雨音に霞む現実
「さやかはもう寝た? あいつ明日はバスケの朝練だからさ。うん助かるよ。いや、俺は与一の家に泊まろうかなと……。え? ゲームで徹夜? 違う、違う! 銀河美少女……だから違うって。ああ、うん。まあ、とにかく、そう、じゃ、また明日」
信也は電話を切った。その様子をこの部屋の主がチラリと見る。
「誰? 余計なこと言っていないでしょうね」
「ただのクラスメート。今日、そいつんちに妹が泊まってるんだ」
「ふーん。ずいぶんと仲よさそうね。もしかして彼女?」
「そんなんじゃねぇよ。昔から知ってるってだけで」
今日はここに泊まるしかない。久世真希名が用意してくれた炒飯と餃子をずうずうしくおかわりまでしたあと、信也は教室にジャージと歯ブラシを取りに行き、そして用務員室に戻ってくると、すぐ里依紗の家に電話をかけたのだった。さやかが泊まっていたからである。
一応、両親二人とも出張中だし。
信也は、こう見えても妹のことはちゃんと気にかけている。妹思いなのだ。ただ、悲しいかなその気持ちが本人に伝わったことは一度もなかったが。
こういうのも片想いって言うのかな。
「シャワー使いたかったらどうぞ。わたし気にしないから」
「ああ、でも遠慮しておくよ。着替えだけさせてもらえれば」
彼女は早々とシャワーを浴び、ジャージ姿に着替えている。なぜか腕時計はそのままだった。濡れた髪をタオルで拭きながら、ソファにごろんと寝そべっている。居心地は良いが決して広くはない部屋である。ソファを占領されたらもはや居場所はない。
信也も、洗面所で手早く体育用のジャージに着替えるとその辺のカーペットに座り込んだ。夕食後に出されたお茶はもうすっかり冷えていたが、他にすることもないので一口飲む。一方、彼女はテレビを見ながら、冷蔵庫から取り出してきたアイスクリームをパクパクと食べている。信也の分は、ない。
「しかし、お前はくつろぎまくってるな」
「だって、ここはわたしの家だもの。それより、もうお前呼ばわり?」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ。俺の中では、もうお前は気を遣う相手じゃないんだ」
「せめて名前で呼んでくれないかなぁ、信也君」
「わかりましたよ、真希名ちゃん」
「ちゃんは……ダメ。気持ち悪い」
「じゃ、お前も、君とかやめてくれよ」
露骨にイヤそうな顔をする真希名に信也も苦い顔で答えると、テレビのほうを見た。スクリーンの中では、今売り出し中のお笑い芸人が、渾身のギャグをやっている。寒いダジャレの三連コンボだ。
なんだこれ。ちっとも笑えねぇ……
なにしろ数時間前に殺されかけたのだ。あまりに現実離れしすぎていたため、それほどの危機感は感じていないが、それでも下らないお笑い番組を楽しむほどの余裕はなかった。
一方、真希名は何が面白いのか、どう考えても笑えない無理やりなボケに笑いを必死にこらえている。どうもユーモアのセンスは、信也とは違うようだ。いずれにせよ、緊張感のかけらもない雰囲気である。
大体、彼女は戦えるんだろうか。先辺が仲間を伴って襲いに来たらどうなるのか。少なくとも、あのゴツい木刀でその辺の男子を蹴散らすぐらいは十分やりそうだけれど。
真希名のことは信用している。というか、信用したい。信用するしかない。だが、それでも自分の置かれている状況を把握するには、圧倒的に情報が足りない。
反対に、真希名の状況は一目瞭然だ。一言でいえば、こいつは空腹なのだ。
先ほどまで食べていたアイスクリームはとっくに空となり、どこから持ってきたのかテーブルの上にポテトチップスの袋をどっさり並べて、パリパリと軽快な音で食べている。キッチンのほうを見ると、信也がおかわりした後に山盛りで残っていたフライパンの炒飯はいつの間にかきれいに片付いていた。
まさか……こいつ一人で全部食べてしまったんじゃないだろうな。
「いったいどんだけ食べるんだよ。寝る前なのにいいのか?」
「わたしは大丈夫。あなたが小食なんじゃないの」
真希名はテレビを食い入るように見つめたまま答えた。もちろん、食べる動作は止まらない。
テーブルの上のポテトチップスは見る間に減っていく。
いったいどういう食欲をしているんだ?
