マリオネット

 あともう少しで一〇階だ……

 信也は一五階付近に差し掛かっていた。意識のない人間を背負い、休みも挟まずに一気に降りてきたので信也の足は棒のようになっている。踊り場で呼吸を整えながら、先を急ごうとしたとき信也の背中で身じろぎする気配があった。

 信也はいったん止まり、里依紗を背中から降ろす。


「リーシャ、目が覚めたか?」


 里依紗の頬を軽く叩く。すると里依紗はゆっくりと瞼を持ち上げた。眠りから覚めたばかりでぼーっとしているのか、目の前にいる信也に気づいている様子がない。


「大丈夫か? しっかりしろよ。立ち上がれるか?」


 肩に置かれた信也の手を、里依紗はロボットのようにゆっくりと首を回して確認する。しばらくその手を見て、もう一度ゆっくり信也のほうを向いた。うつろな瞳が信也を無表情に見つめる。

 何か、おかしい。

 違和感を感じた瞬間、信也の手は振り払われた。信也は驚いて後ろに下がるが、里依紗のほうが早い。力強い踏み込みとともに信也は強烈なボディブローを食らった。一瞬息が止まりそうになりながらも辛うじてこらえ、一歩後ろに下がる。


「おい、何しやがる」


 しかし、里依紗の攻撃的な動作は止まらなかった。ボクシングのような構えを取ると、再び信也に殴りかかってくる。

 強えっ!

 これは本当に信也の知る優しい幼なじみだろうか。その一撃は、女の子とは思えないほど重く、そして鋭い。体格差をものともしない攻撃に、信也は一方的に殴られるがままとなっていた。


「なあ相棒! いったい何がどうなっているんだ……」


 痛みに耐えながら、信也はクルーガーに尋ねる。


「対象ヲすきゃんシマス。首すじニあーぶねっとわーく投与ノ痕跡ヲ確認。コレハ【オートマリオネット】デス」

「なんだ、そのアニメのタイトルみたいなのは」

「対象トナル個体ノ意識ガ失ワレテイル時ニ、アラカジメぷろぐらむサレタあーぶねっとわーくヲ血液内ニ投与スルコトデ個体ヲ意思ナキ傀儡くぐつニ変エ、自律運動ニヨリ攻撃サセル異能力アーブスキルデス。対象個体ノ筋力りみっとヲ外シタ、常人ニハ成シエナイ破壊力ヲ引キ出スコトガ可能」

「ちくしょう洒落になんねぇ。これじゃ、俺だけじゃなくてリーシャもケガしちまう」


 ひとしきり信也を殴りつけると、里依紗はいったん攻撃を止め不気味なぐらい無表情のまま口を開き声を発した。


「速やかに元の場所に戻り別命あるまで待機せよ。指示に従わない場合には貴殿の安全は保証されない」


 感情のまったくこもらないフラットなイントネーション。子供のころからよく知る里依紗の声が、まるで見知らぬ誰かのように響いた。信也は里依紗の意識が戻ることをわずかに期待しながら軽口をたたく。


「買い物に付き合わなかったのは悪かった。埋め合わせにサンセットカフェでも行かないか」


 返事はない。

 信也の言葉には瞬き一つの反応もせず、里依紗は再び戦いの構えを取った。スカートを翻しながら体重の乗った回し蹴りを放つ。どれだけの武術動作がプログラムされているのか、その動きは達人の域に達していた。構えた左手がブロックするがその勢いは止まらず、里依紗のつま先が頬を掠める。まさに圧倒的な強さだ。

 だが……あきらめたらそこで試合終了だぜ。

 信也は階段を駆け下りると廊下に飛び出した。自慢の足を生かし全力で逃走を試みるが、力が入らず追いつかれてしまう。シャツの襟元を掴まれ、バランスを崩して信也はゴロゴロと廊下を転がった。

