第5話 深夜の縁 1

 「ゼロ災で行こう。ヨシ」

 真っ白な壁に向かって、俺は高らかに声を上げる。

 誰もいない部屋の一室。後ろから追ってくる声がないとやっぱり締まらないな、と思い、声色を変えて「ゼロ災で行こう!ヨシ!」と言ってみる。

 「……あほらし」

 鼻で笑う。我ながら馬鹿なことをやっている。

 「すみませーん……」

 一人コントをやっていると、開け放たれた玄関から、金髪のイケメン君が段ボールを抱えて気まずそうに声を掛けてきた。

 「ああ、すいません。なんですか?」

 「荷物どこに置いていきますか」

 「あーそうだなあ……ひとまず全部リビングにお願いします」

 「わかりました」

 何事もなかったかのようにさわやかに応対すると、イケメン君も察してくれ、何も追求せずリビングに上がり、両手に抱えた段ボール箱を置いて出ていってくれた。できた人だ。入れ替わりに現れた大柄な男性にも場所を再度伝え、リビングには次々と段ボールが運び込まれていった。

 段ボールの数は大小合わせて八箱しかなく、ものの数分で運び入れは終わった。「少なくて助かりましたよー。重い物もないし」とあっけらかんに言うイケメン君が大柄な男性に殴られるのを見届けると、もろもろの書類に名前を書いて、スポーツドリンクを手渡した。

 あざーした!と頭を下げて、引っ越し業者の二人は次の現場へと向かって行った。

 さて、受け取り終了。この段ボールの山はどうしよう。腕組みして眺めていると、ポケットに入れていた携帯が震えた。

 確認すると、メールのようだった。差出人は、綾乃。文面は『そろそろ荷物届いたと思うけど、中身は絶対見ないように!』とのことだった。

 「タイミングがいいことで」

 そのまま返してもつまらないので、『一足遅かったね。もう全部開けた』と打って送信すると、五分も立たないうちに怒りマークで埋め尽くされたメールが返ってきた。『冗談だよ。了解』と返信して、携帯をポケットにしまう。見るなと言われたからには、段ボールは綾乃が来るまでそのままにしておいた方がよさそうだ。

 綾乃は昨日元住居で引っ越しの立ち合いをして、今は両親の家に行っている。実家が現在俺が住んでいる県の手前の県にあることから、荷物の受け取りを俺が引き受け、挨拶がてら一泊してからこちらに向かうことになっていた。一時間後の十時半の新幹線に乗ると言っていたから、今頃はまだ実家にいるだろう。

 五階にある我が家の窓から外を眺める。気持ちのいい天気だった。雲一つない晴天の下、緑色に生い茂った木々が風に揺れていて、どこかからヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてくる。マンションの向かいにある公園では、近くにある幼稚園の園児と思しき集団が、奇声を上げながら元気に走り回っている。行きかう車の量は少なく、歩道の脇でおばさん集団が雑談をしていた。

 「平和だねえ」

 日光を全身に浴びて、爺臭いことを呟く。前住んでいたアパートからは殺風景な田園地帯しか見えなかったので、物件選びには眺めも重要視した。眼前に広がる光景は、まさに俺の理想だった。その上、駅まで歩いても十五分とかからないし、近くにはスーパー、デパート完備。マンション自体も築年数が浅く、設備も申し分ない。完璧な環境である。その分費用は少々高めだけど、快適さを考えれば十分お買い得だった。俺が越してきて一か月も立たないが、永住するのもありだと思っている。

 いいところが見つかってよかったと、この物件に決めてから三十回は思ったであろうことを改めて思いながらほくそ笑む。新たな生活を始めるのには申し分ないか環境だろう。

 それにしても、受け渡しが終わってしまうと、綾乃を駅に迎えに行くまでやることはなく、暇だった。退屈しのぎに怒られるのを承知で段ボールの中をさばくってみるのも面白いかも、なんて考えが浮かぶ。荷造りの手伝いを志願をしても、一切手伝わせてくれなかったから、何が詰まっているかが純粋に気になる。わざわざメールで開けるなと念押ししてくるぐらいだから、見られたらまずい物でも入ってるんじゃなかろうか。

