第4話 未練  5

 「今度こっちに来るときは、嫁さんにも会わせたいし自宅で飲もうぜ。招待するからそのつもりで」

 会話は尽きずすっかり長居してしまい、店員からいつまでいるんだという視線が痛くなってきたころで店を出たあと、林田さんはそう言って、駅構内へ姿を消していった。林田さんを見送ってから、居酒屋でもらったハッカ飴をポケットに突っ込んで、俺は駅とは反対方向に歩き出す。少し食い過ぎたか。腹が重い。

 腕時計を見ると、十一時を回っていた。店に入ったのが七時ぐらいだったから、四時間も飲んでいたことになる。繁盛期に長時間居座られれば、店員が迷惑がるのも無理はない。口で言われなかっただけ良心的な店だ。今後も贔屓にしたい店なので、次回出禁になっていないことを祈る。

 帰り道には、俺と同じく飲み会帰りと思われる集団が、二次会がどうだとか言いながら居酒屋の前でたむろしているのが見受けられた。年末はねじの外れた奴も多い。絡まれないように視線を正面から少し下げて、懐かしの家へと続く道を進む。

帰省初日から深夜帰宅になってしまったが、両親は明日まで仕事で、今日は会社近くのホテルに泊まると事前にメールをもらっていた。最後の追い上げがあって、明日は早いらしい。なので、何時に帰ろうが家に文句を言う人はいない。気楽なものだ。

 しかし、せっかくの帰省だというのに誰もいない家に帰るのは、さみしくもある。畳みかけるように、夜が俺の気分を暗くして、キャリーバッグのガラガラと鳴る音が、余計にさみしさを増幅させるように響き、肌を刺すような寒さが、孤独を増幅させる。一人はとっくに慣れたはずなのに、この空虚さはなんなんだ。林田さんとさっきまで盛り上がっていた反動か?

 沈む気分と重い足取りで歩いていくと、懐かしい店が目に飛び込んできた。他の店がどれだけ閉店時間をむかえ閉まっていこうとも、二十四時間いつまでも煌々とした明かりを灯し続けるその店の名は、コンビニ。俺が学生時代から何かとお世話になったあのコンビニだ。駅前から近く利用者も多いから、まず潰れることはないとわかっていても、毎年訪れては変わらず営業していることに安心感を募らせていた俺は、今年もその姿を拝めたことで、どこかほっとした気分になった。影を落としていた俺の心が、ほんの少し浄化されていく。

 ほっとしついでに、せっかくだから寄って行くことにした。軽く暖でも取りつつ、売り上げに貢献していこう。

 吸い寄せられるように店内に入る。居酒屋から出てまだそんなに経っていないのに、すっかり冷えてしまった身体を暖房が優しく包む。極楽だ。あまりの心地よさに、今日はもうここに泊まりたいと、馬鹿なことを思う。

 キャリーバッグが邪魔にならないように気を付けながら、できるだけコンビニにとどまろうと企んで、ゆっくりと棚の間を巡回していく。異動先でよく使う最寄りのコンビニとは違う系列のコンビニなので、独自の商品などは目新しい物が多く、見ていて飽きない。昔頻繁に買っていた、ここの系列にしかないパンを見つけると、歓声を上げそうになりながら思わず手に取った。若干小さくなった気がするのは記憶違いか、それとも時代なのか。『リニューアルしました』と銘打ってあるのはもしや、味ではなくサイズのことを言っているのか?

