よくてあと一時間か。

 これ以上膠着状態が続くようなら多少強引にでも突入せざるを得ないだろう。

 風が強くなってきた。

 マスコミが嗅ぎつけて、バンやヘリなどで集まってきている。

 粂田がため息をついた。

「九十九参事官」

「はい」

「マスコミを押さえるのは私がやります」

「助かります」

「気をつけてください。一筋縄ではいかないと思います」

「ええ、僕もそう思います」

 九十九は微笑みながらそう言った。

 粂田は苦笑して、マスコミの群れに向かっていった。

 ベテランの風格なのだろうか。

 小泉にはどうしても落ち着いていられなかった。

「九十九参事官」

「ん?」

「犯人は、考えているのでしょうか?」

「……何を?」

「思考しているのでしょうか」

「気が狂っていると?」

「自棄を起こしているとかは考えられないでしょうか」

「そりゃ起こすさ。でなけりゃ、銀行を襲ったりしない」

「それはそうですけど」

「まあたしかに、お前の言いたいこともわかる。だけど、相手は最低でも三人いる。三人とも狂人で、見境なく犯行に及んでいるとは考えにくい」

「…………」

「何か、あるのかもな」


 5


 物音はほとんどない状態だった。

 人質の啜り泣く声ぐらいか。

 その他はすべて外からのもので、支店内は静かなものだった。

 犯人は何を……?

 薗部は聞き耳を立てるが、何かがわかるわけではなかった。

 すでに金を奪って逃げたのか。

 保身だけを考えるならば、それが望ましかった。

 しかし、そんなはずはない。それぐらいはわかる。逃げる時間などなかったはずだ。

 どれぐらいの金額なのか。それによっては、運び出すのにもかなりの労力がいることになる。

 先ほど、犯人の一人が女性行員を一人連れて奥へ行ったようだった。

 時間は、どれぐらい経っただろう。

 全然わからない。

 目隠しされている上に、極度の緊張で時間など想像もできない。体感としては、かなりの時間が経過している気はするが、でも、そんな感覚はあてにならない。

 何を考えているのか。

 時間など、どうでもいいのに。

 自分の思考が嫌になる。何も考えられない。考えたとしてもまったく関係のないことばかり。本当に自分は刑事なのか。

 落ち着け、冷静に、冷静に。

 薗部は自分に言い聞かせるように、何度も心で繰り返した。

 犯人は四人ぐらいいる。それは話をしている感じでわかった。少なくとも一人は自分達人質を見張っている。下手な動きはできない。目隠しをされ、手足も縛られた状態で何ができるわけでもないが。

 …………。

 あれ?

 何か、変だ。

 違和感が……。

 ふとした疑惑が、彼女の中を走った。

 何だ?

 手足縛る理由はわかる。下手な抵抗をさせないためだ。

 でも……、目隠しはなぜだ?

 どうして目隠しをする?

 例えば誘拐事件なら、人質に居場所を特定させないためにも目隠しをする必要はあるだろう。

 だけど、銀行強盗で人質に目隠し……?

 なぜ?

 犯人はそもそも目だし帽を被っていた。顔が割れる恐れはないはずだ。

 いや、目だし帽だって、完璧に顔が隠れるわけじゃない。目と口の周りは穴が開いているし、その場所にほくろなどの身体的特徴があって、それを見られる可能性はある。

 しかしだからと言って。

 何か違う気がする。

 恐怖感を煽るため?

 たしかに人間は視界を奪われると極端に行動が制限され、見えているときに比べて恐怖を感じる。それを狙っているのか? それなら理に適っているが……。

 人質の恐怖心を駆り立てていったい何の得があるのか。抵抗はしなくなるかもしれない。しかし、手足を縛っている。

 万全を期しているのか?

 いや、それでも目隠しをするのにタイムラグがなかったわけではない。これだけの人数だ。全員に目隠しをするとなれば、最後の方の人間にはそれまでに観察する時間を与えてしまう。

 わからない。

 まるで何も。

 何を考えているのか。

 警察は何をしているのだろうか。

 さっさと捕まえて欲しい。

 なんてクリスマスだ。

 無性に叫びたかったが、犯人を怒らせても嫌なので我慢した。

「……?」

 がちゃがちゃと何か音が奥で聞こえる。

 しばらくすると、何かが床を転がるような音がすぐ近くで聞こえた。

 何かを運んできた?

 そしてまた転がる音は奥へ消えていった。

 何かを運んでいるのか。そのための往復。

 金の入ったケースでも運んでいるのか?

 でも、警察に包囲されているのにどうして……。

 今もスピーカーで外から警察が犯人に向けて説得を試みている。

 しかし犯人達は相変わらず何かを運び続けており、そこからは焦燥感など感じられない。

 焦っていないということは計画通りということか?

 つまり、逃げる策を持っていることになる。

 そしてそれに対して絶対の自信を持っている。

 銀行の周りはすべて包囲されているだろう。恐らく出入口のすべてを警察が取り囲んでいるはずだ。逃げ道は断たれている。

 それなのに、何か逃げる算段があるというのか。

 いったいどうやって……。

 地下?

 地下に道を掘っているのか。

 いや、違う。

 金をここに運んできている。

 え、じゃあ、ここから逃げるつもり?

 出入口は囲まれているのに?

