第1章 死ぬためにも金が要る


 1


 たぶん、それは必然のことだった。

 そう、わかりきったことだったじゃないか。

 彼女は学校で一番かわいかった。

 いつでも笑顔で、いつも周りには人が集まっていた。

 頭も良くて、運動神経も良く、手先も器用で、性格も良かった。

 とにかく、すべてにおいて、彼女は素晴らしかった。

 天使や女神だと形容されるに相応しい人だった。

 だから、僕は彼女のことが好きだった。それはとても自然なことだったと言える。

 話したことは数える程度しかないけど、それでも好きという気持ちに少しの曇りもなかった。

 僕と彼女は同じ高校の同級生。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 僕はいったい何を期待していたんだろう。

 彼女が、僕なんかに振り向くはずがないのに。

 僕は今までほとんど恋愛を経験したことがなかった。

 奥手なのだ。

 告白をして振られたら……。

 そんなことを考えるとまるで動けなくなってしまう。

 もちろん、好きな子とは付き合いたい。

 だけど、告白をして振られることにでもなったら、その後の関係にまで影響を及ぼしてしまう。

 僕と彼女の現状は、ただの同級生。

 それだけだ。

 だけど、振られることを考えれば、この関係でも居心地は悪いとは思わない。

 本音では、付き合いたい。

 でも振られるのが怖い。

 振られたら、今の関係ですらなくなってしまうのが怖い。

 僕は臆病だ。

 それはわかっている。

 だけど、どうしようもない。

 これが僕なのだ。

 でも、このままではいけない。

 それもわかっていることだ。

 だから、ほんの少しでも勇気を出して、話すようにしてみた。

 ちょっとずつだけど、以前よりは彼女との会話も増えた。

 それはやっぱり嬉しくて、毎日が楽しいと思えるようになる。

 幸せだった。

 だけど、いつまでもこのままだとは限らない。

 そう、例えば、進学先。それが同じである保証はどこにもない、ばかりか、違う可能性の方が圧倒的に高いだろう。

 彼女と一緒にいられるのは高校が最後かもしれない。

 通う学校が変わってしまえば、今みたいに話せなくなるのは間違いない。まさか電話で他愛もない話をするわけにいかない。彼女は誰とでも気軽に接するが、僕はそんなに器用ではないのだ。違う大学に通うことになっても、今までどおりに話す機会を得ることなんて、それこそ、不可能に近い御伽噺だ。

