お腹痛いので休みます

「ねえ信也君、誰か来てるよ。知り合い?」


 五時間目の終わりを告げるベルが鳴っても居眠りを続けていた信也は、咲に起こされた。

 教室の入り口を見ると、そこには三つ編みと黒縁メガネのもっさり女子。一言も声を発せず、信也のほうに小さく手を振っていた。いや、手招きをしていた。


「そうみたいだな」


 信也はあくびをしながら立ち上がる。

 しかし、なんて恰好だよ。

 三つ編みとメガネだけでこれだけ印象が変わるとは、ものすごい変装っぷりである。

 近づくと、真希名は前置きもなしに小声で言った。


「亡命手続きを完了させるには、本人の生体コード登録が必要だそうよ。これから行きましょう」

「は? でも六時間目はどうするんだよ。しかも俺、次は物理だぞ。高砂だぞ」

「そんなのサボればいいだけでしょ。こっちは世界の選択よ。比べるほうが間違ってる。例えば体の調子が悪いとか、頭の調子が悪いとかって、何でもいいから理由つけて早退したらどう?」


 冗談……だよな?

 冗談であってほしかったが、あいにく彼女の顔は笑っていない。そうはいっても、スパルタで名高い高砂の物理、しかも自分のクラスの担任である。プリントを忘れましたぐらいならともかく……。

 授業をエスケープというのはいかがなものか。

 悩む信也の手に、真希名は一枚の紙を握らせる。


「じゃあ、これあげる」


 どこから入手したのか、それは今日配布されるはずの高砂プリントだった。しかも既に答えが綺麗な字で書き込んである。これを解いたのは彼女自身だろうか。単に答えだけでなく解法を事細かに書いてあるところを見ると、おそらく間違っていないのだろう。いずれにせよ貴重な情報だった。


「用務員としての職業倫理に目をつぶったんだから。信也も学生の本分には少しぐらい目をつぶって」

「……わかった。今すぐにか」


 真希名はあたりをきょろきょろと見回す。クラスのみんなは、信也と会話する見知らぬ女子に好奇の視線を向けていた。真希名は今更ではあるが、自分たちが異様に目立っていることに気づいたようだ。

 まさか……今頃?

 外見に似合わず、案外と周りが見えていないやつだった。


「ご、五分後に通用門で待ち合わせにしましょ。じゃあ後で」


 急にしどろもどろになった真希名は返事も聞かずに立ち去り、信也はいったん席に戻る。


「今の誰だよ?」


 こいつの、女子にかける情熱は本物だ……。

 あんなもっさりでも女子は女子。とばかりに大悟が食いつく。同学年の女子の情報は全部持っていると豪語する大悟も、さすがにガーデンに通う生徒のことまでは知らないらしい。一方で、与一は今のが誰かわかったのだろう。何も言わずに不機嫌そうな顔で信也をにらんでいる。

 一番問題なのは、咲だ。

 彼女の顔には、これは噂話の恰好のネタよね! と書いてあるように見えた。席を立ちあがり、胸元で手を組み、好奇心に爛々と目を光らせて信也を見つめている。

 まずい。

 これは、もう高砂の物理どころではなかった。


「与一、ごめん! 俺ミライちゃんの録画予約を忘れたの思い出しちまって……今から帰るわ。高砂には、おなか壊したって言っておいて」

「えっ? 信也君どこいくの! ちょっと待ちなさいってば!」


 後ろから追いすがる咲の声に耳をふさぐと、信也はカバンも持たずに教室を出た。

 親友よ、頼んだぞ……

 エスケープの後始末は与一に託して、とりあえず下駄箱に立ち寄る。靴を履き替えてから校舎の外を通って通用門に向かうと、真希名は既に帰り支度を整えて待っていた。髪こそ三つ編みのままだったが眼鏡は外しており、美少女のオーラを半分ぐらい放っている。


「カバンはどうしたの?」

「置いていくよ。それで、どこに行くんだ?」

「とりあえずバスに乗りましょう。詳しい話はそれから」


 二人はこそこそと学校を後にしてバスに乗り込む。市街地へ向かういつものバスとは違う路線で、信也はこの路線に乗るのは初めてだった。

 時間的に混んでいるはずもなく、二人は最後尾の席に腰かける。

 信也はしばらく、会話もないまま見慣れない道の風景を眺めていた。しかし、一向に説明するそぶりも見せず、窓の外を眺めている真希名に根負けし、もう一度同じ質問を繰り返した。


