第3章 馬鹿には馬鹿な仲間が要る


 1


 僕に先駆けて起きた銀行強盗立てこもり事件をリアルタイムで見てからというもの、何かが僕の中で変わりつつあった。

 確固たる何かが形成されつつある。

 しかし、それが日常に変化をもたらすことはない。

 いつものように決まった時間に起きて、決まった時間に登校する。くだらない授業を、欠伸を噛みながら堪えて、ただただ時間を消化していくだけだ。

 今日の新聞には当然、昨日の事件が大きく取り上げられている。朝のニュースでも散々繰り返されていて、今の僕の心境は複雑で、上手く処理ができていない状態だった。

 そして、止まらない自殺の連鎖。

 各マスコミで昨日の警察の勝利を報道する中で、それとはまったく逆である警官の不祥事なども同時に流れている。当然、警察だけではない。不正な闇献金を受け取ったとして地検の捜査を受けている政治団体だって、その裏で働いていた銀行の悪事も暴かれて糾弾を受けている。

 何なんだ、これは。

 どいつもこいつも。

 呆れる、というか、もうそんなのではない。ただ愕然と苛立ちを覚える。無性に腹が立つ。どいつもこいつも、みんな好き勝手やってやがる。

 ああ、もうっ。

 僕は何一つだめなのに。

 僕が悪いのか?

 上手く立ち回れない僕が悪いのか?

「ちくしょー!」

 僕のイライラはついに頂点に達し、我慢できずに思いの丈を単純な言葉に換言して叫んだ。

 …………。

「あ」

 授業中だった。

 クラス全員が驚いた表情で振り返っている。教壇に立っている教師も目を丸くしていたが、すぐに眉間に皺が寄り、僕に負けじと大声を上げた。

「馬鹿やろう! 廊下立ってろ!」

 イマドキ古い人間の教師の勅命を受けて、廊下に立つことになってしまった。

 なぜだ?

 おかしい。納得ができない。これは罠だろうか。いや、そうだ。そうに違いない。

 どうして僕だけがこうも上手くいかないのだろう。運が悪いのだろうか。それとも何か別の要因が……。やっぱり罠か。これは神様が僕に仕掛けた……。

 あれこれと悩んでいると、チャイムが鳴った。

 む。

 あのくそ教師め、僕を丸々一時間立たせたままだ。いったいどういう了見だ。

 授業を終えて教室から出てきた教師は、僕を見るなり目を丸くした。そして信じられないことを口にする。

「あ、忘れてた」

 な、何ぃ?

 聞き間違いか?

 僕が聞き間違えたのか?

 忘れてただと?

「めんご、めんご」

 片方の拝み手でそう言うと、意味のわからない笑みを浮かべて廊下を歩いていってしまった。

 あ、あの野郎!

 込み上げてくる感情は今までのものとは違うものだった。比類なき怒りを心で留めながら、僕は教室へ戻る。

 あー、まったく、どいつもこいつも!

 こんなに頭にきたのは初めてだ!

 いつもは温厚なモモちゃんで通っている僕でも、もう、我慢の限界だ。

 やってられるか、ちくしょう!

「お怒りのところ申し訳ねえんだけど」

「丁寧にしゃべるのかそうじゃないのかはっきりしろ!」

 僕は近づいてきたミノルに吠えた。

「どしたんだよ? やけに機嫌悪ぃじゃんかよ」

「そうだよ、悪いよ! ていうか、どうしてみんな僕に気づかないんだ!」

「タムラがお前に話があるってよ」

「無視かよ! ……え?」

 ミノルが示した先には神経質そうな少年が立っている。

 タムラだ。

 僕は怒りも忘れてそちらに走り寄った。

「どうしたの? どうしたの?」

「あ、あの……、僕……」タムラは下を向いたまま、理系らしくない歯切れの悪い口調だった。

「うん、それで?」

「あれから、その、昨日の夜に……」

「うん、どうしたの?」

「いろいろ考えてみたんです……」

「何を? うん、うん、何を?」

「言わせてやれよ」ミノルが僕の頭を叩いた。「興奮してねえで話させてやれよ」

「あ、うん、ごめん。で、どうしたの?」

「昨日の夜の事件、見ましたか?」そこでようやくタムラは顔を上げ、僕のことをじっと見つめる。

「強盗の?」

「はい」

「見たよ」

「どう思いましたか?」口調が強くなる。僕を見る目も同様だった。

「どういうこと?」

「あれを見てもまだ、あなたは夢を見るつもりですか?」タムラは僕をじっと見つめる。

 ミノルは隣で黙ったまま立っているだけだ。

「答えてください。あなたはあの現実を見てもまだ」

「僕はやるよ」

 僕はタムラを制して言った。

 それに嘘はない。

 他人の失敗を見て臆するほど僕はだめじゃない。むしろ、その逆だった。あれを見て、触発された。

「ど、どこからその自信が出てくるのですか?」

「自信なんてないよ」

「え?」

「ただ、失敗を恐れるような不安もないんだ。言ったでしょ? 僕は完璧な計画を立てるって。完璧って、完璧のことだよ? なら、どうあっても失敗なんてあるわけないじゃないか」

「……そうですか」

 すると、タムラは僕とミノルに対して頭を下げた。

 意外な行動に、僕とミノルは驚いてしまう。

「ど、どうしたの?」

「返事が遅くなって申し訳ありませんでした。僕を、仲間に入れてください、お願いします!」

「う、嘘……?」

 顔を引きつらせながら、ミノルが小さくそう呟いたのが聞こえた。

 僕の中の何かが沸き起こってくるのがわかった。

 ゆっくりとだが、動きつつある。

 確実に、動き始めている。

 このタムラの加入を契機に、僕達の計画は一気に加速していくことになる。

 僕は小さく握りこぶしを作った。

 そう、僕達の計画は動き出したんだ。


 2


「銀行強盗の場合、かなり厳しいものがあります。まず、ことが上手く運ばずに警察に包囲されてしまうと、アウトです。いくら客を人質に取ったところで、最終的には逃げられません。それは先日の事件でもおわかりになったと思います」

「そうだな」

「では上手くいった場合ですが、これも非常に厳しいです。警察が来る前に逃走するわけですが、現在では街のいたるところに防犯カメラが設置されていますし、警察には圧倒的な数の警官がいますので、いずれは検問を掛けられて終わりです」

 タムラとミノルが僕を見る。

「どうするよ、明らかに強盗は厳しいんじゃねえの?」

「……いや、計画は銀行強盗を主体として考えていく。その辺りのことは僕が何とかするよ」

「何とかって、お前に何ができんだよ」

「大丈夫だよ、いろいろ考えてるから」

「すっげー不安を覚えるんだけど、お前がリーダーだと」

 ミノルは不満そうな顔で僕を睨むと、ため息をついた。

 タムラを仲間に迎えてからは、毎日のように放課後学校に残っては作戦会議を開いている。ミステリー小説を読んでいて僕達よりも犯罪やそれにまつわる思考に詳しいタムラを参謀役とし、今は彼を中心として犯行計画の展開を望んでいた。

「ねえ、銀行強盗をするに当たって必要なものって何かある?」僕はタムラに尋ねた。

「そうですね、銀行員を制圧できるような凶器や手足を縛るもの、それからこちらの姿を晒さないよう目出し帽。あと、情報ですね」

「情報?」

「はい。これが一番のネックと言っていいです。まず、襲撃する銀行にどれぐらいのお金があるのか知る必要があります」

「なるほど」

「襲撃する日、あるいは店舗によっては、実入りが少ないことも考えられます。銀行強盗を計画するならば、できる限り一回で一気に奪わなければ危険です」

「でもよ、そんなある日とない日なんてわかんねえじゃん。わざわざ銀行に聞くのか? 今日はいくらぐらいのお金がありますか、って。どうすんだよ、リーダー?」

「…………」

「やっぱ、銀行強盗は無理なんじゃねえ?」

「僕もそう思います」タムラも同意する。「何か別のものにした方がいいと思います。銀行強盗でなければならない理由でもあるのですか?」

「…………」

 タムラやミノルの言う通り、銀行にいつそういった大金があるのか把握できるのが一番望ましいが、だけど、それは僕ら一般人には難しい。

 銀行側だって、そんな狙われやすい日があるのならば頑なに警備だって強化するだろうし、その機密の漏洩は絶対阻止するだろう。

 やはり銀行強盗は厳し過ぎるか。

 いや、だからこそだ。

 厳しい条件にあるからこそ、成功へ近づく。

 どうすればいい?

 銀行にいつ大金が準備されるのか。

 準備するということは、準備をしなくちゃいけないからだ。つまり、銀行の支店に置いてある額を上回る引き出し額があった際に、大金は用意されることになる。

 理想的なのは自分で引き出せることだ。

 そうすればいつ銀行がそれを用意するかだって……。

 自分で、引き出す?

 そうか!

