第4話 未練 6

 携帯を耳にあてると、コール音が始まった。使われていないだとか、着信拒否設定になってるだとかのアナウンスが聞こえなくて、まずは一安心する。

 一回、二回、三回とコール音が続くたびに、心臓がバクバクと跳ねた。三年もあっていない相手に電話するのは、やはり緊張する。ドラマや漫画にある、元カレが元カノにとか、その逆だったりとかが電話する気持ちって、こんな感じなのだろうか。メールを送って様子見してからのほうがよかったのではと思うが、もう遅い。

 四回、五回。息を大きく吸って、止めた。コール音が途切れるのを聞き逃さないように耳を澄ませた。

 六回、七回。一生このままなのではないかと不安になってくる。留守番電話アナウンスが流れたら、言葉を残すかどうかを考え始める。

 八回、九回。予想はしていたが、やっぱりだめかもしれないと諦めが生まれる。

 十回。止めていた息を鼻から噴き出す。出ないと悟り、携帯を耳から離そうとする。


 その時、ぶつっと音がしてコール音が途切れた。


 諦めムードだった俺は、しつこく鳴らしすぎて切られたかと思いながら、画面を見た。通話終了と出ているはずの画面には、通話中の文字。そしてその下に表示されていた通話経過時間のカウンターは、秒数を刻んでいた。

 通話中?

 って、繋がってるじゃん!

 「もっ!もしもし!」

 慌てて耳に携帯を押し付ける。ボリュームボタンを押して、音量を最大まで上げる。通話相手の息遣いと、車が数台走り抜ける音が携帯のスピーカーから漏れ聞こえてきた。どうやら外にいるらしい。

 出てくれた。俺は歓喜しそうになる。でも、まだ手放しで喜ぶ段階ではない。反応によっては、安堵と興奮が絶望に変わる可能性がある。

 「もしもし、御子柴さん?久しぶり。あー……俺のこと覚えてる?九条だけど」

 しどろもどろになりながら、呼びかける。

 しばらくの沈黙の後、声が届く。

 『はい。覚えて、ます』

 緊張か、或いは警戒しているのか、その声震えていた。しかし、間違いなく御子柴さんのものだった。俺のことを覚えていると言ってくれたこともあって、心の中で小さくガッツポーズを決める。

 「突然ごめん。今、こっちに帰って来ててさ。その、なんていうか……ふと御子柴さんのこと思い出して、懐かしくなっちゃって。それで電話したんだ」

 『……』

 返事はなかった。息遣いのみが、鼓膜を震わせる。沈黙は、一番心臓に悪い。キモッとか思われていたらどうしようと、ネガティブな思考に陥ってしまう。

 「迷惑、だったかな」

 上昇傾向にあった感情が急速に下降線を描き、つられて声のトーンも暗くなる。いきなり電話は、やはり勇み足だったかもしれない。電話越しで渋い顔をしている御子柴さんの顔が頭に浮かぶ。迷惑だと言われれば、すぐに切り上げよう。俺はそう思いつつ、御子柴さんからの応答を待った。

 『迷惑では、ないです』

 声を絞り出すように区切りながら、御子柴さんは言った。俺は携帯を顔から離し、ほっと息をはく。下降線は、平行線に持ち直した。最悪な事態は免れたようだった。

 「良かった。えっと……元気だった?」

 『はい……。九条さんは』

 「俺も、まあ元気」

 『良かったです』

 「うん」

 たったそれだけ交わして、会話が止まる。思えば、謝罪意外何話すかまともに考えていなかった。ただでさえ言葉を交わすのは久しぶりなのだから、あらかじめ二つ三つ会話のストックを溜めてから電話するんだった。頭をがりがり掻き、続く言葉を探す。

 「仕事はどう?うまくやってる?」

 『はい』

 「そっか。新しい友達はできた?」

 『……いいえ』

 やばい。地雷踏んだ。

 「まあ、社会人になってからの友達って、作りにくいよね」

 『はい』

 「年末休みはもう入った?」

 『明日からです』

 「そうなんだ。お疲れ様」

 『ありがとうございます』

 「えっと……」

 早々にネタ切れを起こし、再度言葉を詰まらせる。思春期の子供との接し方がわからない親のような気分だった。もっと話すべきことはあるはずなのに、話題がうまく見つからない。

