第4話 未練 2

 「ありがとうございました!おかげで早く帰ることができます」

 棚卸も無事終わり、資材室にカギを掛けると、一井は仕事から解放された清々しい笑顔を顔に貼り付けて言った。早くと言っても時刻は十時を過ぎており、すでに作業場には夜勤者たちが年末最後の仕事に取り掛かっている。一人だったら本当に日をまたぐことになっていたことだろう。清水さんたちの飲み会は、すでに引き上げたと連絡が入っていて、行けずじまいになってしまったが、一井を無視して帰らなかったのは正しい判断だったと思う。

 「どういたしまして。来年は頼むぞ?」

 「はーい。わかってまーす」

 わかっているとは到底思えない返事だった。来年からも、長期休暇のたびに手助けをしなければならなくなるのだろうか。世話を焼くのは嫌いじゃないが、焼かなくて済むならそれに越したことはないので、一井には俺がどうせ手伝ってくれるからと、手を抜かず頑張ってもらいたいところである。

 「さ、帰るか。どうする?送っていこうか?」

 車のカギをつまんでぶら下げながら、バス通勤の一井に提案する。

 一井は残念そうに首を横に振った。

 「あたしん家、九条さん家の反対方向ですし、年末にこれ以上九条さんに迷惑かけたら罰が当たりそうなので、遠慮しておきます」

 「お前にしては珍しいな。なんだよ罰って」

 「来年は九条さんを頼れなくなる、みたいな?」

 俺にとってはいい話だった。

 「むしろ送らせてくれ」

 「嫌ですよ!来年もたっくさんお世話になるんですから」

 単に図々しいだけか。結局いつもの一井だった。願わくば、口だけであってほしい。

 「それじゃあ、お疲れ様でした!連休もし暇な時間ができたら、連絡してくださいね」

 一井がぺこりと頭を下げる。

 「帰省するって言ったろ」

 「一日でもいいから遊びに行きましょうよー!ショッピングとかー」

 「高い物ねだられそうだな」

 「せいぜい一万くらいですよ。安上がりでしょ?」

 猫なで声ですり寄ってくる。一井が入社した当時から面倒を見ていただけあって、出来の悪い教え子というか、手のかかる年の離れた妹のように思っている節がある俺は、寝ぼけたこと言ってるんじゃないと怒りたい気持ちと、それくらいならと納得してしまいそうな気持ちで揺れる。

 こんなとき、俺には決まり文句があった。

 「気が向いたらな」

 クールさを装っていても、結局買っちゃうことが多いのだが。前はそれで何を買い与えたんだっけ。確かイヤリングだったかネックレスだったか。一井もこの言葉があてにならないことをすでに学習しているため、よっしゃー!とガッツポーズを決めていた。良いように手玉に取られた気分だった。

 三十手前にして、孫を甘やかす爺さんの気持ちがわかりつつある。本人のためにならないと自覚しつつも、頼られると悪い気はしないから、結果甘やかしてしまう。来年こそは断ち切らねば。

 「やっぱり九条さんやっさしー。そういうところが頼りになるんですよねやっぱ」

 いよっ、お人好し。と一井がおだてる。誉め言葉としては微妙なラインだと思う。ただ、間違ってはいない。

 「連絡楽しみにしてます!では、よいお年を!」

 「はいはい。お疲れ。よいお年を」

 上機嫌に去っていく後ろ姿を見送る。今年もいろいろあったが、ようやく仕事が終わるのだと実感が湧いてきた。何があろうとタイムカードはすでに切っているから、あとは夜勤者に任せて俺は帰る以外の選択肢がない。何とも言えない開放感が身体の底から湧いてくる。俺はこの感覚がたまらなく好きだった。

