第4話 未練 7

 気付けば、コンビニの前には俺と御子柴さんしかいなかった。通りを歩く人もまばらになり、行き交う車の数も減ってきている。謝罪合戦の後、三年前の距離感に戻そうと、仕事のことや私生活の変化をぽつぽつと語り合っていると、辺りは深夜の空気に染まっていた。 

 帰ろうとは言わなかった。俺は御子柴さんと少しでも長くいたいと思っていたし、御子柴さんも同じ意見でいるように思えたからだ。帰省の疲れも眠気も空のかなたへ吹き飛んでいたし、帰宅が何時になろうと、恐れるものはなかった。御子柴さんさえよければ、初めて会った時のように、オールナイトでも全然かまわなかった。

 「また、飲み会できますよね」

 御子柴さんは幾分柔らかくなった表情で言った。

 「水族館にも、また行きたいです」

 俺も、御子柴さんともう一度、飲み会で愚痴り合ったり、水族館ではしゃぎたかった。もちろんだ、何度でも行こうと、言ってあげたかった。

 が、それはできなかった。

 「そのことなんだけど」

 どんな顔をしていいかわからず、微妙な表情になってしまう。俺は、御子柴さんと会ったからには、あの日関連以外でもう一つ言わなければならないことがあった。それはせっかく埋めようとしている溝を押し広げてしまうかもしれず、できれば言いたくなかった。

 御子柴さんが、俺の様子を察して不安げな顔になる。

 「実は俺、まだ本社に戻れないんだ」

 後ろめたさから、視線が御子柴さんから離れる。向かいの交番にピントを合わせ、なるべく御子柴さんを見ないようにする。

 「どういう、ことですか」

 御子柴さんの声が遠くに聞こえる。俺は靴底を地面にすりながら、一気に説明をする。

 「延長になったんだ。本当なら今年で最後のはずだったんだけど、立ち上げから一緒にやってる上司に気に入られて、来年も残れって言われちゃって。断る理由がなかったから、受け入れたんだ」

 延長が決まったのは、今年の六月。上司である田代GMから呼び出しを受け、来年も残る気はないかと提案されたのが事の始まりだった。立ち上げ当初から俺の働きぶりを見てきて、手放すのが惜しいと、田代GMは熱心に語ってくれた。

 素直に嬉しかった。右も左もわからぬ新天地で死に物狂いで頑張った結果、田代GMは影野GMのようなうわべだけじゃなく、本心から俺を必要としてくれていた。

 分社での居心地は悪くなく、新天地での生活にもなじんでいた。どうしても本社に戻りたいという気持ちがなかったのもあって、俺は抗議することもなく、自分の意思で首を縦に振った。田代GMは大層満足げに頷き方を叩いてくれて、部署の皆も続投を喜んでくれた。俺もまんざらではなかった。

 御子柴さんとの関係が続いていれば、或いはもっと早く御子柴さんと再会できていれば、答えは変わっていたかもしれない。でも、その時御子柴さんとは全く接点を持っていなかったことから、心残りはありながらも、完全に縁が切れてると思っていた。続投に異議を唱えるための材料としては、弱すぎた。

 それから約半年。来年が目前に迫っている今となっては、どうやっても延長の取り消しはできない状況だった。

 「……次は、いつまでなんですか」

 「形式上は一年の延長ってことになってるけど、正直わからない。二年三年と伸びる可能性は、大いにある」

 『絶対に三年で戻れる。延長はあっても一年まで』と決められているわけではない。本社と分社の人員入れ替えも、部署の裁量にゆだねるとなっているため、田代GMが拒否し、影野GMが了解すれば、いつまでだって延期を続けることは可能だった。その逆もしかりで、今回の言い出しっぺは分社の田代GMだったが、本社側は本社側で、影野GMが次の分社異動候補の最有力であるお気に入りの林田さんを手放そうとしなければ、入れ替えは難しい。本社と分社で一人づつお気に入りを抱えてしまったからには、よほどのことがない限り入れ替えは起こらないだろうというのが、囲われている俺と林田さんの見解だった。

 双方の合意があって、初めて俺は戻ってこられる。そのため、いつ帰ってこられるか、明確な回答はできなかった。確かなのは、またしばらくの間、御子柴さんと毎週飲みに行くこと、連休ではない休日に水族館に行くことは、できないということだった。