 『あの』

 焦れたのか、御子柴さんの方から口を開く。

 「ん?何?」

 聞き返すと、またしばらく沈黙が続いた。躊躇しているのか、聞こえてくる息遣いが時々不可思議なリズムを刻む。言い辛いことだろうか。待っている間俺は、用件はそれだけかとか、もう掛けてくんなとか言われるのではと、またもネガティブ思考に捕らわれ、気が気でなかった。

 目を瞑り、辛辣な言葉が降りかかってくるのを耐える準備をしていると、やがて御子柴さんは、囁くような声量で言った。

 『直接、会って話せませんか』

 「直接?今から?」

 予想外過ぎて、声がひっくり返りそうになる。

 『……はい』

 「そりゃあ、全然かまわないよ」

 元々会えたらいいなとは思っていた。会えるのならそれに越したことはない。対面するまでに心も落ち着かせられるし、一石二鳥だ。

 時間に関しては、今更何も言うつもりはなかった。御子柴さんとは何度も夜中に会ってきている。

 『では、今から向かいます』

 「あ、場所は」

 『大丈夫です』

 俺が説明しようとするのを遮って、御子柴さんは電話を切ってしまった。

 どういうことだと、通話終了を知らせる画面に疑問を投げかける。すると、ほぼ同時に、コツコツとヒールが地面を鳴らす音が近づいてくるのが聞こえてきた。

 反射的に、視線を音のする方へ向ける。

 「あっ!」

 目を、見開く。声と一緒に心臓が口から飛び出そうなほど、俺は驚いた。まだ電話が切れてから十秒も経っていないのに、そこにいたのは紛れもなく、つい今しがたまで電話をしていた相手だった。

 驚きで固まる俺の前に、スーツ姿の御子柴さんは、伏し目がちで立つ。

 「お久しぶりです」

 そう言って、御子柴さんはぺこりと頭を下げた。ふわりと、柑橘系の懐かしい香りがした。

 「ああ、どうも、お久しぶりです」と、まるで、年明けにする親戚への挨拶のように言って、こちらも頭を下げる。

 「じゃなくて。え?いたの!?」

 「はい。電話が掛かってくる、少し前から」

 だから大丈夫ってことか。御子柴さんはすでに知っていたわけだ。俺がどこにいるかを。電話口から聞こえてきた車の音は、すぐ目の前の道路からのものだったんだ。

 近くに住んでいるのは知っていたけど、ちょうど通りかかるとはなんたる偶然。しかも直前に電話していたなんて。開いた口が塞がらない。

 「隣、いいですか?」

 「ど、どうぞどうぞ]

我に返った俺は、すかさず左隣に手をかざす。

 「あ!ちょっと待ってて!」

 キャリーバッグをそのままにコンビニの中へ駆け、温かい飲み物を購入して戻る。

 「どっちでも好きな方を」

 御子柴さんに、両手に一本ずつ持ったペットボトルを差し出す。それを見て、御子柴さんは、クスリと小さく笑った。

 「三年前と同じですね」

 差し出したのは紅茶とココア。確かにあの日と同じだった。意識して買ったつもりはなかった。一井の時もそうだったのを考えると、俺の中で温かい飲み物を他人に選ばせる時の二択は、この二つで固定化されているようだ。

 「ありがとうございます。じゃあ、私が選ぶのも同じものにします」

 御子柴さんがココアの握られた手を指さす。

 「別に過去に倣わなくてもいいよ」

 「ココア、好きですから」

 「そう?」

 ならいいけど。言われた通りココアを手渡す。もしかしたら気を遣わせたかもしれない。まあ、笑ってくれただけマシだと思うことにする。

 残された紅茶のペットボトルを、カイロ代わりに手の上で転がす。さっきまで飲んでいたココアがまだ腹に居座っていて、こいつは当分飲めそうもなかった。御子柴さんはどうだろうか。横目で確認すると、御子柴さんも口をつけようとはせず、両手で大事そうにペットボトルを握っていた。改めて見ると、艶やかな黒の長髪はあの時のままで、幼さの残る顔立ちも変化した様子はない。服装がスーツなのも相まって、今のシチュエーションは、異動を告げたあの日を彷彿とさせた。告げなくてはいけないことを抱えているところからして、状況も似ている。

 明らかに違うのは、顔を合わせるまでに日が立ちすぎていること。あの日は確か一か月ぐらいで、且つその間メールはしていた。今回は丸々三年、連絡すら交わしていない。お互いの間には、目に見えない溝が広がっていた。本題を話すにしても、まずは世間話でもしながら、生じた溝を狭めていく必要があった。

