ファニープラン

@wataringo

プロローグ 

 一年で最も幸せな日に、それは突然起こった。

 銀行襲撃立てこもり事件。

 年の瀬、聖なる日の街に輝く人々の笑顔は、瞬く間に消え、代わりに険しいものが浮かんだ。

 雪がちらつく中、街頭スクリーンに映し出された異常な光景は買い物客の足を止めるには充分すぎるものだった。街の家電量販店に置かれているテレビの前にもいつしか人集りができていた。

 犯人側からの声明はなく、警察の説得にもまったく応じずにいる。

 銀行を襲撃したのには、それなりの金が欲しかったのだと誰にでも理解はできる。だが、立てこもる必要性はまるでわからなかった。テレビのアナウンサーが警察OBの人間に意見を求めても、明確な答えが返ってくるわけでもない。ただ曖昧に、過去の事例を引き合いに出したりして時間を稼ぐことしかできずにいる。

その不可解な凶行は、しかし人々の心を惹きつけた。

 銀行強盗という、あまり良い表現ではないが派手な事件とともに、犯人側の不可解な行動には、どこか現実離れした、ドラマのような、不思議な華やかさがあったのだろう。不謹慎ではある。しかし事実、多くの人間は少なからずの興奮を覚えていた。

 理性が働き、自身の興奮を正常に認識している者は少なかったが、自分を偽らずに済む世界の住民、つまりネットに書き込む者達は素直な反応を見せていた。大型掲示板にはいくつもの実況スレッドが立ち、興奮を隠さずに、大いに盛り上がっていた。

 犯人側の行動で一際不可解だったのは、数分と掛からず銀行内を制圧させたあと、子供連れや高齢の利用客を解放したこと。そのためすぐに事件が発覚したのだが、警察が到着するまでの間に金を奪って逃げることは充分可能だったと考えられる。つまり犯人側は最初から立てこもる算段だったのではないか、政治犯の可能性や、政府に対しての要求があるのではないか、などといった推論が飛び交った。

 クリスマスに過激な凶行に打って出る大胆さ、まるでプロを思わせる流れるような手際の良さ、そして子供連れと高齢者に対する紳士的な配慮、何より立てこもる不可解さ。

 その事件は魅力に包まれていた。特に紳士的な配慮は、このような重大な事件においては前例はほとんどなく、世間の関心を買うことに成功していた。

 嫌悪感がないと言えば大げさではあるが、少なくともその配慮によって薄らいでいたのは事実としてあった。こうなってくると、警察としても無為に突入するわけにもいかず、呼びかけに応えずとも、説得を続けるしかなかった。

 現場の捜査指揮をしているのは、九十九一つくもはじめ警視正。そのふざけた名前からは想像もできないほど優秀な刑事であり、今まで数々の難事件を解決に導いてきた強者である。

 しかし、そんな彼をもってしても、事件は長い膠着状態を打開することができずにいた。

 九十九は自身の安い腕時計を見て、ため息をつく。

「まったく。とんだ残業だよ……」呟くように言い、周りの部下達に肩を竦めて見せた。

 項垂れる九十九の表情には、緊張と疲れが色濃く表れている。独り身である彼にとって、クリスマスが潰れたことなどはどうでもいいことだった。ただ、今日が特別な日であったことは間違いではない。

 それを思い、震えるようなため息をついた。

 過去多くの事件に触れてきた九十九だったが、今回の銀行強盗には今までのそれらとは異なる何かがあることを理解していた。もちろん、そんなことを口にするわけにもいかなかったが。

 いつになく緊張しているのを自覚できた。

 真冬だというのに、背中にはぐっしょりと汗をかいている。口の中はからからに乾いており、いつもならば誇らしげな強心臓も見る影がないほど、情けなく、せわしなく、激しい鼓動を見せていた。

 それを周りの部下達に悟られまいと、平生を装うことで必死だった。

 心を落ち着かせるために一服したいところだったが、さすがにこの状況で煙草を吸うわけにもいかない。

 依然、犯人側からは何のアクションもリアクションもない。いずれは突入ということになるが、そのタイミングの見極めは非常に難しいものだ。間違いは許されない。下手すれば、すべてが水泡に帰す。

 死に物狂いで勉強し、それでようやく掴んだキャリアの椅子。それを今の自分にまで大事に育て上げてきた。

 奇跡と言っていい。

 今までの自分の人生を振り返り、その積み上げてきたものは、本当に奇跡と呼べるものだ。

 ただ、積み上げれば積み上げる分だけ、バランスを取るのは難しくなり、ちょっとした弾みですべてを崩しかねない。そんな危険性も大きく孕んでいる。それこそ取り返しがつかないほどに。

 この事件は、まさに岐路だ。

 生半可な気持ちでは挑めない。

 失敗は許されない。絶対に。

 銀行の中にいる者のためにも。

 銀行の外で尽力している者のためにも。

 自分は、全力を尽くさなければならない。そして結果を出さなければ。

 「わかっている」

 自分に言い聞かせるように。

 自分を宥めるように、落ち着かせるように。

 十二月二十五日。クリスマス。

 そして、それ以上に、とても、とても大切な日。

 九十九はわずかに笑う。

 武者震いかもしれない。体が震えていた。

 自分で選んだことではあるが。

「まったく、難儀な仕事だよ」


 警察だけでなく野次馬の人間達も、この事件が他の銀行強盗と何かが違うと感じ取っていたが、背景に何があったのか、それを知る術はなかった。

 何かが違うと感じるだけで、心の奥底では無条件に、警察の勝利を確信しているのだった。それは警察も、野次馬も、メディアを通じて関心を持った者も例外なく、どうせ捕まるだろう、時間の問題だろうと、その程度にしか思っていなかった。多少興味を引く、センセーショナルな事件であることには違いないが、やがて雑多な記事に埋もれるいつもの事件になると、誰もがそう思っていた。

 唯一、犯人達を除いては。

 人々の関心が強まる銀行襲撃立てこもり事件。

 そんな大それた凶行からは想像もできないほど、その始まりは、とても小さな、あえかな恋心からだった。

 荒唐無稽で、支離滅裂で、滅茶苦茶で。

 だけども常に本気だった。だからこそ、人の心を打つことができる。

 人が本気で生きれば、奇跡を起こすなど容易い。

 少なくとも、死を選ぶ人間には起こせはしない。

 まさか恋だの愛だのという甘い響きだけで、人はいとも簡単に奇跡を起こしてしまうのだから、まだまだ捨てたものではないだろう。

 今回の事件の発端は、男子高校生の小さく淡い、しかし混じり気のない純粋な恋心からだった。奇跡を起こすには、それで充分だった。

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