5.愛はブーメラン
「よーし。二人だけの練習ももう十分って感じだろうな」
気づけば六月。文化祭も間近に迫っていた。風はどことなく湿度を含んで、春はすっかり遠い過去。台本をぺらぺらとめくりながら、悠歩先輩はサイダーのボトルをぐいと呷る。すっかり日の伸びた淡い空を見上げて、先輩は呟く。
「まあでも、なんというか、ついここに来てしまうんだよな」
木々に囲まれたこの空間は、どこか外部と切り離された静けさが漂う。
こちらに向き直った先輩は、ステージの縁に座り込んで、しみじみとした表情を浮かべる。
「なんだか、名残惜しくてなぁ。この場所も、二年間のいろんな思い出が染みついた、思い入れのある場所でさ。だからこそこうして、あえてここで練習しているわけだし」
悠歩先輩、智佳先輩、そして俺と田中真由子。放課後に集う四人。先輩と後輩。ふとした偶然で知り合った、不思議な関係性。知り合ってわずかでも分かる、二人の魅力。一緒にいるとなんだか楽しくて、また会いたいと思わされてしまうような、そんな魅力。
「文化祭が終わったら、引退なんだよ俺たち。信じらんねーなぁ。あっという間だったなぁ」
名残惜しそうに、けれどどこか楽しげに、部活での日々を振り返る悠歩先輩。
「本当にさ、楽しかったんだよ、演劇部で過ごした日々は。それこそ、出会って数週間も経ってないお前らに、まだまだ自慢してやりたいくらいに、思い出がたくさんあって」
この場所で会う度に、聞かせてもらったいろいろ。駆けてきた日々のこと。
そのどれもが、掛け替えなくて、大切な思い出だと、先輩たちは語ってくれた。
「この部活で俺は成長できた。間違いなくそう言える。そんな俺が、二年間一緒にやってきた仲間と作った芝居。最後の舞台はさ、そういう思い出の集大成なんだよ。部員全員で作り上げた、最高の芝居。――に、絶対なる。だからさ」
悠歩先輩は俺たちに顔を向ける。この目を捉えて離さないその瞳は、輝いていて。
「その目に焼きつけに来てよ。最後の、晴れ舞台をさ」
先輩はにやりと微笑んで、最高にクールに、決め台詞。
「あ、それでさ、それでさ、提案なんだけど」
ふわり、空気を入れ替えるように智佳先輩が言う。
「振替休日、四人でデートしない?」
「………………え?」
唐突な提案に、理解が追いつかなかった。デート。……デート?
この二人はどう考えても恋人関係だからいいとして、しかしそうなるとすなわち……?
ゆっくりと左を向くと、隣に座っている絶妙で微妙で神妙な顔つきをした田中真由子と目が合った。……唇がすごいカタチになってるぞ、お前。
「ていうかね、ずっと思ってたんだけど!」
智佳先輩は発言の勢いに任せ、田中真由子にぐいと歩み寄る。
小娘の両肩をがしりと掴み、一呼吸置いて、言った。
「まゆちゃん、ストパかけない?」
その瞬間の田中真由子の何とも言えない表情を、しばらく忘れることはできないと思う。
言われたことが何を意味しているのか、解りかねるような困惑の目。
智佳先輩は堰を切ったようにはつらつと話し始める。
「ストパってより、縮毛矯正だ? うん! で、それからそれから……っ、ねえ、もう我慢できない! 言っちゃっていい? いいよね? まゆちゃん! イメチェンしよう! ね? 私にやらせて! お願いっ!」
ぐいんぐいんと掴んだ肩を揺さぶる智佳先輩。愛嬌があってとっても可愛らしい。それに比べて揺さぶられている小娘は訳分からん珍妙な顔。
ちらりと悠歩先輩を見ると、呆れたような愉快なようなそんな表情で二人を眺めている。
「もうね、もうね本ッ当に! もったいないの! その……ああっ、もう!」
もどかしいように田中真由子の顔をぺたぺたと触りながら、唸る智佳先輩。田中真由子は嫌なのか嬉しいのかなんだかよく分からない不細工な表情でされるがままにしている。
「なんて言うのかなこの小動物系? な感じ? 全然可愛くなるのにもったいないよほんともったいないもったいないうあぁ~~っもう‼」