信也は、少し変わった色のポテトチップスを一枚試してみる。そして、口の中に広がる違和感。
「パクチー味、どう?」
「……かわった味だな」
「そう? わたしは好きだけど」
テレビの映像は、スポーツニュースに変わっていた。スポーツと言えば。
「真希名って武道かなんかやってたのか」
「うん。小さいころ剣道をね。もう、今はやってないけれど」
「じゃあ、やっぱり強いのか?」
「剣道が? それとも、実戦の話?」
「実戦のほう」
「そうね。あなたよりは……強いと思うわ。わたしに勝てる人はそう多くはないと思う。だからこんなところで用務員をやっているのだし」
信也の脳裏に、初めて会った時の彼女の姿がよぎる。信也が見間違ったのでなければ、虫も殺せぬような外見をしたこの少女は、ただの木刀一本で巨大な看板の落下軌道を変えたのだ。あれが意図的にやったことだとするなら、もはや人間の到達できる業ではなく、人の技量を超越した何かだ。
「先辺よりもか? あいつもすごかったぜ。一体どうやったのか、ありえない速さで先回りしたりとか」
「あれぐらいは普通よ。アルタレギオンの
「もしかして、アルタレギオンの強大な力っていう話に関係するわけ?」
「まあ、そんなところ。詳しくは言えないけれど」
「なんだ、また隠し事かよ。いい加減に全部教えてくれよ」
信也は、禁則事項、と口走りそうになって踏みとどまる。そういうネタは与一や大悟とわかちあうべきだろう。
「隠し事というか、説明しても理解できないと思うのよね」
「ちぇっ。なんか馬鹿にされている気がするぜ」
「市民になれば、実際に自分の目で見る機会もあるでしょうし、それに」
真希名は手を伸ばして、最後に残ったポテトチップスの袋を開ける。
「信也の亡命手続きが終わって入国ガイダンスが完了するまで、機密事項、特に
ポテトチップスを一枚口に放り込みながら、真希名は続けた。
「そんなこと気にしなくったって、信也は少々襲われても大丈夫じゃない? 頑丈そうだから」
「なんだよそれ。俺はただの一般人だぞ。木刀で殴られたら死ぬぞ」
「だって、最初の襲撃で怪我一つしなかったなんて……存在確率に影響を与えるって簡単なことじゃないの。最低でも入院コースよ」
「おっかねぇなぁ。でも、実際のところ、対して怪我しなかったぜ」
「じゃ、天気でも変わったのかしらね」
「またそれか……。月が出てるとか、天気が悪いとか。なんかそういうゲン担ぎでもあるわけ?」
「そんなオカルトめいたものじゃないわ。これは純粋にガイアの計算能力の問題ね。今、ガイアはこの白下岬全体で発生する出来事を非常に高い精度でモニターしているの。それからアルタレギオンの市民は、故意に宣託を乱すような行動を協定で禁じられているし……つまり、ガイアの宣託にない出来事は、ほぼ起こりえない。ただし例外はあるの。それが雨よ」
「雨だって?」
「空から無数に降り注ぐ雨粒の挙動が変数に組み込まれると、不確実性が一気に高まってガイアの予測システムはオーバーフローを起こして宣託を出すことができないってわけ。実際、宣託を神とあがめているディバイナーズは、神様が見ていない時にはやりたい放題よ。小競り合いは例外なく雨の日に発生しているわ」
「そんな理由だったのか!」
「大体、ほとんどの宣託って地味で健全なものばかりよ。特に言語化できるほどのレベルまで具体化した宣託になるとね。わたしがこの学園に転校してくるきっかけになった宣託もそう」
「生徒会長選がらみか。でも確か、生徒会長って夏休み前に決まったばっかりじゃないか。めちゃめちゃ気が早くないか」
「わたしもそう思うけれど……選挙が終わった次の日に宣託を捉えてしまったんだもの」
「どんな内容か聞いてもいいか?」
「ガイアの一なる
「それが宣託? なんつーか意味がわからねぇ……」
「宣託の大半が、この白下岬学園周辺の事柄なの。ガイアがこの学校を中心として様々な手段でモニターしていることを考えれば当然のことね。だから、玉座っていうのはこの学校、白下岬学園の生徒会長ポジションのことだと解釈される。これを決めるのはガイアの一なる僕、つまりアルタレギオンの筆頭となり、その支配権を手に入れられるという意味なんだって。でも、宣託の解釈なんて本当に曖昧だし、本当にそうなのかなってちょっと疑ってしまうところはあるわね」
信也は上を向いてため息をついた。
神様の予言っていうのは、もっと重々しくて、格調の高いものなんじゃないのか?
