闇の願い

 深夜零時。

 礼拝堂の闇に灯された燭台が照らし出すのは、古びた祭壇と、その奥で神官らしき礼拝の衣装を見にまとい、奇怪な形の錫杖を高く掲げる年老いた男の姿だった。


「神を称えよ」


 厳かに告げられた声と共に、礼拝堂にいた覆面姿の信徒達は讃美歌を歌いだした。その重厚かつ壮麗で、しかしどこか狂った音程は聴くものの心をどこか不安にさせる。いつ終わるとも知れぬその旋律に、燭台の前の老人は満足そうに耳を傾け、そして言った。


「咎人よ。前へ」


 信徒達の中から二人が立ち上がり、祭壇の前で膝をつく。


「外せ」


 二人とも覆面を外す。二人ともまだ学生といったぐらいの年齢だった。一人は男でそのままうつむいている。女の方は顔をぐっと上げた。血の気の感じられない白い肌に後ろで無造作に束ねた黒髪。しかし、病弱そうな外見に似合わぬ鋭い瞳は苛烈な性格の持ち主であることをうかがわせる。


「司教様。申し訳ありませんでした」


 女の顔には濃い苦悩の色がにじんでいる。司教と呼ばれたその老人は二人を見下してこういった。


「此度の失態、そのような口だけの謝罪ではすまぬ。せっかく目を掛けてやったというのに、見当はずれも甚だしい」

「未だ詳しいことはわかっておりませんが、久世真希名は【パーフェクトワン】と呼称される一層市民プライマリー。未来技研では一、二を争う使い手だと聞いております。そんな人物が、自らの存在確率を下げてまで接触を試みた人物を警戒するに越したことはないと考えたのです」

「はっ。いかにも女子供の考えそうな、安っぽい言い訳よ」


 老人は冷たく言い放った。女は唇をぎゅっと噛みしめて押し黙る。


「貴様らは由緒ある聖会の騎士なのだ。パーフェクトワンなどと軽々しく異名を名乗っている新参者に敗れるなどはあってはならないし、またあり得ないことよ。我らの聖印は既に二百年以上も自己改変し続け能力を増している。神の力を真に使えるのは我らが聖会のみ。やつらの印など、ただの真似事よ」


 ここで、うつむいていた若い男が顔を上げた。がっしりとした体躯に短髪で精悍な顔つきだが、いくばくか緊張しているようにも見える。その瞳の奥には隠し切れない怖れがあった。


「司教の仰ることはわかりますが、ただ、未来技研が奴を校内に送り込んでから、我らの目論見はことごとく妨害されております。先辺がマークしていた人物も結果的には二層市民セカンダリーに昇格いたしました。遥様のご判断はやむを得なかったものと」

「黙れ!」


 老人は錫杖で男を殴りつけた。男はよろめき、顔を押さえて一歩後ろに退く。


「亡命申請など、貴様らの使う狂犬が直接手出しをしなければ許可される可能性など微塵もなかったのだ。それが、なんたる有様よ。結果的に奴らのコマを一つ増やしてしまったことになる。宣託を維持したまま結界内に尖兵を送り込むことの困難さは、貴様らも重々存じておろう。なぜあのような暴走を許してしまったのだ」


 女は、その若い男をかばうように少し前に進むと、下を向いたまま話した。


「先辺は、自分が神の地に降り立ったことで増長しており……こちらの命令を軽んじているところがあるのです。また、調整も不安定であり……」

「つまり【血の呪い】か……。なめられるお前たちに責任がないとは言えんが、まあよい」


 老人は錫杖でコツコツと床をたたく。すると、祭壇の斜め上にゆらゆらと光が浮かび上がり、そこにぼんやりと亡霊のように漂う人型が現れた。


「お呼びですか、司教様」

「クロノスよ。学園内にもう一名の騎士を送り込むにはどれだけの事象安定度が必要だ?」

「先日の騒動によって、事象ベクトルはマイナス二ポイント、世界の選択の揺らぎもコンマ五パーセント増加しています。年が変わるまでは難しいかと。ただ」


 人型は薄く発光を強め、いったん言葉を切った。そして先を続ける。


「近く、大規模な宣託が降りる兆候があります。その直前で仕掛ければあるいは」


 老人は錫杖をさすりながらしばらく黙る。


「事象安定度を犠牲にした場合、何名程度行けるのだ」

「この場合は……三名。事象安定度は約十パーセント低下するでしょう。それでも正史につらなる宣託の実現率には誤差程度の低下しか認められません。ただしお分かりとは思いますが」

「むろん、わかっておる。世界が選択される前に正史が曲げられるようなことがあれば、神は我々の望まぬ形で降臨するか、最悪の場合目覚めない可能性もある。未来技研の奴らもそこまでは踏み込んではこないだろう。正史の歪みは、すなわちヒトの終焉を意味するのだからな」


 老人はそうつぶやくと、錫杖を再び床に打ち付けた。クロノスと呼ばれた亡霊は再び虚空に消える。老人は再び、ひざまずく二人のほうを向いた。


「いずれにせよ、起こってしまったことは変えられぬ。我々の栄光ある未来の実現が約束されているのと同様にな。貴様らは引き続き先辺の制御にあたれ。本来、あやつは学園などという平和ボケした環境に置くには闘争心が強すぎる性格だ。聖印との過剰適合がもたらす血の呪いも予想以上に進行しておるようだが……今はどうすることもできん。よいか、次はしくじるなよ」

「はい。必ず吉報を持ち帰ることを誓います。我らが信じる神のために」


 老人は重々しくうなずいたあと、少しだけ表情をゆるめる。そして、深々と首を垂れる二人に声をかけた。


「貴様らが首尾よく宣託を乗り越えたなら、今回の失態は見逃してやろう。さあ、咎人とは言え神の御前である。汝らに祝福を与えよう」


 老人は錫杖を二人の頭上に掲げ、低く謎めいた声で祈りを唱える。それに合わせて、覆面姿の信徒達が別の讃美歌を歌いだした。その響きに紛れるように、女は下を向いたまま誰にも聞こえない声でささやく。


「そして……私が信じるあなた様のために。エヴァレット司教様」

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