 早く車に乗り込みたい。そして帰りはコンビニに寄って、少し豪勢な夕飯を調達しよう。家に着いたら夕飯食べて、風呂に入って、明日からの連休に備えて寝よう。

 この後のプランを頭に思い描きながら、俺は一井とは反対側に背を向けようとする。

 「あ、そうだ!九条さん」

 一井が思い出したように言って、クルっと回り俺を向く。俺は回転しかけた身体を止めた。また変な要求でもされるのかと身構える。

 「あのー、もしよかったら、ついてっちゃだめですか」

 「なに、やっぱり乗っていくってこと?」

 なんじゃそりゃと苦笑する俺に、一井はぶんぶんと首を横に振る。

 「そうじゃなくて!九条さんの帰省についてっちゃだめかってこと!」

 その言葉を聞いた瞬間、めまいがした。とっさに目頭を押さえる。そして、強烈な既視感が押し寄せてくる。

 いつか同じような状況で聞いたことのあるセリフと似ていた。

 『ついて行ったらだめですか?』

 脳が勝手に記憶を掘り返す。何年も聞いていなくても鮮明に思い出される声。向けられた背中。コンビニの前。彼女---御子柴さんとの関係が壊れた日。

 「ちょ、怖い顔しないでくださいよ。冗談ですって。いつもみたいに軽く流してくださいよ」

 焦った様子の一井が俺の前まで戻ってくる。冗談。そこまで一緒だとは。俺の顔はますます険しくなった。

 「何?流行ってんの?その冗談」

 「え?」

 「前にも似たこと言われた経験があるんだけど」

 「へえー、偶然。あ!まさか待ち受けの人?」

 答えなかった。でも、表情でばれたと思う。自分でもわかるほどに、頬がピクリと動いてしまった。

 一井は、ははーんと意味ありげな視線を向けてくる。

 「すっごい気になる。詳しく聞かせてくださいよ」

 余計なことを言った、と後悔する。こうなると一井はしつこい。たとえ断っても、いいじゃんいいじゃんと粘着される。諦めさせるには、よほどの理由がないと不可能だ。待ち受けの相手に対して一井が興味を示していることぐらい、休憩中の反応を見ていればわかっていたはずなのに、突然のことで正常な判断ができなかったとはいえ、わざわざ興味を刺激するような言い方をしてしまった自分を心の中で叱咤する。

 「お前バスはどうすんだ。最終もうすぐ出るぞ」

 殺し文句で抗戦する。しかし一井はしれっと言い放つ。

 「やっぱり送ってもらうことにします。車の中でゆっくり聞きましょう」

 「罰が当たるんじゃなかったのかよ」

 「よく考えたら、九条さんが頼らせてくれないなんてこと、あるわけないですし」

 そう言って一井は、俺の手から強引に車のカギをかすめ取った。携帯といい、カギといい手癖が悪い。万引きとかやってたんじゃないだろうなと心配になる。

 「さ、行きますよー」

 仕事の疲れを感じさせないほど意気揚々と歩き出す。まだ話すとも送るとも言っていないのだが、カギを奪われている以上どうしようもない俺は、一井の後を追うほかなかった。




 ちょっと待ってろと一井を外に待機させ、車に乗り込んだ俺は、しめしめとそのままエンジンをかけ車を発進させた………わけもなく、通勤用のカバンと助手席に載っていた荷物をまとめて後部座席へ放り、座席を軽く手で払った。隣に誰かを乗せることが滅多にないため、助手席は専ら荷物置きとなっている。荷物と言っても、仕事道具ではなく、暇つぶしに寄ったゲーセンで獲得した景品ばかりだ。

 「いいぞ」

 車越しに合図すると、寒そうに身体を揺らして中の様子を眺めていた一井は、助手席のドアを開けて、車の中へ素早く身体を滑り込ませた。

 「お邪魔しまーす。うー寒い!暖房マックス!」

 俺がキーを回すと同時に、一井が暖房のつまみを一気に最大までひねる。送風口から轟音と共に冷たい暴風が吐き出された。

 「寒い!」

 「ばか!エンジン掛けてすぐは冷たい風しか出ないんだよ」

 つまみを四十五度付近まで後退させて、暴風を止ませる。

 「だって車の免許持ってないからそんなの知らないもん」と、一井が身体をこすりながら抗議する。知らないならいじらないで欲しい。

 「あ、そうだ。さっきちょうど良さそうなのが見えた」

 身を乗り出し、後部座席に放った荷物の中から、国民的人気キャラクターがプリントされた未開封のブランケットを探し当てて、戻ってくる。目ざとい奴だな。

 「かわいっ。これゲーセンの?開けちゃっていいですか?」

 言い終わる前に、ビニールの糊を剥がしにかかっている。

 「どうぞご勝手に。ついでにやるよ」

 「いいんですか?」

 「狙って獲ったもんじゃないから。俺にはファンシーすぎる」

 「じゃあ、遠慮なく」

 一井は引っ張り出したブランケットを広げ、それに包まった。ゲームセンターの景品なだけあって生地は安っぽく、保温性があるとは思えなかったが、ないよりはマシなのか一井が満足そうな顔をしているので、良しとする。

