第2話

学校から帰った私は合鍵でドアを開けて部屋へ入った。部屋の中はしんとしてうす暗く、帰宅すれば必ず母が「おかえり」と言ってくれていた以前とはまったく異なっていた。少しでも部屋を明るくしたいと思い、私はとりあえずテレビをつけた。安普請の建物はじっとしているつもりでも常にみしみしと音を立てた。心細さを解消するためのテレビは役に立たず、ただブラウン管が光を発しているだけだった。


膝を抱えてぼんやりワイドショーを眺めていると尿意を催してきた。できれば母が帰ってくるまでそのままじっとしていたかったのだが、壁にかかる時計に目をやると、まだ3時を回ったところだった。母は買い物をして6時ごろに帰ると言っていたから、あと3時間もあった。あぐらをかいたり正座に組みかえたりしつつ、学校で借りた本を読んで気を紛らしながら、しばらくは我慢することを試みた。本の中に出てくる「レプティリアン」は非常に残虐な種族で、霊長人を捕まえてはその肉を食べるというふうに描写されていた。青い血が流れているというのは本当なんだ、そんな「化け物」が隣りに住んでいるんだと思うと私は震え上がり、その恐怖が膀胱を刺激して、とうとう耐え切れなくなった。


ゆっくりとドアを開け、頭だけを出してレプティリアンがいないかどうかを確認してから、私はそろそろと部屋を出た。廊下は初日に母といっしょに佇んだ時よりもずっと暗く、ほんの3メートルほど先のトイレが遥か彼方にあるように思えた。私は横目で隣りのレプティリアンの部屋を見た。今にもこのドアが開いて「化け物」が出てきてしまったらどうしよう、頭から食べられるんじゃないだろうか、食べられなくとも寄生虫をうつされるんじゃないだろうか、という考えが次々と頭に浮かんだが、こうして怯えているうちにレプティリアンが部屋から出てきてしまうか、外出していたとしたら戻ってきてしまうかもしれない、という思いに至った。膀胱も限界だった。意を決した私は小走りで一気に廊下を渡り、飛び込むようにしてトイレに入ると、勢いよくドアを閉めた。後ろ手にドアノブを握って安堵の深呼吸をすると、アンモニア臭漂う空気が鼻につんときて咳込んだ。


用を足してしまうと、その安心感から私はなんだかひとつの任務を果たしたような気分になり、冒険小説に出ていた主人公が属している海賊団の豪快なキャプテンの真似をして、ドアを少し乱暴に開けた。ドアは、向こう側にあった何かにぶつかり、がこんと音を立てて跳ね返ってきた。勢いづいて出ようとした私は危うく顔面をぶつけるところだった。と、ドアの向こう側でも何かがぶつかる鈍い音と「いタ」という短く甲高い声が聞こえたような気がした。閉じかけたトイレのドアノブを握りしめ、もう1度ゆっくり開きながら少し顔を出して見ると、東側の一番手前にある部屋のドアが開いていた。向こう側のドアが、私がトイレのドアを開くのと同じタイミングで開かれたため、ぶつかりあってしまったのだ。私はノブを少し引き寄せ、ドアの陰に身を隠しながら、頭だけを少し外側へ突き出した。向こう側のドアも同じように少し引いていった。それと同時に、濃い緑色をした細い指のようなものが2本、ドアの端にかかったかと思うと、それと同じ緑色をした丸いゴムボールみたいな物体がぬぅっと姿を現した。

「わ」

私は出現したその丸いものをまじまじと見つめた。発達した脳を守るための大きな頭蓋骨の形は、霊長人のそれと似ていて見慣れたものだった。だが、その表面に毛髪は1本もなく、苔色の皮膚がむき出しになっていた。顔の下半分は鳥の嘴程度に少し出っぱってへの字を描き、上半分には野球ボールを2倍に膨張させたようなオレンジ色の目玉がふたつ飛び出していた。眼球の中心で、縦に引き伸ばしたアーモンドみたいな楕円形の黒い瞳が、私の姿を捉えると、一瞬ぐぐっと小さく縮んで、ぱぁっと開いた。

「ワ」

ボールの口が耳元まで大きく裂け、鳥の鳴き声のようながら、どこか耳に障る甲高い声が静かに響いた。レプティリアンは、霊長人よりもずっと大きな目玉で私を見つめた。私も、初めて見る生き物の全身をあらためて観察した。年齢などわからないが、背丈は自分よりもずっと大きい。紺色のパーカーとジーンズ(たぶん霊長人用の服だったはずだ。レプティリアンに適した服はとても高価で、当時は彼らがそれを購入するための補助金制度もなかった)という服装の感じから、霊長人で言うなら20代前半もしくは半ばくらいという印象を受けた。3本しかない指とその付け根にある拳はガイコツのように細く、履いているつっかけの先からは鳥の足のように3本に分かれた指が突き出ていた。全身が緑色をした老人といった容姿は、霊長人のような体温を少しも感じさせず、非常に無気味で、冒険小説の表紙に描かれたいかにも「トカゲ人間」といったふうの醜悪なレプティリアンの方が、まだどこか愛嬌があるように思えた。

「す、すいませン」

レプティリアンは小さい、かつ不快な声で謝罪をすると、ドアをばたんと閉めて部屋の中へ戻った。


しばらく呆気にとられていたが、私はおそるおそるトイレを出て、できるかぎり足音を立てないようゆっくりと彼の部屋の前を通った。どんなに慎重に歩いてもみしっと音を立てるアパートのボロさに腹を立てながら、ドアが少しでも動いたらすぐ自分の部屋に駆け込むつもりで、視線を「林田」と書かれた表札のかかるその部屋へ釘付けにした。引っ込んだものの、また突然出てくるのではないだろうか。想像よりもずっと弱々しい見た目だったので頭から齧りつかれるということはなさそうだったが、あの温かみを感じさせない気味の悪い姿は、むしろ寄生虫の恐怖を増幅させた。さっき言葉を交わしてしまったが大丈夫だろうか、いやさすがにこのくらいなら大丈夫だろうと自分を慰め、足音を立てないよりも、この場からできるだけ早く遠ざかった方が得策と気づき、足早に駆けて自分の部屋へ飛び込んだ。つっかけを脱いでなんとなくむかつく胸をさすっていると、表紙を上にして畳に開きっぱなしにしていた冒険小説が目に入った。


この本はフィクションとして書かれたのだろうが、はっきり「レプティリアン」という言葉が使われたうえで人肉を食べたり集団で行動したりと、実際のレプティリアンとはかけ離れたイメージを作り出していた(そのためか今はもう絶版になっている)。人肉食だけでなく、集団生活も誤った理解だ。国によっては政策で霊長人と居住区が分けられているため強権的に1カ所に集められているケースもあるが、基本的にレプティリアンは徹底した個人主義者である。パートナーとの交配を終えた男のレプティリアンはすぐにそのパートナーのもとを去ってしまうし、女も子どもを15歳くらいまで育てたら自立させ、離れ離れになる。家族を持たないのだ。集団で知識を共有し、様々な知恵を生み出すことでここまで社会を発展させてきたという自負のある霊長人にとっては、それもまたレプティリアンを嫌悪する理由のひとつなのかもしれない。母を始め、昔の人が彼らを「冷酷」と断定するのも、レプティリアンのそのような特徴に基づいていると考えられる。もちろんその当時、私はそれらのことは何も知らなかった。だが冒険小説がレプティリアンを知るうえで微塵も役に立たないことを悟り、少し息を落ち着けてから本を掴んで閉じると、ランドセルの中へ突っ込んだ。


(続)

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