 「でもさ、こうやって仲直り?できたわけだし、俺も、今度からは定期的にメールするからさ。だから、御子柴さんも」

 ズッと鼻をすする音がした。逸らしていた目を向けると、御子柴さんは目からボロボロと涙を流していた。

 「御子柴さん……」

 「わかってます。どうしようもないことだって。でも、三年待ってたんです。もう元には戻らないとわかっていても、九条さんが戻ってきたら、また同じ時間を過ごせると、心の中では願っていたんです」

 御子柴さんが悲痛な叫びをあげる。三年分の感情が、あふれ出しているようだった。

 慰めようとしても、言葉が見つからなかった。御子柴さんは、俺と直接会って会話したいのだ。三年前だって、彼女はメールも良くするけど、必ず週に一回は会おうとしてくれていた。メールだけじゃ、駄目なんだ。

 今度こそ、愛想をつかされてしまうかもしれない。悲しいが、御子柴さんのことを思えば仕方がないと思った。御子柴さんは、会社に振り回されてる俺に翻弄されている。いっそさようならと手を振って去ってしまった方が、御子柴さんは気楽なはずだった。

 「九条さん」

 「ん」

 「ついて行ったらだめですか」

 見限ると思われた御子柴さんは、あの日と全く同じことを言った。

 俺は、絶句する。

 「それは、その、三年前と同じ意味合いで言ってるの」

 「はい」

 涙を拭きながら、頷く。

 「私は、諦めが悪い女です。はっきりと断られるまで、九条さんを諦めきれません」

 罵詈雑言でも別れの言葉でもない。御子柴さんに浴びせられたのは、二度目の、告白だった。

 三年前、御子柴さんの内に秘める想いに気付いていたらどうしていたか。一井と別れてから、ことあるごとに考えていた。過去のことを悔やんでも仕方がないと言諭され、確かにそうだと納得しておきながら、俺は気になって考えずにはいられなかった。

 時に『はい』と答えていたと思った。こんな何の変哲もない男について行きたいとまで言ってくれている女性を、拒否することなんてできない。彼女のことは嫌いではなかったのだから、好きだと言われれば俺だってその気になっていたことだろう。望み通り連れて行って、一緒に暮らしたさ、と強く言い切ることもあった。

 しかし、好きだったかどうかと同じで、済んだことなどあとから何とでも言える。×の付いた答案用紙に、こんなの解き方がわかっていれば必ず正解を選んでいたと吠えているようなものだ。所詮、負け犬の遠吠えであり、情けない自分を隠すために、良い恰好をした自分を投影しているだけのような気がして、俺はいまいち納得できなかった。

 時に、『いいえ』と答えていたとも思った。一緒についてくるとなると、様々な困難が立ちはだかる。俺の人生、御子柴さんの人生、どちらにも多大な影響を与える。覚悟もないのに安易な決断を下して、一緒に暮らし始めた矢先やっぱりだめでしたでは通らない。それに、当時の俺には異動先での立ち上げという重大任務があり、それだけでも手一杯だったのに加えて、御子柴さんとの同棲を考えなければならないとなると、あまり器用でない俺は潰れていた可能性もある。どちらも中途半端になってしまうか、あるいはどちらも投げ出すか。最悪なケースに発展していてもおかしくないと自己分析した。

 しかし、考えすぎな気もしたし、立ち上げ同様、案外何とかなっていた可能性も、捨てきれなかった。

 別の意見として、告白は受けるが、連れては行かない説も考えたが、これについては、ついて行きたいと言ってくれた御子柴さんに対して失礼すぎるだろうという結論に至り、早々に却下された。今回においても、この決断を下すのはまずない。

 空想での考えはそんなところだった。結論は出ていない。結局のところ、俺が最終的にいつも思っていたのは、告白だと理解していた状況に陥ってみないとわからないということだった。

 そして、俺は今、その状況に陥っていた。空想の前提通り、御子柴さんの気持ちも知っている。本人の口から聞いたのだ。

 答えは、出るはずだった。

 御子柴さんのまっすぐとした目を見つめる。彼女はじっと俺からの答えを待つ姿勢をとっていた。涙を流すまいと口元を引き締め、目元をぴくぴくと震わせている。手に持ったペットボトルは、一度も封を開けられることなくおへその辺りで強く握られていた。俺の手にあるものと同様に、すでにぬくもりは感じられなくなっていることだろう。

