みえないものまで

屋根裏

みえないものまで

 

 「綺麗な海とそうじゃない海との境目って、どうなってるのかな」


 「知りたい?」


 「知りたい」


 照りつける太陽と、それに灼かれた砂浜。押しては返す波の青さ。景色は昨日のことのように鮮明に思い描くことができるのに、誰と交わした会話なのかは思い出せずにいる。あれがいつの頃の会話だったのか、そもそも誰かと一緒にいたのかも曖昧なほどにぼやけている。目の前に寄せる波の青が綺麗だったのか、そうでなかったのかも。


 「君は、どう思う?」

 

 「わからないよ」


 「じゃあ、一緒に考えてみよう」

 

 「答えを知ってるんじゃないの?」


 「知るもんか。知ってることなんて楽しくない」


 私は今、電車に揺られている。いつもの通勤電車に比べたら幾分か遅い時間の電車に乗って、遠く懐かしい街を目指して。いつぶりだろうか。こうして故郷へ帰るのが、ひどく久しぶりなことのように思える。少なくとも年末年始とお盆の年二回は帰っているはずなのに。

 故郷は山に囲まれた小さな街で、都市の喧騒からは遠く切り離されていた。今でこそ交通の便が良くなって移動しやすくなったものの、車を持たない子どもの頃は、海を見るには山の頂上にある展望台から見渡すしかなかった。そんな海とは縁遠いこの街で少女時代を過ごしておきながら、この頃脳裏に浮かぶ景色には、必ずと言っていいほど海が映っていた。そしてもちろん、この記憶も。


 「ふうん。わからないけど、考えるって、どうやって?」


 「例えば、広い海の真ん中に大きな壁が走っているとする」


 「うん」


 「その壁を境に綺麗な海とそうじゃない海とが分けられていて、それぞれに名前がつけられている」


 「太平洋とか、オホーツク海とか?」


 「まあ、そんなところ」


 彼氏と同棲しているアパートを出発してから、半日が経とうとしていた。ようやく実家にたどり着いた私は、庭の方から漂う梅干しの香りに目を細めた。毎年この時期になると、母親が祖父母とともに梅干しを漬けていたのを思い出した。本当に忘れていることだらけだな、と思いながら匂いのする方へ目を向けると、ちょうど母が梅干しを乗せたざるを縁側に並べているところだった。声をかけると、珍しいタイミングで帰省した私に一瞬驚きながらも、すぐに笑顔になって迎えてくれた。


 「でもそれだと、沖縄の海はどうするのさ。東シナ海だし、太平洋だよ。どっちが綺麗って定義するのは難しいんじゃない?」


 「うんうん、だからきっと、壁が走っている説は成立しない」


 「ええ、じゃあなんだったのこの話」


 「まあまあ、後々わかるよ」


 例年とは違うタイミングで帰省したのには、理由があった。それは、同棲している彼氏と結婚をする、という報告をするためだった。彼氏は私の家族ともすでに懇意だったし、以前から結婚を意識しているという話は両親ともしていたので、わざわざ連れてくることもないと思い、私一人での報告する運びとなったのだ。彼氏の方は彼氏の方で報告したい人がいると言って私よりも早く家を出て行ったので、どちらにせよ連れてくることはできなかったのだが。


 「じゃあ次。綺麗な海とそうじゃない海の境目は、グラデーションのように緩やかに変化している説」


 「ほとんどの人がそう思ってるんじゃないかなあ」


 「そうだろうね。事実そうなっているんだと思うし。君は?」


 「そうなんだろうけど、ちょっと認めたくない」


 「認めたくない?」


 「うん、なんていうか、夢がない」


 肝心の報告は、返事が分かっているとはいえ妙な緊張感があって、変に時間を食ってしまった。父親も心なしかそわそわしているように見えたし、私も話し始めてはお茶を飲み、話し始めてはお茶を飲みの繰り返しだった。それでも、やはり嬉しさと安心感は隠しきれなかったようで、時折見せる笑顔が温かかった。

 やっとの事で話し終える頃には、すっかり夕食の時間になっていた。久しぶりに家族揃って食卓を囲み、なつかしい母の料理の味に少し泣きそうになりながら、幸せな時間を過ごした。夕食を食べてから今夜は泊まっていくことにしたのだが、両親は元々そのつもりだったようで、部屋は到着した時よりもさらに綺麗に掃除されていた。いつの間に準備していたのだろうか。全く気づかなかったから、母親とはすごいものだと改めて実感する。


 「安心した。僕もそう思う」


 「そう?」


 「知ってることも、分かってることも、やっぱり楽しくないからね」


 「楽しくなくても、やっぱりグラデーション説に落ち着くのかな」


 「いや、そういうわけでもないんじゃないかな」


 私の部屋は四畳半の小さな正方形で、机とベッドが部屋の半分以上を占領している。だから私の生活は専らベッドの上で小説を読んだりパソコンを広げたりと、そんなダラダラとしたものだった。慣れ親しんだ空間の安心感とは驚くべきもので、柔らかな枕に顔を埋めて数分のうちに私は眠りに落ちていた。浅い眠りの中で、私に優しい笑顔で語りかける少年の夢を見た。しかし、それが誰なのかを思い出す前に、母親の声に起こされてしまった。お風呂が沸いたようだ。珍しく一番風呂を譲ってくれるらしい。はぁい、と小さく返事をしてから、大きなあくびをする。