田中真由子の肩に手を置いたまま、前屈みの姿勢でぴたりと静止した智佳先輩は、顔を上げ、目の前で驚嘆している少女の顔を覗き込む。その両目をしかと捉え、そうして、
「ねぇ、グサッといっちゃっていい?」
その言葉に強張る田中真由子。ふと悠歩先輩と目が合う。これから何が起こるか分かっているという、そういう顔。小さくおどけて首をすくめる。
「まゆちゃん、正直身だしなみに気を使うなんて異性に媚び売る人間がやることだって思ってない?」
智佳先輩は、まさにグサリと、言った。
田中真由子の眉が、ぴくりと大きく動いた。動揺している。分かりやすく動揺している。
「それはねぇ、やっぱり違うんだよね」
智佳先輩は肩から手を離して、田中真由子の縒れた制服を優しく撫でる。
「あ、いやね、なんでこう言ったかっていうと、隣のこいつがかつてそうだったからなんだけどね」
智佳先輩は流し目で悠歩先輩を指す。
「お恥ずかしながら……」
オーバーなアクションで恐縮してみせる悠歩先輩。
智佳先輩は両手の人差し指を田中真由子の頬に突き立てて、ぶにぶにと触りながら、
「いい? 身だしなみっていうのは、媚びだなんだっていうものじゃないの。少なくとも、髪を染めろだとか爪先をいじれだとか、そういう話じゃない。人前に出るっていうのは、そういうことじゃないの」
――圧倒的に正しい〝お説教〟を開始なさった。
田中真由子は若干顔を引き攣らせながら、そんな先輩の言葉を聞く。
「多分だけどね、まゆちゃんの考え方、私には分かるの。だってこの男を三年近く目の前で見てきたからね。いい? そんな方法でどれだけ〝世間〟とか〝普通のやつら〟に抗おうとしても、無駄だよ。そんな反抗心、何の意味も持たないし、成就もしない。『世間に合わせる』ことは負けでもなんでもないの。自分らしさを出す場所っていうのは、そういう反抗の中にはないんだよ」
うう、心が痛い。俺ですら痛い。田中真由子、お前大丈夫か、失神とかしたりしないか。
「単純にね、見た目には説得力が伴うの。これは本当のこと。美人だとかブスだとか、そういう区分の話じゃないよ? 人前に出る最低限もなっていなかったら、単にだらしない人だって受け取られてしまうの。髭を剃ってない、ネクタイの縒れたセールスマンと、かっちりスーツを決め込んだ爽やかなセールスマン、どっちの印象がいい? どっちの話なら聞いてもいいかなと思える? 当たり前の話だよね?」
あまりにストレートすぎるド正論。結構容赦ない。でも、こうやって言ってもらえることは多分、幸いなことなのだと思う。……おい、大丈夫か田中真由子。気絶してないか?
黙り込む田中真由子。ちょっと足元が覚束なそうだけれど、まあ多分言われたまんま、図星なのだろう。単純にそういうところには気が回らない性格の女なのだ。
「まあ縮毛は私がかけてほしいなって思うだけだけど、少なくともちゃんと手入れしてよ! って歯がゆくなる部分があるから! ……ああ、こういうの男子の前で言うべきじゃなかったかも、ごめん! えっと……」
そう言って智佳先輩は田中真由子の手を引いて、我々男子陣から少し離れた場所へ移動し、何やら話し込む。しばらくして、二人は戻ってきた。
「というわけで、偉そうに言っちゃったけど、結局はね、まゆちゃんに可愛くなってほしいって思ってるだけなの。だって絶対可愛くなるから! ほんとのほんとに!」
どうやら智佳先輩は、この小娘のことを気に入ってくれているらしい。どうして知り合ってひと月も経っていない、二つ下の後輩にここまでよく(?)してくれるのか分からないけれど、何か引っかかるところがあったのだろう。やっぱり年上から見たらいろいろと違って見えるのだろうか。
「振替休日ね、一日目は演劇部の送別会があるから、二日目でどうかな? 私のいとこの家が美容室やってるんだけど、私が掛け合えば安くしてくれると思うから、行こ! なんならお金も出すよ、えっと……半分で勘弁してほしいけど……」
「……よし、分かった。じゃあ俺もちょっとだけ出してやる」
悠歩先輩が付け加えた。……マジで? 田中真由子愛され過ぎでは?