 渡されたビニールをシフトレバーに掛けたコンビニの袋に入れて、サイドブレーキを降ろし、シフトをドライブにいれる。広大な駐車場を規定速度のニ十キロで走行し、一般道に出る。そのころには、ようやく暖房が効き始めてきた。

 「あたしん家、覚えてますか?」

 「薬局の近くだろ。覚えてるよ」

 一井を送っていくのは今日が初めてではなく、仕事が長引いてバスに乗り遅れた時や、たまたま帰りが一緒になった時に、何度か送っていったことがあった。なので道順はカーナビを付けずとも脳に記憶されている。会社からは大体十五分くらいの住宅街で、一井が資材室前で行っていたように、俺が住んでいるアパートからは正反対の方角だ。手間ではあるが、遅い時間帯なのもあり道路はスカスカなので、帰りが極端に遅くなることはないだろう。それに明日は休みだし、焦る必要もない。

 「では早速、さっきの話なんですけど」

 公道に出て最初の信号に引っかかったところで、一井が尋ねてくる。ブランケットに包まったまま、おとなしく寝ていてくれれば楽でいいのに。俺はばれない程度に小さく舌打ちした。

 「面白いことなんて何一つないぞ」

 「別にいいですよ。九条さんがそうでも、あたしは面白いかもしれないし」

 わかっていたけど、手を引く気はないようだった。仕方ない。重いトラウマというわけでもないし、話して気が済むのなら話してやろう。それに、一人で考えてもわからない点があって、ずっと消化不良だったから、第三者の意見が少し聞いてみたくもある。うまくいけば、御子柴さんのことを完全に諦めることができ、未練がましい携帯の待ち受けを変更するきっかけにもなるかもしれない。

 俺はあの夜のことを話した。

 友達に異動になったことを伝えたこと。最初驚いていたが、しばらくすると笑って、受け入れてくれたこと。いつものように会話を交わして、その日は別れようとしたこと。

 そして帰り際、突然一緒について行ってはだめかと言われたこと。わけがわからず疑問に思っていると、冗談だと言って去ってしまったこと。それっきり、電話もメールも来なくなったこと。

 一井は、適度に相槌を打ちながら、こちらの話に耳を傾けていた。てっきり茶々を入れてくるかと思っていたので、真剣に聞いてくれていたのは、少し意外だった。茶化していいことといけないことの判別はついているらしい。

 もっと意外だったのは、俺自身が御子柴さんとの出来事を鮮明に覚えていることだった。全て昨日体験したことのように説明ができた。それだけ印象的な出来事だったのは確かだけど、だとしてもはっきりと記憶しすぎていた。いくつもの記憶の棚の中で、御子柴さんのことだけは別に管理され、且つ一番目立つ場所に置かれていたかのようで、俺は自分の未練深さを若干気味悪く思った。

 話し終えると、一井は背景を探るためか、会話の細かい内容や、俺と彼女が以前どのように知り合ったのか、仲良くしていたのかを聞いてきた。俺が前方に注意しながら一つ一つ答えていくと、その都度「なるほどねー」と呟いていた。

