第6話
それ以来、私は林田さんの部屋へ行くことをやめた。廊下などで彼の姿をちらりとでも見ることすらなくなった。小さなアパートなのだから1度くらいすれ違うことはありそうなものだが、まるで林田さんなどはじめから存在しなかったかのようだった。おそらく林田さんの方でも私のことを避けていたのだと思う。あの日部屋へ戻った林田さんは、床に散らばったミミズを見て、何が起こったか悟ったはずだ。私に対して怒りを抱いたからか、それとも単に気まずくなったからかはわからないが、ともかく彼は私の姿を少しでも見かけたらすぐに身を隠したのだろう。
私は再びヨシヒコやケンジと遊ぶようになった。しばらく一緒に遊ばないうちに2人は交友関係と行動範囲を広げていた。
その日、ヨシヒコのマンションの前に行くと、彼はひさしぶりに会う私を特に何も言わずに受け入れてくれた。しかし新しく加わった彼と同学年の友人2人に、これといって私のことを紹介してくれたりはしなかった。サッカーボールを抱えるケンジが遅れて到着して全員が揃うと、そのままの流れで、マンションから少し歩いたところにある河川敷でサッカーをすることになった。私が林田さんと遊んでいる間、彼らはすでに『ロングホーン』には飽きていて、この河川敷でボール遊びをすることをメインにしていた。
ヨシヒコは変わらず1番いばっていたが、1人年少のケンジはメンバーの中で最も低いヒエラルキーに追いやられて肩身の狭い思いをしていたらしい。私が復帰したことを、表立って嬉しそうにはしないまでも、言葉の節々が弾んでいることから明らかにうきうきしていることが察せられた。
スポーツが好きでない私は以前のようにBB弾を拾って「せんべい屋」へ行きたかったが、彼らの遊びは進化してしまっていた。4人のときは2対2に分かれて試合をしていたようだが5人では割り切ることができないので、PK戦として1人がキーパー、他はボールを蹴るという形式になった。キーパー役は名目上順番に交代のはずだったが、なんのかのと理由をつけられほとんどが私で、その次にケンジが多かった。
私が5回目のキーパーのとき、新しい上級生の2人(名前はどちらも忘れてしまった)がボールを蹴った。1人はシュートを大きく外してみんなに笑われたが、次にシュートしたもう1人のボールはまっすぐに飛んできた。両手でかばおうとしたが、反応が一瞬遅れたためにボールは顔の中心に思い切りぶつかった。ケンジが家から持ってきた本格的なサッカーボールは硬く、私は鼻を押さえてその場にうずくまった。痛みで目から涙がこぼれた。みんなの笑い声が遠くから聞こえた。
「おおい、早く立てよぉ」
茶化すようなヨシヒコの声が聞こえ、私は涙を気づかれないよう両手の平で顔をごしごし拭って立ち上がり、傍らに転がるサッカーボールを拾った。痛みが少しずつ和らいでいくにつれて、ふつふつと彼らに対する怒りがこみ上げてきた。いったい何がおかしいというのか。これだけ離れていれば気づかれないだろうと私はヨシヒコをにらみつけながら、自分の出しうるかぎりの渾身の力を込めてサッカーボールを投げ返した。だが私は運動音痴だった。変に力の入ったボールはヨシヒコたちの方へまっすぐ飛ばず、そのうえ風にあおられてくくくっと川の方へカーブを描いた。
「あ、ばか」
先ほどまでにやついていたヨシヒコの表情が真顔になり、彼の視線の先でケンジのサッカーボールがぼちゃんと音を立てて川に着水した。
「あーあー」
「おい、何やってんだよぉ」
上級生たちの非難の声が口々に聞こえた。ケンジはボールの方を見つめ青い顔をしていた。私は慌ててボールの方へ駆け寄った。さいわい岸からそれほど離れていないところにボールは浮かんでいた。片腕を芝生について身体を支え、もう片方の手を伸ばしてボールを取ろうとしたが、ぎりぎりのところで届かず、ボールは川の中央部分に引き寄せられ、少しずつ遠のいていった。
「おい、どうすんだよ」
声に振り返ると、みんながいつの間にか後ろに来ていて私のことを見下ろしていた。真ん中でヨシヒコが腕を組んで冷たい目で私を睨んでいた。
「ヨッちゃんやばいよ、あれ兄ちゃんのなんだ。黙って持ってきちゃったんだよぉ。ど、どうすんの」
青い顔のケンジがオロオロしながらヨシヒコにすがりついた。しかしヨシヒコは腕を組んだまま微動だにしなかった。
「知るかよ。落としたのこいつだぞ」
「おい、どうすんだよ。兄ちゃんに怒られたらお前のせいだぞ」
ケンジが私の方へ目を向け、詰め寄った。
「あう、うあ、あ」
4人は私を取り囲んで、蔑んだ目で私を見下ろした。誰も何も言わなかったが、私が発すべき言葉はひとつしかなかった。
「と、取ってくる」
上級生のひとりがへえと言う顔をし、もう1人はえっと驚いているようだった。ヨシヒコとケンジは何も言わずじっと私を見ていた。退路はなかった。私はもう1度ボールの方を見た。ボールはほとんど川の中央まで行き、しかも川下に向かって流れていた。だがそのスピードは緩やかなように見え、川へ入って少し泳げばなんとか追いつけそうな気がした。水もわりと透き通っていて、足は十分着きそうに見えた。
