隣りのトカゲロン
野木 康太郎
第1話
その頃はまだ「ウロコ」という呼称が新聞でもテレビでも普通に使われていた時代だった。小学校に入学したばかりの私は、母に連れられて郊外に建つ古いアパートへ引越した。借家とはいえ一軒家だったそれまでの住まいから、突然築40年のボロアパートへ移ることになった当時のショックは、30年経った今でもよく覚えている。
アパートは廊下を挟んで3つずつ部屋が向かい合う構造で、2階東側の中央が私達の部屋だった。大家は白髪の男性だった。彼は一通りアパートの中を案内してくれた後、部屋の前で懐から真鍮製の鍵を取り出し母に手渡した。それから、朝にもかかわらずやたらと薄暗い廊下の突き当たりにあるドアを指さした。
「あそこがトイレです。さっき言ったとおり台所は1階ね。どちらも住民全員が使うものだから清潔に」
それだけを言って踵を返し、階下へ降りていこうとする大家を、母は慌てて引き止めた。
「庭に簡易トイレのようなものが見えたのですが、あれは」
「簡易トイレですよ」
大家は顔だけをこちらへ向けた。それがどうしたと言いたげな表情だった。母は顔を曇らせた。
「『ウロコ』が住んでいるのですか」
「はい」
「どの部屋です」
「そこ」
老人はトイレの手前の東側の部屋、つまり私達の部屋のすぐ隣りの「林田」という表札がかかったドアを指さした
「不動産屋さんは何も言っていませんでした」
「そりゃあ、あんた。聞いたんですか。『ウロコ』がいるかって」
「いえ」
「じゃあ、わざわざ言ったりしないよ」
大家はため息をついた。
「小さな子どもがいるんです」
母は私の両肩に手を置いた。
「そんなこと言われてもねえ。まあ私の方はいいんですよ。別に住んでも住まなくても。ただその場合、違約金はいただきますが」
母の両手に力が入るのを感じた。
「ま、あまり気にせん方がいいですよ。寄生虫のことでしょう。2、3日前の新聞にあれは迷信だと書かれていたよ。アメリカでウロコの神父が『人間宣言』をしたそうじゃないですか。読んだかね」
「いえ」
「そうかい。ま、もしも出て行くなら早めに言ってくださいよ」
大家は再び前を向くと、階段を降りていってしまった。母の手の力がぐっと強くなり、私は痛いと訴えるために後ろを見上げたが、真っ青な彼女の顔を見て口をつぐんでしまった。
レプティリアンを「ウロコ」と呼ぶのは母よりも少し下の世代までだと思う。私の世代でもその呼称を知らない人は多いはずだ。少し前までは「爬虫類人」と呼ばれていたが、今やそれも出版コードや放送コードに引っかかり、最近では横文字で「レプティリアン」と表記するのが一般的になっている。この「レプティリアン」という言葉も、もしかするともうすぐ変わるかもしれない。レプティリアンが恐竜から進化した人類というのは誰もが知っている常識だが、近年の研究で正確にはトロオドンという獣脚類の子孫であることが判明し、爬虫類よりもむしろ鳥類に近いという説が出てきている。先日放映されたNHKの特番でレプティリアンの学者がそれをしきりに訴えていた。
引っ越した当時、社会的少数派であるレプティリアンを守る法律はほとんど整備されていなかった。住居自体は霊長人(「爬虫類人」を意味する「レプティリアン」と対比させるなら「哺乳類人」とか「マンマリアン」という呼称が正確だと主張する学者もいるが、ここではより一般的なこの呼称を用いる)と同じ建物に入ることが許されてはいたが、トイレや台所などの水周りが分けられているのは当たり前だった。流れが変わり始めたのは、大家の言った「ウロコ」の神父(正確には牧師)、アメリカで初めて聖職者の地位を得たレプティリアンであるアルバート・カイマン・スミスによる演説がきっかけだった。ワシントンで行われた彼のスピーチを、世界史の教科書などで読んだことのある人は多いはずだ。この演説をきっかけにIRA(International Reptilians Association、国際レプティリアン協会)が発足し、レプティリアンの権利保障が世界的に叫ばれるようになった。当然ながら、現代においては、霊長人とレプティリアンとでトイレを分けるような差別をすれば、訴訟に発展してもおかしくない。
アパートに住み始めてからも、母は事前に物件を見ておかなかったことを後悔していた。だが離婚後の手続きが膨大であったし、それまで専業主婦だった彼女が職を見つけるのは非常に困難で、物理的にそんな時間を取ることは不可能だった。