「わかった、自分達で引き出せばいいんだよ! そうすれば銀行が用意する日だって正確に把握することができる!」

「おいおい、何言ってんだよ。そんな引き出す大金があるならそもそも強盗なんかしねえだろうがよ。ちったぁ考えろ、馬鹿」

「ふふん、浅いなミノル。お金は持っている人に引き出させればいいんだよ。僕達は大金を引き出せる人を探せばいい」

「はあ? ……それは誰よ?」

「そんなの、お金持ちに決まってるじゃないか」

「…………」

「…………」

「……あの、ミノルくん」

「ん?」

「か、彼は利口なんでしょうか、それとも……」

「馬鹿だろ、どう考えても」

 僕は早速、図書室の入り口付近に設置されているラックから経済紙を何冊か手に取り、席へと戻った。普段ならばまず読まないようなものではあるが、少なくとも他の雑誌よりは金持ちについて書かれていることだろう。どれもこれも表紙には、高そうなスーツに身を包んだ知らないおじさんがしたり顔を見せている。どういう層が購読しているのか、わかったものじゃないな。

 席に戻ると、ミノルがタムラに加入を決めた経緯について尋ねているところだった。彼は何度も首を振りながら、正気じゃない、狂気の沙汰だ、と繰り返していた。

「僕も自分自身でそう思いますよ」

「だろ? よかった、まともな感性の持ち主で」充分に皮肉ってから、ミノルは背もたれに体重を預ける。「だったらどうしてだよ? 俺が言うのもあれだけど、いかれてるよ」

「こら、ミノル。せっかく決心してくれた仲間に対して何てことを言うんだよ」

「いやいや、どう考えても普通じゃねーからよ」

「まあ、いろいろと理由はあるんですけど」

 タムラはどこか恥ずかしそうに、小さな声で話し始めた。

「正直なところ、退屈な毎日に飽いていたのは事実ですし、その、一緒に遊ぶような友達もいませんでしたしね。まあ、だから、その分、こうした本にのめり込むというか、ただの逃避行動なんですけど……」

「そっか」

 僕もミノルも適切な言葉が思い浮かばなかった。

 そうしていると、タムラは鼻の頭をかきながら、本当に照れくさそうにして続けた。

「だから、考えたことがあるんですよ、僕も」

「え?」

 僕とミノルは同時に声を上げ、そして互いに顔を見合った。

「誰もが一度くらいは、夢を見るんじゃないでしょうかね」

「おま……、マジか……?」

「ああ、もちろん、そこの彼のように、本当の本気にはとてもではないですがなりませんでしたけどね」

「む」

「だから、上手く説明できないですけど、いいのかな、って。巡り巡って、こういうことになることもあるんだなって、そういう風に思えたんですよ」

「ロマンティストだね、タムラ」

「モモくんほどではありませんよ」

「俺が思ってるよりも世の中には馬鹿が溢れてるんだな。恐れ入ったよ」ミノルは盛大にため息をつくと、僕が持ってきたばかりの経済紙を手に取った。「で、どうすんだ。ここに載ってるおっさんの家でも狙うか? 腐るほど金持ってるぜ」

 僕が持ってきた経済雑誌には、どこかの政治家や社長などのインタビュー記事が特集で載っている。いわゆる成功者や勝ち組の人間に、その秘訣を聞いて回っているみたいだ。今号の特集では、『いかに稼ぐか、よりも、いかに使うか』とある。金持ちどもの買い物の仕方でも載っているのだろうか。

 ページを捲っていくと、政財界の大物が念願だった絵画を手に入れたという記事が書いてあった。その価値、時価数十億はくだらないという……。笑顔の気持ち悪い小太りの中年が、壁に掲げられた絵を自慢気に眺めている様子が写真に収められている。数十億もするという絵には、何だかよくわからない靄の掛かった水辺に船が浮かんでいる光景が描かれている。高そうな金色の額縁に入れられていた。

「こんなものに、数十億も?」

 僕が呆然とした声を上げると、ミノルとタムラも雑誌を覗き込んだ。

「芸術なんてもんは言ったもん勝ちじゃねえの?」ミノルは眉を顰めながら数十億の絵画を見て、つまらなそうに言った。

「これは、『ロゼ』ですね」タムラは絵の写真を見つめながら答えた。

「ロゼ?」

 僕とミノルは聞き返した。

 タムラは頷くと、インタビュー記事の一文を指し示した。彼の人差し指を追うと、そこには、十九世紀後期に活躍したポスト印象派の画家ロゼによる『停泊』を競り落とし、満面の笑みを浮かべる、とある。

「有名なの?」

「知る人ぞ知る、という感じでしょうか。どの作品も億単位の高値がついているみたいですよ。それに、ロゼ本人についてわかっていることが少なく、謎に包まれている人物というのも、その人気を後押ししている要因だとか。一部で熱狂的な支持を得ているのは有名ですね。僕も知っているくらいですから」

「ふうん」

「まー、でもよ、ちょっと短絡的かもだけど、たしかにこういう絵画って、もれなく金持ちの趣味だよな。この線からいってみたらどうよ?」

「絵画がどう銀行強盗と繋がるんだよ」

 僕はミノルを見ると、彼は両手を広げて首を振った。

「まずその銀行強盗に対する妙なこだわりを捨てろって」

「やだ」

「どうして駄々を捏ねられるんだよ、お前はよ」ミノルはため息をついて、僕を蔑むようにして睨む。

「んー、あ、でもそうか。家にこういう絵画を飾るようなとこはお金持ってるってことだよね。そういう家を探して銀行から下ろしてもらえれば」

「誰が協力すんだよ。で次は? 心やさしいお金持ちを見つけるって?」

 ミノルの皮肉を受け、僕は指を鳴らした。

「いいアイディアだね」

 ミノルは面倒そうに片手を払う仕草を見せた。

「ま、まあ、強盗でいくにせよ、絵画の線から攻めるにせよ、裕福な家庭を探す必要はあるわけですから」タムラは僕達の間を取り持つように明るく振る舞った。「とりあえず、明日からはそちらを探すということで、今日はもう切り上げましょう」

 気がつけば、陽はとっくに落ち、辺りは暗闇に包まれていた。図書室の受付の上に設置されている時計はもうすぐ午後六時を指し示そうとしている。僕達は本を片付け、帰る準備をした。受付では司書らしき臨時職員が真剣な表情で本にのめり込んでいる。声を掛けるのも何となく気が引けたので、僕達は静かに図書室をあとにした。

 真っ暗な廊下の空気は冷え切っており、その寒さに思わず体を震わせた。奥に見える誘導灯のぼんやりとした白い明かりだけを頼りに、誰もいない廊下を進む。図書室のある校舎は南館と呼ばれ、主に文科系の教室が配置されている。図書室のある三階フロアには他に被服室や視聴覚室などがあるが、部活動では使用されないため、放課後は閑散としていた。

「靴持ってくりゃよかったな」ミノルがマフラーを首元に巻きながら、愚痴をこぼす。

 下駄箱が設置されている生徒用の昇降口は北館校舎の二階に存在するため、今いる南館からは直接帰ることができない。廊下を奥まで進み、階段を使って二階へ下り、そこから北館校舎へ渡ってから昇降口へと向かう必要があるのだ。予め靴を持ってきていれば、このまま一階に下りて職員用の昇降口から外に出ることができたのに、いつも面倒くさがっては愚痴をこぼすのだから、人間も難儀な生き物である。

「…………」

 階段を下りる途中、僕は不意に足を止めた。

「お? 何だ? どうした?」下からミノルが声を掛ける。「早く帰ろうぜ」

 僕は階段を見上げる。四階のフロアからわずかな明かりが漏れてきていた。

「どうかしましたか?」

 タムラとミノルは不思議そうに階段の踊場まで戻ってきた。

「いや、ほら、明かりがさ……」

「あん? 誰かまだ残ってんだろ。それがなんだって言うんだよ」

「この上って、何があったっけ?」

「音楽室に、書道室。あとは、美術室ですね」

 タムラの言葉に、鼓動が少し早くなる。

「おいおいおいおい」

 ミノルが眉を顰めたまま、こちらを見る。

 僕は小さく頷くと、階段を上ることにした。


 3


 明かりは、廊下の突き当りの部屋から漏れてきているものだった。美術室や美術準備室と並んでいるその小さな部屋には、木工細工の、恐らくは手作りであろう美術部のプレートが掲げられている。出入り口の扉は他の教室と同じくガラスの引き戸であるが、ガラスの部分には中からカーテンが掛けられており、中の様子を窺い知ることはできなかった。

 僕達三人は顔を見合わせる。ミノルは眉を顰めたままだったが、僕は意に介さず、美術部のドアをノックした。

「え……、あ、はい」

 少し間があってから、返事があった。待っていると、中から背の高い少年が出てきた。黒縁の眼鏡に、綺麗に撫でつけられた髪、精悍な顔つきからは今どきの高校生にしては珍しい清潔感を覚える。同じくらいの身長のミノルが不憫に思えてくるほどだ。

「また今、俺に失礼なことを思ったろ、お前」後ろからミノルが声を掛ける。

「君は本格的にESPを学ぶべきだ」

 僕とミノルがじゃれていると、背の高い少年は不思議そうに僕ら三人を見ていた。最終下校時間間際の突然の訪問に、戸惑っているように見えた。

「えっと……、見学か、何かかな?」

「あ、うん。そんなところかな」

 僕は頷きつつ、目の前の少年の様子を窺う。誰だろう。見覚えがあるような気がする。どこだっけ? 誰だっけ?