 僕が慌てても、時間だけは止まらずにゆっくりと進んでいく。

 そして。

 最初のころとは違い、今では友達と呼べるまでには仲良くなった。

 僕は彼女のことが好きだ。

 だから、彼女と付き合いたい。

 でも、振られるのが怖い。

 振られて、今の関係が崩れることが非常に怖い。

 この気持ちは、前よりもずっと強いものになってしまった。仲良くなった分、より振られることが怖くなったのだ。

 どうしよう。

 でも時間はない。

 卒業したら、会う機会がないかもしれない。

 彼女は頭が良いから、きっと僕では手の届かない偏差値の大学へ進むだろう。

 僕は悩んだ。

 毎日悩んだ。

 僕は苦しんだ。

 毎日苦しんだ。

 考えて、考えて、考えて。

 僕は、彼女に告白した――。

 友達という今の関係もすごく居心地がいい。

 ずっとこのままでいられたら幸せだし、楽しいだろう。

 だけど、僕はその関係に終止符を打つことにした。

 前に進むために。

 僕は勇気を出した。

 今までの人生の中で一番の行動だった。

 初めての告白。

 放課後、教室で。

 僕は彼女に想いを伝えた。

 僕の素直な気持ち。

 前へ進むために、僕は踏み出した。

 怖かった。

 震えるように怖かった。

 でも、それ以上に好きだった。


「ごめんなさい」


 すべてが、真っ白になった。

 すべてが、真っ暗になった。

 彼女のその言葉は、どんな神の言葉よりも重かった。

 僕は全身を貫かれた。

 頭から足の先まで、体験したことのない衝撃が襲う。

 たとえ神様でも、悪魔でも、ここまで僕を傷つけられるだろうか。

 しかし。

 至極当然の結果だった。

 彼女が、僕に振り向くはずがない。

 それはそうだろう。

 向こうは学園のアイドルだ。

 僕なんかに、振り向くはずがない。

 わかりきったことだった。

 そんなことさえも、わからなかったのは僕だけだったのだ。

 ただ立ち尽くし、

 朧な視線で空を見上げ、

 僕の中の神様は呟いた。


「だめだこりゃ……」


 僕は、生きる希望を失った。

 無味乾燥の余生を過ごせとでも言うのだろうか。

 僕には、まるで考えられない。

 最初で、そして最後の失恋。

 僕はもう、生きられない。生きてはいけない。

 生きる希望も、意味も、すべてを失ってしまったのだ。

 死にたくなった。


 2


「ああぁー……」

 僕は項垂れて、頭を抱えていた。

 もう、何もかもが嫌だ。

 死んでしまいたい。

 いっそのこと、自分という存在を消したい。

 ああ、やってしまった。

 僕はずっとうなされていた。

 いつも、彼女のあのセリフで目を覚ますのだ。

 あの言葉が耳から離れない。

 わかっていたことなのに。

 わかっていたはずなのに。

 それなのに、なぜだ。

 なぜ望んでしまったのだろうか。

 僕はため息を重ねて、組んだ腕の中に顔を埋めた。

「おいモモぉ、まだ落ち込んでんのかよ?」

 僕は顔を上げる。

 無駄に図体のでかい、ミノルが立っていた。冬場であるにもかかわらず、この男の肌は日に焼けている。意味が分からない。皮膚細胞まで馬鹿なのかもしれない。どれほどのアクティビティをこなせば、ここまで日に焼けるというのだろう。

「もう過ぎたことだぜ? そろそろ気持ちの整理つけろよ」ミノルはぽんと僕の肩を叩いた。

「……本気だったんだよ」

 僕はため息をついて、少しでも心を軽くしようと試みたが、それはすぐに失敗に終わる。あれ以来、比喩でも何でもなく、本当に胸が苦しくて仕方がない。

「勇気を出して、初めて自分から告白したんだ。だから、その、まだ上手く処理し切れなくて。だって、これで、もう今までみたいに話せなくなっちゃったし……」

 考えるだけで涙が出てきそうだ。

 失恋がこれほどまでに辛いものだとは思わなかった。

 こんなことなら、初めから告白なんかしなければよかった。

「ったく、結果はわかりきったことだったろ? 天変地異が起きても、お前なんかが学園のアイドルと付き合えるわけねえだろうが。考えろよ、ちったぁ。傷つくのはわかってたことだろ」

「う、うるさいな! なんだよ、さっきから。慰めるならちゃんと慰めろよ!」

「いや、からかいにね」ミノルは鼻を鳴らして、僕の肩を叩く。

「な、なんだよ! 親友の失恋をからかうだなんて。そんなに僕の不幸がおもしろいのか?」

「ちょーおもしろい!」

「ちょーとか言うな!」

 ぷぷっ、とミノルは笑顔を向けながら、僕の頭を撫で始めた。

 ここまで馬鹿にされる僕も惨めでどうしようもない。

 しかし、たしかに自分自身でも笑いたくなるようなことだ。ミノルにからかわれても仕方がないだろう。

 相手は学園のアイドル。学校で一番、というより、彼女よりも美しいものを見たことがない。それは僕の主観に止まらない。全校生徒の男子が全員、恋に落ちていたと言っても過言ではない。

 その絶大なる人気は、告白する気も引けるほど。あまりにも圧倒的過ぎる美人を見ると臆してしまうのだ。つまり、結果が見えている。彼女と釣り合う男はいない。

 だから、彼女に告白する男子はいなかった。みんな彼女のことが好きだったが、負け戦はしなかったのだ。

 そんな中、僕が告白をして、振られたわけである。

 もう、何がなんだか。

 ああ、死にたい。

「モモ、元気出せって」

「出るもんか、こんな状況で」

 街はクリスマスシーズン到来で、カップル達が溢れかえっている。これでもか、と犬も食わない愛を見せつけている。死ねばいいのに。もれなく全員死ねばいいのに。

 高校では期末テストも終わり、冬休みに入ろうとしていた。そのことも若者のテンションに拍車を掛けている。

「ほら、周りを見渡せって。このクラスの半分は女だぜ?」

「僕は本気だったんだよ。彼女じゃないとだめなんだ」

 この世界には何十億という女性がいることだろう。だけど、それに何の意味がある? 僕は彼女が好きだったのだ。彼女じゃなければ、意味などないのだ。彼女を超える女性がいるとでも? まさか、考えられない。形容するならば、まさしく女神のそれだ。