埃の舞う四畳半を2人で掃除し、それほど多くない荷物の整理を済ませると、母は、他の住人に引っ越しの挨拶をしようと言って粗品のタオルと私の手をとった。まず右隣にある南側の1部屋、その後、廊下を挟んだ向こう3部屋のドアをノックした。すべて若い男のひとり暮らしだった。頭はボサボサでゴムの伸びきった部屋着を着ている人や、ためらいもなく下着姿で出てくる人もいた。まぶたをこすりながら「はあ」と言ってタオルを受け取りすぐにドアを閉めてしまったり、女性が来たことに驚いたのか母の全身をじろじろ眺めながらゆっくりドアを閉めたりと反応は様々だった。そのときは留守で、その後結局1度も顔を合わせることのなかった人もいた。四部屋への挨拶をすませると、母は私たちの部屋へ戻ろうとした。
「あっちの部屋は」
私は、レプティリアンが住んでいるという北側の部屋を指して尋ねた。
母はどうしてそんなことを聞くのといった哀しげな表情を浮かべて「そこはいい」とだけ小声で言うと、うちのドアノブに手をかけた。私は妙に反抗的な気分になり「そんなの変だ」と彼女の手を振りほどいてレプティリアンの部屋の前へ駆けた。母に逆らうことなどほとんどなかったのだが、そのときは突然環境が変わったことで不安感を抱いていたのかもしれない。
「やめなさい」
母がものすごい剣幕で怒鳴った。彼女のそんな表情を見るのは初めてで、私のささやかな反発心はあっという間にしぼんでしまい、すごすごと部屋へ戻ることになった。
部屋で母は、大声を上げたことを詫びながら毛羽立つ畳の上に私を座らせ、なぜレプティリアンに近づいてはいけないかを説明した。彼女が言うには、レプティリアンの身体には青い血が流れているために性質が冷酷であり、霊長人のような温かい心を持っていないからとても暴力的で、多くの事件を起こしているということだった。また、腹の中に寄生虫を宿しており、彼ら自身はなんともないが、その虫が万一「普通の人」(母は今でも霊長人のことをこう呼ぶ)の体内に入ると、虫の排出する毒素がその人の身体を蝕み、肌に赤い斑点ができた後、全身から血を噴き出して死に至る。トイレや炊事場が分けられているのはそのためだ、という話だった。その話しぶりは真に迫っていて、私は膝と脚がちくちくするのを我慢しながら、全身の毛穴から血を吹き出して苦しむ自分の姿を想像してふるえた。
レプティリアンによる暴力事件に関しては、確かに数々の事件が記録されている。だが、霊長人に比してその数が多いという根拠はない。レプティリアンの絶対数が少ないので目立ちやすいが、割合で言えば、おそらく霊長人の起こしてきた事件の方がよほど多い。
一方、寄生虫について、これは完全に迷信であることが今では科学的に証明されている。いや、大家が言ったように、この当時でもすでに証明されていた。だが、長年刷り込まれてきた迷信をすぐに否定できる人はほとんどいなかったし、現代ですら、それを根拠にレプティリアンの排斥デモを行う人達は(本当に信じているかいないかは別として)一定数存在する。なにしろ霊長人が普通に生活していて生涯に出会う可能性のあるレプティリアンはひとりかふたり程度らしい。意識的に勉強しようと思わないかぎり、レプティリアンに関する正確な知識を得る機会はめったにない。私自身、大学時代に「爬虫類人福祉概論」の授業を気まぐれに受講しなければ、これらのことは知り得なかっただろう。
引っ越してから1週間後、母はやっとの思いで見つけたパートの仕事へ出かけ、私もそれまで休んでいた学校へ復帰することになった。同じ学区内での引越しだったから転校はせずにすんだものの、そのせいでいっそう足取りは重かった。実際どうだったかはわからないが、周りの子がどことなく自分に気を使っているような雰囲気を感じ、ずっと休んでいたという罪悪感ものしかかって、初日はずっと俯いたままで過ごしていた。
昼休みになっても外でみんなと遊んだりする気になれず、入学して初めて図書室に入ってみた。前の家にいたときは絵本や漫画がたくさんあったが、引越しの際に持ってくることができたのは本当に好きな数冊だけだった。図書室の中を巡りながら、これ持っていたなあとときおり手に取ってぱらぱらとめくりつつ、探し物があるでもなくふらふらして一周すると、「あたらしい本のコーナー」と色鉛筆で書かれたダンボール紙の看板が目に留まった。小さなテーブルの上にいくつかの本が、表紙を見やすいように立てかけられていた。その中の1冊に、トカゲのような二足歩行動物の絵が描かれている本があった。本題は忘れてしまったが、児童向けの海洋冒険小説のシリーズで、副題はたしか「レプティリアンの島」だった。表紙に描かれたレプティリアンと思われる生き物は、大きく口を開け鋭い牙で主人公らしき少年に噛みつこうとしている、いかにも獰猛な怪物だった。本を開いて少し読んでみると、物語の中で「レプティリアン」はとある島に集団で住んでいて、主人公一行を捕らえて食糧にしようと企む敵として登場していた。なんとなく、それを読めばレプティリアンのことがわかるのかと思い、借りてみることにした。
(続)
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