 細かいことはよしとして、朝食用にそのパンを購入することに決めた。それとパック牛乳、帰り道用で温かいココアのペットボトルも手に取って、レジに持っていった。できれば明日の昼飯も買いたかったけど、キャリーバッグとセカンドバッグのせいでかごが持てないので、手に持てる量も限られている。手間だが、今は必要最低限のものだけ買っておいて、昼飯はまた明日買いにくることにした。

 レジはメガネの中年男性が打ってくれた。初めて見る人だった。こちらにいたときによくレジを打ってくれた女性、確か上末さんは、今日はいないのだろうか。去年の盆に来たときは、深夜帯でまだいたと思うんだけど。時間がずれたのかな。

 会計を済ませて商品の入った袋をつかみ、嫌々暖房に別れを告げて外に出た。途端に寒さが身を襲う。雪でも降るんじゃないかと空を見上げると、案の定分厚い雲がかかっていた。

 はあっと息をはく。白くなった息が空に向かって流れていった。冬だなあと至極当たり前のことを呟く。

 さて、いい加減家に帰ろうとは思うのだけど、どうも気が進まない。寒いし、着いて早々林田さんと飲みに行って、一刻も早く寝たいくらいに疲れているはずなのに、足が散歩途中に家に帰りたくないと駄々をこねる飼い犬のように、家へ向かうのを拒んでいた。

 ひとまず出入り口から移動して、邪魔にならないごみ箱の横に立つ。無意識に場所を選んだが、そこはかつて、御子柴さんが座っていた場所だった。スーツ姿で丸まった姿は今でも鮮明に覚えている。そういえば、御子柴さんがここにいた理由は、落ち込んでいるときに暗い家に帰るのが嫌だから、だった。コンビニは明かりがついていて、人もいるから安心できるとも言っていた。

 なんとなく、今の俺にはわかる気がした。アンニュイな気分が、完全な一人になることを拒んでいる。目の届く範囲に誰かがいて、明かりのついた場所にいたいと、俺は望んでいた。

 キャリーバッグから手を離し、コンビニの袋からココアだけを出して、残りをバッグにしまった。ペットボトルのキャップを外し、温かい液体を口内に流し込む。

 熱が体内を伝わる感覚に、身体がしびれる。はあーっと大量の白い息をはく。

 とりあえず、ココアを飲みきるまでは、ここにいようと思った。早くて五分、遅くとも十五分くらい。飲み終えたら、さっさと家に帰って、風呂に入って、寝る。

 そう心に決めて、束の間の安息に身をゆだねることにした。

 



 

 「大丈夫ですか?一人で帰れます?」

 「大丈夫、大丈夫。ごめんねえ、ちょっと飲みすぎちゃった」

 ろれつの回らない口調で、宮下さんはふにゃりと笑う。真っ赤な顔と焦点の定まらない目は、見るからに大丈夫ではなく、完全に泥酔状態であることを物語っていた。大してお酒に強くないのに、飲み納めだとか言ってがぶがぶ飲むからこうなるのだ。私は呆れすぎて、顔が引きつりっぱなしだった。

 ちなみに私は、お酒が進む気分ではなかったから、最初のビールとカクテル二杯しか飲んでいない。もともとお酒には強いのもあって、ほとんど素面だった。やけを起こして私まで酔いつぶれていたら、今頃どうなっていたか。想像したくない。

 「じゃあ、運転手さん。すみませんが、あとよろしくお願いします」

 後部座席のドアの外から、運転席のおじさんに声を掛けると、おじさんは嫌な顔一つせず「あいよ」と笑いかけてくれた。さすが、夜中に駅前で客待ちをしているだけあって、酔っぱらいを乗せるのも慣れているらしい。気風の良さにありがたいやら申し訳ないやらで、私はもう一度、お願いしますと言って、頭を下げた。

 「それでは宮下さん、お疲れ様でした。よいお年を」

 「あ、うん。御子柴さんもよいお年を。ああ、そうだ。年始、年始だけど……」

 話の途中、私は問答無用でバタンとドアを閉めた。私にとってろくなことじゃない。どうせ年始に新年会がてら、また飲もうとか言うつもりだったのだろう。冗談じゃない。こんな時間まで長々と付き合わせ、散々奢ると息巻いていたのに、酔いすぎて勘定ができないからと、代わりに私に全額払わせ、挙句には電車で帰れそうにないから家に泊めてと言ってくるような人と、できれば二度と飲みに行きたくない。