 ……まさか。

 脳裏に過ぎった最悪のイメージ。

 瞬間、背筋が寒くなり、嫌な汗が薗部の頬を伝った。

 人質を盾に強行突破……?

 考えるだけで震える。

 逃げる、のではなく、押し切る、のか……?

 まさか。

 必死で最悪のイメージをかき消す。

 だめ、だめ。

 頭を振る。

 頭を振って嫌な考えを振り払うように。

 落ち着け。

 落ち着いて。

 換言できない、得体の知れない恐怖がまとわりつく。

 こんな感じなのだろうか。

 被害者が体験する思いとは、こんなに辛いものなのだろうか。

 いつもは逆の立場に立っている自分。

 初めて経験する恐怖。

 震えが止まらない。

 甘かった。

 認識が甘かった。

 自分は、自分はなんて馬鹿だったんだ。

 これではまるで。

 自分のしてきたことは軽はずみな同情で被害者を思い、安い正義感で犯罪を憎み、事件を解決することで自己満足に浸っていただけではないか。

 自分は何も理解していなかった。

 被害者の気持ちを。

 被害者が受ける恐怖を。

 これが、恐怖。

 小泉はきゅっと口を結び、溢れんばかりの恐怖に耐える。

 だが、それもすでに限界を迎えようとしている。

 頭がおかしくなりそうだった。

 叫びたかった。

 恐怖に耐えられず、何かを無性に叫びたかった。

 でないと、とても正気を保てそうにない。

 心臓を何かに掴まれたように、苦しい。

 涙が溢れてくる。

 止まらない。

 怖い。

 怖い、恐い。

 嫌だ、こんなの。

 嫌、嫌、

 嫌、嫌、嫌!

 早く帰りたい。

 もう嫌、お願い、誰か助けて。

 吐き気が襲ってくる。

 気持ち悪い。

 恐い。

 お願い、帰して。

 帰して、家に。

 返して、普段の日常を。


 6


「地下通路などは存在しませんが、一応念のために半径五キロの下水管などに捜査員を配置しておきました」

「ん、ご苦労」九十九は手を擦り合わせながら答えると、重ねた両手に吐息を吹きかけて暖めた。

「それから二課の清水さんに確認してきました」

「どうだった?」

「この支店はこの地域でもかなり大きいそうでして、金庫等に常備されている金額もかなり大きく、有名な政治家や大企業などもこぞって利用していたみたいです。そして偶然なのか、そうした大物の顧客が今日同時に多額の金を引き下ろす予定になっていまして、百億ほどの金が用意されていたわけです」

「偶然? そんなもの信じろと?」

「あ、いえ……」

 九十九が聞き返すと、報告をしていた部下の顔が一瞬で強張った。

「あ、あのう……」

 緊迫した空気の中で、恐る恐る小泉は手を上げた。

 多くの先輩刑事達が咳払いをして、一斉に威圧する。

 九十九は片手を広げ、全員を制すと、小泉に向かって顎を突き出した。話せ、ということらしい。

「えっと、関係あるかはわかんないですけど、近くで美術品の競売があるんですよ」

「オークション?」細身の管理官が腕を組む。

「ええ、そうなんです。で、目玉のものになると、相場が億単位が当たり前らしく……」

「それですかね?」管理官は九十九を見る。「現金で用意できないと落札できないとか……」

「可能性はあるな。てことはあれか、ある程度、犯人達からしてみれば目星はついていたってわけか」

「でもだからと言ってこの銀行とは……」

「今は、してあった事実だけに注目すればいい」

「…………」

 九十九は捜査車両を降りると、黙って空を見上げた。厚く張った雲は、雨こそ降らせないものの、嫌な焦燥を駆り立てるには充分だった。日が差しているのならば、少しは気分も違うだろうに。そんな暗い雲を、ただただ九十九は眺めていた。東京では、星空だって望めないのに。

 小泉も九十九の後を追って外へ出た。

「ただの偶然でしょうか。それとも犯人は百億を奪うつもりで計画を立てていたんでしょうか。でも、そうなるとどうやってこの情報を得たのか。銀行だって、百億あるなんてことは死んでも秘密にしたいことじゃないですか。そう簡単にそうした機密が流出するとも思えないだろうし……」

「うーん、ロマンチックじゃないか?」

「は?」

 ロマンチック?

 何を言っているのか、この男は。

「クリスマスに百億を盗むなんてロマンチックじゃないか。はは、犯人はサンタクロースだな。トナカイはどこだろ? トナカイで空へ逃げるつもりかもしれないな」

「ど、どこまで本気で言ってるんですか、あなたは」

 まるで緊張感がない。

 この緊迫した状況でそうした軽口を叩けるのも、恐らく九十九ぐらいだろう。九十九だけであってほしいものだ。

 結局、ずっと膠着状態が続いている。

 手詰まり、なのか?

 額に滲み出ていた不快な汗を拭う。

 人質が多すぎる。内部の様子もわからないのでは、特殊部隊を突入させるわけにもいかない。

 相変わらず犯人側に目立った動きは見られない。

 一番出口が広い建物正面に警察が詰め寄っており、行員専用の裏口などには少数の機動隊が配置されている。

 周りの建物の屋上からは狙撃手が構えている。ただ位置関係上、狙撃ができるポイントは限られているらしく、彼らが狙っているのは建物の正面のみ。一番大きい正面出口のみを押さえている格好だ。

 裏口は周りにビルが並んでおり死角も多いが、路地も狭く、機動隊が車両で道を塞いでいるので問題はないということらしい。

 この状態から犯人が逃げられるとは考えられないが、それでも突入のタイミングを計るのは非常に難しい。一つ間違えれば大惨事になる。磐石の態勢には変わりない、だがそれでも、油断などできるはずもない。

 どうする?

