スラップスティック
静まり返った教室では、カリカリと鉛筆が紙の上を走る音だけが聞こえている。生徒たちの表情はみな真剣だ。なぜなら、これは難関大学の受験を希望している学生のための特別補習だからだ。完全な申込制であり、かつ高額ではないものの有料の補習となっている。やる気のない生徒などいるはずもない。ただ一名をのぞいては。
あー帰りたい。
妥協と惰性で鉛筆を動かしながら一人不埒なことを考えているのは六道信也であった。白下岬学園の一年生にして、アルタレギオンの学園特務課職員。何の因果か二重国籍を取得してしまったアニメ好きの勤労学生である。
ちゃんと録画セットしたっけなぁ。
そういえば、今日はミライちゃんの放映日だった。散漫な思考が銀河級の美少女の姿を思い浮かべる。そして、手元の問題の解法は……まったく思い浮かばない。
といって、数学に罪はないけどな。
信也にとって、数学はむしろ得意科目なのだが、さすがに大学受験を控えた秀才たちがステップアップするための補習に一年生がついていくというのはどう考えたって無理がある。最初の一問目になんとか答えを記入した時点で、信也のライフは既にゼロになっていた。
「ほら、ぼーっとしてないの」
信也が顔を上げると、特別補習を担当する数学教師、
「一年生でわたしの数学特別補習に申し込んだのはあなただけよ、六道君。実に見どころがあるわ。せっかくやる気があるんだからここで諦めちゃダメ。頑張って里依紗ちゃんにカッコいいところを見せるの。目指すはフィールズ賞よ!」
奥川は里依紗のクラスの担任なので多少は面識がある。今年は一年の受け持ちだが、受験生の指導に定評があり、こういった補習などをよく担当している教師だ。小柄で美人、でもタイプ的には高砂と同じじゃないかと思っている。
なぜなら、熱血指導すぎてたまにウザイ。
信也に限らず、多くの生徒が奥川に対して持つ感想と言えばそんなところだった。
「でも先生、さすがにこれは難しすぎるよ。やる気以前に、習っていないことが多すぎて。こんなの公式知らないとムリじゃね?」
「そんなことないわ!」
奥川はぐっとこぶしを握り締める。
「あなたの成績を見たけれど、あのぐらいしっかりできていたら、こんなの公式知らなくても解法に十分たどり着けるわ」
公式はその場で導けるという強者の論理を振りかざしながら、彼女は身をかがめて信也のテキストを覗き込む。
「いい? この問題はねぇ……」
熱く語る奥川の声など信也の耳にはまったく入らなかった。なぜなら、ふわっとした大人の女性の香りと共に、スーツの間からちらりとのぞく谷間が信也の視界を占領していたからである。
特別補習、万歳!
視覚と嗅覚に全神経を集中し、熱血指導の素晴らしさを噛みしめていた信也の左耳に、ふいに声が聞こえた。
「みっしょんガ発動シマシタ。説明シテモヨロシイデスカ?」
突然耳元に響いたクルーガーの合成音声に正気を取り戻すと、奥川に気づかれないようそっと左手首を見る。文字盤にはYとNのアルファベットが浮かんでいた。信也はそっとYを押す。
「みっしょんヲ説明シマス。コノ補習ガ終了スル前ニ、担当シテイル教師ヲ怒ラセルコト。コレガますたーニ課セラレタみっしょん」
な、なんだってー!?
「軽ク怒ラレル程度デハ開錠デキマセン。我ヲ失ウグライ激怒サセルコトデ、みっしょん達成トナリマス。
そんなの、どうやったらいいんだよ!