 さすがに家に泊めるのだけは絶対に嫌だったから、宮下さんをうまく言いくるめてタクシー乗り場まで引きずって行き、タクシーを捕まえて放り込んだけど、年明けには忘れずお金を請求しなければ。全額とは言わないから、せめて半分。奢る気でいた本人が馬鹿みたいに頼むから、私にとっては目玉が飛び出るくらいの金額になっていて、財布の中が文字通りすっからかんになってしまった。年末の大掃除と、食材の買いだめ用に下ろしておいたお金なのに、また下ろしに行かなきゃいけない。

 まったくもう。手数料もいただきたいくらいだ。

 「はーあ。ついてないついてない」

私は雲のかかった空に向かって愚痴り、肩を落としてとぼとぼ歩き出した。




 コンビニの前でぼーっと空を眺めながら、明日からのことを考える。

 年内はこれと言って特に予定はない。三十一日に家の掃除を手伝わされるくらいだ。年が明けてからは、二日に親族の集まりで、同じ市内にある母方の実家に出向き、新年の挨拶。夜には宴会に参加することになっている。親戚の中には子供がいるところもあったはずだから、忘れずにお年玉を用意しておかなければならない。子供全部で何人いたっけ?あとで親に聞いておく必要があるな。

 そして、翌日三日の夕方には、帰りの新幹線に乗車と。帰省ラッシュが今から心配だ。行き同様、運良く席が確保できるといいが。

 向こうに帰ってからは、どうするかな。休みは五日までだから、二日暇がある。そういや一井がどこか連れてけと言っていたし、一日ぐらい付き合うのもいいかもしれない。わざわざ人の多いアミューズメント施設でなくとも、あいつなら街中のショッピングモールにでも連れて行って、甘やかしすぎない程度に物を買い与えてやれば満足するだろうし、一人でいるよりは俺も退屈しない。

 早速、予定を聞いてみようか。

 いや、まてよ、会うってことは、答えを出さなきゃいけないのか。

 ペットボトルを指でベコベコへこましたり戻したりしながら、眉を寄せる。一井のことは嫌いじゃない。むしろ好きな部類だ。無駄に明るく、人懐っこい性格は、鬱陶しいと思うことも多々あるけど、それ以上に一緒にいて楽しい。仕事をしても、プライベートで会っても、まず飽きない。仮に付き合ったとして、普通にうまくいくんじゃなかろうかとは思う。

 だけど、俺の中で一井は可愛い後輩であり、手のかかる教え子であり、良く言っても妹止まりだった。恋愛対象としては考えづらい。即決断を迫られるのなら、答えはいいえとしか返せないだろう。

 急がなくてもいいのなら、一度脳内にある一井に対する考えを取っ払って接していった上で、答えを出すのもありだと思う。一井とは、御子柴さんと違って時間がある。職場だって一緒だ。長く時間を共有することで、林田さんが言っていた、好きだと自覚するふとした拍子が訪れることがあれば、一井のことを異性として好きになる未来もあるのかもしれない。

 そう、御子柴さんと違って。

 ポケットから携帯を取り出し、待ち受けを見る。もし一井との関係を変えるのであれば、この待ち受けも変えるべきだろう。いくらいい写真だからとはいえ、自分とは別の女性を待ち受けにしているなんて、一井だっていい気はしないはずだ。

 いっそ、もう変えてしまうのもありだ。こうも目につきやすいところにあると、気持ちの切り替えにも支障が出てしまう。名残惜しいが、自分自身の未練と決別し、前に進むためにも、この待ち受けは早いうちに変更するべきなのかもしれない。

 俺は、設定メニューを開いた。壁紙設定からホーム画面設定へと進み、画像が一括管理されているフォルダを選択。選びはしたが、普段携帯で写真は撮らないし、画像をダウンロードもしないから、フォルダに何が入っているかは把握していない。まあ、カピバラ以外となれば特にこだわりもないし、プリインストールの画像からでも適当に選んで、設定してしまえばいいか。