 小泉は横目で指揮官を見つめる。

 第一に考えないといけないのは人質の安全だ。犯人確保は二の次でも構わない。

 犯人は一度もこちらの交渉には応じていない。それを考慮すると人質を解放するということはないだろう。

 通常、犯人にとって最大の武器は人質だ。最強の矛にして、最強の盾でもある。ゆえに、どう考えてもそれを手放すということはしない。人質を解放するということは、自分の首を絞めることと変わらないのだ。

 しかし、だからこそ、人質はそう簡単に傷つけられない。こちらから煽るようなことをしなければ人質は安全だ。

 ……だったら、なぜ。

「どうして最初に数人を解放したのでしょう?」小泉は九十九を見る。

「子連れと高齢の利用客だけは解放。紳士的で、世論的にも注目度は高くなるな」

 九十九は吸っていた煙草を携帯灰皿で踏み消した。そしてまた新しい煙草に火をつける。

「その解放された数人から話は?」

「有力なものは何も。顔も見れなかったそうです。ただ、乱暴なことは一切なく、言葉遣いもとても丁寧だった、と」

「やっぱり紳士だな」

「…………」

 考えてみれば、九十九は刑事生活最後の事件でとんでもないものに出くわしたことになる。それも多くの人命が関わっている、責任重大なもの。最後の最後で……。

 九十九にとって、最後の試練なのかもしれない。

 今、彼はどういう気持ちなのだろうか。

 警察としては説得と突入の二つの方法しかない。だが前者の望みは薄い。犯人がそれに応じなければまるで無意味。あとは突入しかない。

 だけど、その突入のタイミングが難し過ぎる。間違えられない。下手を打てば人質の命に関わる。

 犯人と人質の数が正確に把握できて、かつ、その位置関係もわからなければ突入はできない。

 銀行の建物は明かりが消えている。カーテンやブラインド、シャッターが下りていて中の様子を窺うことはできない。

「そろそろか」九十九が腕時計を見ながら呟いた。

「え?」

 すると、紺色のコートを着た男が近づいてきた。先ほど知り合った法条という男だった。

「悪いな。少し手間取った。こっちだ」

 法条は顎で黒いバンが駐まっている方を指した。銀行から少し離れた路地に、黒のバンが二台駐まっている。他の警察車両とは異なるものだった。

「小泉、お前も来い」

「え、はい」

 小泉も九十九のあとをついていき、法条が示した黒いバンに乗り込んだ。

 車内にはいろいろな機材があり、一人の眼鏡をかけた不摂生で神経質そうな男がそれを操作していた。

「映像を出せ」法条は男に指示を出す。

「こちらです」男はぼそぼそとした口調で言うと、ディスプレイを二人に向けた。

 画面に映っていたのは、銀行内部の様子だった。

 人質と思われる人達が手足を縛られて床に座っている。布のようなもので目も覆われているようだった。

 そしてその近くにアサルトライフルを持った犯人が人質を見張るようにして立っている。目だし帽を被っており、背は高い。体格からして男のようだ。犯人らしき人物はこのアングルからでは一人しか映っていない。

「人質は全員で何人ですか?」九十九が男に尋ねる。

「一階の全体像を映します」

 男が端末を操作すると、こちらが見ていたディスプレイも映像が変わった。位置的に店内の奥の防犯カメラだろう。出入り口の扉のところに人質が固められている。

「……四十二人ですね」小泉は数えて口に出した。

「他には? アングルはこれだけ?」

「いえ、ここで、切り替えれます」

 九十九は言われたようにボタンを操作しながら、確認をしていく。

 一階のロビーには人質が出入り口のところに四十二人。それを見張っている犯人が一人。また、そのすぐ近くに大量の黒いバッグが置いてある。荷台に十個ぐらい詰まれているのが二つ。