 彼女に振られたことで、僕のすべては終わってしまった。

 振られてからというものの、僕は無気力になってしまった。それだけ、本気だったのだ。

 一応、学校には来ているが、授業は上の空だし、ため息を重ねるばかりだった。

 もう、死にたい。

 本当にそう思う。

 どうやって死のうか、そればかりを考えていた。

 最近、ニュースなんかでも自殺者が増えていると、たびたび報道されているのを聞く。前まではどうして自ら命の絶とうとするのか理解できなかったが、今では充分過ぎるほどだ。

 どうせなら楽に死にたいなぁ。

 ニュースなどで仕入れた情報では、一酸化炭素中毒が今の流行りらしい。レンタカーを借りて、ガムテープで目貼りした車内で備長炭を炊き、睡眠薬を飲んで自殺するのだという。

 なかなか考えた死に方じゃないか。

 それでいこうかな。

 だけど僕は免許を持っていない。まずは免許を取りに行かなければならない。

「ミノル、免許ってどれくらいで取れるの?」僕は隣の席のミノルに尋ねた。

「何の免許だよ。原付か?」

「普通の車だよ」

「十八歳未満は取れないだろ」

「あ、そっか」

 僕はまだ十六歳だ。端から無理な話だった。

「参考までに、免許って取るのにお金とか、どれぐらい掛かるものなの?」

「一発で、三十万ぐらいかな」

「さ、三十っ?」

 思わず叫んでしまった。

 授業中だったので、ほとんどでの生徒が振り返って僕のことを見ていた。教壇に立っている教師がわざと咳払いをすると、威嚇するように鋭い目つきで僕を睨みつけた。

 しかし今はそんなことどうでもいい。問題なのは免許を取るのに前代未聞の大金が必要だということだ。僕の貯金は三万円あるかないかだ。その十倍もの金が自殺する上で必要になってくるというのか。前途多難とはまさにこのことである。出端を挫かれたと言ってもいい。寿司屋で最初に出てくる熱いお茶は、アガリではなく、出花である。そんな豆知識を披露したところで僕の貯金額は微動だにしないのだが。

 うーん、まいったなぁ。

「なぁ、ミノル」

「なんだよ? つか、授業中に話しかけんな」

「何かいい自殺の仕方はないかな?」

「はぁ? 自殺? お前するのか?」

「え、あ、うん、まあ、予定だけど」

「どうしてまた? 振られたから?」

「うん、まあ、そうなるかな」

「ここから飛び降りたら?」素っ気なく言うと、ミノルは前を向いてしまった。

 僕は窓から下を覗いてみる。

 ここは三階なので地上までは十メートル弱ぐらいか。

 中庭は一面芝生なので、ここから飛び降りても骨を折るだけだろう。確実に死ぬのなら飛び降りてもいいけど、死ねずに痛い思いをするのは嫌だし、何よりも授業中に飛び降りたらあとで何を言われるのかわかったものじゃない。

 ここはやめておく方が賢明だろう。

 しかし、自殺するのも大変だな。

 なかなかに難しい。

 どうしよう。

 授業をそっちのけで考えてみたが、具体的ないい案は思い浮かばなかった。気づけば、いつの間にか昼休みになっている。周りのクラスメイト達は机を並べてお弁当を楽しそうに食べ始めていた。

 やはり僕だけではどうしようもないので、ミノルに尋ねてみることにした。

「お前、そんなくだらねえことを考えてたのかよ?」ミノルは馬鹿にしたように言って、パックのジュースを飲んだ。

「くだらないとはなんだ。僕にとっては生きるか死ぬかの問題なんだぞ」

「それがくだらねえっつってんの。たかが女に振られたぐらいで死ぬだのなんだの。大げさだっつうの」

「それだけ僕は本気だったんだ」

「それは聞いたっつうの。知らねえよ。手首でも切れば?」

「手首……」

 備長炭よりも前に流行っていたリストカットというものだ。

 なるほど、リストカットも人気があったみたいだからそれもいいかもしれない。

 …………。

 人気……。

 あれ?

