オブリビオン

「ね、それどうしたの?」


 次の日。黒板には小難しい数式がずらりと板書されている。信也がそれをミミズのような文字でノートに写していると、隣の咲が小声で話しかけてきた。


「これ? 転んじゃってさ」


 咲の指さした信也の頬には、小さい擦り傷がある。


「え? いったいどんな転び方したのよ?」

「こんな感じ」


 信也は机に頭から突っ伏した。


「もしかして、リーシャと喧嘩?」

「ちげぇよ。単独事故だっての」


 起き上がって否定する。だいたいこれ以上聞かれたって答えられない。

 なぜなら。

 聞かれたところで、信也も良く覚えていないのだ。再び黒板のほうを見ながら、信也は改めて昨日の出来事を思い出していた。

 あの後、確か……




「お兄ちゃん、どうしたの!?」


 気づいた時、信也は家の玄関に立っていて、目の前には妹のさやかがいた。

 いったい、どうやって帰ってきたんだろう?

 信也は回らない頭でぼんやりと考える。

 傘も差さずに雨の中を歩いてきたようで、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れである。もちろんカバンも雨に濡れて傷つき、中身が無事だったのは奇跡といっても良いぐらいの状況だった。


「まあ、いろいろとな。風呂わいてるか?」

「わいてるけど……まったぁ! そのまま家に入らないで。タオル持ってくるから」

「お前は母親かっつーの」


 出張で不在の多い親を持ったせいか、さやかは小学六年生にして家の家事を取り仕切っている。こういう時には、さやかがいつも主導権を握るのだった。

 ほどなくして、ふかふかのバスタオルをもったさやかが戻ってくる。


「はい、タオル。それから、お兄ちゃんの着替えも出しといたよ。お風呂場に置いてあるからね」

「助かるよ」

「今度、奢ってよね。サンセットカフェのビリビリサンデー」

「対価を要求するのかよ! お前、兄に対する敬意とか、そういうものはないのか……」

「そんなものあるわけないでしょ。ほら早く体拭いてってば。玄関びしょびしょになっちゃうじゃない」

「……はいはい、わかりました」


 幸い、さやかは傷には気づいていないようだった。手早く服を脱いで風呂場に飛び込むと、信也はまず体の傷を確かめる。特に痛みもなかったので予想はついていたが、大きな怪我はしていない。

 かなり、強く殴られたと思ったけどな。

 信也は頭の後ろに手をやるが、そこには痛みもなく、たんこぶすら出来ていなかった。強いて言えば地面に倒れた時の頬の擦り傷ぐらいである。シャワーを浴びると、ちくりとした痛みが先ほどの出来事を思い起こさせた。

 そんなことより、誰がこんなことをした?

 信也は湯船につかりながら、そのことを考えた。襲われた原因。気を失う前に考えていたこと。彼女の言葉。

 はっきりしない記憶を手繰り寄せながら、別れ際の久世真希名の言葉に思い至る。

 彼女は、たしか忠告と言っていた。

 忠告だって? いや、むしろあれは警告だ。

 信也にとって悪いことが起こるかもしれないということを、彼女は暗に知っていたのではないか。そもそも彼女の言動は、ただの高校一年生にしては秘密主義すぎると思う。徹底して個性を消しているのも、何か陰謀めいた理由があるのかも知れない。

 信也は、帰り際に感じていた、理由のない高揚感が再び心の奥に灯るのを感じた。ただし、それは無責任な高揚感だけではない。

 緊張感。身の危険。命。

 だが、不思議と怖くはなかった。

 久世真希名。

 きっと彼女は、退屈な日常からきっと信也を救い上げてくれる。

 ただ、単純にそう考え、願う。

 さあ、めくるめく冒険の世界へ!




「信也君!」

「え? 何?」

「授業終わったのに、いつまで妄想に浸ってるのかなぁ。ほら、あっちでリーシャが呼んでるよ?」


 いつの間にか授業は終わっていて、咲はクラスの入り口のほうを指さしている。

 里依紗が来ていた。それは、どうしようもないぐらいありふれた日常だった。


「ようよう、いつもお熱いねぇ」


 大悟の冷やかしを無視して、信也は里依紗のほうに歩く。


「どうした?」

「あの、今日もウチくるんだっけ? さやかちゃんはそのまま泊まるって言ってたけど」

「あ、ああ。そういえば今日はダメなんだ。与一と約束があってさ。な?」


 そういって与一にちらりと目くばせする。この頼れる親友は、こういう時ちゃんと空気を読んでくれる男だ。


「あ、えぇとそうだったね……」

「そっか。でも、与一君ごめんね。いつも無理やり付き合わされているんじゃない?」

「いいんです。でも、船戸さんの手料理なんて魅力的なイベントだったら、僕、遠慮しても」

「な、なにを言うんだね与一君。男同士の友情に優先するものなどない!」


 余計なことをいう与一を肘で小突く。


「もう、魅力的だなんて。そうだ。今度、与一君も食べにくる?」


 不意の一言に、与一は顔を赤くして黙り込む。そこにデリカシーのかけらもない大悟が割り込んだ。


「俺、行く! 行きます! いや、行かせてください!」

「あはは。じゃあ、今度みんなでホームパーティでもしよっか」

「リーシャのおうちでパーティ!? わーい、あたし大賛成! ねぇねぇ、じゃあ、いつにする? 誰を呼ぶ?」


 お祭りごとの大好きな咲が、さっそくその言葉に飛びつき、話は一気にパーティの話題に切り替わった。信也は、盛り上がるみんなをしばらく見ていたが、その話題には入ることもなく席に戻る。

 すると、しばらくして与一がやってきた。


「ねえ、いいの?」

「何が?」

「なんだか誕生日パーティにしようとか……すごく盛り上がってるけど」

「それって誰のだよ……俺十一月、リーシャは十二月。咲は……たしか夏休みだったじゃん。そういえば、お前いつだっけ?」

「僕は来月だけどさ。もうみんなまとめてやろうって」

「なんだそりゃ」

「それより、あの調子だと六道君も勝手に何か役目を決められちゃうよ。いいの?」

「どうせ咲あたりが仕切るんだろ。俺の意見なんて関係ないんだ。いいよ別に」


 信也は窓の外を見た。青く晴れ上がった空には、すじ雲がうっすらと軌跡を描いている。


「で、今日はいったい、何があるのさ?」

「……野暮用さ」

「僕ならともかく、船戸さんに隠し事なんて良くないよ」

「あいつには言いたくない」

「言いたくないって……まさか、他の女の子とデートとか!」

「馬鹿言うなよ。どっちかというと、ちょっと危ないっぽい感じの……変にヤバいこと言って心配させたくないんだ」

「そっか……じゃあ無理には聞かないよ。でも、この貸しは返してもらうからね」

「ああ、何がいい?」

「サンセットカフェのビリビリサンデー」


 与一は明確な対価を要求すると、メガネを右手でくいっと決めた。

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