「それから買い物に出掛けて、私の部屋でメイクとかも覚えよっか! あ! 読まなくなったファッション誌とかもあげる! トレンド追えだなんて言わないから、こういうものだって知ってもらえれば十分だから、ね!」
黙り込んだままの田中真由子。助けを乞うような目でこっちを見るな。お前の話だぞ、ここまで親切に、お前のことを想って言ってくれているんだぞ。
「……お前の返事次第だぞ」
「…………」
視線を泳がせながら、なかなか声を発しない田中真由子。本当に、こいつは、こういう状況になると普段とはまるで真逆の態度を取る。いつもの大胆不敵、厚顔無恥、傲岸不遜、傍若無人なお前は何処に行った。
ぎゅっと握った両手を擦り合わせながら、もじもじと立ち竦む。ああもう、
「ほら、いい機会だろ。お前のこと想って言ってくれてるんだ。お願いしますって、さ」
「………………お、」
そう一音つっかえて、俺の目を不安げに一目見て、
「お願い、します…………?」
田中真由子は不器用に、十五度くらいで頭を下げた。なんで疑問形なんだよ。
智佳先輩はぱあっと、明るく可憐な喜びの表情を湛えて、
「決まりだね! 振替休日二日目、時間と場所は……改めて連絡する! あ! そういえば連絡先とか知らないよね! 私たち!」
言いながらすかさず、リュックから携帯電話を取り出す。
「まゆちゃん、教えて!」
「うぅ……」
田中真由子は思わず一歩後ずさり、たじろぎながら対応する。
「じゃあ俺はセキヤンの訊いとこっと」
こうしてなんと連絡先まで交換して、文化祭の後にはデ……出掛けることになった。
見目麗しい智佳先輩の笑顔を眺める。不思議な縁だなと、つくづく思う。
悠歩先輩たちと親しくなっていくのと並行するように、学内の雰囲気は少しずつ浮き足立っていった。
文化祭。普段は活動していないような文化部たちが廊下を歩き回ったりする様が目につくようになったかと思えば、次第に様々な機材を運ぶ人たちが増え、発表や出展の宣伝ポスターで校内の様相は目に見えて変わっていった。生徒会が忙しなく駆け回り、演劇部や吹奏楽部の存在感も日に日に強くなっていく。我が一年二組の展示物もどうやら全員分、出来上がったようだ。
文化祭前日は午前放課。男子たちは体育館の椅子並べに駆り出され、時同じくしてそれぞれの教室もその内装を変えてゆく。三橋と森田はそれぞれの部活で出店する飲食店の設営、渡辺は選択音楽の授業で知り合った女の子と一緒に有志のステージ発表に参加するとかなんとかで、リハーサル前の体育館設営に向かった。意外とやり手だな、ナベさん。
「――結局、間に合わなかったな、文化祭」
「……セキヤが何も提案しないから悪い」
「はあはあ、私が考えるからって言い張っていたのは誰だっけ」
「うるさい」
「……帰るか」
「……うん」
賑やかな教室、鮮やかな廊下。きっとこの場に似合わない、モノクロームな二人。
きょろきょろと視線を揺らしながら、どこか退屈そうに、憂鬱そうに、恨めしそうに口を曲げる田中真由子。すれ違う笑顔の生徒たちとの、彩度の違い。
ビューティフルなドリーマーなどいやしないこの世界の文化祭前日は当然繰り返すことなんかなく、田中真由子は自らの望む学園祭になど片足も突っ込むことのできないまま、いよいよ明日は、高校生活初めての文化祭なのであった。
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