「あれが百億でしょうか?」

「……だろうな。あのカバンの大きさだと、一つに五億から六億は入る」

 なら、全部で軽く百億以上はある。

 九十九は映像を切り替えていく。

 奥の部屋からさらに犯人が二人、一人の女性行員を連れてロビーにやってきた。

「これで全員ですか?」

「……そうだろう。他の部屋にはいない」

 犯人は三人。

 人質は四十三人。

「ならば、今が突入のチャンスだな」法条が静かに言った。「今なら犯人が全員揃っていて、さらにその場所も一階と、警察にとっては嬉しい限りだ」

「みたいですね。法条さん、ありがとうございました」

「本来なら、公安がこういう件に関わることはないんだが、ま、お前の頼みだったしな。それに、こちらとしても恩を売っておくのは悪くないことだ」

「嫌な人だなぁ」九十九は苦笑を見せる。

「警備部には?」法条が尋ねた。

 警備部には特殊急襲部隊、通称SATが存在する。そこに応援はしなくてもいいのか、という意味の質問だろう。

「うちにも腕利きはいますから」

 九十九はそう言うと、自身の権限を最大限に利用し、突入に際して少数による特別チームを編成させた。特殊犯捜査係からも何人かを指名し、自身のもとに招集をかける。

「それじゃ、とりあえず行ってきます。小泉、行くぞ」

 九十九は車を降りるとすぐに無線を使って指示を出し始めた。

 次の九十九の合図で突入することになった。

 現場にさらなる緊張が走る。

「小泉」

「はい」

「緊張するな」

 九十九は微笑む。

 緊張をしていた小泉を気遣ってのことだろう。

「お前は正面を頼む。僕は一番人手の少ない裏に回る。大丈夫だよ、何も僕達が突入するわけじゃない。SITの連中や他のチームが突入して、もしもその際に犯人に逃げられた場合、僕達が追う。追うと言っても、すでに広範囲に渡って網は張ってある。心配することはない」

「はい」

 しかし。

 頷いてみたものの、まるで嫌な予感が拭えない。

 初めてだからか?

 刑事になって初めての大きな事件だからか?

 九十九にとっては最後の……。

 嫌な予感が。

 全身を覆う不安と恐怖はまるで消えようとしない。むしろ、増していくばかりだ。

「あ、つ、九十九参事官」

「ん?」

「なんか、凄く嫌な……、なんか俺! うまく言えないけど、でも、嫌な感じがずっとしてて、……それで」

「大丈夫だよ。銀行強盗なんて、犯人が天才でもなければ成功しないよ。帰ったら、美味い飯でも食おう」

 それだけを言うと九十九は銀行の裏手へと歩いていった。

 臆しているのか。

 いざとなって、足が竦んでいるのか。

 わからない。

 なんでだろう。

 それでもこの嫌な気分は何なんだ?

 震える自分の頬を張り、気を引き締めようとした。だがそれも適わなかった。どこか気持ちがふわふわしている。地に足が着かない感覚に溺れる。

 不安、緊張、そして恐怖に、巣くわれる。

 隣に立っていた先輩刑事に肩を叩かれた。

「大丈夫だよ」

「で、ですよね」

「参事官の指揮だ。普段はああだが、いざとなればこれほど心強い人もいない」

「犯人も馬鹿だな。あと一日遅くやってれば、な」若い管理官が笑う。

 上司達が小泉を元気づけてくれる。有り難かったが、それでも不安をすべて消し去ることはできなかった。

 そして、気持ちを切り替えることもできないまま、九十九の突入命令が出された。まずは九十九のいる裏口から少数で中に入り、犯人を視認する手はずになっている。

 この次の突入命令が、一斉によるものとなる。

 静寂が耳を衝く。

 時間が止まってしまったかのように、誰も何も言わず、固唾を飲んで待っていた。

 クリスマスの外だと言うのに、汗が止まらなかった。

 そして。

 指揮を執る九十九参事官から、一斉突入の命令が下された。

「……っ!」

 その命令と同時に、前衛にいた特殊犯捜査係が数カ所から閃光手榴弾を銀行内へ投げ入れた。

 ガラスが割れる音。

 悲鳴。

 そして凄まじい光と音。

 強烈な耳鳴り。

 小泉が立っている位置は銀行から離れているのでまだいいが、恐らくは立っていられないほどの音。

 三半規管を直撃するような音だ。

 そして次々に重武装した人間が中に突入していく。

 後ろにいる刑事達は固唾を呑んで見守る。

 自分のポケットに九十九から渡された耳栓が入っていた。

 ああ、耳栓をするのを忘れていた。

 そんなことを思っているとき。

 耳鳴りが徐々に治まってきたとき。

 銀行内から叫び声が聞こえた。

「人質を確保ぉー!」

 特殊犯捜査係の人間の声だ。

 そして、人質を抱きかかえるような格好で、装備をした者達が外に出てきた。

 それを見た周りからは安堵のため息が漏れた。

 待機していた救急隊員もストレッチャーを用意する。

 突入して数分。

 人質は全員無事で、建物の外に救助された。外傷はないが、精神的な疲労などもあり、待機していた救急車に乗せられる。

 全員が無事。

 それで安堵の空気に包まれかかった現場だが、ここで、ある異変に気づく。

 おかしい。

 周りも徐々にその異変に気づき始め、ざわつき始めている。

「……」

 

 どうしたんだ?

 銃声はなかった。

 通常、あの手の閃光手榴弾を投げ込まれれば、反射的に体をくの字に曲げて抵抗することなどできない。さらに三半規管に直接響く超高音で、立っていられないはず。

 人質は救出された。

 だが、犯人を確保したという報告がない。

 どういうことだ?

 焦燥感に駆られ、小泉は走り出した。

 拳銃に弾が込められていることを確認する。

 破裂しそうな心臓を押さえながら、銀行内部へ入った。

 ガラスの破片が散乱していることぐらいしか変わった様子はない。

「小泉!」

「九十九参事官、犯人は?」

「……お前は見てないのか?」

「は? どういうことですか?」



 どこにもいない?

 何を言ってるんだ?

 どこにもいないわけが……。

「金だって消えてるんだ、すべて!」

「だって、出口はすべて……」

「ああ。突入の合図で、閃光音響弾と発煙弾を投げ入れ、各出入口からチームを突入させた。もちろん、各出入口には犯人が逃げてきても捕まえられるよう、捜査員で包囲してある」

 それはずっと見ていたことだ。

 正面出口の方を小泉は見ていたが、犯人など誰も出てこなかった。

 じゃあ、どうやって……?