 「まあ、そんなわけで、俺としては、なんで彼女が去り際にあんなこと言ったのか意味が分からんし、メールが来なくなったのもいまいち理由が掴めない。一井はどう思う?」

 説明を締めくくり、一井に意見を求める。話してやった以上、せめて感想は言ってもらわないと割に合わない。

 一井は呆れたように言った。

 「九条さん。女心がわかってなさすぎですよ」

 「はあ?女心?」

 「っていうかー、むしろ乙女心?」

 どちらにしても、深く考えたことはない。知っているのは、女心と秋の空なんて言葉があるくらい変わりやすいということぐらいだ。

 「九条さんは、その人のことどう思っていたんですっけ?」

 「どうって、友達」

 「では、相手は九条さんのこと、どう思っていたと思います?」

 「そりゃ友達だろ」

 それ以外ないだろと自信たっぷりに言うと、一井は大げさにため息をついた。

 「ほら、やっぱりわかってない」

 なにこいつ。すっげえうざい。

 「いいですか。友達としか思っていなかったら、男性相手に異動先へ一緒に行きたいなんて言いませんよ普通」

 覚えの悪い子供を諭す母親みたいな言い方にカチンときたが、それは俺も不思議に思っていたことだった。だからこそ返答に困ったのだ。

 しかし、俺はハンドルを右に切りながら答える。

 「冗談なら言うことだってあるんじゃないか。俺の反応を見てからかうつもりだったとかさ。突飛なことするときもあったし。一井だってそうだったんだろ?」

 横目で見ると、一井は気まずそうに目を逸らした。

 「あたしのことはいいんですよ。あたしのことは」

 なにがどういいのか。偶然にも同じセリフを言ったのなら、見過ごせないと思うのだが。

 噛みつこうとする俺を、一井は「それは置いといて!」と強引に振りほどいた。

 「その冗談ってのも、望んだ返事が来なかったから、仕方なく付け足したんでしょうよ」

 「望んだ返事?」

 「いいよって、言ってもらいたかったんですよ。きっと」

 そんな馬鹿な。俺は鼻で笑う。

 「何度も言うけど俺と御子柴さんは友達だったんだ。それも、幼馴染でも、学生時代からの古い友達じゃない。一か月二か月仲良くしていただけの浅い関係だ。そんな相手に、自分の生活投げ出してまでついて行こうとするか?投げ出させてまで、連れて行こうとするか?」

 正論を並べて、一井の考えは成り立たないことを指摘する。

 「単なる友達としてしか見てなかったら、しないでしょうね。でも、九条さんのことを友達以上に見てたとしたら、ついて行きたいって言うのもわかりません?」

 「友達以上って親友とかか。それでもないだろう」 

 赤信号が見えて、車のブレーキを数回に分けて踏みながら答える。

 「マジで言ってるんだとしたら、九条さん恋愛する資格ないですよ」

 一井が心底呆れた風に言う。うるさいな。ちょっととぼけてみただけだ。会話の流れからして、親友でないことぐらい俺だってわかっている。

 「でも、ありえるのか?たかだか数か月だぞ」

 「付き合いの長さは関係ないでしょ。一目惚れって言葉もあるんですよ?出会いからして惚れやすいシチュですし、二人での飲み会や水族館に積極的に誘ってたのは彼女側。おまけにあんな無防備な姿見せておいて、ただの友達ですはないっしょ」

 一井は、妙に確信をもっている口調で言った。

 「つまりなにか?一井は、御子柴さんが俺のことを………好いていたから、あんなことを言ったと。冗談ではなかったと」

 一井が肯定するようにうんうんと頷く。

 「ぶっちゃけ、告白したようなもんですよね。遠回しですけど。でもそれが乙女心ってやつなんですよ」

 だとすると、俺でなくても理解できる男はそうそういないと思う。瞬時に理解できるのは、同性ぐらいなものだろう。或いは好意を向けていることを自覚している場合くらいだ。

 信号が青になって、ブレーキを離し、アクセルを踏む。ライトが消された薬局の看板が見えてきて、一井の家が近いことを認識する。

 「御子柴さんが、俺のことを、ねえ」

 独り言のようにつぶやく。そんな風にはまるで見えなかった。会っていた時も、メールで話している時も、どれも友達の範疇であったように思う。それとも、俺が、乙女心とやらを理解していなかったから、気が付かなかっただけなのか。

 「嬉しくないんですか?三年間待ち受けにするぐらい気に入っていたんでしょう?」

 難しい表情をしていた俺の顔を覗き込んで、一井が首をかしげる。

 「嬉しいよ」

 人に好意を向けられて、嬉しくないわけがない。

 「にしては反応が薄くないですか」

 確かに。嬉しいと言っておきながら、感情が高ぶらない。寄った眉間の皺も、もとに戻ろうとしなかった。

 「まあ、リアルタイムで二人を観察してたわけじゃないから、絶対そうだとは言えないですからね。マジでからかっただけの可能性もありえなくはないし。でも、あながち間違ってはないと思いますよ」