 興味をそそられ、視線の先にある段ボールのガムテープを、いかにしてばれないように剥がせるかを真剣に考えていると、また携帯が震えた。

 綾乃か?まだ段ボールは空けてないよ。

 今度は電話だった。表示されている名前は、林田さん。

 「もしもし」

 『もしもし?お疲れー』

 間延びした声が鼓膜を震わす。遠くの方で、フォークリフトの走行音が聞こえた。

 「お疲れ様です。あれ?今週夜勤でしたっけ?」

 『そうだよー。ついさっき仕事終わった。めっちゃ眠い』

 林田さんが、ふわーっとあくびをする。

 「そうでしたか。夜勤明けに、何か御用ですか?」

 『今日が記念すべき同棲の第一日目だからさあ。お祝いだけ言っておこうと思って。おめでとう』

 「はあ、ありがとうございます」

 新婚生活ではあるまいし、祝われるようなことでもないような気がするが、礼を言っておく。

 『いやー、異動先に連れてって同棲するって言って来たときは、目ん玉飛び出るかと思ったけど、順調に今日が迎えられたみたいでほっとしてるよ』

 「その節はどうもお騒がせしました」

 林田さんには、綾乃と再会した日の翌日に、付き合ったことと同居することを報告していた。話題に出していた昨日の今日での出来事に驚きつつも、盛大に祝福してくれた林田さんは、報告をした日に俺と綾乃を自宅に招いて、パーティーまでしてくれた。

 それからは、心配してか面白がってか、ちょくちょく進捗状況を聞いてくるようになっていた。

 『どう?心境は』

 「なんというか、ようやくここまでこぎつけたなって感じですかね」

 ここ数か月のことを思い出しながら答える。

 ついて行っていいかと言われ、はいと答えたものの、即日から同棲ができるわけもなく、しばらくはお互いに山積みの課題をこなしていく日々が続いた。

 まずは、両親への報告。何を置いてもこれだけは先にやっておかなければならなかった。 

 俺の両親は半放任だったこともあって、わりと簡単に話は通った。「彼女と一緒に暮らそうと思ってる」「あら、そうなの」「そりゃあよかった」ほとんどこんな感じで終わった。反対されることは絶対にないと思っていた俺は、まあ、だろうね程度の反応だったけど、綾乃はあまりの淡泊さに拍子抜けしていた。

 息子なんてこんなものだよと、俺は綾乃に言った。

 しかし、娘を持つ親の方はわからない。

 綾乃は、私の親も心配することないと言っていたが、どこの馬の骨とも知れない男との突然の同棲宣言に、さぞご立腹なさることは想像に難なくなかった。数日通うことを念頭に、社長に給料の値上げを直談判しに行くのと同等の覚悟で俺は会いに行った。

 結果は、今度は俺が拍子抜けする番だった。

 温かく迎え入れられ、娘を頼むと、逆に俺が頭を下げられた。

 なんでも、娘もいい歳になるというのに一向に浮いた話を持ってこないので、行き遅れるのではと心配していたらしい。そんな中俺の申し出はまさに好都合だったようで、幸せにしてくれるのならどこへなりと連れて行ってくれとまで言われた。

 綾乃は、両親に憤慨しながらも、俺には「ね?」と笑いかけてくれた。

 娘も、そんなものらしい。

 一番の難関があっけなく終わってしまい釈然としないながらも、許しを得たことで、同棲への駒は無事に進めることができた。

 俺は、以前住んでいた1Kのアパートでは二人暮らしは到底できないと、新たな居住地を探した。休日に不動産屋へ出向き、提示された物件を入念に吟味しながら、優良物件を捜し歩いた。今住んでいる場所に決めてからは契約を進めて、綾乃がいつ来てもいいように一足先に引っ越しを済ませ、生活基盤を整えた。

 綾乃は、退職、引っ越しの準備、アパートの引き払い、各種手続きに追われた。

 退職届を提出し、引継ぎ期間を終え、無事退職することができたのが二月の下旬。それからアパートを引き払うための準備に取り掛かり、並行して引っ越しの荷造りと役所への提出書類の作成。一度引っ越しの経験があっただけにスムーズに進んだところもあれば、初めてなこともあって、俺が電話でサポートをしたこともあった。とはいえ俺も知らないことの方が多くて、結局林田さんや、本社、分社の両部署の経験豊かな方々に助力を申し出たのだけど。