「なあ、ミノル」

「なんだよ。刃物は持ってねえぞ」

「リストカットって流行ってたことあったよね?」

「流行りとかどうとかじゃねえだろうけど。まあ、でもやってる奴は多いんじゃねえの? リストカット症候群とかいう言葉もあるみたいだしな」

「そこだよ」

「んあ、何が?」

「リストカットを何度もするような子がいるってことはさ、確実性がないんじゃないかな。手首を切るだけじゃ、人は簡単に死なないんじゃないかな?」

「かもな。で、何よ?」

「僕は死のうとしてるんだよ。リストカットはだめだ」

「知らねえよ。うぜーな、ったく。勝手に死ねよ」菓子パンを頬張りながらミノルはめんどくさそうに言った。

「勝手に死ぬけど、方法ぐらい一緒に考えてくれてもいいだろ? 僕達、親友だろう?」

「世間一般の親友は自殺の方法について一緒に考えたりしねえよ。モモぉ、振られてからちょっとイッちゃってないか?」

「僕は絶対に死ぬんだ! 死んでみせる!」

「あー、もう、好きにしろよ」

 呆れる友人を尻目に、僕は自殺の方法について思案をめぐらすことにした。そのまえに、ちゃんとした思考をするためにはちゃんとご飯を食べなくては。僕は持参したおにぎりを頬張った。中身は昨日の残り物の鮭だった。うん、おいひい。

 結局、午後の授業も費やしてもいい案は浮かばなかった。

 しかしどうしたものだろう。世間では空前の自殺ブームだというのに、なかなかその波に乗ることは難しいじゃないか。サーフィンをやったことがないからかな……?

 あれやこれやと思案してみるものの、やはり僕一人ではすぐに限界だと悟り、誰かに相談する必要性を感じた。

 誰に聞くべきだろうか。

 僕は頭の中から友人・知人を検索に掛ける。

 そうだ、流行に敏感なマコに聞いてみよう。

 僕は掃除の時間に、自分の持ち場をサボってマコを訪ねに行った。体育館にはマコの他数名の女子がフロアをモップ掛けしていた。

「あ、マコ」

「モモじゃん、どうしたの? あんたは教室の掃除でしょ?」

 マコもクラスメイトの一人で、いつもおしゃれに気を使っている女の子だ。僕が告白をした子じゃないにしろ、マコも充分にかわいいと思う。

 黒髪のショートはこだわりのボブらしい。ボブって何だ、どこの外国人だと尋ねてローキックが返ってきたのは記憶に新しいことだった。

「ねえ、マコに聞きたいことがあるんだけどさ」

「何?」

「なんかいい自殺の仕方って知らないかな?」

「はあ?」マコの顔が歪む。

「あ、いや、流行に敏感なマコなら詳しいかなって」

「知らないよ、そんなこと」マコの声が大きくなった。

「そうなんだ。実はね、今、世間では自殺が一大ムーブメントを引き起こしているんだよ」僕は彼女に耳打ちをしてあげる。

「あんた馬鹿ぁ?」

 多少、怒っているように見えるのは気のせいではないだろう。僕がマコよりも流行について詳しく知っていたのが気に喰わないのかもしれない。乙女心というのは……。おっと、これ以上はフェミニストに目をつけられる。

「僕、マコよりは成績いいよ」

 ずんっ、と左足に重い痛みが走った。

「うっ……!」

 マコの鋭いローキックが見事に決まっている。

 熱を帯びてきて、痺れてきたかなと思ったころには立っていられなくなった。その場に倒れる僕を睨みつけると、マコは他の女子達とともに体育館をあとにする。

 さすがに空手有段者の蹴りは違う。

 痛い。

 涙が頬を伝う。

 やはり僕には痛みを伴う死に方は無理なようだ。苦しまずに死ぬ方法を考えた方がいい。となるとやっぱり備長炭だろうか。

 僕は足を引きずりながら、自分の持ち場へと戻った。

 親友のミノルも協力をしてくれない、流行に敏感なマコもだめ、となると次はどうしようか。やっぱり、生徒の悩みには教師だろうか。でもなぁ、教師って優等生と問題児にはやさしいけれど、僕みたいな超のつく普通の生徒に対してはどこか厳しいというか、冷たい印象を拭えない。所詮は公務員、社会の下僕だ。残業などしたくはないのだろう。

 しかし、世間の人達はどうしているんだろう。自殺した人には聞けないし、自殺したことがある人も失敗をしているわけだから参考にならないだろうし、……難しいな。

 こんなに悩むなんて、僕の頭が悪いせいだろうか?