 相変わらず気の利いた話題は浮かばないけどな。なにせ電話ですら詰まってたのに、考える時間を与えられずいきなりの御対面だもんな。

 「今、仕事帰り?」

 とりあえず、御子柴さんの服装から連想した無難な話題で、会話のキャッチボールを試みる。

 「えっと、は……い」

 御子柴さんが歯切れ悪く返す。

 「業務は夕方には終わっていたんですけど、仕事の延長というか、部署のリーダーとつい先ほどまで飲み会をしてました」

 「あ、そうなんだ」

 「本当は断りたかったんですけど、立場上、断るに断れなくて仕方なく」

 「大変だね。残業だ」

 「そんな気分でした」

 御子柴さんも苦労が多そうだ。

 「そのリーダーは、もしかして男?」

 なんとなく気になって、聞いてみる。

 「はい。でも、ただの会社の先輩ですよ。正直、ちょっと苦手です」

 それを聞いて、ほっとしている自分がいた。誰と飲みに行こうが、相手が男だろうが、御子柴さんの勝手なのに、何を安堵しているんだか。

 「九条さんは、見たところ今日戻ってらしたようですけど」

 御子柴さんがキャリーバッグに目を向ける。

 「うん。七時くらいにこっちに着いて、そっから俺もついさっきまで、飲み会してた。御子柴さんとよく飲みに行ってた魚蔵でね。相手はほら、一度飲み屋でばったり会って、御子柴さんとも話したことがある、林田さんって人」

 「覚えてます。あの気さくな方。というか、九条さんも魚蔵だったんですね」

 「まさか御子柴さんも?」

 「おすすめを聞かれまして。私はあそこしか知らなかったので」

 ってことは、飲み屋で鉢合わせになっていた可能性もあったわけだ。偶然って続くもんだなあとしみじみ思う。もしお互いに連れがいる状態で再開してたらどうなっていただろう。林田さんあたり、結構責任感じていたっぽいから、仲を取り持とうと必死に動いていたかもしれないな。

 「あそこってことは、またチーズ揚げばっかり頼んでたんじゃないの」

 本調子ではないからかい口調を使い、溝の修復を図ろうと試みる。

 「頼みたかったんですけど、そんな遠慮したのじゃなくて、もっと肉とか魚頼めって言われて、今日は食べられませんでした」

 「それは……ご愁傷様」

 溝の修復どころか地雷を踏みぬける。チーズ揚げが遠慮した注文かどうかはさておき、平気で三皿四皿頼んでいた彼女を知っているだけに、食べられなかったことがどれだけ悲しいかがわかる。かわいそうに。今からでも飲みなおしに連れて行きたくなる。魚蔵が十二時閉店なのが悔やまれた。

 ちゃっかり俺がチーズ揚げを食べていたことは、言わないでおく。 

 「まあでも、職場のリーダーと飲みに行ってるってことは、仕事はうまくやれてるみたいだね」

 「リーダーに変に気に入られてるだけですよ。それ以外は昔と変わらないです。

 今日だって先輩には小言は言われるし、仕事は押し付けられましたし。その先輩は、定時前にそそくさと帰っちゃうし」

 御子柴さんは愚痴っぽく語る。三年経っても、先輩方と良好な関係が築けていないのは、相変わらずなようだ。気の毒だが、同時に懐かしいなと思う。前もこんな感じで、御子柴さんの仕事での愚痴を、飲み屋やメールで聞いていた。なんだかあの頃に戻ったかのようだった。