 そんなこんなで多方面に手を借りながら、バタバタと時は流れて、桜が見ごろを迎える今日この頃、綾乃の引っ越しが完了する日に至ったわけである。

 「林田さんにも、いろいろお世話になりました」

 『いいって。俺別に大したことしてないし。それより、嫁さんは?』

 林田さんは綾乃のことを嫁さんと呼ぶ。いつかはそうなるんだから早いうちに慣れておいた方がいいとの計らいだそうだけど、こればっかりは余計なお世話である。

 「綾乃は実家に行ってます」

 『え?もう実家に逃げられたの?』

 「違いますよ。こっち来る前に顔見せに寄ってるだけです」

 『なんだ。つまらん』

 本当につまらなそうに言う。

 「引っ越し初日に逃げられるわけないじゃないですか。冗談だとしても、祝うために掛けた電話で言うことじゃないですよね、それ」

 ガラス窓に背を預けながら呆れる。林田さんはごめんごめんと謝る。

 『まあでも、これでひと段落ってところだね。嫁の引っ越しさえ済んじゃえば、だいぶ落ち着くでしょ』

 「そうですね。一通り終わったら、のんびり旅行にでも行こうかって話してます」

 『おー!いいじゃん。お土産よろしく』

 「郵送めんどいっす」

 『冷たいなー』

 携帯の奥で林田さんが笑い、つられて俺も笑う。いつになってもこういうやり取りができるっていいなと思った。

 『そうそう。あと、忠告。女との共同生活って大変だよー。あんまりエロいことしすぎるとそのうちマジ切れされることもあるから、ほどほどにすること』

 「妙に説得力のある言葉ですね……しませんよそんなに」

 『ホントに―?女っ気がなかった奴に限って、彼女ができたら暴走するからなあ。心配だよ、俺』

 つい今しがた段ボールの中を物色しようと考えていたのを見られていたみたいに的確な忠告が、ただただ怖かった。下心があって覗こうとしたわけでは……。

 『じゃあ、俺これから家帰って寝るから。嫁さんによろしく』

 「はい。わざわざありがとうございます」

 『こっち来るときは、連絡してよ。自宅が良ければまた用意するし、外が良ければ飲み屋予約しとくからさ』

 「はい」

 『嫁の愚痴の場合は、外限定になるけど』

 「余計なお世話ですよ」

 『はは、じゃ、お疲れ』

 「お疲れ様です」

 通話を終了する。本当にお祝い目的だけだったみたいで笑える。面倒見のいい人なのは相変わらずだ。旅行に行くようなら、やはりお土産は必須だ。お礼もかねて、度肝を抜くようなものにしよう。

 時計を見ると、ちょうど十時になるところだった。だいぶ早いけど、やることもないし出掛けようと思い立つ。

携帯と財布と車のキーだけ持って、俺は家を出た。




 駅の近くにあるコインパーキングに車を止めて、駅構内に入った俺は、売店でお茶とおにぎりを買って、改札口から一番近いベンチに腰掛け、遅めの朝食を取った。

 平日の緩やかな人の流れを眺めながら取る朝食は、安息をもたらしてくれる。スーツ姿の人が行きかうと、若干の罪悪感を感じるが、それは有休特有の、仕事をしてない自分に対する不安から来るものだ。これだけは拭い去るどころか、年々増大傾向にある。我ながら社畜根性が板についてきているなと思った。