 どこにもいない?

 言葉は理解できるが、上手く飲み込むことができない。

「……小泉、人質は?」

「え、無事ですけど」

「違う! ?」

「え?」

 九十九は舌を鳴らすと、外に走り出した。

 そして次の瞬間、大声で叫んだ。

「全員、その場を動くなぁ!」

 その声に呆気に取られ、全員が動きを止めた。人質を病院に搬送しようとしていた救急隊員も九十九を見ている。

「小泉! この場にいる捜査員、捜査員名簿を持ってきて全員いるか、!」


 7


 薗部はようやく安堵のため息をつくことができた。

 助かった今でも震えている。

 安堵からか、涙も止まらない。

 どんなに幸せだったか。

 今までの日常がどれほどまでに貴重で掛け替えのない大切なものだったか。

 それを今だからこそ、認識することができる。

 甘かった。

 自分の考えがすべて甘かった。

 無事にこうしていられる。

 それがどれだけ幸せなことなのか。

 こうして、何の心配もなく微笑んでいられることがどれほど素晴らしいことなのか。

 助かったときには、目の前にいた見知らぬおばさんと、抱き合って、泣いて、お互いの無事を確認しては、喜んだ。

 隣にいた見知らぬ男性とも顔をくしゃくしゃにして喜んだ。

 だけど。

「全員、その場を動くなぁ!」

 病院に搬送される直前、刑事の一人が叫んだ。

 全員がそちらに注目する。

 警視庁刑事部の九十九参事官。

 警視庁きってのトラブルメーカー。

 そんな彼が動くなと叫んだ。

 弛緩した雰囲気は一気に失われた。

 薗部の顔色はどんどん血の気を奪われていく。

 警察の活躍により、薗部を始めとした人質は皆解放された。

 銀行強盗犯は人質に対しては何もしなかったが、警察の投げたものにより、煙を吸い込んだ人も多く、最寄りの病院に搬送されるはずだった。

 だが九十九警視正がそれに待ったを掛けた。

 どういう……。

 そこで気づく。

 重大な事実に気がついた。

 犯人は?

 犯人はどこだ?

 捕まったのか?

 でもそれにしては……。

 解放された人質達から、安堵の笑顔が消えた。


 8


 小泉が九十九の思考に追いついたのは、捜査員を調べ終わったときだった。

 銀行強盗。

 それはたしかに目の前で起きていた。

 突入直前、銀行内の映像を見たときにはたしかに犯人は三人ロビーにいた。

 出入口は当然、そのすべてを警察が完全に包囲していた。

 正面出口からは小泉自身、ずっと見ていた。

 現場指揮官である九十九の合図とともに、重装備の特殊犯捜査係が各出入り口から突入した。

 その際に銀行内から出てきた人物はいない。もしいれば誰かが気づくはずだ。気づかないはずがない。百人以上の捜査員でこの場所は埋め尽くされている。見逃すというミスはしないはず。

 正面出口には最も多く捜査員が配置されていた。

 現金を運び入れる際に使用する大きめの裏口と行員専用の出入口だが、こちらには少数ながらも九十九参事官自らが編成したチームが万全の体制で取り囲んでいた。特に行員専用の出口の方には指揮を執っていた九十九が見張っていたのである。

 逃げられるはずがない。

 だが、そんな状況にもかかわらず、銀行内はもぬけの殻だった。

 完全に包囲された銀行内から逃げることは不可能。つまり、犯人は銀行内に残っていたという論理が成り立つ。もちろん、そのままの格好で残っていればただの馬鹿だが、別の方法を取った。

「着替え……」

 人質や捜査員に紛れて逃げるつもりだったのだろう。

 人質は救出の際、手足を工業製品なんかでよく見る半透明なプラスチックのベルト、結束バンドで締められていた。それに加えて目隠しもされていた。

 犯人が人質の自由を奪うために手足を縛るというのは理に適った行動と言えるが、目隠しだけはどうにも腑に落ちない。視覚を奪う理由があるようには思えないのだ。

 だけど、逆にそれがヒントに繋がる。

 目隠しをしたということは、人質の視覚を奪う必要があったからであり、つまり、ということになる。

 犯人が逃げる際、人質の数が増えていれば発覚する危険性が高い。だから犯人は最初から人質が何人いるのかを把握されないよう、人質全員に目隠しをしたのだろう。

 なかなか考えた方法ではあったが、さすがに腐っても名刑事、九十九はすぐにその可能性に気がついた。

 捜査員名簿などでこの場にいる警察関係者を全員調べたが、全員本物。犯人が警察関係者に扮しているということはない。余分な人間はいなかった。

 残るは人質だけだ。

 人質は全員で四十三人。犯人が紛れていれば四十六人になっているはず。

 小泉は改めて、九十九の卓越した思考力に息を呑んだ。

 冷静だ。

 突入した銀行内に犯人がいなければ、普通は冷静でいられない。よくあの状況で、ここまでのことを思考できたものだ。犯人にとって誤算だったのは、九十九が優秀だったことか。あのまま人質が病院に搬送されていれば、それに紛れて逃げられただろうに。

