第4話 未練 1

「ゼロ災行こう!ヨシ!」

「「「「ゼロ災行こう!ヨシ!」」」」

 真新しい工場内の一角に、俺の号令に続いて、少人数の合わさった声が反響する。シャッターを隔てた向こう側にある製造場からも、機械の駆動音に紛れてパラパラとゼロ災唱和の声が漏れ聞こえてくる。反対側の外に繋がるトラック搬入用のシャッターからは、冷たい北風が床とのわずかな隙間を縫って入り込んできていた。

 思わず腕を抱いて身を縮こまらせる。今日も寒くなりそうだった。

 げんなりしていると、後ろから背中を平手で叩かれた。振り向くと、清水さんがしわの多い顔をくしゃりと笑顔にゆがめて立っていた。

 「九条君、相変わらず寒そうだな」

 「いやあ、この寒さには一生かかっても慣れそうにないですよ」

 寒さで頬の筋肉が硬直しているため、ほとんど口を動かさずに喋る。無理に開こうとすると乾燥した唇の端が切れるから、都合が良くもあった。

 「毎年思ってることなんですけど、南寄りの県に会社作ってくれたらよかったんですけどね」

 「そしたら夏場に暑い暑いって文句垂れるくせに」

 清水さんの呆れ口調に、俺は目をそらす。その通りだった。極端な暑さ、寒さは嫌いだ。年がら年中過ごしやすい気候の土地ってないのだろうか。あるなら次の分社を作る際はそこに立てて欲しい。喜んで異動の話を受ける。

 「大体、ここに作られなかったら俺なんか今でもフリーターだったかもしれねえんだから、滅多なこと言うもんじゃねえよ」

 清水さんにたしなめられる。清水さんは入社当時五十歳で、どこの会社にも年齢を理由に断られ続けていたところを、この会社に拾われた。以前も工場で働いていて必要な資格を一通り持っている上に、年齢に似合わず仕事をバリバリこなしてくれるので、かなり重宝している。人事部にはいい人材を確保してくれたなあとしみじみと思う。

 「そんなことより、一つ聞いていいかい?」

 「はい、なんでしょう」

 「今日連休前の最終出社日なわけだけど、特別やっとくことあったかねえ」

 「昼勤は特にないですよ。俺たちが帰った後も夜勤がまだありますから、いつも通りでいいです」

 「そうかい、じゃあ安心だ。最終日、頑張るとするかあ」

 清水さんが背伸びをしながら持ち場に向かっていく。寒さをものともしないで歩く様を、腰を丸めたまま見送る。さすがに地元民はちがう。俺のほうがよっぽど年寄り臭かった。

 そそくさと暖房のきいた詰所に入り、凍えた身体を温めながらデスクに座ると、日課の連絡帳とメールのチェックを行う。メールボックスに新規メールはなかったが、ここ数日平和で、書かれることのなかった連絡帳には最終日なこともあって、これってこうするんでしたっけ?あれはしなくてもいいんでしたっけ?と確認事項が羅列されていた。長期連休のたびに聞かれるので、いい加減文章に起こして壁に貼り付けておいたほうがいいだろうかと悩みながら、一つ一つ回答を書き込んでいく。

手のかじかみに文字の修正を余儀なくされつつ書き終わると、俺は椅子の背もたれに体重を預けて、大仕事をこなしたあとのような余韻に浸る。

 明日から冬季連休に入る。今年も残りわずかだ。無事一日が終わりますように。




 「九条君。ごめん、製品落としちゃった」

 「システムがなんかおかしいっす」

 「機械のエラーが多発してるんだけど」

 「シャッターが開いたまま閉まらない」

 「資材が納品されてこないです!」

 「他部署の人が無理難題を言ってきて……」

 願いも空しく、立て続けに舞い込んでくるイレギュラーなトラブル。持ち込まれるたびに、はいはいまたですか、とうんざりしながら対応していく。最終日くらい穏やかに過ごしたいのに、いつも決まって示し合わせたように異常が重なるから不思議なものだ。人のミスなら休みに浮かれていてやってしまったで納得できるのだが、なぜ意思を持たないはずのシステムや機械までもがこぞってエラーを吐き出すのかわからない。すました顔して意思でも持っているのだろうか。それとも、そう簡単に休みに入れると思うなよ、と何者かが働きかけているのか。はた迷惑なことこの上ない。