 食事を済ませ、携帯で普段あまり見ないニュースを見ながら時間を潰す。すると、またも着信が入った。

 今度は、一井だった。

 「もしもし」

 『あ、九条さん!大変です!大量の誤発注をしてしまいました!』

 ひどく慌てた様子の一井が電話に出る。

 「はあ!?」

 声を荒げて、携帯を耳に強く押し当てる。

 「状況は?先方に連絡はしたのか?」

 『なーんちゃって。嘘ですよー』

 やーいひっかかった、と一井の馬鹿にする声に、助言するべく浮かべた対処法がガラガラと崩れた。携帯を握る手に力が入り、携帯がミシリと音を立てる。

 「切るぞ」

 『やですよ。ちょっとしたジョークじゃないですか』

 「笑えないんだけど」

 『それは九条さんが真面目すぎるからです。これくらいのジョークわからないんじゃ、社畜まっしぐらですよ』

 もうとっくに社畜だよ。言ってて悲しくなるけど。

 「ジョーク言うためだけに電話してきたのか?お前業務中じゃないのかよ」

 『今は休憩時間ですよ。さすがのあたしも業務中に電話なんかしませんよ』

 腕時計を見る。ああ、ほんとだ。ちょうど十分休憩の時間帯だった。こりゃ失敬。

 「で、用件は?」

 『はあ。まあ、なんていうか。一応部署を代表して、お祝いを言っておこうかと思いましてね。おめでとうございます』

 お祝い、ってまさか林田さんと同じで引っ越しのか。案外律儀な奴。

 「それはありがとう。ってか、一年ぽっちのペーペーがどの面下げて代表名乗ってんだよ」

 おまけに部署も厳密には違う。

 「えー、じゃあ振られた女としてってことで』

 一井の言葉に、ぐ、と唇をかむ。形勢逆転されてしまった。

 「……悪かったよ」

 『いいえー。あたしは別に何とも思っていませんよー。きっちり謝罪もいただきましたしー』

 わざとらしく語尾を伸ばして喋る。

 一井には、実家から戻ってきてすぐに連絡を取り、乙女心への返答を返した。地元へ行っても綾乃とは会わないだろうみたいなことを言っておきながら会い、恋人にまでなってしまった俺のことを怒るかと思ったが、一井は、薄々そうなるんじゃないかと疑っていたらしく、責めることもなく諦めてくれた。が、見返りにと一日買い物に付き合わされ、慰謝料だと言って大量のブランド物を俺に買わせ、その鬱憤を晴らした。

 十分すぎるほどの謝罪はしたはずだった。一井も納得していると思っていた。現に年明けからの勤務ではいつも通りの一井だったわけだし。

 「まだなんか根に持ってるのか」

 『ベっつにー。ま、せいぜいカピバラ女との同棲生活をエンジョイしてくださいよ。あたしは変わらず実家暮らしですけど』

 カピバラ女て。妖怪じゃあるまいし。

 口を尖らせる一井の顔が目に浮かぶ。お祝いの言葉というより皮肉を言いに来たのかもしれない。めんどくさいことになったな、と頭を掻く。

 「一井には感謝してるよ。お前に言われなきゃ俺は今でも綾乃の気持ちには気づけてなかった。改めて礼を言うよ」

 『あたしにとっては、あの日助言なんかしなければ、九条さんと付き合えてたかもしれないわけだから、悔やむべきとこですけどね』

 「それはまあ、縁がなかったということで一つ」

 『なんですかその言い方』

 「いや、だって」

 事実縁がなかったとしか言いようがなかった。綾乃と再会するよりももっと早く一井から告白されていれば、どうなっていたかわからないのだから。

 『いいですよーだ。九条さんよりもっといい男捕まえて、見せびらかしてやる』

 一井が声を大にして喚く。そうしなさい、俺よりいい奴はこの世にごまんといる、と俺が言うと、一井はころりと態度を変えて、笑い出した。

 『冗談ですよ、冗談。九条さんはほんとにからかいがいがありますね』

 がくりと頭を垂れる。身体から力が抜け、背もたれに体重を預けると、そのままずり落ちてしまいそうになった。

 「お前さあ」

 『いやー。このネタはしばらく楽しめそうです』

 ことあるごとに蒸し返され、そのたびに高い物をねだられるのではと戦慄する。俺には綾乃がいるから、たとえ脅されても一井に物を買い与えることだけは避けなければならない。

 『まあ、残念ではありますけど、三年想い続けた相手じゃもともと負け戦でしたし、根に持ってないんで、安心してください』

 からかうでもなく、不機嫌でもなく、穏やかな声で一井は言った。

 「そう願うよ」

 心から。

 『疑り深いですね。……っと、やば。宅配が』

 電話口で、一井が椅子から立ち上がったのがわかる。資材の納品に業者が来たのだろう。

 「休憩も終わるだろ。祝いの言葉はありがたくもらったから、もう戻りな」

 『ああ、はい。じゃああの、本当におめでとうございます。御子柴さん、でしたっけ?その人にもよろしく伝えてください』

 「はいよ。ありがとう」

 『では、また職場で』

 「おう、お疲れ」

 電話を切る。途端に、ホームの喧騒が戻ってきた。

 翻弄されっぱなしだったが、振られた男にわざわざお祝いの電話をしてくるあたり、一井なりに気を遣ってくれたのかもしれないな。

 一井にも春が訪れますように。俺は心の中で願っておいた。

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