ムーンライト・セレナーデ

「さて、どうするか」


 信也は学校の入り口に立っていた。もう時間は八時を過ぎている。

 学校の周りには、こんな時間に人が訪れるような店やレストランといったものは一つもなく、もちろんあたりに人影はない。昼間は生徒の声でにぎやかな校門も、こうして夜になってみるとなんだか物悲しくさびれた感じに見える。

 当然のように門は締まっていた。しかしこれぐらいは想定内だ。信也はあたりに人がいないことを確認すると、柵をよじ登って中に入る。もちろん、勝手に立ち入るのは校則違反であり、厳密には不法侵入である。

 とはいえ、背に腹は代えられないからな……。

 高砂の物理と言えば白下岬学園最恐の称号を持つ授業だった。高砂が不人気、というわけではない。彼は見た目こそぱっとしないが、気さくで情に厚い性格のため生徒には慕われている。しかし、理系偏重の白下岬学園の物理を担当している教師でもあるのだ。その授業の難しさは折り紙付きだった。

 まあ、逆にそれがいいってこともあるんだけどよ。

 実際、高砂の物理で落ちこぼれるものは一人もおらず、みな優秀な成績で期末試験を終える。なぜなら、毎回の授業で配られる高砂プリントと呼ばれる課題の点が悪ければ、次回の授業では自動的に居残り補習、さらには鬼の追加課題として名高い高砂プリント・アルティメットが出されるというスパルタ指導がついてくるからである。裏を返せば、それだけ親身に指導をしてくれている、ということでもあり、信也たち生徒が文句を言えた義理ではない。が、だからこそプリントを学校に置き忘れるということは問題だ。

 要は見つからなければいいんだよな。

 信也はあたりを警戒しながら校庭を横切り、まずはいつもの校舎入り口に向かってみた。もちろんガラス戸はきっちりと施錠されている。次に、裏手の通用口のほうに回ってみると、こちらは意外にも開けっぱなしであった。

 用務員さんは見回りにでも行っているのかな?

 裏口にある受付には誰もいない。自分が不法侵入者であることは棚に上げ、学校のセキュリティをちょっぴり心配するが、それは一瞬のことだった。

 一応、靴ぐらいは脱いでおこう。

 誰も見ていないとはいえ、さすがに土足で校内を歩くのは忍びない。都合よく置いてあった、おそらく来客用のスリッパをはいて階段のほうに向かう。あたりを見回すが、特に人がいるような気配はなかった。非常灯だけがあたりを照らす廊下は気持ちを明るくさせる場所ではないが、見慣れているせいか不気味という感じもなかった。スマートフォンのライトで足元を照らしながら階段を上り、自分の教室のドアをガラリと開け、信也は立ち止まった。

 そこには、先客がいた。


「えっと、誰?」


 人影は信也の問いかけにも無言だった。暗くてはっきりしないが片方は男で、もう一人は女だ。どちらも制服を着ている。暗がりでいちゃついているという感じでもない。むしろ、ぴんと張り詰めた緊張感が漂っている。

 何か、面倒な揉め事の真っただ中に首を突っ込んでしまったのかも知れない。

 気まずい。


「あのー、俺、忘れ物取りに来ただけなんで……すぐ出るから」


 信也は聞かれてもいないのに言い訳をはじめるが、あいにく返答はない。

 女のほうが肩をすくめると、それに答えるかのように男が口を開いた。むろん信也にではない。


「これが貴様のやり方とはな。人を介入させるとは正直驚いたぞ」


 女は首を振ると、硬い声でそれに答えた。


「いいえ。わたし……じゃない」


 女は、腕時計が巻かれた自らの左手首を右手で示す。それを受けて、男は窓の外を見た。


「ふむ。確かに月は出ているな」

「これで振り出しね。何もしなければ、何も起きない」

「納得はいかないが……いずれにせよ、今日のところは引き下がることにしよう」


 そういうと男はゆっくりと歩き出した。信也の横を抜けて教室の外へ。

 信也はその男をそっと観察した。背は信也よりもずっと高く、長い前髪を左右に分けている。胸の校章はオレンジ。ということは三年生だろうか。

 すれ違いざまに目が合い、酷薄そうな瞳が信也をにらむ。


「こんな時間に……校則違反だぞ」


 苦々し気にこうつぶやくと、男は暗闇に消えた。

 校則違反だって?