 必死な様子が伝わってきて、俺はまたも彼女が愛おしいと感じた。本日二回目の衝動であり、俺はこんなにも一人の女性を想ったことは、生涯を通しても一度もなかった。

 もしこれが、林田さんの言っていた、友達を好きだと自覚する瞬間なのだとしたら。御子柴さんが好きだから、彼女が愛おしく感じてしまうのだとしたら。

 御子柴さんが好きだから、申し出を嬉しいと思っているのだとしたら。

 「一つ、再確認。良いよって言った場合、御子柴さんは本気で俺についてくるつもり?」

 「はい」

 即答だった。

 「仕事辞めて、引っ越し準備して、住んでるとこ引き払って、他にもやること一杯だよ?」

 「大丈夫です」

 「俺に愛想が尽きた時、ものすごく苦労するよ」

 「尽かないから平気です」

 御子柴さんは、どんなに諭しても、引く気はないみたいだった。裏を返せば、それだけの覚悟があるのだ。御子柴さんは、大切な友達以上の関係を望んでいる。今ある自分の生活を投げ出してでも、俺について行きたいと願っている。愛想はつかないと、断言してくれている。何より、一度俺に告白をスルーされたことで煮え湯を飲まされ、三年間全くの音信不通だったというのに、変わらず俺のことを好きでいてくれている。

 一途すぎる好意に、俺は陥落寸前になった。胸の鼓動が鳴りやまず、御子柴さんから、目を話すことができない。はい!と答え、小さな身体を思いきり抱き締めたかった。

 しかし、答えを出す前に今一度よく考えなければならない。

 目の前には、二つの分かれ道がある。一方は『はい』と答えた道。隣には御子柴さんがいるが、道は途方もなく険しく、おまけに先が全く見えない。どこまでが道なのか、何が待っているか想像もつかず、足を踏み入れるのは相応の勇気が必要だった。

 もう一方は『いいえ』と答えた道。こちらは長く平坦な道が広がっている。きれいに舗装されていて、ご丁寧に目的地までの距離が要所要所に看板で記されていた。代わりに、スタート地点には俺以外誰もいない。先には誰かがいるかもしれないが、今はその姿は確認できない。

 俺は、二つの道の瀬戸際に立っている。どちらかを選んだら、選ばなかった道には引き返すことはできない。一時の感情で道を決めてしまえば、いずれ後悔することになる。

 もし、御子柴さんとの道を選ぶのなら、何が起こっても俺が御子柴さんを守り、養っていくくらいの覚悟を決めなければならない。それがないなら、御子柴さんの為にも、潔く決別の道を歩むべきだ。

 まさしく究極の選択。なんだか異動を告げられた時みたいだった。行くか、行かないか。その間で、俺は揺れていた。揺れた末、俺が選んだのは茨道だった。先の見えない、真っ暗な道。苦労だけが目に見えている道。林田さんたちの前では気丈に振舞っていたけど、内心不安で仕方がなかった。

 しかし、茨道でも得るものはたくさんあった。仕事における様々な知識。上司や部下の信頼。一人暮らしの苦労や、一人暮らしでしか味わえない楽しみ。それらは異動になっていたからこそ味わうことができた貴重な経験だった。

 真っ暗だったのは、初体験で溢れていたからだったのだと気づかされた。

 俺は、考える。

 もしも御子柴さんと進む道も、同じだとしたら。

 もし俺が、再び茨道を突き進み、新たな経験を望むとするなら。

 今度は一人でなく、二人で感じ取っていくことができたら。

 御子柴さんと、一緒に。

 俺は、思う。

 それは。

 それは、とても素晴らしいことだと。

 そう思った瞬間、誰にも恋愛感情を芽生えさせなかった俺の脳が、目の前の女性に反応する。

 運命の人はこの人だ、と。

 そうなったが最後、覚悟を決めることなど簡単だった。

 決断を下す。

 御子柴さんは、大きく目を見開き、大粒の涙を流した。

 俺は、大きく息を吸って、再び茨道への一歩を踏み出した。

 傍らの想い人と並んで。

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