 電話を掛けた辺りから張り詰めていた緊張が、緩む。御子柴さんは三年経っても、俺の知ってる御子柴さんのままだった。

 「変わらないね。御子柴さんも。安心した」

 御子柴さんを見ながら、俺は笑顔を浮かべる。

 「九条さんも、変わらないですね」

 御子柴さんは、対照的に表情に影を落としていた。

 「私のこと、気持ち悪いと思っていないんですか」

 「気持ち悪い?なんで?」

 意味が分からず聞き返す。

 「だって、九条さんが異動になるって私に教えてくれた日。私、言ったじゃないですか。……ついて行きたいって」

 ごくりと唾を飲む。それはまさしく、俺が謝ろうとしていたことの一つだった。しかし、それと俺が御子柴さんを気持ち悪いと思うことが繋がらず、戸惑う。

 御子柴さんは、今にも泣き出しそうな顔だった。ペットボトルをぎゅっと胸元で抱きしめている。

 「いきなりただの友達にそんなこと言われたら、普通気味悪がりますよね。私、人に言われるまで気づきませんでした。九条さんも、不快な思いしましたよね」

 すいませんでした、と御子柴さんが謝る。なぜだ。謝らなければならないのは、俺のはずだ。

 「ちょっと待って。俺不快だなんてこれっぽっちも思ってないよ。気持ち悪いなんて、御子柴さんに対して一度も思ったことない。謝られても困るよ」

 「気を遣ってくれなくてもいいんです」

 「本心だよ。だいたい、気持ち悪いと思ってる相手に、電話なんかするわけないじゃん」

 力いっぱい抗議すると、御子柴さんがすがるような目で俺を見る。

 「じゃあ、メンヘラだとは」

 「メンヘラ?御子柴さんのこと?」

 御子柴さんが頷く。

 「どこにメンヘラ要素があるのさ。微塵も思ってないよ」

 俺は大げさに首を振って見せた。

 「そりゃあ当時は不思議に思ったよ。なんでそんなこと言うんだろうって。だけどそれだけだよ。気持ち悪いとか、メンヘラとか、言葉すら浮かびもしなかった」

 「本当、ですか?」

 「だから、嘘だったらそもそも電話してないって。御子柴さんはメンヘラだと思ってる人に、わざわざ電話しようと思う?」

 「……思いません」

 「そういうこと。仕事ならともかく、良く思っていない相手と好き好んで連絡を取るほど、俺は人間ができていないよ」

 「でも、宮下さんは普通気味悪がるだろうって。私も、何とも思ってない男性から一緒について行っていいかって言われたら、あんまりいい気はしないなって思いますし」

 まだ納得できないようで、御子柴さんは食い下がる。宮下さんがどこの誰なのかはわからないが、どうやら、御子柴さんはその宮下さんに感化されて、俺が御子柴さんのことをキモい、メンヘラと思っていると信じているらしい。

 わからないでもない。俺だって、友達でも良い印象を持っていなければ、気味悪がっていたかもしれない。メンヘラを疑うこともあったかもしれない。御子柴さんが放ったセリフは、そう思ってもおかしくないほどに際どくはあった。

 でも信頼がおける相手なら話は別だろう。そこに負の感情は生まれない。生まれるのは疑問だけだ。

 「俺は御子柴さんを大切な友達だと認識していたから、邪推しなかったんだよ」

 不安を抱かせないように、堂々とした態度で言い切る。御子柴さんは潤んだ目で俺を見上げてきた。

 「友達、ですか」

 「大切な、ね」

 「それは、今もですか」

 おずおずと、御子柴さんが尋ねてくる。

 「今も昔もそうだよ」

 友達だった、とはもう思わない。三年経った今だって、御子柴さんと俺は友達だ。お互いが会いたいと思って、こうして会っているのだから、疑いようがない。

 御子柴さんは、唇をわななかせ、目から涙を一粒流した。頬を伝ったしずくは、顎の先で一瞬止まり、ぽたりと地面に落ちる。

 俺は突発的に、抱きしめたいという衝動にかられる。伸びそうになる手を、何とか自生するが、やばい。なぜか御子柴さんが誰よりも愛おしく感じてしまう。

 突然芽生えた感情を振り払うように、俺は早口で言った。

 「っていうか!あの日のことに関しては、俺の方が謝んなくちゃいけないわけで!」

 そう。御子柴さんに先を越されたが、俺だって言わなきゃならないことがある。深呼吸をして何とか落ち着きを取り戻し、俺は御子柴さんの目を見返す。

「違ってたらごめん。ついて行きたいって言葉には、もしかして別の意味があったのかな」

 御子柴さんの肩が跳ねる。その反応で、俺は半分確信する。こめかみの辺りを掻き、言いにくさを感じながら、続ける。

 「たとえば、告白……とか」

 御子柴さんは頬を朱に染めて俯く。どうやら当たりなようだった。一井の言っていたことは、間違っていなかったらしい。

 「わかっていたんですか」

 御子柴さんが俯いたまま呟く。

 「申し訳ないことに、気付いた、というか、気付かされたのはつい先日。会社の人に指摘されてね。それまではいくら考えてもわからなかった。乙女心がわかってないって、呆れられたよ」