「あ、じゃあ、ど、どうぞ……。見学するほどのものは、ここにはあまりないと思うけど」

「お邪魔します」

 美術部の部屋は他の教室と違い、かなり狭かった。床面積は他よりも半分ほどしかない。部屋の右手にはキャビネットが立ち並び、資料となる画集などが仕舞われている。左手にはよく見る腕のない石膏像や、セザンヌを模した林檎の絵などが複数置かれている。部屋も、どことなく油臭かった。

 そして部屋の中央にはキャンバスが置かれ、今まさに何かが描かれている最中だったが、向きが逆なので入り口のところからはわからなかった。

「いつも、こんな遅くまで描いてるの?」

「え? ああ、いや、いつもってわけじゃないけど」

 少年の手は絵の具でかなり汚れている。この寒い時期にもかかわらず、制服の上着は脱いで、右腕も袖をまくっていた。気軽に描いている、という感じではなかった。

「でも意外でした。まさかサカモトくんが美術部員だったなんて」

 感心するタムラから飛び出した固有名詞に、僕は驚いた。

 サカモト?

 知り合い?

 クラスメイトか?

 あれ、サカモトってたしか……。

 見覚えも、聞き覚えもある。

「サカモトって、あのサカモト?」僕は思わず聞き返した。「生徒会長だった、あの?」

「え、えと、あ、うん……。そうだよ、たぶん、そのサカモトだよ」サカモトはぎこちなく笑う。

「今ごろ気づいたのかよ」ミノルは呆れたように肩を竦めた。

「三人は、どうしたの? 絵に、興味でもあるのかな?」

「うーん、まあ、少し?」ミノルは苦い表情を浮かべ、こちらを見る。

 僕は何と説明したものかと思案を巡らせながら、何となく部屋の奥へ移動する。

「ほら、絵画って、結構な値段がするでしょ? でも、そういう値がつくってことは、需要があるわけじゃない。で、自分の感性に響いたものになら、いったいどこまでのお金を出せるのだろうと、考えてみたところで、やっぱりそれでも……。……っ?」

「?」

「モモくん? どうかしましたか?」

 僕は目の前に描かれている絵を見て、思わず息を飲んだ。僕の様子を不審に思った二人も、こちら側へとやってきてサカモトが描いていたであろう絵を覗き込む。

「これは、ロゼ――?」

「え、あ、うん。すごいね、よくわかったね」サカモトは驚きつつも笑みを浮かべる。「ロゼを知ってるなんて、なかなかいないよ。本当に興味があるんだね」

 サカモトがロゼの模写をしていたという運命的な事実も然ることながら、もっと単純に、未完成ではあるものの、その出来栄えにも、サカモトの力量にも驚かされる。

「これ、サカモトが描いたんだよね?」

「うん。もう少しで完成なんだけど、だからついつい見切りがつけられなくて……。今日も、こんな時間になっちゃって」

「すごい。絵、上手なんだね」

「どうかな。好きは好きなんだけどね」

「え、美大とかに進学するつもりなの?」

「いや、あくまで趣味で描いてるだけだよ。気晴らしだよ、ただのね」

 そう言うサカモトの表情はどこか影を落としたように、曇っていた。

 高校生だ。十何年も生きていれば、それなりのはある。詮索しても仕方がない。

「でも嬉しいよ。見学に来てくれたこともそうだけど、まさかロゼを知ってる同年代の子がいるなんて」

 思いの外喜んでいるサカモトを見ていると、先ほど知ったばかりとはとても言い出せなかった。騙しているわけでもないけれど、なんか、申し訳ない気持ちになってくる。

「僕のおじいちゃんが好きでね。家に一点だけど、飾ってあるんだ」

「ふぁっ?」

 僕とミノルは同時に変な声を上げた。タムラも声を上げないまでも目を丸くしている。僕達三人が驚いたことを受けて、サカモトも表情をわずかに硬くした。

「え?」

「あ、あるのっ? ろ、ロゼが? ほほ、本物ののの?」

「え、あ、あ、うん。あ、あるよ……」サカモトは戸惑いながら何とか頷く。「ま、まあ、たしかに珍しいとは思うけど……」

「しゃ、しゃきゃ、さきゃ……、しゃか、……。しゃかもとの」

「いや、言えてねーだろ」ミノルが僕を小突く。「わかるけど。わかるけどな? 少しは落ち着け」

 興奮のあまり口が上手く回らなかった。僕は必死で口の中の唾を飲み込み、一つ深呼吸を挟んだ。

「しゃかもとのいえっておおぎゃねみょち……」

 僕はタムラを見る。

「え、えっと、サカモトくんのお家はお金持ちなんですか?」

「ああ、いや、うーん」サカモトは苦笑いしながら、首を竦めた。「どうだろ。あんまり、そういうのは、自分で言うのは気が引けるからあれだけど……」

「ま、そうだわな」ミノルは腕を組みながら頷いた。「つか、貧乏なとこが家に絵画なんか飾るかよ、って話だよな。絵に金を出すって発想がまず出てこねーし、普通」

「アイドルのヌード写真集を三冊も買った君の台詞とは思えないね」

「あれは芸術だ」

 何はともあれ、願ってもないお金持ちの登場に、心は踊らざるを得ない状況だ。実際に、この場で歓喜の舞でも披露したくなるほどだ。

 結局この日、興奮を抑えきれず、まともにしゃべることができなくなってしまった僕に代わり、タムラが後日サカモト家への訪問の約束を取り次いでくれた。名目は、実物のロゼの鑑賞ということになる。

 もう少し絵を仕上げていくと言うサカモトと別れ、僕達三人は学校をあとにした。電車通学であるタムラと一緒に、自転車を押しながら駅へと向かう。その途中の大通り、片側二車線の国道は帰宅ラッシュと重なり、多くの車のヘッドライトが光の波となって押し寄せていた。吹き荒ぶ風に、マフラーで顔の半分を覆って対抗するも、その冷気には敵わない。白い吐息は瞬く間に風に流され、掻き消されていく。大通りを抜けて細い路地に入っていくと田舎らしい田園風景が広がるのだが、街灯もまともに整備されていないのでは、この時間帯はただただ薄気味悪く感じられる。

 それでも。

 そんな十二月の真冬の寒さや、不気味な暗闇をもってしても、僕から笑みを奪い去ることは出来なかった。ついつい、口の端が上がってしまう。

「……ほんと、不思議な野郎だな、お前は」

 にやつく僕を見て、ミノルが言った。

「つか、割とマジに、怖くなってきたんだけど」

「何が?」

「お前のその悪魔染みた強運だよ」

「たしかに、ちょっと、すごいですよね」

 タムラも同意を示したが、ミノルは首を振った。

「いや、お前もそうだかんね? お前もこいつの強運の一つだかんね?」

 タムラは困ったような笑みを浮かべると、こちらを見た。

 田畑やビニールハウスが点在する地区を抜けると、駅前の商店街が見えてくる。先ほどまで街灯すら満足になかったのが嘘のように明るくなった。交差点の信号が赤になって、すぐに渡ることができなかった。電車の走る音が聞こえてくる。最近舗装されたばかりの歩道が駅に向かって伸びている。

「ちょっとしたことなんじゃないかな」

「あん?」

 僕は進んできた田園地区を振り返り、そして煌びやかな駅前へと向き直る。両者にはたしかに大きな隔たりがあるように見えるが、それでも同じ町なのだ。距離にしてみたって、高々数十から数百メートル。そこには、大きな壁は存在しない。

「それほど、特別なことじゃないのかもしれない」

「何がよ?」

「タムラも言ってたでしょ? 、って。ならさ、不思議なことでも、特別なことでも何でもないんだよ。誰もがあるんだよ、きっと」

「いやいや」

「言葉にしないだけ。行動に移さないだけなんだよ、ミノル。タムラを仲間にできたことも、サカモトを見つけることができたのも、全部、行動したからだ。誰もそうしないだけで、もしかしたら、案外、ようにできているのかも」

「いやいや、おかしいだろ。おかしいって」

 ミノルは手も首を振って否定する。

 信号が青に変わった。

「僕は、モモくんの言うことが何となくわかるような気がしますよ」

 タムラは同意を示してくれる。

「いやいやいや、まともなのは俺だけか? もうほんと、マジで、何で何を妄信してんだ、お前らは」

「大丈夫だ、ミノル」

 僕は笑った。

「すべてはうまくいく」


 4


 週末の午後、僕とミノルとタムラの三人は、駅のロータリーでサカモトと待ち合わせをしていた。せっかくの招待であるのに、風こそ強くはないものの、生憎の空模様となってしまった。先ほどからちらちらと雪が舞い始めている。本格的に降り出す素振りはまだ見えないが、文字通り、雲行きが怪しくなってきた。

 いろいろと順調に来ているだけに、晴れ間ぐらい差し込んでくれればよかったものを……。

 そんな天気だからなのか、土日だというのに駅の利用者は多くはなかった。ほとんど誰も乗ってはいかないし、誰も降りても来なかった。通勤や通学での利用を考えればその数は減るだろうが、休日なのにどこにも出掛けないというのも、少し寂しい話なのかもしれない。