高校の生徒会長が誰になるかなんて、そんな安っぽい理由で殺されたんじゃたまらない。
「いっそのこと真希名が立候補したらいいんじゃないか。トップ当選間違いなし! 俺が保証するぜ」
信也は改めて真希名を見た。
里依紗や咲といった学園の人気女子と親交の深い信也の目から見ても別格だと思う。色気のない地味なジャージからもはっきりとわかるスタイルの良さ。笑ったらどんなに素敵だろうと思わせる、不機嫌そうな表情。しっとりと濡れた髪のすき間からのぞくうなじは、ほのかな色気を感じさせる。
こいつなら、いくらでも票が取れそうだけどな……
「それっていったいどういう意味?」
落ち着け。思わず見とれてしまっている自分に、信也は心の中で喝を入れ、軽口をたたく。
「その木刀振り回せば、たいていの男は言うことを聞くって意味さ」
まったく話にならない、とばかりに真希名は頭を振った。
「そもそも、わたしたちじゃ難しいと思う。だってアルタレギオンの市民は、宣託に対して直接的に関与できないんだから」
「どういうことだ? だって宣託を実現するためにあれこれ画策してるんじゃないのかよ」
「うーん。どういったらいいのかな。わたしたちは今まで宣託の登場人物になったことがないのよ。きっと、事象への干渉力が強すぎるんだわ……」
でも、それは矛盾している。
「さっきの宣託では、
「それよ!」
真希名はその言葉に身を乗り出して話を続ける。
「生徒会長選の宣託だけは異質なの。今まで出された宣託には、アルタレギオンを直接匂わせるような言葉なんて一つもなかったの。だから、これが本当にガイアからもたらされた出力結果なのかどうか疑っている人もいるぐらい。それにね」
真希名は、ポテトチップスの最後の一枚を口のなかに入れる。
「この宣託より先の時間軸で、どうやら宣託が告げられる兆候は一切確認できないの。まるで世界はそこで終了とでも言っているかのように、ただの一つも。だからこの宣託は、別名【世界の選択】と呼ばれているわ。世界はこれからも続くのか、そこで終わるのか。そんな重大な出来事の中心人物になるなんて願い下げだわ。それに」
「それに?」
「前にも言ったでしょ。わたしは平凡がいいの。地味がいいの。悪目立ちするのが大っ嫌いなの!」
真希名はこぶしを握り締め天井を仰ぐ。
てっきり、なにかのミッションのために隠れ忍んでいるのかと思っていたが……単に本人が引っ込み思案ということか? 信也は、真希名の性格を理解することは諦めて立ち上がった。だいぶ話し込んだせいか、日付はとうに変わっている。
「まあいいや。そろそろ俺は寝させてもらうよ。どこで寝たらいいかな」
「このソファを使って」
真希名も立ち上がると、タオルケットを一枚持ってきて信也に渡した。ジャージ姿の二人は洗面所で横に並んで歯を磨く。鏡に映るその姿を見て、まるで何かの合宿のようだと信也は思った。
「じゃ、お休み」
電気が消され、真希名の髪の香りがほのかに残るソファに横になると急に眠気が襲ってくる。無理もない。今日の出来事は、信也の人生に一度たりとも出現したことのない未知の体験だった。その興奮と緊張、そして未来に対する漠然とした不安が作り出した疲労は、やがて柔らかい眠りに溶けていく。意識が途切れる瞬間、信也はどこか厳かな運命の声を聴いたような気がした。
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