「六道君、聞いてる? ここまでやれば、後は答えが見えてくるでしょう? じゃ、しっかりね」
「あ、はい……」
奥川が離れた隙に、信也は小声でクルーガーに話しかけた。
「おい、どういうことだよクルーガー。リーシャの担任を激怒させるだなんて、どうやったらいいのかなんて皆目見当もつかねえよ」
「方法ヲオ探シデショウカ。あくせす可能ナ小説データカラ検索シテミマシタ。今回ノ状況ニ類似スルしーんデ登場人物ガ怒ッタ作品ガ二百六十三件見ツカリマシタ」
「何でもいいから教えてくれ」
「けーす01、居眠リヲシテ、投ゲツケラレタちょーくヲ超能力デ打チ返ス。けーす02、てきすとぶっくニ隠レテ、所持シテイタらんちぼっくすヲ食ベル、けーす03、突然立チ上ガッテ、スレ違イ続キダッタひろいんニ、くらす全員ノ前デ告白スル。けーす04、黒板ノ字ガ汚イコトヲ指摘サレタコトカラ諍イトナリ、最後ニ、ソンナ性格ダカラ行キ遅レルンダ、と捨テ台詞ヲハク。けーす05、守護霊ニ憑依サレ奇声ヲ」
「ストップ」
頭が痛くなってきた。これはピンチだ。先辺に殺されかけた時よりも難題だと信也は思った。
「デハ、一度コノ教室ヲ離レ、本部ノ指示ヲ仰グトイウノハドウデショウカ。けーす183、といれヘノ移動ヲ申請シ、ソノ後、大キサニ関スル質問ニ大ト答エルコトデモ怒リヲ誘発デキル可能性ガアリマス」
「そんな小学生みたいな寒い発言はゴメンだね。いいよ、とにかくいったんここを出よう。ヘンな怒らせ方をしたら、世界の命運よりも俺の命運が尽きる。お前は余計なことをするなよ」
「こら。六道君さっきから何をしているの?」
顔を上げると、いつのまにか奥川が上から信也をにらんでいる。
「あ、いやぁその、ほら問題の解法を考えてたんだけど、なんか声に出ちゃってましたか?」
信也はわざとらしい作り笑いをしてみせるが、奥川の表情は変わらない。
「さっき教えてあげたところ、全然手がついてないじゃない! もう、真剣にやらないと、時間は有限なのよ。世界の真理を解き明かすには人生はあまりにも短いんだから!」
あれ、もしかしてこのまま激怒まで持ち込めるのか? 信也は一瞬淡い期待を抱いたが、思わぬ方向に話は進んでしまった。
「とにかく、その時計は補習が終わるまで先生が預かります。さあ外してちょうだい」
「いや、ちょっとこれは渡せないっていうか」
「何をいっているの。しのごの言わずに早く渡しなさい。終わるまで預かるだけなんだから」
ヤバいぞ。
そもそもこの時計は外せないし、妙な機能でも動き出してアルタレギオンの秘密がバレたら、なんかえらいことになりそうな気がする。信也は立ち上がって後ずさりした。
「いやいや、この時計はじいちゃんの形見というか、その非常に大事なものなので外すとかそういうのは……」
「むむ。教師をバカにしてるわね。こうなったら実力行使よ!」
奥川に密着されて左手を掴まれる。男子の本能が一瞬ときめく信也だったが、クルーガーを念入りに調べられたら、もはや言い訳のしようもない。
「あれ、外れないわ。どうなってるのよ」
「先生、くっつきすぎです、やめてください!」
なんとか振りほどこうと信也がもがいているところに、クルーガーの無慈悲な通告が聞こえる。
「機密情報ノ漏洩りすくヲ検知シマシタ。ぱにっしゅめんと信号ヲ送信シマス」
「ぐわぁっ」
クルーガーの放つ、情け容赦ない電撃ショックを受けて信也はふらつき、そのまま奥川に覆いかぶさるように倒れこんだ。目の前には奥川の顔。そして右手と左手は奥川の胸の上。
こ、この、マシュマロのような感触は……
一瞬、何が起きたかわからず驚いたような奥川の表情は、その状況に気づくやいなや鬼のような形相に変わった。
「こんの、エロガキーーーー!」
奥川のフックの効いた平手打ちが左右の頬に連続ヒットし、そこからよどみなく放たれた凶悪な膝蹴りが信也の股間を襲う。
「がっ……」
信也はそのまま床にうずくまり悶絶した。呼吸もままならず喘いでいるところにクルーガーの声が響く。
「みっしょんこんぷりーと。ますたーオメデトウゴザイマス、鍵ガ開キマシタ。
まったく空気の読めない人工音声の場違いな祝福を聞きながら、信也は思った。
奥川先生は武闘派タイプだったのか……
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