錯覚と刺客

 彼女に会うにはどうすればいいのかを考えてみたが、信也は結局こんなことしか思いつかなかった。

 信也が彼女について唯一知っていること。それは、用務員のアルバイトをしているということだ。つまり、学校に居残ればいい。そうしたら、きっとどこかで会えるだろう。いったん帰るふりをして、その後こっそり教室に戻ってくる。放課後は、クラブの部室や運動部の連中がグラウンドにいるぐらいで、教室には誰もいない。夜になって校門を閉めるころには、誰か見回りが来るだろう。それまでは教室で机の下にでも隠れて、もし彼女が見回りにでも来たら声を掛ければいい。

 信也は、時間つぶしのために持ってきた本をカバンから取り出した。


「ふふふ。銀河美少女伝説! このレアアイテムを入手できる日がこようとは……」


 今、日本全国で絶大な人気を誇る銀河美少女探偵ミライちゃんの、本編では描かれないプライベートライフを取り上げた外伝小説である。

 アニメの脚本家自らが偽名でヨクヨムという大人気ネット小説サイトに連載していたところ、人気に火が付き小説化されたのだった。

 出版に伴い大幅な加筆修正、さらには書き下ろし短編がついてくるとあって、初版から爆発的な売れ行きで品切れ続出。現在はオークションでも高値取引されている。それが、どういうわけか、駅前の本屋に限定入荷したのだった。

 友情に乾杯プロージット……

 信也は、これを手に入れてくれた与一に心の中で手を合わせながら、ページをめくりはじめた。

 迷子のブラックホール探しから始まるストーリーは、血沸き肉躍る冒険活劇とは正反対のハートフルドラマだった。

 グレートヴォイドの、名もなき人々とのふれあい。

 星間合コンで見せる、意外な女子力。

 重力波に乗って届く、遠い昔のラブレター。

 そして、本編では一度もなかった、まさかのサービスシーン!

 読み終えるころには、日がすっかり落ちていた。


「いやぁ、ものすごいものを読んでしまったぜ。しかし、なかなか見回りに来ないな」


 ちょっと探してみるか。信也は立ち上がった。

 用務員室は一般校舎のほうなのだし、いざとなれば嫌がられるのを覚悟でそっちのほうを探してもいい。

 教室を出て、階段のほうへ向かう。すると、ちょうどそちらから歩いてくる人影があった。

 その人物は、信也から少し距離を置いて立ち止まった。


「また校則違反か。貴様も懲りないな」


 先辺礼児。


「こんなところで、何をしているんですか」


 信也は、行く手をふさぐ目の前の男に硬い表情で質問する。


「その台詞はそのまま貴様に返そう。どうせ、奴に会おうとしたのだろうが……」

「今、どこにいるか知ってますか?」

「その答えを知る必要はない。なぜなら貴様には消えてもらうからな」


 先辺の口には暴力的な笑みが浮かんでいた。そして、凍り付くような殺気を周囲に放つと、彼は再び歩き出す。信也のほうへ。

 その時、信也は自らの生命が晒されている危険に気づいた。いや、気づかされた。

 そして思う。

 日常との決別を望んだ代償……。

 それは銀河を駆ける冒険などではない。ただの理不尽と、そして暴力だ。

 突きつけられた現実が、子供じみた信也の夢想を一撃で打ち砕き、体中を吹き荒れるアドレナリンが、立ちすくむ信也の体を小刻みに震わせた。

 だが……

 それがどうした!

 信也はこの時、この瞬間に覚悟を決めた。

 結局、自分が向かった先にしか、自分の未来はないのだと。

 誰でもない、自分の決断だけがレールのない未来を切り開くのだと。

 信也は、先辺の問いには答えなかった。その代わりに、なんの予備動作もなく後ろを振り向き、一気に駆け出す。

 消えてもらう。先辺は確かにそういった。

 相手は信也に、明白な殺意を抱いている。待ちは愚策と判断したのだ。相手は一人。ようは逃げ切ればいい。

 わき目もふらず校舎の反対側まで駆け抜けると、そのまま階段を駆け下りる。そして走り出そうとしたその時、信也は自分の目を疑った。

 廊下の向こう側から、先辺が悠然とした歩みで近づいてくる。


「とっさの判断にしては上出来だ。だが、下層住民ボトムズ風情が逃げ切れるとでも思ったか」

「てめぇ、どういう手品だ……」


 目の前で起きている出来事に信也は混乱する。辞めたとはいえ、去年までは陸上部のエースだったのだ。もちろん追い抜かれてなどいないし、逆の階段まで戻ったとしても距離が違いすぎる。

 では、なぜだ?

 なぜ、奴は自分の前にいるのだろうか。


「ふん。貴様相手に小細工を弄する必要などない」


 信也は、今度こそ驚愕した。信也の瞬き一つの間に、五メートルは離れていたであろう距離が詰められている。それは、とても人間の脚力とは思えなかった。

 先辺は、先ほどまでの笑いを消すと、信也の胸ぐらをつかむ。


「殺す前に聞かせてもらおう。貴様どこまで知っている?」

「何でてめぇに殺されなくちゃいけないんだ。そもそも何が起きているんだ・・・・・・・・・・・・・?」


 敬語をかなぐり捨てて、信也は久世真希名にするはずだった問いをする。


「しらばっくれるな。たとえ夜空に輝く月が偉大なる神の慈愛を称えていようとも、実在の揺らいだ貴様をこの世から抹消することは造作もないのだぞ」


 先辺の声に苛立ちが混じる。信也はそのままぐいと上に持ち上げられた。それは、ひょろりと痩せた外見からは想像もつかない人外の力だった。

 あきらめるな。

 この状況にあっても、信也は冷静だった。いや、冷静であろうとした。

 殺すということだけが目的なら、とっくにゲームオーバーだ。

 考えるんだ。今、出来ることはなんだ?