「サカモトの家って、どの辺なの?」黒のダウン・ジャケット、グレーのパーカーにジーンズという出で立ちのミノルが聞いた。

「さあ、どうでしょうか」タムラは首を捻る。彼は茶のダッフル・コートに身を包んでいる。「相当なお金持ち、ということは、少し離れているのかもしれませんね」

「サカモトって電車通学?」

 僕は同じ電車で通学しているタムラに尋ねた。

「いえ、違ったと思います」

「チャリでもねえよな?」

 僕とミノルは自転車通学だが、駐輪場でサカモトを見た記憶はなかったように思う。特別親しいわけでもなかったし、意識をしていたわけでもないので確証はないのだが……。

「あれじゃね、ボンボンだから、車で送迎されてんだろ」

「雨の日の通学の気怠さを知らないのか。羨ましい」

 サカモトとの待ち合わせまではまだ少し時間があった。それでも三人が早くに集まったのは、それだけ興奮しているという証でもあった。この中の誰もが、いわゆるお金持ちの生態を知らない。噂を聞いたりはするけれども、実際を知らない以上、想像の域を出ない。だからこそ、サカモトの家には、みんなが期待を寄せているのだ。

 お金持ちって、どんなものを食べているんだろうなぁ……。

 いやいや。

 僕は頭を振って、邪心を捨て去る。

 興味はあるけれど、今はそんなことを考えている場合ではない。計画については、まだ大枠も定まっていないのだ。

 たしかに、恵まれている。計画も、滞りなく、順調に来ていると言っていい。だけど、それでも時間は有限である以上、あまりのんびりはしてられない。無駄にできるほどの余裕もないのだ。

 仲間だって、もっと必要になる。他にはどんな人材がいるだろう。

 どういう計画なら警察を欺き、大金を奪えるのだろう。どんなシナリオならば綺麗に魅せられるだろうか。

 とにかく、完璧でなければならない。

 僕だけじゃないんだ、仲間がいる。そんな大事な仲間を危険な目にあわせるんだ、絶対に失敗は許されない。

 いったい、どうすれば……。

 学校が冬休みに入るまでには何とか計画に目処を立てておきたい。つまり、残り一週間ほどで目処を立たせる必要がある。そのためには当たり前ではあるが主要なメンバーは集めておきたい。

 僕はサカモトを待つ間、タムラが用意してくれた資料をカバンから取り出し、読んでみることにした。銀行について詳しくまとめられているものだ。

「…………」

 想像していた以上に堅い。まず、意識がすでに違う。普段客として利用している分では到底気づかない細かな部分にまで防犯意識が行き届いている。

 一つその例を挙げると、観葉植物だ。

 銀行内に置かれている観葉植物の高さは百六十から百七十センチメートルのものが多いらしく、またその設置場所は出入口付近の場合が多い。大胆なことを言えば、ほとんどがそう設定されているのだという。

 その理由は、仮に強盗に押し入られたとき、犯人の身長を正確に把握するための比較対照としてそれが置かれているらしい。防犯カメラの映像で確認する際にも重要な比較対象となるみたいだ。

 防犯カメラの位置や角度、可動範囲や可動速度などもできる限り把握しておかなければならない。最初から電源を落とせるなら、それに越したことはないが。

 仮に警察が到着する前に犯行を済ませたとしても、逃げる際にはどうしたって人目につく。一般市民の目撃証言は馬鹿にできない。

 それにタムラの言っていた各地域に展開される検問。

 そうなると、警察が到着する前に犯行を済ますよりも、立てこもって警察を一箇所に集めた方が逃げる際のことを考えたら楽なのではないだろうか。

 でも立て籠もったらどうやって逃げるんだ?

 うーん。

 どうあっても不可能な気がしてきた。

 不可能、か。

 ……でも、何か。

 なんだろう、何かが引っ掛かる。

 ま、いいや。

 さて、と。奪ったお金を運ぶ運転手がいるな。車の免許を持った人間を仲間に入れないといけない。しかしここにも問題がある。

 逃走用の車を一つにするかどうかだ。

 数台に分けていけばリスクも分散されることになるが、それだけ運転手が必要になってくる。そもそもパトカーから逃げ切れるだろうか。逃げても逃げても当然追ってくるだろうし、向こうは何と言っても数がある。圧倒的物量で押してくるだろう。仮に僕達が作るグループが優秀な人材だけで構成された少数精鋭なものだとしても、圧倒的な物量で押し切られたら勝負にならない。

 少数精鋭の天敵は圧倒的物量だ。

 となると追われる時点で負けが濃厚になる。

 なら、どうする?

 理想なのは警察の足止めをすることだ。

 だけどどうやって?

「課題は多いな」

 僕がそう弱気に独り言ちていると、漆黒と呼ぶに相応しいほどの、艶やかな黒に塗られた全長の長い車が走ってくるのが見えた。駅のロータリーを、まるでその場の人間を威圧するかのように、ゆったりと大きく旋回してくる。何となく、旗でも振りたくなるような、そんな気品に満ちていた。

「す、すげーな……」

 ミノルが抱いた感想がすべてだった。

 圧倒的な落差に出会ってしまったとき、人は陳腐にも、その語彙をどこかへ忘れてきてしまうのだろう。

 なんだか、数段階、馬鹿になってしまったような、そんな感じすらする。

 金持ちって、金持ちなんだなぁ。

 黒塗りの高級車が僕達三人の前に停まると、帽子を被った初老の小柄な運転手が降りてきて一礼する。何の光景だ、と思っていると、サカモトも車から降りてきた。何だか柔らかそうなコートを着ている。

「お待たせ。さあ、乗って」

 そう言うと、サカモトは後部座席のドアを開けてくれた。

 庶民の出である僕ら三人は完全に飲まれてしまったが、それでも乗らなければ始まらない。初めての高級車に、足を引きずるような形で何とか乗り込んだ。車内はかなり広く、後部座席に三人が並んで座っても窮屈さを感じないほどだった。また仄かにいい匂いがした。

 車中、まともな会話ができるはずもなく、背筋を伸ばして行儀よく座っていることしかできなかった。座席に体重を預けることさえ憚られるような、そんな緊張具合である。

 二十分ほど走っただろうか。車はどんどん中心市街地から離れていき、郊外の住宅地に入っていく。普段、立ち入ることのない地域だが、立ち並ぶ家の規模や様式を見るに、高級住宅街であることは疑いようがなかった。

 その中でもさらに奥、ひと際大きい邸宅に向けて車は走っていく。目の前の豪邸がサカモト家であるという事実にようやく理解が追いつくと、庶民からは間の抜けた声が一斉に漏れ出るのだった。

 こ、これが金持ちか?

 豪勢な造りの門は車を感知したのか、自動的に開閉して見せた。それはもう、ちょっとした奇術である。

 門をくぐって、奥に見える建物へ。三階建てのようだが、一般的な戸建てとはまるで異なる造りだ。洋館というのだろうか。どこかのリゾートの、そのホテルを彷彿とさせる造りとなっている。広大な敷地に建てられた豪邸もさることながら、中庭というのだろうか、そこには池もあるし、噴水まで設けられている。その噴水の周りをぐるっと回るようにして、車は玄関前で停車した。玄関が――もちろん一般的な邸宅のそれとは規模の違うものだが、開くと中からフォーマルな服装の男性が現れた。彼は玄関前のステップを下りてくると、にこやかな笑顔で車のドアを開けてくれた。灰色だが手入れの行き届いている髪に、小さな丸眼鏡が執事を連想させる。

「お帰りなさいませ、坊ちゃま」

 執事らしき男性はサカモトに対して恭しく頭を下げると、こちらに向き直った。

「ようこそおいでくださいました」

「あ、ど、どうも、初めまして。僕達、サカモトくんの同級生で……。ほ、本日はどうも、お招きいただき、ありがとうございます」

 男性は分度器で測りたくなるぐらい綺麗な角度でお辞儀をすると、玄関のドアを開けてくれた。

 まるで異世界と繋がる、あるいはそれとを隔てていたドアであるかのように、この扉の果たしていた役目は大きなものだった。目の前に飛び込んできた世界はまさに絢爛と表現するに相応しい。庶民は情けなくも息を飲むことしかできなかった。

 なんだろう、ここは。い、異次元だろうか。

 恐怖すら感じるというのはどういうことだろう。

 玄関先だというのに、この豪勢さはなんだ? 廊下には赤い絨毯が敷かれているし、天井には果たして実用効果が疑わしいシャンデリアまであるではないですか。

「実はロゼに興味があるらしくて」

「そうですか。それは旦那様もお喜びになられます」男性は優しい笑みを向ける。「それでは後ほどお部屋にお茶とお菓子をお持ちいたしますので」

 それを言うと男性はまたしても綺麗なお辞儀をして、奥の方へ歩いていってしまった。

 お部屋にお茶とお菓子をお持ちいたします。お部屋にお茶とお菓子をお持ち……。脅威の『お』の四連荘である。

 なんか、どれも新鮮で堪らない。履き慣れないスリッパと、歩き慣れないふかふかの絨毯に足を取られながらも、正面の階段を上り、二階へ。天井は吹き抜けで、洋画の世界に出てくる富豪の洋館そのものだった。左右に延びた廊下を右手へ進み、その突き当たりの部屋がサカモトの私室らしい。

「すげーな」

 ミノルは屋敷のあちこちに視線をやりながらため息をついた。シンプルだが、的確な感想だった。

 案内されたサカモトの部屋も、とても高校生らしからぬ部屋だった。部屋の中央には高そうなソファがガラスのテーブルを挟むようにして配置されている。テーブルの上にはクリスタルで出来たチェス盤が載っていた。どちらかと言えば、会社の応接室や、役員連中の部屋だと言われた方がしっくりとくる。唯一それらしいものと呼べるのは、左手の壁にある書棚の中の漫画くらいか。

 鹿の剥製が飾ってあっても不思議ではない空間だ。熊や虎の敷物だって、探せば出てくるんじゃないだろうか。

 もう、ため息をつくのもやっとだ。こんなに呼吸が苦しくなったのは富士山の山頂以来だ。気圧ではなく貧富の差で胸が苦しかった。

「適当に掛けてよ」

 と何気なく言われた僕達三人だったが、このソファが適当には思えなかった。畳が恋しく感じられる。

「……ふぉ!」恐る恐る、ソファに腰を下ろしたミノルが声を上げた。そして驚きの目で僕とタムラを見る。「す、すげーぞ、これ」

 僕とタムラも、慎重にソファへ体重を預けた。

「お、お尻が包み込まれる!」

「とても柔らかいですね、これは」

 何をすればこんなにも儲けられるんだ? ピンからキリまでとはあるけれど……、それにしたってここまでの格差が生まれるようなものか?