 間一髪で九十九が呼び止めた。

「天才、か」

 周りの刑事の評価は正しかったのだろう。無茶苦茶な男ではあるものの、それでも一貫して評価されているのには、この才覚があるからか。

 最後の最後まで……。

 呆れるほどの才覚、そして自身との差に感心とともに辟易してしまう。よくわからないため息をつきながら、小泉は各救急車を回った。

 救急隊員からの小言を聞き流しながら、人質達の人数を刑事達と確認していく。その際に簡単な身体検査も行なった。誰が犯人かはまだわからない。気は一切抜けなかった。


 だが。


 現実は、小泉の想像の遥か上に存在した。

「…………」

「……そ、そんな……、馬鹿な……?」

 人質にされていた被害者の数は、四十三人。

 九十九も唖然と佇んでいた。

 何度数え直してみても、四十三という数字は不変だった。

「なっ、ど、どういうことですか?」

 あまりの事態に、思わず口調も荒れる。

 しかし刑事達も苦い表情を浮かべ、首を捻るだけだった。

 九十九は黙ったまま。

 何も言わない。

 被害者達は不思議そうにして小泉達を見ていた。

 どういうことだ?

 どうして四十三人しかいない?

「馬鹿な!」

 突入する前、犯人は銀行内部にいた。それは間違いない。

 しかし、実際にはそれらしき連中はいなかった。

 なら。

 なら、なら!

 人質や捜査員に紛れて逃げるしか……。

 しかし、捜査員や人質に事件後増えている人間はいない。

「……人質や警察に変装して逃げたんじゃないのか?」

 頭を抱えながら小泉は呟くように言った。

 それともまだ、銀行内に隠れているのか?

「…………」

 なんだ、これ、どうなってる?

「どう考えたって不可能だろう! 銀行を完全に包囲されていて、どうやって逃げたというんだよ!」

 完全に混乱していた。

 何が起こっているのか。

 何が起こってしまったのか。

 小泉はまるで把握することができなかった。

 ただ人質だった被害者達を見つめることしかできない。

 どこへ消えた?

「九十九!」

 法条が厳つい顔をさらに険しくしながら、こちらにやってきた。

「法条さん」

「どこにもいないのか?」

 法条は小泉と九十九を交互に見る。

 九十九は何も言わず、ただ被害者達をぼんやりと見ているだけ。仕方なく、小泉が答えることにした。

「は、はい……。警察関係者や人質に紛れている可能性を疑ったのですが……」

「だとしても、あれだけの金や武装していたライフルまでもが消えることはない」

 法条の指摘はもっともだった。

 警察や人質に紛れて逃げるとしても、金は持っていけない。

 しかし、じゃあ、どうやって?

 わからない。

 まったくまるでわからない。

「……だめだ」

「え?」

 九十九が何かを呟いた。

「もう捕まえられない」

「な、何言ってるんですか、参事官!」

「確認に時間を割いた。その間に犯人はもう……」

「う……」

 たしかに、突入からかなり時間が経過している。

 もしも犯人が逃げていればかなりの距離を移動できているはず。

 いや。

「まだですよ、参事官! こういうときのために各所で検問を……」

「報告がない。無駄だ、やられたよ」

「そんな……」

「一応、銃器の線からこちらでも洗ってやる」

 法条はそう言うと、足早に現場から立ち去った。

 小泉は銀行支店を見上げる。

 誰も残っていない。

 金も奪われた。

 警察の、完全なる敗北だった。


 こうしてクリスマスに起きた銀行襲撃事件は、警察の完敗という形で幕を閉じることになった。

 この後、銀行内部を徹底的に調査することになるが、犯人の手掛かりになるようなものはまるで出てこなかった。

 人質だった被害者達から執拗な取調べを行なうも、それが実ることもなかった。

 公安が記録していた犯行時の銀行内部の映像を解析してみても、突入時の発煙弾が煙幕となり、何も重要なものは撮れていなかった上、突入時に故障したのかその後は映っていなかった。

 マスコミも大々的にこれを取り上げ、自分達を徹底的に閉め出した警察を痛烈に批判した。まるでその所為で犯人を取り逃がしたと言わんばかりの、酷烈で貧相なジャーナリズムを連日振りかざしていた。

 すべてが鮮やかすぎた。

 犯人も、

 百億も、

 行方はわからない。

 残ったのは、わからないという事実だけ。

 こうして最悪のクリスマスが終わりを告げた。


 9


 前代未聞というか、空前絶後というか、とにもかくにも形容し難い史上最悪のクリスマスから数週間。

 百億という文句なしに日本犯罪史上最悪の被害額を出した銀行襲撃事件は、意外な進展を見せることになる。進展と言っても、それは犯人に関する手掛かりなどではなく、事件の裏側が垣間見られるという意味であり、捜査機関としての進展ではない。週刊誌やワイドショーが盛り上がるようなネタだった。