「早く、早く、流れてっちゃうよ」
ケンジがボールを目で追いながらあたふたしていた。
私は心を決めて靴と靴下を脱ぎ、長ズボンを膝まで上げた状態で服のまま川へ入った。2月後半の川の水はとても冷たく、ゆっくりと少しずつ身体を慣らしながら入ってみると、腰よりも少し低いくらいの水かさだった。上級生たちが後ろでおーと歓声を上げているのが聞こえた。なんとかなりそうな気がした。歓声に押されるようにして、私はボールに向かい少しずつ歩き始めた。「へえ」「やるじゃん」という背中からの声が私をいっそう奮わせた。
しかし、岸からはすぐにたどり着けそうに見えたボールにはいっこうに近づくことができず、ボールはどんどん遠くへ離れていった。水面は胸の辺りの高さまでになっていたが、ボールが遠ざかることへの焦りと、意外に足が届くという安心感から、私は一層大胆になり、両手で水を掻き、川底を足で蹴って、犬かきの体勢で泳ぎながらボールめがけて進んだ。
と、川のちょうど中央あたりに来たところで突然流れが速くなり、自分の意思で体勢を保つことができなくなった。慌てた私は足をつこうと直立の姿勢に戻ったが、つま先を伸ばしても川底に当たらない。そのまま引きずり込まれるように頭まで川の中に入ってしまった。あれほど透き通っていたはずの川の中は真っ青な闇だった。遠くの方はトンネルのように黒い穴が続いているように見え、そこから何か恐ろしい怪物が迫ってくるような恐怖に駆られた。私は一所懸命両手でもがき、足をばたつかせて水面から顔を出したものの、口から侵入した水は気管へ流れ込み、むせ込みながら息苦しさで私は動転した。流れに抗うことができず、なすすべもなく全身が流されていくのを感じた。周囲の音がまったく聞こえなくなったが、なぜか遠くにいるはずのヨシヒコ達がやべえと叫ぶ声がくっきりと聞こえ、私は必死に顔を岸辺へ向けた。
(助けて)
できるかぎりの大声を出したつもりだったが伝わったのかわからなかった。先ほどまで腕を組んでどっしりと構えていたヨシヒコは、上級生2人に何かを言われて、とり乱していた。
「俺のせいじゃねえ、俺のせいじゃねえ」
その言葉は、いやにはっきりと聞こえた。
ヨシヒコがまず背を向けて一目散に土手へ向かって駆け出した。その後をすぐにケンジが追い、上級生2人も続いた。
(置いていかないで)
小さくなっていく4人の後ろ姿に向けて私は叫んだ。だがそれはごうごうと流れる川の音にかき消された。岸から見たときは穏やかな流れに見えたのに。
叫んだことで大きく開いた口に、水がますます入り込んだ。どれだけ水を飲んだかわからなかった。ふと、小さな頃に読んだ地獄絵の描かれた絵本を思い出した。悪いことをして地獄に落ちた人間たちが、屈強な鬼に肛門から鉄棒を串刺しにされてケバブのように丸ごと焼かれたり、大きなナタでかまぼこみたいに胴体を切り刻まれ、その肉片を鬼に喰われたりしている様子が描かれた絵だった。残酷な絵を載せながらも教育を目的としたその絵本には、少しでも嘘をついたり、人の言うことを聞かなかったりしたら地獄へ落ちると書かれていた。
母の言いつけを守らず林田さんに会いに行った。人形は友達からもらったものだと嘘をついた。林田さんのことをずっと馬鹿にしていた。間違いなく自分は地獄へ落ちると確信した。
いやだ。いやだいやだ。
最後の救いを求めるようにほとんど無意識に伸ばした手は、近くの小島から生えた短い木の枝の1本をかろうじて握りしめた。私はその右手に全身の力を込めて少しだけ水から顔を上げることができ、ごほごほとむせた。だが流れからは解放されていなかった。頼りない小枝はみりみりと音を立て今にも折れそうだった。左手で小島の別の場所をつかもうにも思うように動かない。体力は限界に近かった。枝が折れるか、私の体力が尽きるか、どちらにしてもそれは遠くない未来だった。
目がかすみ、まぶたが次第に重くなっていった。意識を失いかけているにもかかわらず、頭にはまだ絵本の地獄の光景が現実よりも鮮明に浮かび上がっていた。そのイメージが私に小枝を離させなかった。それはほんの数秒だったかもしれない。だが結果的にそのわずかな時間が、私の命をつないだ。
突然、背中にぐっと圧力がかかり、同時に全身がふわりと浮くような感覚に包まれた。耳に障る甲高い声が私に何かを呼びかけているのが聞こえた。応答したかったが、どうしても声を出すことができなかった。私は最後の体力のほぼ全てを目に集中させ、接着剤でくっついたような瞼をやっとの思いで、ほんの少し開いた。ぼやけた視界の中にわずか、ほんのわずかに見えたのは、うすぼんやりと発光する、オレンジ色をしたふたつの大きな丸い火の玉だった。
(続)
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