 月とは何だ・・・・・・


「……今夜は月がキレイだぜ。こんな夜に殺しなんて無粋じゃないか」


 月、という言葉に先辺が反応する。

 そうだ。

 対話による情報収集と時間稼ぎ。これが唯一、今の信也にできることだった。


「貴様、まだ気づいていないようだな。わからないか? 単に殺すだけなら昨日でも十分できたこと。あれは、貴様の存在確率を下げることが目的だったのだ。仮に大嵐だったとしてもさすがに校外での殺しは隠ぺいできないが、校内であれば事件性は減少方向に認識調整されるからな。ガイアの意識から九割以上消えた貴様など、ここで縊り殺したところでせいぜい家出扱いだ。神の予言には毛筋ほどの影響も与えまい」

「じゃあ昨日の襲撃は……」

「言うまでもなかろう。上の連中が手続きがどうのとうるさいから、先に正義の鉄槌を下してやったのだ。神の目が届かぬ雨雲の下を無防備にうろついていた自分の浅慮を悔いるがいい」

「……全てを話すと言ったら解放してくれるのか」

「我が神に帰依すると誓うならな。だが、まずは話してもらおう。奴は、なぜリスクを冒して貴様と接触している」

「さあね。彼女には嫌われちゃって、会ってもらえないんだ」

「見え透いたうそをつくな。貴様に対する奴の接触頻度は既に閾値を超えている。ありもしない二層市民セカンダリーへの昇格でも提示されたか」

「会ったのは、たった三回だぞ」

「ふん、信じられるものか。こちらは、ガーデンに来たときからずっと貴様を監視していたのだ。あの後、校門で何か指示を受けただろう。いったいあの住宅街で何をしようとしていた? 未来技研の目的はなんだ? 言え!」


 先辺の言っていることは、残念ながら信也にはほとんど理解できず、会話はまったくかみ合わなかった。よくはわからないが、何か奇妙な偶然が、信也を久世真希名の仲間的存在だと勘違いさせてしまったらしい。本来であれば、多分先辺が標的にするほどの価値は信也にはないはずだ。


「別にあいつとは偶然会っただけさ。その後、何度かこっちから会いに行ったんだけどよ。結局、わたしに付きまとうなってストーカー認定されただけだぜ。本当にそれだけなんだ。そろそろわかってくれないかな」


 信也の、どこか冷めた口ぶりに、先辺はようやく何か変だと気付いたらしい。


「……本当に何も知らないというのか?」

「ああ、すまんな。期待を裏切って悪いんだが、本当に、何も、知らないんだ」


 先辺の表情が狼狽に変わり、その直後怒りに染まる。

 これまで……か。

 もはやかわすべき会話のかけらも、信也には見つけられなかった。


「どうやら、時間を無駄にしてしまったようだ……」

「わかったら解放してくれよ。そんで、お前らの神の話でも聞かせてくれ」


 怖れを気取られないように、信也はあえての笑顔で語り掛ける。先辺は、しかし手を放すことはなかった。むしろギリギリと強く締め上げる。その顔には再びサディスティックな笑みが浮かんでいた。


「いいや。やはり殺す。そうすれば今回の一件は誰の知るところにもならないのだからな。貴様は単なる失踪者として神の記憶に名を留めるのだ」


 先辺が信也の首に手をかけ、ゆっくりと絞める。


「まてっ……まだ話は、終わって……」


 信也はその手をふりほどこうともがくが、先辺の手は微動だにしない。苦しい。もう、打つ手はないのか。信也の心が徐々に絶望に染まっていく。そして、ついに意識が途切れそうになったその時、信也の待ち人は現れた。


「そこまでよ」


 先辺が振り向く。

 信也は先辺の肩越しに見る。

 そこには、初めて出会ったときと同じように木刀を携え、凛と立つ少女の姿があった。


「久世、真希名……なぜ、ここに!」


 その問いには答えず、彼女は手首に巻いた腕時計を右手の人差し指で示す。


「わたしは定刻通りだけど?」


 先辺ははっとした表情でポケットを探った。そして見慣れないデザインのスマートフォンを取り出し操作する。

 すると、あたりにはメカニカルな合成音声が響きわたった。


「レッドアラート。事象のゆらぎが制限値を超えています。ただちに戦闘を中止し定常モードに復帰してください。繰り返します……」


 先辺は信也をつかんでいた手を放し、信也は地面に倒れこんで咳き込む。


「なぜだ? まだたっぷり時間はあるはずだ」

「彼の存在確率は、あなたたちが思っているほどには揺らいでなかったってわけ。手加減でもしたのかしら」


 先辺は下唇をギリギリと噛み、久世真希名を今にも殴りかかりそうな目でにらみつける。

 だが、それもほんの数秒のことだった。

 先辺の目には徐々に冷静さが戻り、大きく息を吐くと信也と真希名を交互に見る。


「どうやら……貴様ら未来技研を甘く見ていたようだ。我が神が完全な存在となるまでは……」

「で、どうする? このまま奈落の底に眠るカオスをたたき起こしてみる?」

「いや、やめておこう。今回の件は上の許可もないし、これ以上は私の存在確率も危うい。だが次はないぞ」


 先辺は吐き捨てるように言うと、警戒するそぶりもみせずその場を立ち去った。

 後には、信也と彼女の二人が残される。

 彼女は腰に手を当てて、その場に座り込んだ信也をにらむ。


「こんなところで何をしてたの?」


 信也は埃を払い、立ち上がりながらこう言った。


「君をお茶にでも誘おうかなって」

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