 教室に戻ると、掃除をサボっていた罰としてゴミ出しを承ることになった。手厳しい現実である。

「モモぉ、帰ろうぜ」ミノルが廊下から歩いてきた。

「ゴミ出しに行くんだ。半分持って」

「嫌だ」

「じゃ、僕のカバンでいいから」

「嫌だ」

 なんなんだ、こいつ。

 体育館裏のゴミ置き場までゴミ袋を持っていく。それを出して、自転車置き場を通り過ぎ、校門をくぐった。

「で、いいの思いついたのか、自殺」ミノルはにやにやと笑いながら聞いてきた。

 ミノルはきっと僕が自殺をしないと思っているのだろう。僕はこんなに本気だというのに。なんと親友はのんきなことか。

「何も思いつかない。なあ、考えてくれよ」

「自殺する仲間を作ったらどうだ? 世間では多いらしいぜ」

「どうして?」僕は首を傾げる。

「知らねえよ。ただ、一人で死ぬのが怖いんだろ?」

「はあ?」

 わからない。

 一人で死ぬのが怖い?

 馬鹿じゃないのか。

「だめだ、そんな馬鹿どもの意見は参考にならない」

「お前も充分馬鹿だと思うけどな」

「うーん、やはり人生の先輩に尋ねるのが一番かな」

「人生の先輩? 誰よ」

「お母さん」

「母親に自殺について相談するって、そこらへんはどうよ?」

「おかしいかな?」

「すべておかしいっつうの。だいたい、自殺について悩むのがまずおかしいだろ。何かに悩んで自殺するのが普通じゃねえのか? お前の場合、その自殺について悩んでんだもん。本末転倒だろ」

「そうかな?」

「自殺について相談するのもおかしいだろ。普通は勝手に死ぬだろ、普通は。なんで、自殺の方法に頭を悩ませてんだよ」

「うーん、でもしたことないからわからないんだよ」

「そりゃあそうかもしれねえけど」

「しかし、自殺もなかなか難しいものだね」

「なんか履き違えてるぜ、お前」ミノルは呆れたように肩を竦めさせる。「自殺に優柔不断な性格を遺憾なく発揮させるのって、馬鹿じゃねえの?」

「むう」

「さっさと死ね」

「それが出来れば苦労はしないんだけど……」

 学校を出てすぐの坂を下り、手入れの行き届いた竹林の横を抜けていく。電車通学の生徒達は道なりに進み住宅地を抜けていくのだが、僕とミノルは大通りへ出てから小さな山を越えていかなければならない。片道四十五分の通学路であるが、今までは何の苦も感じずに走ってくることができた。だけど今は、その足取りは重い。何気ない日常、その一つ一つが、大きく崩れてしまったのだ。何から何まで、今までのそれとは違うように感じる。

 こんなにも、脆いものなのか。

 あるいは、恋愛とは、ここまでのものなのか。

 どちらにせよ、何にせよ。もう、僕には何の意味もない。

 まだ開発されていない新興住宅地が見えてくる。高級住宅地とするべく、山を切り開き、整地している作業員が遠くに見える。あと数年もすれば、この町でも有数の高級住宅地となるらしい。周りの大人達がそんな風に話しているのを何度か耳にしたことがある。

 コンビニどころか、電柱や電線さえないようなところなのに。本当に何もないところだったのに。

「本当に、こんなとこに住みたがる奴なんているのかね」ミノルは鼻を鳴らした。「こんな大規模に宅地造成して、それで人は入りませんでしたーって落ちがつかなけりゃいいけど」

「どうかな」僕は遠くに見える複数の重機の数を数えながら答えた。「ほら、世の中って意外に頭の悪い連中多いし」

「お前がそれを言うかね」

 親友の嘆息を流しながら、僕はまだ見ぬ新興住宅に小さな瑕を思い出していた。

 僕はどちらかと言えば前向きな人間だった。少なくとも後ろ向きな皮肉屋ではなかった。だからいつも明るかったし、何事においても挑戦的ではあったと思う。その所為で、数えきれないくらいの失敗を重ねてきたりもしたわけだが、それを大きく重く受け止めることはしなかった。