 「違う正解があるの?」


 「正解とは違うかな。僕にとっての正解が、君にとっても正解とは限らない」


 「じゃあ、答え?」


 「答えは知らないから、解答例くらいのもんかなあ」


 「何が違うの」


 「僕もわかんなくなってきた」


 「嘘でしょ」


 中途半端に眠ったせいで、頭が鈍く痛む。重い体を持ち上げ、机に手をついて立ち上がる。ふと机の上に視線を巡らせると、一冊の文庫本が目に入った。昔から小説を読むのが好きだった私は、読んだ本が増えていく様を見るのも同じように好きだった。実家を離れる際、大量にあった文庫本は重くてかさばるにも関わらず、身近にないと落ち着かないという理由でどうにか全てアパートに持っていったはずだ。部屋の本棚は、ほとんど私の文庫本で埋め尽くされている。初めは迷惑そうにしていた彼も、しばらくしてから私の蔵書を読み漁っていたから、今ではある種の共有財産になっている。単行本はさすがに置くスペースの確保に困り、諦めて実家に置いてくることにしたのだが、もともと単行本と文庫本は別々に並べていたはずだったから、混ざって見落としてしまう可能性もほとんどないだろう。だとしたら、母親か誰かが新しく買ってきたのだろうか。だとしてもあえて単行本と単行本の間に並べるような回りくどいことをするだろうか。


 「冗談、冗談。でも、そういうものなんじゃない?」


 「そういうものって?」


 「答えが知りたくなるものは世の中に溢れてる。でも、分かってしまった途端につまらなくなってしまう」


 「こうして考えている途中が一番楽しい?」


 「そういうこと。わからなくなっても、違う答えに行き着いても、そうして考えているのは間違った時間じゃない」


 熱々のお湯に浸かりながら、単行本の間に挟まっていた文庫本について考えていた。あれは、誰が、いつ置いたものなのか。まさか私が?とも考えたが、その可能性については一旦考えないことにした。もしそうだとしたら、そこで終了になってしまうから。こうして考えている時間は、私にとってとても大切な時間だ。内容の明るい暗いに関わらず、有益な時間だと思う。私を、私たらしめる。考えた末に出た答えより、そこに至るまでの経緯の方に意味があって、それが楽しい。いつからこんな考え方をするようになったんだっけ。昔の私は、一度気になったことは確かめないと気が済まない性格だったはずだ。


 「海の境目の話は、このまま宙ぶらりん?」


 「やっぱり答え、知りたい?」


 「知りたい」


 「じゃあ、行こうよ」


 「え?」


 「うん、行こう。一緒に」


 そこまで考えたところで、ある可能性にたどり着く。記憶の中の声は、夢の中のあの少年は、私の知っている人なのではないのか。夢も記憶も、自分が作り出すものだ。いくら他人が介入してこようと、主観による影響は大きい。だとしたら、あの少年は彼だ。あの文庫本も、私に考えることを教えてくれた彼の仕業だろう。そう考え始めると、パズルのように、散らばった答えが一つにまとまっていくのが感じられる。脳裏に浮かぶあの海も、この街から見た景色ではないにしろ、実際に行ったことのある場所のように思える。彼の待つ場所。そしてきっと、彼は今もそこにいる。



 「綺麗な海とそうじゃない海の境目って、どうなってるんだっけ」


 「答えは、出ていないんじゃなかった?」


 「出てないよ、きっとこの先もわからないまま」


 「僕もそう思う」


 「それでもいいんだよね」


 「もちろん」


 どうして忘れていたのだろうか。この海も、この声も、ずっと私に寄り添っていた。それどころか、ほとんど私の一部になっていた。答えを知ることが全てではないと受け入れた時、肩の荷がどっと下りたように気持ちが軽くなった。それと同時に記憶も置いてきてしまったのだろうか。忘れていたことは申し訳ないと思うが、それだけ私に浸透しているということだから、大目に見てほしい。


 「ありがとうね」


 「なにが?」


 「あなたがいるから、私は私でいられる」


 「そんな大げさな。でも、ありがとう」


 「わたしはなにもしてないよ」


 「ついてきてくれるでしょ?」


 「うん」


 「行こう、一緒に。答えが見つかるまで」



 この海も、この声も、私を私たらしめる。



 「そういえば、この本。私の机に置いてあった」


 「あ、それ。僕が書いた本」


 「え?本出してるの?」


 「いや、君とのことを書き留めただけだよ」


 「そういえば、読んでなかった」


 「ああ、読まなくていいから。家に帰ったら本棚に入れといて」


 目の前に押し寄せる波は、眩しすぎるほどに澄んでいた。

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