 銀行強盗。

 完膚なきまでの敗北だった。

 もちろん、それをマスコミが見逃すはずがない。

 ここぞとばかりに警察へのバッシングが始まった。新年を迎えてもその話題が薄れるような気配はない。銀行強盗とは関係のないところにまで批判は飛んでいる。

 小泉進は先ほど買ってきたハンバーガーを食べながら、今日の朝刊を開いた。

 無茶苦茶だ。

 あの状況で、誰が逃げられると思うのか。銀行は完璧に抑えていた。完全に包囲してあったのだ。

 それなのに、それなのに。

 いまだに犯人の行方や犯行方法はわかっていない。

 まるで何も。

 九十九も、そしてたまたま事件に居合わせた同僚刑事の薗部も、辞めてしまった。

 九十九の場合、辞表の受理という形ではなく、世間的に、捜査指揮の責任を問われて、というものになった。

 九十九は警察庁の人間だが、警視庁に出向している身分だ。その責任の擦り合いは至る所に飛び火し、醜い姿を曝しては、余計な問題を引き起こそうとしている。

 多くの人間がその上層部の決定に異議を唱えたが、当の本人は辞める人間には関係ない、といつものように笑っているだけだった。

 薗部は、刑事に向いていなかったと一言残して去っていった。

 誰も何も言えなかった。

 正直、今の警察に覇気はない。

 あの事件により想像以上の大打撃を被ってしまった。立ち直るには、まだまだ時間が掛かりそうである。

 二個目のハンバーガーに手を伸ばそうとしたとき、一課に来客が訪れた。

「小泉だったな」

「あ、え、法条さん?」

 高級なスーツを身に纏い、鋭い切れ長の目には縁のない眼鏡を掛けている。公安の、法条がそこには立っていた。

「あ、あの、九十九さんなら辞めましたけど……?」

「違う。今日は君に用があって来た」そう言うと、法条は左右に一度ずつ視線を走らせて、小泉の持っていたハンバーガーをじっと見た。「飯でもどうだ?」

 どんな用件だろう。

 ただ、昼食の誘いではないことは明白だ。ハンバーガーを食べている最中の人間を誘うことなど、普通はしない。

 それに法条は周りに視線を走らせた。今、部屋には小泉以外にもたくさんの刑事がいる。それを気にしてのことだろう。つまり、他の人間には聞かれたくないことでもあるのだろう。

 あるいは、非常に薄い可能性ではあるが、昼食をジャンクフードで済ませている将来有望な若手刑事を哀れに思い、おいしい食事に誘ってくれたのかもしれない。

「喜んでお供します」小泉はハンバーガーをデスクに置いた。

「助かるよ」法条は耳元で囁くように言った。

 椅子に掛けていた上着を着ると、法条のあとについて警視庁の建物を出る。

 建物の前には黒塗りの外車が一台停まっていて、法条はその後部座席に乗り込み、小泉に目で合図した。

「あの、どこ行くんですか?」車に乗り込み、小泉は質問した。

「君さえよければご馳走するが?」

「あ、お願いします」

「ふふ、素直なやつだな」法条は鼻を鳴らした。

 そのまま車は走り出した。運転手の鋭い視線がルームミラー越しに、小泉へと突き刺さる。こちらを見るな、ということかもしれない。

 車内では取り留めのない会話が少しあった程度で、どうやら法条はここでは話すつもりがないみたいだった。

 どんな話なのだろうか。流れる風景をぼんやりと眺めながら考えてみるが、まるで思い浮かばない。

 二十分ほど走らせたところで、車は有名な高級ホテルのロータリーで停まった。

「さ、行くぞ」

「あ、はい」

 法条のあとについてホテル内に入る。

「うわぁ……」

 思わずため息が漏れた。

 当たり前だがこんな一流ホテルに宿泊をしたことはもちろん、足を踏み入れたことさえなかった小泉である。

 何気なく花を活けている周りの花瓶だって、きっと値の張るものに違いないだろうし、周りを歩いている人達が着ている服も高級志向のものだった。

「地下にレストランがある。そこへ行こう」

「あ、はい」

 ホテルの地下一階には適度に証明が落とされたレストランがあった。時間帯的には混んでいてもよさそうだが、客はあまりいない。

 一番奥の席に案内され、法条はコース料理を頼んだ。

「ここなら誰にも聞かれる心配はない」

「あ、あの、何なんですか? どうして俺なんかが……」

「去年のクリスマスに起きた銀行強盗、犯人の目星はついたか? 一課はどうしている?」

「え?」

「今回の話はそのことについてだ」

 コースの前菜が運ばれてきた。

 銀行強盗の件?

 ウェイターが下がるのを待って、小泉は声を少し落として聞いた。

「な、何かわかったんですか?」

 小泉は期待して法条を見るが、しかし法条は簡単に首を振る。

「いや」

「じゃあ……?」

「事件を解決に導く情報はまるで得られない。この事件はいろんな意味で完璧過ぎる」

「それはどういう……」

「テレビは見ているか? 週刊誌などは?」

 連日、そういったメディアの連中による警察批判は繰り広げられており、日増しにそれは激しくなっている。警察だけではない。銀行の管理体制も糾弾を受けていた。

「あのとき、あの銀行支店に預けられていた額はもちろん知っているな?」

「およそ百億」

「その内訳は?」

「有名な政治家や政治団体、それから大手企業の開発資金だとかは二課の人に聞きましたけど」

「有名な政治家というのは総裁である坂本武雄さかもとたけお。彼は資産を分散して各地の銀行に預けている。その一部が今回の支店にあった」

「は、はぁ」

 言葉が出てこない。

 なぜ、目の前の男はそのことについて知っているのか。小泉達では調べようにも圧力が掛かってだめだった。

「問題なのは政治団体と大手企業だ。政治団体というのは、今、収賄疑惑でマスコミを騒がせている岸本きしもと議員を始めとする団体で、預けられていた金もそうした闇献金の可能性が強い」