 こうした新興住宅の開発なども、本来ならば好意的に受け止めるはずなんだけど……。

 もう今は何も感じない。

 無味乾燥な日々をただ続けていても意味がないのだ。

 彼女の笑顔が脳裏によぎる。

 信じられないくらいに、胸が締め付けられた。

 早く、終わらせなければ。

 僕は決意を新たに、家路へと急いだ。

 さようなら、僕の青春。

 さようなら、僕の人生。

 ああ、神よ、僕を殺してくれ。


 3


 自分だけではだめ、親友などもだめとなると、やはり身近な存在である親に相談することが一番だろう。何だかんだ、僕を一番理解しているのは他でもない親である。きっと素晴らしい知恵を授けてくれるに違いない。

 ミノルと別れ、家路へ。大通りを外れ、細い路地に入っていく。この町で海が望める唯一の地区ではあるが、端に位置するため道もあまり綺麗に舗装されておらず土地単価は比較的安い。海が見えるということがどれほどの価値があるのか皆目見当もつかないが、人通りどころか民家自体が少ないので日中も静かなに過ごすことが出来る。

 家に着き、玄関横に自転車を止めた。扉越しに、品のない笑い声がかすかに聞こえてくる。僕はため息をついてから、家の中へと入った。

 居間では母親が煎餅片手に寝そべりながら、くだらないテレビを見ていた。

「ただいま」

「ん、おかえり」テレビから一切視線を逸らすことなく言う。「お土産は?」

「は? 学校に行ってたのに、お土産も何もないよ」

「使えないなー」

 まるまると肥えた体に満足することなく、さらなる高みを目指して煎餅を頬張り、あまつさえ学校帰りの息子に土産まで要求する始末。

「気が利かないんだから。だからいつまで経っても彼女の一人も出来ないのよ」

「うっ……。そ、それは……」

「んー?」面倒くさそうに寝返りを打って、僕の顔を覗き込む。「なんちゅー顔してんの」

 僕はテレビを消して、母親の目の前に座った。

「あ、こら、消すな」

 僕は事のあらましを説明することにした。

 大好きだった女の子に勇気を持って告白したこと。

 ものの見事に玉砕したこと。

 そして、死にたくなったこと。

 それらすべてを、包み隠さずに話した。

 そんな息子の告白を聞き、母親は――。


 腹を抱えて笑い転げていた。


「ああ、もうっ、やだやだやだやだ(笑) ふ、ふふ、おなか痛いおなか痛い……。ひひっ……、ふ、ふふふ、うふふふふ! う、嘘でしょ(笑) ば、馬鹿じゃないの(笑)」

 涙を流して、呼吸困難に陥りながらも、それでも笑い続ける母親を見ていると、こちらは却って冷静になっていく。無表情のまま、僕は母親を見下ろした。

「本気なんだよ」

「ええ、ええ。そうでしょうとも(笑)」

 捧腹絶倒とはまさにこのことだろう。普段、くだらないテレビ番組を見ては笑っている楽しい母親であるが、ここまで酷いのは見たことがない。人はここまで笑えるものなのだな、と感心してしまうほどだ。

 ひとしきり笑い、少し落ち着いてきたところで、僕は再び切り出した。

「真剣なんです」

「わかった、ふふ、わかってるって」笑い続けて体のあちこちを痛めたのか、母親は上体を反らしながら何度か頷く。「あんたが、そんな冗談や嘘の類を言ったことないし、それは、わかってるんだけど……。だけど、だから、ははは、逆におかしくって」