 逃げるのも、ダメか。

 なんとか立ち上がるが里依紗はもう目の前である。プレッシャーで吐きそうになるのをこらえ、クルーガーに話しかけた。


「なあ相棒、なんとかならないか。これがミライちゃんだったらクルーガーの出番だぜ」

「デハ、ふぃじかるぶーすとヲ使イマスカ? 通常とれーにんぐヲ積ンダ人ダケニ解放サレル機能デスガ、現在ハ非常事態ト判断サレルタメ一時的ナ利用ガ許可サレマス」

「何でもいいから、頼む!」

「ワカリマシタ。ふぃじかるぶーすとヲ発動。コレヨリますたーノ身体能力ガ強化サレマス」


 クルーガーの説明が終わるか終わらないかのうちに、信也は急に体が熱くなるのを感じた。

 額に手をあてながら前を見る。里依紗は再びファイティングポーズを構えると、先ほどとまったく同じ警告の言葉を発した。


「繰り返す。速やかに元の場所に戻り別命あるまで待機せよ。指示に従わない場合には貴殿の安全は保証されない」

「なあ、ビリビリサンデーで手を打たないか? なんならシェイクも付けるよ」


 もちろん、返事はない。

 里依紗は右から鋭いストレートを放つ。しかし驚いたことに、今度は苦もなくかわすことが出来た。スウェイバックして回り込むと、そのまま手首をつかんで背後を取る。そして、羽交い絞めにしようとするが、背後に回り込んだ勢いが早すぎてバランスを崩してしまった。

 なんだ、これは。

 なんとかバランスを取って踏みとどまると、再度里依紗と距離を取って向き合った。


「相棒、体がめちゃくちゃ軽いぜ」

「神経網ニ信号ヲ送リ、各種ホルモンノ分泌ヲ強制的ニ促シ生体反応ヲあっぷサセテイマス。現在、ますたーノ身体能力ハ大幅ニ向上シテイマスガ、初心者ハばらんすヲ保ツコトガ困難。マタ、効果ハ永続的デナク、長クテモ十分程度デナクナリマスノデゴ注意クダサイ」


 短期決戦ってやつか……ならば。

 今度は信也から里依紗に近づく。信也も初めて見る脚線美を惜しげもなくさらし、華麗な足技を繰り出す里依紗の攻撃を足でガードすると、さらに接近した。

 体格差を生かした戦いに持ち込むしかねえだろ!

 足技の使えない距離からフックとストレートを高速で放つ里依紗の攻撃を、ギリギリでかわすとそのまま腰にタックルする。

 里依紗、ゴメン!

 上からくるエルボー攻撃に耐えながら、里依紗の左足を抱えて持ち上げると、そのままの恰好で押し倒す。そして仰向けに倒れた里依紗の上に馬乗りになってまたがった。払いのけようとする里依紗の強靭な腕力を、信也の強化された両手がなんとか抑え込む。これならバランスは関係ない。


「さあ、相棒。次はどうしたらいい?」


 リーシャを殴るわけにもいかないしな。

 信也は、自分の真下にある里依紗の顔を見た。頬は上気し制服のあちこちが乱れている。普段の健康的で明るい里依紗とは違う、どこか退廃的な瞳が信也を見つめる。信也の心がほんの一瞬空っぽになった。

 その隙をついて里依紗は、信也が予想もしなかった行動に出る。


「ぐっ!」


 里依紗は、首を持ち上げると信也の右手に思いっきり噛みついたのだ。服の上からでもわかるぐらいはっきりと歯が食い込み、信也は思わず押さえつけていた手を放してしまう。

 里依紗は、今度は反対に信也の左足を抱え胸元にひきつける。そして重心をずらすと、そのまま遅滞なくブリッジ動作で右に回転。信也はこれを阻止しようと床に手をつくが、その手は予期していたかのようにもう一方の手ですくわれた。

 しまった!

 里依紗はマウントポジションを決めると、狂人のごとき腕力でギリギリと信也の首を絞める。信也はなんとか引きはがそうとするが、徐々に目の前が霞み始めた。

 前にも同じようなことがあったな……。

 信也がどこか他人事のような気持ちでそんなことを考えた時、それは起きた。

 ふいに里依紗から力が抜け、ばたりと信也の上に倒れる。どうやらまた気を失ったらしい。里依紗を抱きとめる形になりながら、肩越しに見上げると、目のぱっちりとした黒ネコが覗き込んでいる。その瞳は里依紗と信也を交互に見ると、何か物言いたげに、にゃあと鳴いた。


「よう、久しぶり」


 信也は言った。黒ネコにではない。その向こうに立つ制服姿の少女へ。


「廊下でいちゃつくのは校則違反よ」


 そこには、木刀を握り締めた真希名が信也に向けて軽く微笑んでいた。

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