 携帯内に保存されている画像が、数秒おいて羅列された。縦に三列で並び、画面の下まで続いている。思った以上に、画像データが残っていた。




 「あ、そうだ。シャンプー」

 ぴんと脳裏に浮かんだ言葉がそのまま声に出る。うわ、恥ずかしい。目だけを動かし、突然声を上げた私を変な目で見る人はいないかを確認する。周りには私と同じスーツ姿で、飲み会終わりと思しき人たちがいたけど、誰も、私のことを見てはいなかった。大丈夫そう。私は、すまし顔で前へ向き直った。

 声はともかく、思い出してよかった。昨日の夜から気にかけていたのだ。危うく家に直帰して、買いに戻るかシャンプーなしになっていたところだった。宮下さんに捕まって、すっかり忘れてしまっていたけど、最後の最後で神様は私を見捨てなかったみたい。

 ありがとう神様。哀れな独身メンヘラ女に救いをくれて。私は心の中で手を組み、感謝する。

 でも、いつも買ってる薬局はもう閉まってるのよね。

 コンビニにあっただろうか。品ぞろえが豊富なところでないと売っていないような珍しい物ではなく、ごくごく一般的なメーカーのだから、あってもおかしくはないとは思うけど。最悪なければ、別のメーカーで我慢するしかないかな。

 それ依然に、財布の中身は大丈夫だっけ。私の記憶が正しければ、さっき飲み屋さんで、あった分のお札は全部支払いに回したような。ATM……は当然時間外。シャンプーがあってもそれを買うお金がなければ、今日はリンスのみになってしまう。

 はたと立ち止まり、通行の邪魔にならないよう脇による。肩に掛けたバックから愛用の財布を取り出し、小銭入れのファスナーをドキドキしながら開く。ホッ。よかった。財布の底には、一円玉と十円玉に囲まれながらも、圧倒的存在感を放つ大玉の小銭が一枚だけ、残っていてくれた。これもまた、今日一日ついてないことだらけな私への慈悲なのだろうか。

 財布をしまい、再び歩き出す。あとは、コンビニにいつものシャンプーが売っていることを祈るのみだ。



 

 画像を一つ一つ全画面表示にさせては、懐かしさによる笑いと、こんなに撮ったっけと戸惑いによる苦笑いで口角が上がる。人通りのある場で一人でにやけているのは気持ち悪がられると自分に言い聞かせても、親指がスライドし、新しい画像が表示されると、意志に反して顔の筋肉が動いてしまい、抑えが効かなかった。

 フォルダに残されていたのは八十枚以上の画像データ。それらはプリインストールの画像を除けば全て、三年前に御子柴さんと行った水族館で撮ったものだった。カピバラのインパクトが強すぎて、他の写真は撮った日にしかじっくりと見たことがなく、枚数すら把握していなかったけど、改めて自分でも驚く量だ。しかも、水族館だと言うのに、どれもこれも御子柴さんを中心として撮っている。水生生物が脇役で、御子柴さんが主役だった。

 正確な枚数は覚えていなくても、撮った経緯は覚えていた。確か、水槽の中を撮るより、水槽を見ている御子柴さんのはしゃぐ姿の方が面白かったんだ。だから俺は、水槽を撮っているふりをして、ばれないように御子柴さんをベースにシャッターを切っていた。

 見方によっては盗撮写真に見えなくもない。一井に見られたのが待ち受けだけでよかった。フォルダを漁られてたら、何言われてたか分かったもんじゃない。

 それにしても、よくもまあたった一日の水族館で、御子柴さんをこんなに撮ったものだ。高校の友達と修学旅行や卒業旅行で遠出した時なんて、一枚も撮らなかったのに。生涯で見ても、これほど携帯のカメラを活用したことはない。俺の目には、楽しそうにしている彼女がよほど絵になって見えていたのだろう。写真を見ても、そのことが伝わってくる。

 画像は進み、終盤に差し掛かると、カピバラ画像が現れる。この写真とは三年以上の付き合いだ。本人以上に長い月日を共にした。時に活力と笑いを与えてくれ、時に罪悪感を与え、時に癒しを与えてくれた。異動になってからも、それは健在だった。