 母親はおなかを抱えながら小刻みに震えている。余程僕の自殺がお気に召したらしい。愉快な人である。

「え、で何? 律儀に決意表明してくれたわけ? もうやだ、おっかしー奴」

「いや、決意表明っていうか……。その……」

 言い淀んだ僕の顔を覗き込みながら、母親は首を傾げる。

「何?」

「えっと、だからさ、何せ初めてのことだからさ、その、やり方がさ、よくわからなくて……」

「なぁーはっはっは!」

 母親はまたしても吹き出した。顔を両手で覆いながら何度も首を振り、その場に蹲る。畳を何度も叩き、涙を流して笑い転げる。

「もうやめ……、やめて……。く、くる、苦しい……」

 悶え続ける母親は、しかし非常に楽しそうだった。もともと感情のはっきりとした人ではあったが、今日は一段とそれが激しい。

 まあ、反対されることを考えれば、この反応はありがたいものになるのだけど。

 一向に落ち着きを取り戻さない母親のために、僕は台所でお茶を淹れることにした。薬缶を火にかけ、棚からお茶葉を取り出す。朱泥の急須に移して、お湯が沸くのを待った。

「あー、ほんと、おっかしな子だなぁ、あんたは」荒い息のまま涙を拭い、母親は食卓に着く。「もう本当、楽しい奴」

「…………」

 薬缶が蒸気によって音を立てたので、火を止めた。少し冷めるの待って、急須に注ぎ、茶葉を蒸らした。

「まあ、いいんじゃない? あんたの人生だしね。自由にしなさいな」

「え、うん。ありがとう」

 湯呑にお茶を注ぎ、それを母親に差し出した。

 意外にもあっさりと母親からの許可が降りた。

 これはなんとも幸先がいい。

 あとは方法について考えるだけだが。

「あ、そうだ、自殺したければあんたに掛かった養育費、全部返しなさいよ」

「え?」

 お茶を啜りながら、幸せそうな顔を浮かべる母親は、笑うだけ笑って簡単に自殺を容認したかと思えば、さらりととんでもないことを言い出した。

「当然でしょ。あんたが死ぬのは構わないけど、それじゃあ、私の育て損になるじゃないの。そうならないためにも、今までに掛かった養育費とかきっちりと払ってから死になさい」

 これは予測していなかったことだ。

 あるとすれば自殺を止められるのかと思っていたのだが、まさか自殺をするのにも金が必要だとは。

 まったく、世も末だな。

「い、いくら?」

 僕の貯金は三万円弱だ。

「うーん」

 湯呑を置き、目を閉じて、腕組みをする。難しそうに眉間に皺を寄せながら、何やら試算が始まった。

「そうねぇ……、学費に食費、おもちゃやゲーム、洋服だってそうだし、毎月のお小遣いも。それから光熱費に水道代でしょ、保険も月々払ってるし……。新聞だって、朝刊と夕刊でしょ?」

 こ、細か過ぎないか?

 いくらなんでもそこまで計算しなくても。

「それからぁ、私の今後の生活のことも考えないといけないでしょ、養ってもらえなくなるわけだし。あ、葬式費用や墓だって異様に高いし。死んだら、それを告知するための電話代だって……。糞坊主のわけのわからない『お気持ち』にどれだけふんだくられるか……」

 信じられない細かさだ。

 いつもは夕飯にアイスクリームだけを出すほどアバウトなのに。

「うーんと……」

「い、いくら?」

「大体、三億ってとこね?」

「さ、さっ、三億っ?」

「うん、まあ、そんなもんかな。よくわかんないけど、ちょっとはまけてやんよ。私の息子だしね、特別だぞ!」

 ば、馬鹿な。

 僕の貯金は三万円だ。

 何をいきなりそんな……。

「もちろん、きっちりと現金で払ってからよ! 三億を払えないようなら死ぬ権利なんかないかんね」

 た、立ち眩みを覚える。

 三半規管が急激に衰えていく。

 三億。

 三億って、何百万円だっけ?

 あ、あれ?

 ば、馬鹿な。

「三億?」僕はもう一度聞き返した。

「三億。気分次第で今後増えることはあるかもわからんけど……」

「な、三億なんて、そんなに必要?」

「当たり前でしょ。私だって老後遊びたいのよ」母親は腕を組んだまま、勢いよく鼻から息を漏らす。

 なんて女だ。

 ゆっくりと隠居する気はないようだ。

 死ぬためには、三億という巨額が必要。

 なんということだろう。

 自殺するつもりが。

 自殺するつもりだった僕に対して。

 自殺する気も失せるほどの巨額を提示してきた。

 ああ、母親って偉大だ。

 なんだかんだ息子の自殺の止めるのだから。

 三億。それを作るまで、死ぬことは許されない。

 三億なんて、当たり前のことではあるが高校生の僕には想像もできない金額だ。

 圧倒的過ぎる。

 とても威圧的な金額だ。

 現実的じゃない。

 どうしよう?

 あれほど死にたかったのに、

 三億という、

 そんな死ぬ気さえも失せるほどの巨額を提示されて、

 むしろ逆に、

 ああ、死にたくなった。

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