「で、どこに行くんだ?」


 ちらりと信也のほうを見て、真希名は視線を窓の外に戻す。


「未来技研のヘッドオフィスよ」

「それって、確か真希名たちの所属する……」

「そうよ」

「会社みたいなもん?」

「こちらの世界でも法人登記はしてあるけれど、それは仮の姿。別にビジネスが目的じゃない」

「わかった。じゃあ、ディバイナーズとか言う奴らと、戦うための組織だろ」


 真希名は、ようやく信也のほうを向いた。


「それもちょっと違うわね。もともと、未来技研はアルタレギオンの創設の時からあって、超越技術リープテックの研究機関だったのよ」

「なんだその、超越技術リープテックってのは」

「ええと……ちょっと話が長くなるけれど」


 真希名は、そう断りを入れてから話し出す。


「まずアルタレギオンの歴史は中世のヨーロッパに端を発するわ。当時は、様々な技術や学問は、秘匿されることが当たり前だった時代で、数学者が高次の方程式の一般解を誰にも言わずに家宝にしていたなんて逸話もあるぐらい。その一般に秘匿された学問をビジネスとして買い占めていたのがアルタレギオンの前身となるエヴァレット商会。商会は技術を買い占めるだけでなく自分たちで研究を進めて、ついには地球そのものを巨大な構造体アーキテクチャとする演算システム、ガイアを作り出したの。これが超越技術リープテックの始まりよ。そんな技術革命が、もう二百年も前にあった出来事だなんて信じられる? 今の世の中にあるコンピュータなんて、単なるガイアの劣化コピーに過ぎない。彼らは文字通り、世界の科学技術の常識を超越リープしたのよ」

「ふーん。でもよ、その話が未来技研とかディバイナーズにどうつながるんだ?」

「ある事故がきっかけだったの」

「事故だって?」

「スペイン風邪って知っている? 1900年代の初めにヨーロッパで猛威を振るった病気よ。鳥インフルエンザのような症状で、死者は世界で四千万人を超えたとも言われているわ。でも、これは自然由来のウイルス感染症じゃなかったの。エヴァレット商会が極秘に実験していたナノマシン【アーブ】の暴走による、深刻な医療汚染の結果だったのよ」

「そんなことが……」


 信也はごくりと唾を飲み込んだ。


「これが単なる事故だったのか、故意に引き起こされたのかどうかはわからないけれど……とにかく、この事件をきっかけにエヴァレット商会をスポンサードしていた先進国のリーダーたちは、単なる私的企業だった商会の体制に強い疑問を持ったの。もし同じような事件が発生したら、自分たちが独占してきた超越技術リープテックが一般社会に露呈し、自分たちの権力基盤を壊すことになるんじゃないかって。結果として商会は解散させられ、新たな組織が設立された。国家間で極秘に協定を結び、平等に権利を分配できるような土地を持たない仮想国家、アルタレギオンの誕生ってわけ。各国より派遣された【評議会】メンバーが立法を任されていて、司法や行政についてはガイアにゆだねられているの」

「マジに国家なんだなぁ。だから亡命か……」

「もちろん、純粋な国家とは言いがたいけどね。実際、構成員の多くは二重国籍だし」

「で、未来技研ってのは?」

「アルタレギオンが設立されたときに、エヴァレット商会が担っていた研究を引き継ぐために作られた研究機関。正式には未来技術研究開発局っていうのよ。宣託についての研究も進んでいて、世界の選択にもっとも近い組織と言えるわね」

「じゃあ、ディバイナーズは?」

「彼らは、正式にはガイア聖宣教会って御大層な名前を持っているの。これは、エヴァレット商会の所有していた文献や美術品などを整理するために設立された歴史保全局というのがルーツ。この組織は今から五十年以上も前に役目を終えて解散したんだけれど、当時の構成員が中心になってディバイナーズを立ち上げたんだって」

「なんでみんなディバイナーズって呼ぶんだ?」

「一言で言うと素行が悪いからよ。だって、ガイアに市民登録しているにも関わずアルタレギオンの社会システムに名を連ねていない不法移民みたいな人たちばっかりだし……宣託の成就を絶対視して、その障害となるものを暴力的に排除する、まあ一種のテロリストだもの。教会扱いしたら怒る人がいっぱいいるのよ」


 真希名はここまで説明すると、また窓の外を見た。そこは、市街地とは湾を挟んで反対側に位置する、企業の研究施設や工場が立ち並ぶエリアだった。


「あれが本部よ。次で降りるわ」


 真希名が指し示した方角には、物々しい配管が人目を引く工場の間にたつ、何の変哲もない灰色のビルだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る