「…………」

「次に大手企業のCCCだが、こちらも綺麗とは言えない。実は最近業績が落ちていて、今回の舞台になった銀行支店が不動債権処理をCCCに対して行なうはずだった」

「はずだった?」

「そう。裏取引があった」

「そんな……」

「そして極めつけ」

「?」

「警察の表に出したくない資金も、あの支店にあった」

「じゃ、じゃあ!」

「不思議だろう? あのとき銀行に預けられていたおよそ八割強もの金が、そうした汚れた金だったんだよ」

「そんな……。犯人はこれを知った上で?」

「さあな、それはわからない。ただ、坂本武雄はともかく、大手企業のCCC、銀行、政治団体、警察などは今回では被害者だが、天罰が下ったとも言える。その証拠に、CCCは事実上の倒産に追い込まれ、銀行も今回の件で信頼を失い、このグループも崖っぷちに立たされている。政治団体の主要議員も、言い訳のできる状況ではない。実刑は免れないだろう」

「…………」

「さて、ほとんどの悪が一掃されたこの図式をどう見る?」

 犯人はこれを狙っていたのか?

 奪った金のほとんどが……、そういう汚れた金。

 しかも奪うだけじゃなく、壊滅的な損害を与えている。

 義賊のつもりか?

 だが、並の義賊じゃない。

 なんだこれ。

 犯人は……。

「……警察は?」

「ああ。でもま、捕まえられなかったのは事実だしな。それに不正捜査費とか悪徳警官とか、今まであまり明るみにならなかった横暴も、今回の件でマスコミや世間の目がより厳しくなったからこそ、だ」

「そんな……」

「捜査もいずれは打ち切りになるだろう。警察自身、痛い部分もあるしな。混沌としてきた現状に乗じて、いろんな人間が動き始めてもいる。たくましい連中だよ」

「…………」

「犯人は天才的だ。どこからどこまでも」

「…………」

 銀行強盗。

 百億を奪うという日本犯罪史上最高の銀行強盗。

 誰も傷つけず、悪だけを葬った。

 損害を食ったのはそのほとんどが悪いことをしていた者。

 世の中に溜まりに溜まった膿。

 金に異様に執着する膿。

 犯人は、そんな膿を……。

「……人質は? 人質になった人達は怖い思いをしている。たとえ傷つけられなかったからと言って、心に傷を……」

「人質になった被害者四十三人のうち、十一人に一千万が届けられたそうだ」

「え?」

「サンタクロースからだそうだ」

「十一人だけに?」

「行員を除いた居合わせた客だけ。徹底しているだろ? この事件で、被害者はいない。加えてその金は事件との関連性を証明することは難しい。正式な手続きを踏んだ後、彼らのものになるだろう」

 そんな。

 そんな、馬鹿な。

 本当に誰も傷つけず、悪人だけを裁き、金を奪った。

 なんだ、これ?

 なんなんだ、これは?

 おまけに犯行方法もわからず。

 天才だ。

 恐ろしいほどまでに天才だ。

 現場から見事に消え去ったあの犯行方法。

 いまだに掴めないその足取り。

 金に塗(まみ)れた悪人だけを完膚なきまでに徹底的に潰した。

 天才だ。

 敵うわけがない。

 今の警察が、敵うはずがない。

「それからな、九十九に頼まれて銀行内部の映像をこちらでも記録していたんだが、何度か映像を見ていて気がついたことがある」

「な、何ですか?」

「犯人は恐らく気づいていた」

「え?」

「気にする素振りを何度か見せていた。つまり、死角を利用して何かをしていた可能性もあるし、突入時に壊されたからな」

「……でも、それでも出入口は。あの状況で逃げれるはずがない」

「ああ。だから完璧なんだ。犯行に使われた銃は音が出るただのモデルガンだったことがわかってる。結局犯人は誰も何も傷つけていない。これ以上捜査を続けても首を絞めるだけだと上層部は判断しているぐらいだからな。ま、その上層部自身、隠しておきたいことがあるみたいだが」

 天才だ。

 本当に、どこまでも。

 鮮やか過ぎる犯行。

 誰も傷つけず、悪だけを徹底的に。

 この事件は、間違いなく小泉の人生を変えることになった重大な事件だ。

 一生忘れない。

 いや、小泉の記憶だけでなく、人々の記憶、さらには日本犯罪史に残り続けるだろう。

 忘れられるわけがない。

 たぶん、犯人は捕まらないだろう。

 そんな気がする。

 だって、誰も悲しんでいないのだから。

 だって、誰も傷ついていないのだから。

「九十九は、最後の最後で貧乏くじを引かされた格好だな」

「…………」

「ま、あいつらしいと言えばあいつらしいけどな」

 そう言う法条は、どこか寂しそうだった。

「……かもしれませんね」


 そして。

 結局この事件の犯人が捕まることはなかった。銀行からどうやって逃げたのかも謎に包まれたまま時効を迎えることになる。

 その謎に包まれた脱出方法や、悪人だけを裁くという鮮やか過ぎる犯行手口から、やがてこの事件は一部の人間から称えられるようになる。

 日本犯罪史上、最も美しい事件と……。

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