「お前の家は何をしてんだ? こんな立派なお屋敷に住んでて」

 豪華な装飾が施された足の細いテーブルを挟み、向かいに腰掛けたサカモトにミノルが尋ねてみた。がさつで不躾な質問だったが、ミノルの疑問は最もなものだった。聞かずにはいられなかった。

「ウチは代々、政治家になる人が多くてね」

「へぇ、政治家」

 なるほど政治家か。政治家になればここまでのお屋敷が建てられるのかな。

「君も政治家になるの?」

「まさか」サカモトは鼻を鳴らすと首を振った。

「え、違うの?」

 少し意外な返答ではあった。ここまでの生活を見せつけられたら、この僕でもなりたいと思うのに。

 なぜ首を振ったのか、その理由を待ってみるが、サカモトは一向にそれを語ろうとはしない。もしかしたら何か言いたくない理由でもあるのだろうか。まあ、他人にもそれぞれいろんな都合というものがあるのだから特に聞きだそうとはしないけれど、ほんの少しだけ気にはなった。

 きっと触れられたくなかったのだろう、サカモトは話を僕達に振ってきた。

「君達は? 将来について、何か考えているの?」

「……いや、僕は別に」

「…………」

「考えてないの?」

「……そうじゃないんだけど」

 考えてみれば僕にしても答えたくなかった話題だった。それに感づいたのか、サカモトもそれ以上は尋ねなかった。

 お互いに気まずさを感じる。

 しまった、軽率だった。僕は心の中で舌を鳴らす。

 部屋に流れる重い沈黙を破ったのはドアをノックする音だった。

「お坊ちゃま、お茶をお持ちいたしました」ドア越しに女性の声が聞こえる。

「あ、どうぞ」

 サカモトが答えると、エプロンドレスを着た女性が頭を下げてからワゴンカートを押して入ってきた。彼女はお茶とお菓子を置くと、頭を下げてすぐに出ていった。

 今さらながら映画みたいな世界である。

 テーブルに置かれたティーカップなども高そうだ。否、きっと高いのだろう。器だけじゃない、その中身、お茶やお菓子も口にしたことがないようなものに違いない。

 紅茶とケーキ。なんだろう、すごく眩しい。こんな恍惚としたおやつがあっていいのだろうか。数日の前の朝食が林檎だった僕にしてみれば奇跡である。ちなみに昨日の食卓にはツナ缶がなぜか置かれていた。

 恐る恐る紅茶を口にする。

 自然と涙が出た。

 これが紅茶か。これが本物か。

 いつも、いつも家で仕方なく出される十回以上繰り越されたパックのものとは全然違う。味がある。香りもある。十数年生きてきて初めて、家で紅茶とされてきたものがただのお湯だったことに気づいた瞬間だった。高いものを食べるとおなかを壊すと教えられて育った僕としては、それこそ死ぬほど堪能した。これで死ねるのならば、なんと贅沢で幸せな死に方なのだろう。参考にしておこう。

 おいしいお菓子とお茶に舌鼓を打っていると、部屋がノックされ、サカモトの了承も得ないままに誰かが両手を広げながら入ってきた。

「ほっほぉ、これは素晴らしい!」

 その人物は僕達を見るなり大きく目を開けて満足そうに微笑み、一回頷いて見せた。

 誰だ?

 かなり裕福な体型である。頭の髪の毛は艶やかに黒々としており、毛根からも生命力の強さが滲み出ている。見た目は若そうではあるが、だからこそ逆に、とも思ってしまう。

 ノックはするけれど返事を待たずに入ってきたことから、この家ではそれなりの地位にいる人間だろう。少なくともこの家に仕えている人間ではない。サカモトの父親だろうか。しかしそれにしては、若々しいものの、高齢に見える。

 はて、そんなことよりも僕はこの人を知っているような気がする。誰だっけ?

 首を傾げていると、その裕福な方は笑顔で僕の手を両手で握ってきた。そしてそれを上下に何度も振る。かなりオーバーな握手だ。まるで欧米の人を連想させる。

「いやいや、よくぞお出でくださった」

 感謝の弁を述べられた。そしてミノル、タムラとも同様に握手をしていく。

 この家にとって、僕らは特別なお客様というわけではないだろうに。むしろ、絵が見たいと手土産の一つも持たずにやってきた無礼者、とされる方がまだ自然ではある。少なくてもここまで喜ばれるような立場にはないと思うのだが。

 不思議に思ってサカモトを見る。

「紹介するよ、僕のお祖父ちゃん」

「どうもどうも」

 その笑顔で思い出した。

 どこかで見たことがあるなと思ったが、街中に貼られている選挙用のポスターだ。

「いやぁ、それにしても素晴らしい。お前が友達を家に連れてくるなんて初めてじゃないか?」

「え、初めて?」

 サカモトを見ると、ぎこちなく頷いた。

 …………。

 僕達が、初めて。

 なるほど、それでこの歓迎振りか。

 だけど、それにしても。今までいなかったのか?

 いや、今はそんなことどうでもいい。

 チャンスだ。

 サカモトの家は偽りのない本物の名家だ。

 それがこれで確認できた。

 サカモトの祖父は僕でも知っている政界の人物だ。恐らく腐らせるほどの金を持っているだろう。少なくとも、ロゼに注ぎこむだけの余裕はある。

 何よりも幸運なのはこうして直接話せる機会ができたこと。

 どうする?

「……おい、お前またよからぬこと」

 僕の隣のサイキックが小さく囁く。

「モモくん……」

 タムラも目で訴える。

「…………」

 いや、だけど。

 ここで行かずに、いつ行くと言うんだ。

 悠長に関係性を築くとでも?

 高校生と政治家が、対等な関係を築ける可能性は低い。

 だったら。

 もともと、ないんだ。

 ここで行かなきゃ。

「あ、あの」

「ん、どうしたかね?」

「少しお話があるのですが、よろしいでしょうか?」


 5


「指定した日に金を引き出す?」

 サカモト氏は訝しげに首を捻りながら葉巻に火をつけた。

 サカモト氏の書斎と思われる部屋はアンティーク調で、落ち着いた雰囲気が魅力的だったが、今は逆にその静かな威圧が僕に襲いかかってきている。

「はい」

「なぜかな?」

「言えません」

「言えない? 理由も聞かずに協力をしろ、と?」

 なんとも言えない威圧感。鋭い眼光を向けられる。何もされていないのに、正面から押されたような感覚があった。

 緊張のためか、上手く唾が飲み込めない。

 たじろぐな。

 気圧されるな。

 何度も自分に言い聞かせながら、僕は強く頷いた。

「解せんな。それが通ると思うかね? 今までにいろんな人間を見てきたが、君のようなやつは初めてだ」

「ありがとうございます」

「決して褒めてはないがね」サカモト氏は鼻を鳴らすと、勢いよく煙を吐いた。

「お願いします」僕は頭を下げる。

「いやぁ、そんなことを願い出されてもだね、こっちも困ってしまうわけだよ。何を企んでおる?」

「言えません」

「それでは話にならない。君の目的も聞かずに、なぜ私が君に協力ができるのだね? 何事においても信頼関係は必要だろう。今の君と私にそれはあるかね?」

「無理なことを言ってるとはわかっています。ですが、理由を話せば、それはあなた方にも迷惑が掛かることになります」

 自分でもこんな非常識な願い出はどうかと思う。だけど、やるしかないんだ。これほどのチャンス、そうそう巡ってくるものではない。どう思われてもいい。どうなってもいい。ただ、進むためには、前へ行くしかない。

 僕は深く頭を下げる。

「何も迷惑はお掛けしません。お願いします、指定した日に銀行でお金を下ろすよう手配してください」

 話をするために連れてこられた書斎には僕とサカモト氏の二人だけだ。サカモト達は部屋で待っている。

 サカモト氏は革張りのソファにどっかりと体重を預けるように深く座っている。凝った装飾のテーブルを挟んで、その正面に僕は立っていた。サカモト氏の大きな目と葉巻の煙だけが、ゆっくりと動きを見せていた。

「お願いします」

「何が目的なんだね? 話すだけで迷惑を被るというのはどういうわけかな?」

「…………」

「話せないのかね?」

 僕は逡巡し、サカモト氏の持つ重厚な迫力に気圧される形で話すことにした。

「……実は、僕はある計画を立てています」

「ほお。どんな?」

「一つは、大金を得る計画です。もう一つは、……自殺する計画を立てています」

「…………」

 さすがにサカモト氏も言葉を失ったようだ。

 それはそうだろう、孫の客人からそんな告白を受ければ誰でもそうなる。

「あ、あの子は、このことを知っているのか?」

「……いいえ」

「そうか」

 サカモト氏は葉巻を灰皿に置くと、立ち上がって部屋の正面奥に移動し、高級そうな机に飾ってあった写真立てを持ってきた。

 そしてそれを僕に手渡した。

 写真には、一人の少年とまだ若いサカモト氏が写っている。この少年はサカモトだろうか。少年は野球のユニフォームを着てバットを握っている。その隣にサカモト氏が肩を抱き寄せるようにして写っていた。

 どちらも印象的な笑顔だ。楽しそうに写っている。

 写真から顔を上げると、サカモト氏は懐かしむようにわずかに微笑んでいた。

「その写真は十年以上も前のものだ」

「少年野球ですか?」

「ああ。よく笑っているだろう?」

「そうですね」

「……これが最後だった」

「へ?」

「あの子の笑った写真はこれが最後なのだよ」

「これが……?」

「このあとぐらいか、酷いイジメにあってな。あろうことか、自殺未遂もやらかしておる」

「え?」

 サカモトが?