 「いや、別に疑ってるわけじゃない」

 むしろ、さすがは御子柴さんと同性と言ったところで、男の俺が全く考えもしなかった解答に行きついていることに驚いていた。わからないことだらけで中途半端に片付けた俺とは違い、筋道も通っている。なるほど、と俺は納得していた。

 あえて言うとすれば、御子柴さんに好意を持たれていた実感がわかなかった。お互い友達の認識でいると思っていた。実はあの子、お前のこと好きだったんだよといきなり告げられても、反応に困る。

 「つーか、あれが告白だったとすると、俺は振ったことになるんだよな」

 考えたくないが、口にする。

 「図らずとも、そうしたことになりますかね。メールが来なくなったのも、振られたことが原因だと考えれば自然ですし」

 「だよな」

 後悔だけは正常に機能していて、たとえ昔のことでも、わかるわけがなくても、自分が女性を振った事実を知ると、やるせない気持ちになった。仕事上のミス同様、過去に戻れるなら今すぐにでも戻り、その日の俺に伝えてやりたい気持ちで一杯になる。本当は、彼女はお前のことが好きで、一緒に来てくれと言ってもらいたがっているんだぞ、と。そうすればきっと………。

 きっと、どうするんだ?「そうなんだ。なら、その気持ちにこたえるよ」と、あの日の俺は御子柴さんの申し出に首を縦に振るのか?そんな、「右はだめだから左に行け」「オッケー」みたいな軽い話か?俺自身の気持ちはどうなる。

 考え込みそうになって、危うく曲がるところを直進しそうになる。慌ててスピードを落とし、ウインカーを出して右折した。後ろに車がいなくてよかった。運転中に思考の渦に飲まれるのはまずい。

 「っていうか、メールに関しては九条さんも悪いんですよ。相手からメールが来なくても、九条さんがメールを送ってあげてれば、まだ関係が繋がってたかもしれないのに」

 「仕方ないだろ。こっち来るために死に物狂いで勉強してたんだから」

 「丸一日やってたわけじゃないでしょ。寝る前に一通でも送るくらいはできたはずです」

 咎められ、ぐ、と言葉に詰まる。痛いところをつきやがる。確かに仕事は言い訳に過ぎない。絶対不可能ではなく、送ろうと思えばいくらでもタイミングはあった。それをしなかったのは、俺の怠慢にすぎない。誘いにしてもメールにしても、基本的に御子柴さんからだったから、そのうち御子柴さんから送られてくるだろうと慢心していたのもある。時間が空きそうなら俺から連絡を入れると言っておきながら、結局俺は御子柴さん頼りだった。

 「悪かったと思ってるよ」

 ハンドルを握る手に力を込めながら言う。関係を終わらせる決定打になったのは紛れもなく俺だった。御子柴さんの本当の気持ちに気付いてあげられず、ないがしろにした。受け身の姿勢を崩さず、ただメールが来るのを待ち続けた。そして、ようやく送ったメールが引っ越しの直前ともなれば、御子柴さんも呆れたことだろう。

 『お体に気を付けてください』最後に御子柴さんが返信してくれたメールだ。その一言をくれただけでも、彼女の心は深海よりも深いのだと思い知らされる。

 「まあ、過ぎたこと悔やんでも仕方ない。同じ過ちを繰り返さないようにすることが大切だ」

 一井が突然、声を太くして言った。

 「これ、あたしがミスした時に九条さんが必ず言うセリフ。似てました?」

 うはは、と笑う。励ましてくれているのだろうか。

 「似てない」

 「えー自身あったんだけどなあー」

 気分を害するでもなく楽しそうに身体を揺らす。

 「 ま、女って、面倒な生き物なんですよ。肝心なことは言葉の裏に隠して相手に察してもらおうとするし、構って欲しくてアプローチをガンガンかけたかと思えば、同じ理由でそっぽを向いたりする。気まぐれなんです」

 「それも乙女心か」

 「そゆこと」

 実に難解だ。一生かかっても俺に全容は理解できないと思う。

 「ま、これを教訓にして、仕事だけでなく乙女心も勉強しましょうってことで。あんまり気を落とさないでくださいよ」

 十歳近く離れている子にぽんぽんと肩を叩かれ励まされる。何とも情けないが、一井の言う通りかもしれない。今更悔やんでも仕方がなかった。いくら悔やんだところで、時は戻らないしや、過去に行って当時の俺に助言することはできない。仕事の失敗と同じで、次どうするかを考えるべきなのだ。