 今までありがとう。名残惜しいが、待ち受けからは退いても、君はフォルダの中で永遠に生き続ける。長い間の感謝も込めて、親指をスライドさせる。

 次に表示された写真は、初めて俺も写っていた。見た瞬間、「ああ、そうそうあったなこんなこと」と喉まで声が出かかった。

 写真を撮ってあげたお礼にと、おばさん集団に撮ってもらったやつだ。俺はあっけにとられた表情を浮かべていて、御子柴さんは笑顔で、飛びついた姿勢で俺の首に腕を回している。カピバラ画像を撮られた腹いせに、御子柴さんがなんの前触れもなく抱きついてきたんだ。

 確か知らずに連射モードになっていて、何枚か続いていたんだよな。画面をスライドすると、数枚の写真がパラパラ漫画のように移り変わり、だんだん俺の身体が御子柴さん側に傾いていく。あまりにも予想外だったことが、俺のまったく変化していない間抜け面でわかる。御子柴さんの企みは、大成功だったわけだ。

 思えば、御子柴さんはこの時点で、俺に好意を向けてくれていたのかもしれない。同性同士でふざけてやることはあっても、異性の友達に対して仕返しと言えど抱きつくなんて行為、そうはやらない。当時の俺はしてやられたという気持ちと恥ずかしさのあまり、不信に思わなかったけど、一井や、林田さんの見解を聞いた後だと、御子柴さんの行動はただの友達としてはおかしい。

 御子柴さん、自分でやって、自分で恥ずかしがってたもんな。顔真っ赤にして。

 「ふっ」

 その時のことを思い出して、笑みがこぼれる。もう周りのことなどお構いなしだった。

 写真は、御子柴さんの不意打ちが最後だった。画面には、プリインストールのどこかの風景画像が表示されている。本来の目的は、待ち受けの変更だ。この画像を設定してしまえば、目的は達成されるはずだった。

 しかし俺は、待ち受け設定をしないまま、一つ前の画像に戻った。再び、御子柴さんと俺のツーショット写真が表示される。俺はそれを凝視し、唸った。

 唐突に開けた思い出の扉の影響で、俺はなんだか無性に御子柴さんに会いたくなってしまった。声だけでもいい。三年前、ほんのひと時を共にした彼女を、写真ではなく生で感じたくなった。

 だめもとで電話してみようか。遅い時間だけど、十二時を過ぎてもメールが来ることはあったし、異動を伝えるために呼び出した時も同じような時間だった。夜は遅くまで起きていそうだ。この時期なら会社も年末休みに入っているだろうし、猶更起きている可能性は高い。

 設定画面を閉じ、ホーム画面に戻る。

 たとえ起きていたとしても、御子柴さんが出るとは限らない。何せ三年前友達だった相手だ。電話帳から削除されてしまっていてもおかしくない。出たとしても、とっくに縁が切れた相手から電話が来て、気味悪そうに応対してくることも考えられる。でも、それならそれで、いろいろ諦めがつく。俺たちの関係は今、不透明な状態だ。喧嘩別れしたわけではないし、これで終わりと線引きしたわけでもない。自然消滅と言ってしまえばそれまでだが、ポジティブな捉え方をすれば、連絡を取っていないだけとも言えた。自身の未練と決別するためにも、まず彼女との関係を明確にすることは、大切なことのように思う。

 出なかった、或いは邪険にされたら、ショックだろうとそこで御子柴さんのことは終わったのだと結論付けられる。待ち受けも変えるきっかけにもなる。万が一、三年前と変わらない彼女だったなら、その時は俺も変わらず接し、三年前のことを詫びて、彼女が望むならまた一から関係を始めるのもいい。案外、あの日のことを引きずってるのは俺だけってことも考えられる。『久しぶりー。元気?』と携帯から聞こえてくるかもしれないし。

 まあ、十中八九出ないと思うけど。高望みはしない。元から結果は見えているようなものだ。望んだ分だけあとが辛くなる。電話に出てくれて、少しでも話ができるだけでも御の字だ。