 そんなのお互い様だと思いながら信也は残った人影を見た。その女は暗がりから信也をじっと見つめている。


「なんか、俺、まずいところに来ちゃった?」


 その問いには答えず、女は信也のほうへと歩いてきた。窓から差し込んだ月明かりが女の顔を鮮明に照らしだすが、信也はむしろ、その手に握られた木刀に心当たりがあった。


「久世真希名……」


 それは昨日、信也の日常を一刀両断にした木刀少女だった。自分の名前を呼ばれたことで昨日の出来事を思い出したのか、険しい表情が少し和らぐ。


「あなたは……」

「信也、六道信也だ。もう一回自己紹介したけど。えぇと転校生なんだっけ?」

「……なぜ、そんなことを知っているの?」


 彼女の眉が疑わしそうなカーブを描くのにも気づかず、信也はつづけた。


「ほら、昨日の事故がすごかったからさ、今日学校でその話をしてたんだけど、そん時に君の名前だしたら知ってるやつがいてさ。大悟っての。滝本大悟。俺の親友っつーか悪友っつーか、まあいいやつなんだけど、女の子大好きっていうか。学園中の女子の名前、全部知ってるって豪語しててさ、それで」

「無駄なおしゃべりをしている暇はないの」


 久世真希名は手を振って信也の話を遮る。彼女は、また元の険しい表情に戻っていた。


「ああ、ごめん。でも少しぐらい教えてくれよ。あいつ誰? 何やってたの? こんな夜にこんな場所で」


 そう聞かれると、彼女は一瞬考え込んで、そして小さくため息をつくと信也の問いに答えた。


「あいつは……三年の先辺礼児さきべれいじ。何やっていたのかは知らない。それより、どうやってここに来たの?」

「どうやって? そんなの通用口からだよ。開けっ放しだったぜ。用務員さんはいなかったけれど」


 信也の言葉に、彼女は頭を抱える。


「参った……わたしだったのか。鍵をかけ忘れたのは」

「鍵ってなんだよ。用務員さんじゃあるまいし、通用門の鍵なんてさ」

「用務員」

「は?」

「だから、わたしが、用務員なの!」


 彼女は、何を、言っているんだろう?

 信也は、自分のことを用務員だという目の前の木刀少女を頭からつま先まで見た。一分の隙もない制服姿。木刀をのぞけば、どこからどうみても普通の生徒である。

 久世真希名は投げやりな感じで話を続けた。


「わたしは住み込みで用務員のアルバイトをしているの。今は勤務時間だから、夜の見回りをしてたというだけ。そこにあいつがいたのよ」

「マジかよ! 何それすっげー面白そう! そんなバイトがあったのか、俺もやりてぇ!」

「そんなこと、誰でも出来るわけないでしょう。わたしには事情があるから」

「事情って、何?」

「転校してきたとき家が探せなかったというぐらいの……どうでもいい事情よ。別にそんなのあなたが知る必要ないでしょう?」


 彼女は明らかに作り話とわかる言い訳をすると、信也に詰め寄った。


「ところで、わたしが用務員をやっていること誰にも言わないでね。絶対に悪目立ちしたくないんだから」

「わかったよ、約束する。絶対に言わない」


 信也は、これ以上はないというぐらい真面目な表情を作り、彼女を真正面から見つめる。しかし、彼女が信也に向ける疑わしげな表情には少しも変化は見られなかった。


「どこまで信用していいのか……まあいいわ。話はおしまい。これ持って早く帰って」


 信也が渡されたのは、まさに置き忘れた高砂プリントだった。


「何でこれを?」

「机の上にこんなもの忘れていたら、そりゃ誰だって取りに来るでしょう?」


 久世真希名は頭を振ると仏頂面で言った。

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