 一井の言葉によって、少しだけ未練が晴れたかもしれない。

 「そうだな。とりあえず、乙女心がわかるようになる本でも買うか」

 「うわっ。まっじめー」

 一井がはやし立てる。何とでも言うがいい。考えてもわからない分野であれば、先人に頼るべきなのだ。さっそく明日にでも、本屋に行くとしよう。

 「っと、着いたぞ」

 住宅街の一角にある赤い屋根の一軒家の前に着き、車を止める。喋っているとあっという間のドライブだった。

 「あ、ほんとだ。いつの間に」

 外に目を向けながら驚く。ずっと話していたから、どのあたりを走っているのか把握していなかったらしい。

 一階のリビングと思われる場所からはカーテン越しに明かりが透けていた。車庫には車も止まっている。どうやら親は帰っているみたいだ。こんな時間まで娘が帰ってこないことを心配しているだろうか。だとすると、今俺と対面したら、連れ回したと誤解されるかもしれないな。早めに撤退した方がよさそうだ。

 「ありがとうございました。なんか最後の最後まで九条さんのお世話になっちゃいましたね」

 一井は礼を言いながら、ブランケットを丁寧に畳んで手に掛け、バッグを持った。

 「おう。こっちもありがと。話聞かせろって言われた時は、正直面倒なことになったと思ってたけど、貴重な意見が聞けてよかった」

 「あたしもたまには役に立つっしょ?」

 「たまに、な」

 二人して笑う。

 「それじゃあ、お疲れさまでした。帰り事故んないでくださいね」

 一井がドアを開け、外に出る。

 「お疲れ」

 手を振って見送ると、ドアが閉まる。途端に車内が静かになった。この先は一人だ。話し相手がいるのといないのとでは、運転のモチベーションも変わってくる。普段うるさい奴だと思っていても、こういう時は恋しくなる。車内は暖かいのに心が寒かった。

 そのうるさい奴は、家の出入り口が道の都合上、助手席の反対側になっているので、車を後ろ側からぐるりと回っていた。

 そのまま、家に入っていくかと思いきや、なぜか一井は運転席の横に立ち、ウインドウをコツコツとノックしてきた。

 「なに。忘れ物?」

 ウインドウを開けながら尋ねる。冷気が入り込んできて、途端に社内の温度が下がる。長くは開けていたくない。

 「九条さん。帰省するって言ってましたけど、その、御子柴さん?とも会うんですか?」

 「は?いや。その予定はないけど」

 意味が分からず、いぶかしむ。

 「九条さん的に、新説が生まれたわけですから、真相を確かめようとしないんですか」

 なんだ、そういうことか。

 「もう三年経ってるからなあ。連絡とろうとしたところで、返事はこないんじゃないかな」

 まだ同じ土地にいた頃から連絡が途絶えていたんだ。きっと、彼女の中で俺は、期待に沿えなかった男として、とっくに過去の人に成り下がっていることだろう。今になってあの時の真意がつかめたかもしれないからと言っても、時が経ちすぎている。もしかしたら、すでに別の誰かと結婚している可能性だって………。

 ………なんか今、すごい嫌な気分になった。

 「そうですか。ま、それもそうですよね。じゃあ、何事もなく帰ってきたら、あたしの乙女心に対しての返答をもらえますか」

 「一井の乙女心?」

 はて、そんなものあっただろうか。首をかしげる。

 「ほら、あたしも言ったじゃないですか。資材室の前で御子柴さんと同じ言葉を」

 資材室前。『あたしもついて行っちゃだめですか?』一井はそう言った。

 ちょっと待てよ。それって。

 俺が一井に向かって声を発しようとすると、一井はそれを制するように人差し指を俺の唇に当てた。年下のくせに、妙に色っぽい仕草だった。

 「忘れてました?あたしも面倒な女の一人なんですよ」

 頬を赤くして笑うと、今度こそお疲れさまでした、と最後に残し、走って家の中へと入って行ってしまった。

 俺は、ウインドウも閉めずに緊張が解けた後みたいに、シートに深くもたれかかった。

 考えることが多すぎて、頭の中がぐちゃぐちゃだった。ひどく頭痛がして、こめかみを押さえる。

 しばらくそのまま、動くことができなかった。

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