 イジメ?

 自殺未遂?

「今では普通に生活をしてはいるようだが、それでも笑顔は減った。だから今日、友達を連れてきたと聞いて私は心から喜んだ」

「…………」

 そうだったのか。

 なんか、心が痛い。

 僕の目的はサカモトではなく、その家の大金だった。ものすごい罪悪感に包まれて胸が一杯だ。酷く、後悔した。

「ロゼが見たい、とそう言ったそうだね」

「……はい」

「ロゼにはたしかに、特別な魅力がある。私も含め、熱狂的なファンも多い。だが、いわゆる教科書に載るような他の芸術家と比べれば、その知名度はまだまだ低い」

「らしい、ですね……」

「だからこそ、喜んでおったのだ。ロゼを知ってる子がいる、と。あの子も、そして、私も」

「…………」

「……君は、君はなぜ自殺を? 他人の私が言うのもなんだが、死ぬことだけはやめなさい。人は簡単に命を投げ出すものではない。生きていればいいことがあるとは言わない。むしろ辛いことの方が多いだろう。だけど、捨てることだけはやめなさい」

「…………」

「あの子だって、今生きているからこそ、君のような友達を持つことが……」

「僕と彼は友達ではありません。この間、初めてしゃべったぐらいですよ。お金持ちだと聞いて、それで近づいたんです。僕はそういうやつなんですよ」

「……そうか。君なら、あの子の良き友になってくれると思ったのだが」

「友達はなろうと思ってなるものでは……。いつの間にかなっているものです」

「そうか、……そうだな。君の言う通りかもしれん」サカモト氏は微笑む。

 僕は立ち上がって頭を下げた。

「今日はもう帰ります。先ほどの馬鹿な発言をお許しください。忘れてください。本当に、申し訳ありませんでした。それでは」

 部屋を出ようとドアノブを触れたとき、呼び止められた。

「待ちたまえ。……せっかくだ、ロゼを見ていきなさい」

「え……、でも?」

「もともと、それが目的なのだろう? それともあれかね、盗み出そうとでも考えていたのかね?」

「そんなこと」

 僕は首を振ると、サカモト氏は喉を鳴らした。

「だったら見ていきたまえ。こっちだ」

 サカモト氏について部屋を出る。廊下の奥へ進んでいき、ある部屋の前まで案内された。その部屋のドアは他の部屋のものとは造りが異なり、一般的な住宅で見かけることのないものだった。映画館やコンサートホールなどで見られるような重厚な、遮音性、気密性に優れたもの。空調も、他の場所と違っているようだ。大切な美術品を保管している以上、温度や湿度などにも気を配って管理しているのだろう。

「では、入りたまえ」

 サカモト氏のあとに続いて中に入ると、そこには別世界が広がっていた。

「――っ」

 思わず呼吸することさえ忘れるような、瞬きさえ、本当に惜しいと感じるような、そんな圧倒的で絶対的なそれが目の前にあった。

 部屋に入ってすぐ、正面にそれは飾られてあった。四方にある他のものが、まるで入ってこないほどの、圧倒的な美。

 素人の僕でさえ、全くの無知である僕にでさえ、

 すべてを奪われるような、そんな感覚に襲われる。

 体が震え、涙が溢れた。

 こんな経験、あのとき以来だ。

「……いい目をしている」

「…………」

「これがロゼの『不夜』だ」

「不夜……?」

 描かれているのは、山中の湖とそれを照らす月明り……。不夜という単語から連想される一般的なものとは少し違ったが、その白く美しく輝く月を見ていると、なるほどこれ以上の言葉はないだろう。

「夜に似つかわしくないほどの、明瞭なる美しさを見せる月。たとえそれが太陽から受ける光のものだとしても、この明るさばかりは月が照らす真の明かりなのだ」

「とても、美しいです」

「ああ……。これがロゼだ。本物の、ロゼだ」

 サカモト氏は力強く頷く。

 審美眼は必要ない。

 本物の作品は、人の心を打ち、魂を震わせる。全身の肌が粟立ち、虜にさせられる。

「私は、ロゼの作品に出逢って、人生を大きく変えた。それまで芸術などと、鼻で笑っておったような私が、そのときばかりは矮小な自身を心から恥じた。教養のない自身を酷く憎んだものだ」

「…………」

「そのとき、初めてと言っていいだろう。私自身の、人生のテーマが定まった」

「テーマ……」

「私はロゼのためなら、何でもする覚悟がある。ロゼは、正しい者のところにあるべきだ」

「正しい……? 先日、ある雑誌で……」

「知っていたか。あんな屑に、『小さな静寂』が渡ってしまった。ロゼが、政治に使われてしまった!」

「え?」

 サカモト氏は奥歯を噛み締めるようにして、自身を落ち着かせるように、中に溜まった怒気ごと鼻から息を吐いた。初対面の人間に見せるほどだ。相当の、激昂だろう。顔が少し赤らんでいるようにも見えた。

「裏取引だ。銀行が奴に融資したのだ、オークションで競り勝てるように。そしてその見返りとして、ある法案を通すことになる」

「え、それって……」

「まったく嘆かわしい。こんな、こんなにも美しい芸術を、政治に利用しようなどと……」

 サカモト氏はロゼの『不夜』を遠くに見つめながら、小さく呟くように言った。

 僕も。

 僕もすでにロゼの虜になってしまった。この清廉な美を汚す輩がいるというのなら、それは許せないことだ。

 そして、銀行、か。

「君は、いい目をしているな」サカモト氏は僕に向き直り、そう言って暖かく微笑んだ。

「……そうでしょうか」僕は首を振った。「お金持ちに近づいていきなり無茶なお願いをするような、社会常識の欠如した奴ですよ」

「かもしれん」

 サカモト氏は肩を揺らした。

 僕はもう一度、絵を見つめる。

『不夜』か。

 本当に美しい絵だった。この絵を見ることができただけでも、大きな収穫になるだろう。――普通ならば。

「ロゼのために、何でもする覚悟があると、先ほどはおっしゃいましたよね?

「…………」

 サカモト氏は眉を寄せ、怪訝な表情で僕を見る。僕が何を言わんとしているのか、すでに察していることだろう。

 僕は笑った。

「すみません。何せ、社会常識が欠如しているもので」

「待て、待て。君は、何を言ってる?」

「サカモトさん、僕の仲間になりませんか?」


 6


「仲間?」

「ええ」

「何の? いや、何を言ってる、君は」

「ロゼの美しさに、僕も惹かれました。そして同時に、その美しさを利用する、汚す輩のことも知りました。なら――、やることは一つです」

「…………」

 政治家も、高校生も、そんな肩書はこの際どうだっていい。

 ただ同じ、ロゼに魅せられた男二人が存在するだけのこと。

「なるほど」

 僕の突然の申し出に、最初は戸惑いを見せていたサカモト氏だったが、やがて肩を竦め、口の端を大きく曲げた。

「ここまでくると、ふん、実際、笑ってしまうな。おもしろいな、君は」

 サカモト氏は短い首を動かし、後ろのドアを示した。彼に続いて廊下へ出ると、急に現実世界へ引き戻されたような気がした。サカモト氏はスリーピースのスーツの内側から茶色い革製のケースを取り出し、中から細い葉巻を一本、手に取った。

「この私に交渉をする気かね?」

 鋭い眼光を向けられる。

 その圧に、一瞬だけたじろいでしまう。

 鼻を鳴らしたサカモト氏は、カッターで吸い口を作る。その仕草が何とも威圧的だった。マッチを擦り、葉巻の先を回しながら火をつける。じりじりと、煙草の葉が焼けていく様は、まるで僕自身に火がつけられているかのようで、正視に堪えなかった。

