「君は誰よりも紳士的な人間だな」

「やめてください。私は紳士なんかではありません」

 行きと同じように、戸を開けて先に通した先輩から言われました。

 未だ理解の追いついていない私を置き去りにして、一歩先にいる彼女はどこか余裕があります。

「そんなことより話の続きだ。私が死んでいることは理解できたな。異論はないな」

「正直今でも信じられませんが……。はい、異論ありません」

 私は先輩に椅子に座るよう勧めます。生前、彼女が愛用していたものです。冷蔵庫同様、どこからか持ち込んだ椅子です。しかし、今の彼女の体ではすり抜けてしまうようです。何度か試してもらいましたが、結果は同じでした。

「なるほど」

 先輩はまた新たな理解を得て、一歩先へ進んだようです。

 同時に、私との距離はさらに広がります。

「よし。それでは私が死んだことを前提条件に話を進める」

 胸を張って堂々と立ち、自分の考えを嬉々として話すその姿は、生前の彼女のままです。それを見て、思わず笑みがこぼれました。

「誰が私を殺した?」

 たった一言で、笑みと血の気が引きました。

 ただ死んだのではなく、誰かに殺された、と言うのですから。

「どういうことですか。記憶が戻ったんですか?」

「いいや。だが私のことは、私自身が一番理解している。私なら自殺はしない。絶対に。そんなことをするはずがない」

「事故にあって死んだのかもしれませんよ」

 私はそれ以外の可能性を示唆します。が、すぐに却下されました。

「事故死なら交通事故が一般的だろう。それなら死体もすぐに見つかって失踪扱いになんてならない。よって、事故死でもない」

 私は気づかれないように足元の染みをチラリと見ました。

 先輩は一呼吸おいてから、はっきりと言いました。


「私を殺したのは、君なんじゃないか?」


 私は鋭い視線を先輩に向けます。

 いつになく真面目な表情を見せる彼女も素敵です。

 本当に美しい人間は、死後もその美しさを失わないのですね。


「意味がわかりません。どうして私が殺さなきゃいけないんですか。いくら先輩でも怒りますよ」

「半年前、私が失踪したと思われる日。私は君といっしょにこの教室にいたと言っていたな。間違いないか?」

「はい」

「その日、君は私より先に帰ったと言っていたな」

「はい。そうです」

「そのことを証明できるかい?」

「それは……」

 できません。できるわけがありません。

 旧校舎には私と先輩以外の人は来ませんし、防犯カメラも設置されていませんから。


「ところで、この染みは何かな?」

 先輩がしゃがみ込み、右手で床をトントンと叩きます。

 赤黒い染みの広がる床です。先輩が汚し、私が掃除した床です。

「ここには、こんな染みがなかったはずだ」

「……先輩は、記憶がなかったんじゃないですか?」

「それはここ半年の記憶だ。それ以前のことならしっかりと覚えているよ。この染みの正体は何だろう。まるで何かをこぼしたような染みだ」

 先輩の追究は止みません。

「もう一つ気づいたことがある。椅子や机、缶ジュースなどに触れようとすると、私の体はすり抜けてしまう。しかしどういうわけか、赤黒い染みのある床や君の体には触れることができる」

「それがどうかしたんですか?」

 先輩はしゃがみ込んだまま、今度は染みのない床に手を置きます。けれどもその手は、スッとすり抜けてしまいました。それから立ち上がって椅子や机にも触れます。こちらも同じく、すり抜けてしまいます。

「おかしいと思わないかい? 死んだ私の手で触れられる物と触れられない物がある。触れられる物の共通点は、いったい何だろう」

 先輩は、真剣な眼差しでこちらを見据えます。

「さあ。私には分かりません」

「この赤黒い染みは……血じゃないか?」

「違いますよ」

「私の血がついた物、きっとそれが共通点だ」

「だったら先輩が私に触れられるのは……」

「君が私を殺した時に返り血でも浴びたのだろう」

 先輩は、ゆっくりとこちらに近づいてきます。

「私は殺していません。信じてください」

 私は喉の奥からしぼり出すような声で訴えます。

 しかしその訴えは彼女に届きません。

 一歩、また一歩と距離が縮まります。

「死体はどこだ。私の体をどこへやった」

「知りません。知るわけがありません」

「嘘をつくな。ここから運び出すのは難しいだろう。非力な君が、重い死体を担いで動けるとは思えないからね」

「だから、私は、殺してなんか、いません。信じて、ください……」

 気づけば涙を流していました。両目からボロボロとこぼれていきます。


 けれども先輩は無視して話を続けます。

「冷蔵庫が怪しいな。開けて見せてくれ」

「先輩が開ければいいじゃないですか」

「冷蔵庫には血がついていないから私では開けられない」

 いいえ、開けられるはずです。

 冷蔵庫の戸を開いて見せました。

 そこには飲み物はおろか、死体の一部分も入っていません。

「もう何もありませんよ」

 そう告げてから冷蔵庫の戸を閉めます。

 予想が外れた先輩は、改めて教室内を歩き回ります。机や椅子をすり抜け、死体を隠せそうな場所を探そうとしています。しかしここは一般的な学び舎です。いくら小柄な先輩とはいえ、人間の死体を隠す場所などあるわけがありません。

 しばらく歩き回った後、足を止めます。

 それから辺りに転がっているペットボトルに目を留めました。

「これは……?」

 そのうちの一本を手に取ります。先輩の手はすり抜けませんでした。

 彼女の表情が一瞬にして険しくなります。

「血がついていることが共通点ではないのか?」

 ペットボトルを置いて別のペットボトルを持ちます。

 それも手がすり抜けることはなく、しっかりとに握られます。

 それらはずっと前に私が飲んだ物です。最初は捨てることも考えましたが、私にとって大切な思い出の品です。中には先輩がたっぷり詰まっていたのですから、捨てられるわけがありません。だから、綺麗に洗って残しておいたのです。

 先輩が別のペットボトルに手を触れました。それは、先ほど私が口を付けたばかりの物です。中身がまだ少し残っています。ああ、もったいないですね。

「これは、ただの飲み物ではないね?」

 とうとう先輩は気づきました。気づいてしまいました。

「はい。私が作った特製ジュースです」

「材料はともかく、どうやって作ったのかな」

「包丁、鉈、のこぎり、かなづち、ミキサーです。もう、本当に、すっごく大変だったんですよ?」

 私は先輩の手からペットボトルを取ります。飲み口から指を入れ、内側にこびりついた肉片を掬い取り、丁寧に舐めとりました。ああ、大好きな先輩の味がします。

「どうしてこんなことをしたんだい?」

 彼女がゆっくりとこちらに歩いてきます。

「好きだから、です」

 私はニッコリと微笑みます。人を愛するということは、その人の全てを受け入れることなのです。その人の心も体も全てが欲しいのです。それが愛というものです。

「君は誰よりも紳士的で、誰よりも残酷な人間だ」

 紳士的なんて言わないでください。こんなにも純粋で、深い愛情を注ぐことができるのは女だけですよ。不潔で馬鹿な男には興味ありません。だから私は、あなたに恋をしたのです。

「私は先輩のことが大好きです。これからもずっと一緒ですよ?」

 想いの丈を打ち明けます。

 すると先輩は、私の首に両手を添えて答えます。

「ああ……死んでも君を離さないよ」

 そして私達は――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編小説『骨まで美し』 川住河住 @lalala-lucy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