5
「君は誰よりも紳士的な人間だな」
「やめてください。私は紳士なんかではありません」
行きと同じように、戸を開けて先に通した先輩から言われました。
未だ理解の追いついていない私を置き去りにして、一歩先にいる彼女はどこか余裕があります。
「そんなことより話の続きだ。私が死んでいることは理解できたな。異論はないな」
「正直今でも信じられませんが……。はい、異論ありません」
私は先輩に椅子に座るよう勧めます。生前、彼女が愛用していたものです。冷蔵庫同様、どこからか持ち込んだ椅子です。しかし、今の彼女の体ではすり抜けてしまうようです。何度か試してもらいましたが、結果は同じでした。
「なるほど」
先輩はまた新たな理解を得て、一歩先へ進んだようです。
同時に、私との距離はさらに広がります。
「よし。それでは私が死んだことを前提条件に話を進める」
胸を張って堂々と立ち、自分の考えを嬉々として話すその姿は、生前の彼女のままです。それを見て、思わず笑みがこぼれました。
「誰が私を殺した?」
たった一言で、笑みと血の気が引きました。
ただ死んだのではなく、誰かに殺された、と言うのですから。
「どういうことですか。記憶が戻ったんですか?」
「いいや。だが私のことは、私自身が一番理解している。私なら自殺はしない。絶対に。そんなことをするはずがない」
「事故にあって死んだのかもしれませんよ」
私はそれ以外の可能性を示唆します。が、すぐに却下されました。
「事故死なら交通事故が一般的だろう。それなら死体もすぐに見つかって失踪扱いになんてならない。よって、事故死でもない」
私は気づかれないように足元の染みをチラリと見ました。
先輩は一呼吸おいてから、はっきりと言いました。
「私を殺したのは、君なんじゃないか?」
私は鋭い視線を先輩に向けます。
いつになく真面目な表情を見せる彼女も素敵です。
本当に美しい人間は、死後もその美しさを失わないのですね。
「意味がわかりません。どうして私が殺さなきゃいけないんですか。いくら先輩でも怒りますよ」
「半年前、私が失踪したと思われる日。私は君といっしょにこの教室にいたと言っていたな。間違いないか?」
「はい」
「その日、君は私より先に帰ったと言っていたな」
「はい。そうです」
「そのことを証明できるかい?」
「それは……」
できません。できるわけがありません。
旧校舎には私と先輩以外の人は来ませんし、防犯カメラも設置されていませんから。
「ところで、この染みは何かな?」
先輩がしゃがみ込み、右手で床をトントンと叩きます。
赤黒い染みの広がる床です。先輩が汚し、私が掃除した床です。
「ここには、こんな染みがなかったはずだ」
「……先輩は、記憶がなかったんじゃないですか?」
「それはここ半年の記憶だ。それ以前のことならしっかりと覚えているよ。この染みの正体は何だろう。まるで何かをこぼしたような染みだ」
先輩の追究は止みません。
「もう一つ気づいたことがある。椅子や机、缶ジュースなどに触れようとすると、私の体はすり抜けてしまう。しかしどういうわけか、赤黒い染みのある床や君の体には触れることができる」
「それがどうかしたんですか?」
先輩はしゃがみ込んだまま、今度は染みのない床に手を置きます。けれどもその手は、スッとすり抜けてしまいました。それから立ち上がって椅子や机にも触れます。こちらも同じく、すり抜けてしまいます。
「おかしいと思わないかい? 死んだ私の手で触れられる物と触れられない物がある。触れられる物の共通点は、いったい何だろう」
先輩は、真剣な眼差しでこちらを見据えます。
「さあ。私には分かりません」
「この赤黒い染みは……血じゃないか?」
「違いますよ」
「私の血がついた物、きっとそれが共通点だ」
「だったら先輩が私に触れられるのは……」
「君が私を殺した時に返り血でも浴びたのだろう」
先輩は、ゆっくりとこちらに近づいてきます。
「私は殺していません。信じてください」
私は喉の奥からしぼり出すような声で訴えます。
しかしその訴えは彼女に届きません。
一歩、また一歩と距離が縮まります。
「死体はどこだ。私の体をどこへやった」
「知りません。知るわけがありません」
「嘘をつくな。ここから運び出すのは難しいだろう。非力な君が、重い死体を担いで動けるとは思えないからね」
「だから、私は、殺してなんか、いません。信じて、ください……」
気づけば涙を流していました。両目からボロボロとこぼれていきます。
けれども先輩は無視して話を続けます。
「冷蔵庫が怪しいな。開けて見せてくれ」
「先輩が開ければいいじゃないですか」
「冷蔵庫には血がついていないから私では開けられない」
いいえ、開けられるはずです。
冷蔵庫の戸を開いて見せました。
そこには飲み物はおろか、死体の一部分も入っていません。
「もう何もありませんよ」
そう告げてから冷蔵庫の戸を閉めます。
予想が外れた先輩は、改めて教室内を歩き回ります。机や椅子をすり抜け、死体を隠せそうな場所を探そうとしています。しかしここは一般的な学び舎です。いくら小柄な先輩とはいえ、人間の死体を隠す場所などあるわけがありません。
しばらく歩き回った後、足を止めます。
それから辺りに転がっているペットボトルに目を留めました。
「これは……?」
そのうちの一本を手に取ります。先輩の手はすり抜けませんでした。
彼女の表情が一瞬にして険しくなります。
「血がついていることが共通点ではないのか?」
ペットボトルを置いて別のペットボトルを持ちます。
それも手がすり抜けることはなく、しっかりとに握られます。
それらはずっと前に私が飲んだ物です。最初は捨てることも考えましたが、私にとって大切な思い出の品です。中には先輩がたっぷり詰まっていたのですから、捨てられるわけがありません。だから、綺麗に洗って残しておいたのです。
先輩が別のペットボトルに手を触れました。それは、先ほど私が口を付けたばかりの物です。中身がまだ少し残っています。ああ、もったいないですね。
「これは、ただの飲み物ではないね?」
とうとう先輩は気づきました。気づいてしまいました。
「はい。私が作った特製ジュースです」
「材料はともかく、どうやって作ったのかな」
「包丁、鉈、のこぎり、かなづち、ミキサーです。もう、本当に、すっごく大変だったんですよ?」
私は先輩の手からペットボトルを取ります。飲み口から指を入れ、内側にこびりついた肉片を掬い取り、丁寧に舐めとりました。ああ、大好きな先輩の味がします。
「どうしてこんなことをしたんだい?」
彼女がゆっくりとこちらに歩いてきます。
「好きだから、です」
私はニッコリと微笑みます。人を愛するということは、その人の全てを受け入れることなのです。その人の心も体も全てが欲しいのです。それが愛というものです。
「君は誰よりも紳士的で、誰よりも残酷な人間だ」
紳士的なんて言わないでください。こんなにも純粋で、深い愛情を注ぐことができるのは女だけですよ。不潔で馬鹿な男には興味ありません。だから私は、あなたに恋をしたのです。
「私は先輩のことが大好きです。これからもずっと一緒ですよ?」
想いの丈を打ち明けます。
すると先輩は、私の首に両手を添えて答えます。
「ああ……死んでも君を離さないよ」
そして私達は――。
短編小説『骨まで美し』 川住河住 @lalala-lucy
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