「どうした? 先ほどまでの威勢は、もう終いか?」

 からかうような目つきをこちらに向ける。

 恐れるな。

 たじろぐな。

 狼狽えるな。

「ロゼを」

「ロゼを出しにするつもりか?」

 猛禽類のような鋭い視線が突き刺さる。

 その迫力に負けまいと、僕は精一杯の虚勢を張る。

「そうです。手段を選んで目的を見失うのは、馬鹿のすることです」

「…………」

「ロゼのために何でもする覚悟がおありなのでしょう? なら、協力をしてください」

「何故そうなる。正気ではないな」首を振りながら、サカモト氏は葉巻を咥えた。

「ええ、まあ、それは、いろんな人から言われますけど」

「考えてみたまえ。どうして私が犯罪に手を貸さなければならんのだ?」

「いや、まだ犯罪とは」

「違うのかね?」

「いやまあ、そうなんですけど」

「まったく、気でも触れてるのではないか、君は」

 ここにきて、至極真っ当なお説教を食らうことになるとは。

 しかし、どこか楽しそうに、サカモト氏は笑う。とは言っても、その笑みは映画に出てくるマフィアのそれに通ずる何かがあった。

 恰幅のいい体を揺らしながらサカモト氏は書斎まで引き返す。部屋に入ると、そこにはサカモト、ミノル、タムラの三人が待っていた。一様に不安な面持ちをしている。それを受け、サカモト氏はまたも喉を鳴らした。

「慕われてるな」

 艶の出た飴色の革製の椅子を引き寄せると、サカモト氏はそこに腰を下ろした。天井を見上げるように、ゆっくりと味わった煙を吐く。甘い芳香が部屋に広がった。

「……おい」

 後ろからミノルが僕を小突く。

「サカモトには?」

 僕は不安そうな表情を浮かべているサカモトをちらりと見てから、ミノルに小声で尋ねた。

「話したよ。話すしかねーだろ、お前が暴走したんじゃ……」

「で?」

「普通だよ。普通の、自然な反応だけだ。何を期待してんだよ。いいか? 俺やタムラみてーのが他にもいるなんて思うんじゃねーぞ」

 サカモトを仲間にして家族を説得してもらう、なんてのはさすがに虫が良すぎたか。やはり、直接説得を試みるしかない。

「君達二人も、そこの彼の仲間なのかね?」

「え、ええ……」タムラは慎重に頷く。

「すごいな。二人も」サカモト氏はオーバーに両手を広げる。葉巻を灰皿に置くと、頬杖をしながら僕を見て笑った。「意外に交渉上手だな」

「あなたのお力添えがあれば、と思います。協力してくれませんか?」

「人は理と利で動く」

「…………」

「では、君は私に何をもたらす?」

「えっと、じゃあ、件の銀行を潰します」

「はぁっ?」

 声が上がったのは後ろからだった。

「ちょ、おま、何言って」

「いいだろ別に。どっちみち、成功すれば壊滅的な打撃を与えられる」

 僕はサカモト氏に向き直る。

 さすがの彼も目を丸くさせていた。

「いかがでしょう」

「……正直、驚かされた。いや、予想してなかったという意味に他ならないがね」サカモト氏は顔を引きつらせたまま葉巻を咥える。「しかし、ただの高校生である君に、そんなことができるとはとてもではないが考えられん。それに、そんな保証、どこにもない」

「ええ、まあ、たしかに。でも、信じてもらわないことには」

「そうだったな、正気ではなかったな」

「ええ、まあ、そうですね」僕は簡単に頷いた。「でも、そんな人間の話をここまで聞いてくれるというのも、ほら、まあ、同じかなって思うんですよね」

「…………」

 部屋に沈黙が訪れる。動くのは部屋の端にある柱時計と、サカモト氏の葉巻の煙のみ。だけど、不思議と重苦しさは感じなかった。もしかしたら、もうすでに麻痺しているだけなのかもしれないが。

 たしかに緊張はしている。その自覚はある。だけど、恐怖はなかった。むしろ雲間から陽が差すような晴れやかな気分でさえある。

「正直に言おう」

 大きく息を吐いたかと思うと、サカモト氏は仰々しくそう切り出した。

「君のことは嫌いではない。会って間もないが、話してみて、不思議な魅力があるようにも感じた」

「じゃあ」

 サカモト氏は片手を広げ、気が逸る僕を制した。

「とは言え、だ。それでもやはり、馬鹿げている。その一言に尽きる」

「…………」

「だが、君のことを気に入ったのも事実だ。そこで、だ。一つ、チャンスを与えてやろう」

 思わぬ展開に、僕はミノルとタムラと顔を見合わせる。ミノルに至っては肩を竦め、両目を回して見せた。恐らく世の中は馬鹿しかいないのか、という動作だろう。

「勝負をしよう」

「勝負?」

「もし、君が勝てば、協力することを約束しよう」

「お」

「だが負ければ、君達三人の人生を私に預けてもらう」

「え」

「はぁっ?」

 タムラとミノルが顔を歪める。

「あ、喜んで」

 僕は承諾した。

「え」

「うおぉーいぃ!」

 ミノルが血相変えて僕の肩を揺さぶる。

「何考えんだ! 何を考えてんだ!」

「そ、そうですよ! モモくん、さすがにこれは……!」

「えー、だってさぁ」

「だってもくそもあるか、馬鹿! 何さらっと人生賭けて……、おまっ……」

 ミノルもタムラも、今にも泣きそうな顔を見せる。

「どうする? やるのかね、やらないのかね」

 葉巻をおいしそうに吸いながら、サカモト氏はこちらの様子を窺う。慌てふためく様を楽しんでいるようにも見える。

「やります、やります」

「ああ、もう」

「ほっほ。よろしい。ますます君のことが好きになった」

 二人には悪いが、願ってもないことだった。これで道は繋がる。

「麻雀は知っているかね?」

「麻雀ですか? 点数計算はできないですけど……」

「私とサシで勝負をして、もしも君が勝つことができたなら、私は協力を惜しまない。それでいいかね?」

 笑顔で即答しようとしたとき、隣のサカモトが僕の腕を掴んで制した。そして、やめるように忠告をしてきた。

「だめだよ、無茶だ」

「え、何が? 勝てばいいんでしょ?」

 サカモトは真剣な表情で首を振る。

「お祖父ちゃんはプロ級の腕なんだ。点数計算もできない素人の君が勝てるわけないよ。これはチャンスなんかじゃないんだ」

「そうは言われても……」

 僕はちらりとサカモト氏の様子を窺い見る。

 にやにやしながら僕の返事を待っている。

「サカモトの言うことを聞いとけって」ミノルも僕の腕を掴むと何度か引っ張った。

「そ、そうですよ。ここはいったん、少し落ち着いて」タムラも泣き出しそうな顔で懇願する。

「大丈夫だよ。リーダーに任せといてよ」

 僕は三人の制止を振り切って、頷いた。

「麻雀での勝負、お受けします」

 サカモト氏の協力を得るためにはこれしか方法がないならば、勝負を受けるしかない。

「それでこそ男だ」サカモト氏は満足そうに笑う。「さて、君が私に勝った場合、私は君への協力を惜しまない。それでいいかな」

「ええ、もちろん」

「そこで、だ」サカモト氏は言葉を切ると目つきを変え、鋭い視線で僕を睨みつける。「君が負けた場合、君はもちろん、そちらのお友達二人も、私の駒となってもらう。そうだな、実は事務所の人手が足りなくてね。雑用係がちょうど欲しかったところだ。君達が高校を卒業したら、まずは、次の任期までの三年間、私の事務所でただ働きをしてもらおう」

「ただ働き……、三年間」

「何、君が勝てばいいのだよ。様々なボードゲームがある中で、麻雀だけは運も絡んでくる。囲碁や将棋などと違い、実力差があっても絶対はない。君にも充分勝機がある」

「そうですよね」僕は頷く。

「何言ってるんだよ」サカモトが僕に耳打ちをしてくる。「そりゃあたしかに麻雀には運の要素も重要になってくるけど、基本的には力がものを言う。だからこそプロがあって、段位まであるんだ」

「わかってるよ」僕はサカモトの肩をぽんと叩く。「大丈夫だって。何とかなるよ」

 しかしサカモトは首を振る。

「わかってないんだよ、君はお祖父ちゃんの強さを。麻雀の腕に覚えがあるのならともかく、点数計算もできない初歩的な段階で躓く君じゃ、もうすでに結果は見えてるよ」

「はいはい、わかったから。黙ってリーダーを見てなさい」

 僕は騒ぎ立てる三人を制して、サカモト氏に向き直る。

「受けて立ちますよ」

「ほっほ。なかなか精悍な男のようだな、君は」

「え? えへへ」

「さあ、それではついてきたまえ」

 部屋を出て、長い廊下をサカモト氏について歩く。案内されたのは麻雀卓と牌が置かれている部屋だった。他の部屋に比べると小さなところだが、麻雀のためだけの部屋と考えれば、贅沢であることには変わりない。