 電話を掛ける大義名分と予防線を張ったところで、俺は背中が熱を持つのを感じながら、意を決して携帯の電話帳を開いた。




 コンビニを目前にむかえた私は、目を疑った。私は夢を見ているのだろうか。宮下さんと飲んでいるうちに眠ってしまったのだろうか。

 寄ろうと思っていたコンビニの、ごみ箱の横。昔、よく私が会社で嫌なことがあった時に座っていた場所に、誰かが立っていた。それ自体はなんの問題でもない。私がよく座っていた場所だからといって、憤慨しているわけではない。

 問題は、立っている人物だ。私の目がおかしくなっていなければ、あれは。

 九条さん。

 左手の甲を強めにつねってみた。痛い。夢じゃない。だとすれば、これは現実。人違いの可能性は?いや、私が九条さんを見間違うはずがない。実際に目にするのは三年ぶりとはいえ、画像では毎日見ているのだ。

 戻ってきていたんだ。

 忘れようとしていた矢先の再開。私は、息をするのも忘れて、その場に硬直してしまった。本当ならすぐにでも駆け寄って声を掛けるべきなのだろうけど、頭の中で、飲み屋さんでの宮下さんの言葉がぐるぐると回っていた。

 気持ち悪い。メンヘラ。

 九条さんが同じ感想を抱いていた場合、ここで私が出て行ったら、余計に気味悪がられるかもしれない。九条さんの脇に置かれているキャリーバッグを見るに、今日戻ってきたのだと推察できる。そんな日に私と会ったら、たとえ偶然であっても、まるで戻ってくることをわかっていたみたいに思われても不思議じゃない。

 私を見て、ひきつった顔をする九条さんの顔を想像する。駄目だ。そんなの目の当りにしたら、耐えられない。

 それに私は以前、頻繁に送っていたメールを一方的に絶っている。理由はどうあれ九条さんを一度遠ざけたのだ。自分から連絡を絶っておいて、今更気安く話すなんて都合がよすぎやしないか。

 会うべきではないと、私自身が警鐘を鳴らしている。幸いというべきか、九条さんは私に気が付いていない。携帯に目を落として、何やら笑みを浮かべている。急いで通り過ぎることも、遠回りに帰ることも可能だった。コンビニには寄れなくなるけど、もうそんなことはどうでもよかった。

 どの道、彼のことは忘れようとしていた。余計なまねをして、傷を広げることもない。今日彼を見たことも一緒に、忘れてしまえばいい。あれは他人の空似。もしくは私が生み出した幻だ。九条さんは戻ってきてなどいない。

 そう思い込もうとする私の横を、一人の男性が通り過ぎる。歩道に一人突っ立っている私を、怪訝な顔で振り返る。

 男性の身体で、九条さんの姿が一瞬視認できなくなる。たったそれだけのことで、私の胸にぎゅっと締め付けられたような痛みが走った。再び九条さんの姿が見えると、痛みは嘘のように引いていく。

 無理だ。忘れることなんてできるはずがなかった。見なかったことになんて、できない。

 どうしたらいいのか、わからなかった。声を掛けることも、避けて通ることもできない。忘れたいのに忘れられない。私には、ただじっと彼がいなくなってしまうのを待つことしかできないの?

 九条さんから、笑顔が消え、引き締まった顔になった。帰ろうとしているのかもしれないと緊張が走る。

 足を踏み出そうとするけど、やっぱり足は金縛りにあったように動かない。呼吸が荒くなる。胸が苦しい。

 また、会えなくなる。でも、怖い。

 押し問答する私の視線の先で、九条さんが携帯を操作し、ゆっくりと耳に押し当てた。家族。いるかもしれない恋人。友達。会社の人。誰に掛けているのだろう。

 電話の相手が、私だったら。

 ありもしない空想を思い浮かべる。このタイミングで私だったら、それこそ奇跡だ。

 それでもわずかな期待を持って、恐る恐る、携帯をポケットから取り出してみた。

 会社からずっと振動無しのマナーモードにしていた携帯は、画面を光らせ、着信を伝えていた。

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