 「私が、回りくどい言い方をしたのが悪かったんです」

 「小中学生でもわかる表現だったら、俺でも理解できたかもしれない」

 「すみません」

 御子柴さんが律儀に謝る。俺としてはボケたつもりで、できればツッコんで欲しかったのだけど、まだそんな雰囲気ではないか。ごほんと咳払い。

 「冗談はさておき、ごめん。気付いてあげられなくて」

 「いえ、さっきも言ったように、私の言い方が悪かったんです。ストレートに伝えればよかったのに、勇気がなかったから」

 ストレートって、告白をか。あの状況でそれをやられても、俺は戸惑っただろう。異動と告白のダブルパンチで脳みそが処理落ちしてそうだ。

 「差し支えなければ教えて欲しいんだけど、どうして俺を?特別好かれるようなことした覚えがないんだけど」

 御子柴さんは顔を一層赤く染めて、ぽつりぽつりと語る。

 「見ず知らずの私に、邪険にされても見捨てず、朝まで付き合ってくれましたし、私に会うためにと、わざわざ別の日の同じ時間に出向いてくれました。その優しさに、惹かれたのだと思います」

 友達になった時点で、御子柴さんにはすでに特別な感情が芽生えていたらしい。

 御子柴さんが続ける。

 「友達になってからも、飲み会に水族館、メールも全部楽しかった。愚痴を言った時は、間違いはきちんと指摘してくれるし、共感してほしいところはちゃんと共感してくれる。嬉しかったんです。私を見てくれているんだなあって」

 「それは、どうも」

 恥ずかしさがこみあげてくる。気になったから聞いたけど、自己評価なんて面と向かって聞くもんじゃない。目を逸らし、意味もなく空を見上げる。雲は依然空を覆ったままだった。

 「ずっと、こんな日が続けばいいなって、思っていたんです。そして、いつか一歩踏み込んだ関係になれたらって」

 そんな時、俺が異動の話を告げに来たってことか。御子柴さんにとっても、衝撃の宣告だったんだ。

 「ごめん。断ることもできたんだ。だけど、いろいろと思惑が重なって、断れなかった」

 「わかってます。転勤や異動が、安易に断れるものではないことは、私もわかってました。わかってたんですけど、納得ができなかったんです。本音を言うなら、行って欲しくなかった。もっと一緒にいたかった。それで、抑えが効かなくなって、あんなことを」

 ついて行っていいですか。そこには御子柴さんなりの優しさがあったんだ。本当は行って欲しくないけど、そういうわけにもいかない。だったら、自分が一緒に行くことで、俺との時間を継続させようとしたのだろう。

 「一つ聞きたいんだけど」

 「はい」

 「俺がもし、いいよって言ってたら、御子柴さんは本気でついてきてた?会社も、生活も捨てて」

 御子柴さんは、考えるように押し黙ってから、

 「自分でもとっさに出た言葉ですけど、きっと」

 ついて行ったと思います。御子柴さんは小さいながらもはっきりとした口調で言った。

 その場で、頭を抱えたくなる。そこまでの決意を踏みにじったのか。俺は。

 「正直な話、幻滅したよね。不思議そうに馬鹿面さらしてた俺のこと」

 「そんな」

 「遠慮とか一切なしでお願い」

 「……ほんの少しだけ」

  うん。わかってた。俺だって事実を知った第三者としてそばにいたら、絶対イラついていたと思う。

 「メールしてこなくなったのも、それが原因だよね」

 「初めは。でも、ほとんど八つ当たりです。自分のことを棚に上げて、一方的に九条さんを責めていましたから。落ち着いて、自分の過ちに気付いてからは、日が空きすぎてなんて送ればいいかわからなくなってしまいました」

 「で、俺はそんなことなどつゆ知らず、仕事を理由にメールせずに、ひたすら送られてくるのを待っていた、と」

 背景が見えてくると、当時の俺がどれだけ愚かだったかが身に染みてくる。とんでもないクソ野郎だ。

 「何度目かわからないけど、ほんとにごめん。気付いてあげられなかったこと、メールを怠ったこと含めて、謝る」

 誠意を込めて、頭を下げる。

 「いえ、私こそ。九条さんを惑わしてしまい、振られたわけでもないのに、その気になって九条さんを責めて、メールをしませんでした。すみません」

 御子柴さんも俺に倣って頭を下げる。深夜のコンビニで頭を下げ合う二人。再開してから、お互い謝ってばかりだった。俺が至らぬところがあったと感じているように、御子柴さんも、自分に非があると感じているのだろう。

 全面的に悪いのは俺だと思ってる。だけど、謝れたことで、俺の胸に抱えた罪悪感が少しでも取り払われたように、御子柴さんの中にある悪いと思う気持ちが薄らいでくれればと、俺は思った。

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