 一つの椅子にサカモト氏が腰を掛け、対面の椅子に僕を促す。

「ルールは簡単だ。基本は麻雀のルールそのまま。持ち点はそれぞれ二十万点とし、それが尽きた方の負けだ。明瞭だろう?」

「役は?」

「この通りだ」

 僕は差し出された紙を受け取る。麻雀の役と翻数が書かれていた。

 …………。

 こういう表が用意されているということは、やり慣れていることを示していた。それに点棒が尽きるまで、ということは運の要素をできる限り排除したルールとも言える。

 サカモトの言う通り、かなりの打ち手だろう。

 だけど、不思議と臆する気持ちはゼロだ。

 むしろとてつもない突風に背中を押されている気分だ。

「本当にいいの?」

 最後に、サカモトが僕に尋ねた。

「もちろんだよ」

 僕は笑顔で即答した。

「もう無駄だ。馬鹿のスイッチが入っちまった……。もうだめだ」

 ミノルは観念したのか、頭を抱えながらも、止めはしなかった。

 僕はサカモト氏の対面に座る。

 サカモト氏に麻雀で勝つだけで彼の協力が得られるというのなら、それは非常にわかりやすいことだ。

 だって、考えなくてもいいのだから。

 サカモト氏を協力させるために、僕があれこれを考える必要がなくなった。

 単純で、わかりやすい。麻雀に勝てばいい。たったそれだけだ。

 相手はプロ並の打ち手だという。

 だけど、それがどうした。

 勝てばいいのだ。

 これ以上、シンプルなことはない。

 僕はサカモトを見て、小声で囁く。

「君も、仲間になってもらう」

「……!」

 サカモト氏が手を鳴らした。

「では、始めようか」

「お願いします」

 そして運命の対局が始まった。


 7


「あ」

「え」

「ひっ」

 僕達の未来を賭けた運命の対局が始まってわずか一時間弱。

 恐らく誰も予想していなかった展開が巻き起こっていた。

 僕は蹴散らしていた。

「……なっ、そ、……そんな馬鹿なっ」

「す、すごい」

「えへへー」僕は笑いながら牌を切る。

 持ち点はそれぞれ二十万点で、どちらかの点棒が尽きるまでのデスマッチ。プロ並みに強いというサカモト氏はたしかに強かった。相手の待ち牌を読み切る正確な打ち回しや、政界の一線で活躍するために必要なその強運。プロ並みという、その評価は決して過大ではない。

 だがしかし。

「あ、揃ってる」

「なっ」

 僕は牌を倒して、奇跡を見せる。

「えっと、天和てんほうです」

「ばっ!」

「そんな!」

 全員が駆け寄るようにして、卓の中の奇跡を覗き込む。奇跡の十四牌を、一つずつ確認するように数えていく。

「ばっ、馬鹿なぁ!」

 サカモト氏は年甲斐もなく大声で叫び、自身の牌を崩した。

 その場の全員が目を大きく見開き、唖然と僕を見つめていた。

「これで僕の勝ちですね」

「…………」

「ふふふ、プロ並みに強いあなたより強いってことは、神様並に強いってことでいいですかね?」

 目の前の老人は口が半開きの状態で、先ほどからずっと卓上を見つめている。見つめているといっても焦点は定まっていないが。事切れた、という感じだ。

 対局開始から一時間ほどの短い時間で、僕が勝ち、幕は下りた。

「それでは、約束通りあなたには協力をしてもらいます」

「…………」

「サカモト、君も僕の仲間になってもらう」

「え……」

「もちろん、君は嫌なら断ってくれて構わない。だけど、生徒会長だった君が加わってくれるなら、とても心強い」

「ぼ、僕は……」

「心配してくれただろ、僕のこと。こんな無茶苦茶な状況なのにもかかわらず、それでも僕や僕達のことを思ってくれた。そういう人間なら、全幅の信頼を置ける」僕はサカモトの肩を軽く叩いた。「ま、返事は気長に待つよ」

 こうして運命の対局を終え、僕達は無事にこの部屋から出ることができた。僕が部屋から出る際にも、サカモト氏は何も言わずに、ただただ奇跡の名残をいつまでも見つめているだけだった。

 サカモト氏の協力により、銀行を襲う日時を具体的に決めることが、自分達の思う日に設定することができる。これはかなりの前進と捉えてもいいだろう。

「やった!」

 廊下に出て、僕は拳を握った。

「やった、じゃねえ!」

 ミノルから怒号が飛ぶ。

「何だよ、何怒ってるんだよ」

「怒るよ! 当たり前だろ! あんな無茶な勝負し掛けて!」

「勝っただろ?」

「勝ったけど……、勝ったけどさ」

 そこまで言うと、力が抜けたのかミノルはその場にへたり込んでしまった。

「お、おい」

「さすがに、ちょっと、疲れましたよ……」

 すると先ほどまでずっと無口だったタムラも、腰が抜けたように、近くの壁にもたれかかってしまう。

「何だよ二人とも、僕を信じてなかったの?」

「いや、もう、信じる信じないどうこうよりも、あー、もう……」

「?」

「何で首を傾げんだよ、お前はよ」

 泣きそうな声でミノルは言うと、大きくため息をついた。タムラも同様に疲れ切った表情でいる。

「でもこれで計画はかなりの前進だよ?」

「わかってるよ。つか、やべーな。マジで、お前、すげーよ……」

「ええ……。わかっていましたけど、ちょっと、今日は、その、それをところん痛感したというか……。ああ……」

「ほら、さっさと立って帰ろうよ」

 座り込む二人を何とか立たせて、玄関へと向かう。

「と、とと」

 玄関はどこだ?

 見渡す限り天井の高い廊下がまるで庶民を取り込む迷路のように延びている。

「あ、あれ?」

 僕は慌てて辺りを見渡す。似たような景色が広がっているだけで、今現在自分達がどこにいるのかさえ把握できない。

 なんだ、これ。急に心の奥底から恐怖なるものが……。このままでは純粋な心だけが取り得の庶民の僕は、このとち狂った価値観を持った富民族の寂しい心と他人に見せびらかしたいという犬も喰わない優越感を満たすためだけに作られた迷宮に取り残されてしまう。

「ね、ねえ、玄関ってどっち?」

 僕は二人に尋ねる。

「え?」

 二人もそこで慌てて振り返った。そしてこちらに向き直った顔からは、とても答えを期待できるようなものではなかった。三人が三人とも、顔を引きつらせる。

「ど、どど、ど、どうしよう?」

「と、とりあえずさっきまでいた遊戯室だっけか? そこに戻ろう。あそこにはサカモトがいるだろ」

「そ、そうですね。そうしましょう……」

「…………」

「な、なんてこったい」

 振り返った僕達に飛び込んできたのは手厳しい現実だった。

「どこだ、ここ?」

 まったく覚えがない。

 廊下を挟んでいくつもの部屋がある。

 そのうちのどれかから出てきたんだっけ? いや、そもそも部屋を出てから少し歩いてきてしまったような……。

 僕は勝利の余韻に浸って、二人は憔悴しきっていて、来た道を覚えていなかった。

 悩んでいてもしょうがないので、僕は一番近い部屋に入ることにした。大きいドアの前に立ち、庶民ながらなるべく品良くノックしてみる。

「…………」

 耳を済ませど、返事はない。

 ノック、丁寧すぎたかな?

 この家のもののすべては僕が想像もできないような高級なもので取り揃えられているだろう。だから、必然的に僕は弱腰になっている。ノックするだけのことでも、傷つけてはいけないという何とも言えないある種の強迫観念に駆られるのだ。もしかしたらそんな弱腰の僕のノックでは、この無駄に高級で重厚なドアは音を通さなかったのかもしれない。それにこの馬鹿みたいにふざけたお屋敷だ、きっと防音設計なんかもされているに違いない。その可能性は大いにある。

 仕方がない。

 僕はドアノブに手を掛けた。

 そのとき。

 僕の指先に尋常ならざる衝撃が走った。

「ぎゃああああ!」

 筆舌し難い強烈な痛みが僕の右手を襲った。

「――っ! お、おいっ?」

 僕は恐る恐る自分の右手を見る。

 ちゃんとあった。わずかに安堵し、胸を撫で下ろす。

「な、何だったんだ? 今のは……」

 凄まじい衝撃だった。ドアノブに手を弾かれた感じだ。

 まだ痛みが指先に残っていて、なんだか痺れているみたいだ。

 ま、まさか、防犯システムか? この屋敷、そこら中にそういった迎撃システムが備えられているのか?

 一瞬のことだっただが、青い光のようなもの、火花も出るほどだった。

「た、った、大変だ……」

 下手に歩くと死ぬ危険性がでてきた。背中に嫌な汗が伝う。

 嫌だ。怖い!

 なぜだ、今、僕は乗りに乗ってるんじゃないのか? 先ほどの、卓上を支配していた僕の勇姿を言葉で表現されて世間に伝えられたら、僕に抱かれたいと思う女性が現れるのは必至なのに。今きっと、僕からはめちゃくちゃカッコイイです的なオーラが出ているはずなのに。

 ど、どこだここ?

 か、帰りたい。

「た、助けてぇ!」


 この日、僕はサカモト家やそれに仕えている人達の間で一躍有名に、そして伝説となった。もちろんそれは、プロ並の腕前であるサカモト氏とサシの麻雀で、僕がまったく寄せ付けない圧倒的な大差で勝ったからだ。

 だけどもう一つ理由がある。

 豪邸の中で迷子になり、ドアノブを触れたときに起きたただの静電気を防犯システムだと勘違いし、怖くなって一歩も動けなくなり、挙句の果てには泣きじゃくった高校生。

 そんな目も当てられぬような者が大切な坊ちゃまの友達でいいのだろうか、という議論が一日中繰り広げられたのだという。

 結論としては、だめなんじゃないか、という意見が大多数だったそうだ。

 まったくもって、ほっといてほしいものである。

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