 連休前には魔物が現れる。本社にいた頃から再三言われてきたし言ってきた言葉だ。再度胸に刻みつつ、休憩もそこそこにトラブル解消に奮闘する。

 幸い、数が多いだけでお手上げ状態になるようなトラブルはなかった。天窓から差し込んでくる自然な光より工場内の明かりが頼もしく思えるころには、全てのトラブルを片付け、詰所で一息つけるだけの余裕ができた。

 離れていた間に送られてきたメールに目を通していると、キーンコーンカーンコーンと学校のチャイムと同じものが工場全体に流れた。終業のチャイムだ。それに合わせてどこからか、いよっしゃー!と歓声聞こえてきた。連休前最後のお勤めが終わった瞬間だから無理もない。今日は残業もないから、皆終業式が終わった学生のように、我先にと会社を飛び出して帰っていくのだろうなと思う。

 俺も叫びはしなかったが、一応は無事に終業を迎えられたことを誰とはなしに感謝した。

 「いやー、終わった終わった」

 清水さんの声とともに、うちの部署の人たちも、晴れ晴れとした顔で詰所に戻ってきた。

 清水さんと、大柄な体格の小杉さん、今年入社した新人の橘君。各々冷蔵庫からペットボトルを取り出して、ごくごくと景気よく飲み始める。動き回っていた彼らからするとごく自然な行動なのだが、大して身体を動かしていない俺からすると、見ているだけで、身震いを起こしそうな光景だった。

 「お疲れ様でした」

 声をかけると、三人を代表して年長者の清水さんがペットボトルから口を離して応えた。

 「おう。九条君もお疲れ。最終日だってのに、やたら異常が多かったな」

 「手間のかかることや手に負えないことが起こらなかっただけマシでしたよ。作業が定時間内に滞りなく終われたようでよかったです」

 「そうだな。これで心置きなく家に帰れるってもんだ」

 鼻歌交じりにそう言って、清水さんは早々に帰り支度を始めた。小杉さんと橘君もそれに倣い、ハンガーラックから自前のジャンパーを手に取り羽織った。

 「せっかくの定時ですし、これから飯でも食いに行きませんか?」

 小杉さんの提案に、清水さんが賛同する。

 「おお!いいな。橘も来るだろ?」

 「え……僕は……」

 橘君がたじろく。

 「お前この前の飲み会にも来なかったんだから、たまには来いよ。もう無理に酒飲ますことなんてことしねえから」

 今年の四月に橘君の歓迎会をやった時、清水さんと小杉さんは悪乗りして、橘君に苦手だと言う酒をめちゃくちゃに飲ませた前科があった。ぶっ倒れこそしなかったが、橘君の真っ青な顔は今でも覚えている。橘君はそれ以来飲み会を敬遠するようになってしまった。

 清水さんはやらかしたことを詫びるように、やさしい口調で食い下がる。

 「な?別に用事があるわけでもないだろ?」

 「うーん……」

 唸りながら、ちら、と傍観を決め込んでいた俺に視線をくれる。助けてくれという意思表示だろうか。

 「今年最後なんだから、親睦深めるためにも行ってきな」

 にこやかに言うと、橘君は裏切られたとでも言いたげに顔を歪めた。橘君は積極性に欠けていて、放っておくと孤立してしまいそうだから、作業者同士親睦を深めて欲しいんだよ俺は。その思いを視線に乗せると、彼は観念したように、

 「わかりました」

 と弱弱しく頷いた。

 よし、と満足げに俺も頷く。

 清水さんが、朝俺にしたように橘君の背中をバシンと叩いた。

 「よく言った!それでこそ男だ」

 多分、男は関係ないんじゃないかな。

 「九条君も仕事終わったんだろう?一緒に行こうや」

 心底嬉しそうに表情を崩して、清水さんが言う。

 「すみません。俺はまだ仕事が残ってるので」

 詰所の横に併設された資材室に視線を向ける。各部署で日常的に使用する手袋やマスクといった資材を一括で保管、管理している倉庫のような一室で、ガラス越しに女の子が一人、必死な形相で机に向かっているのが見えた。

 どうやら、あっちにはまだ魔物が居座っているみたいだった。

 俺の視線を追った清水さんが、ああ、と残念そうに呟く。

 「一井ちゃんまだ終わってないのか。そういえば一杯資材入っていたもんなあ。俺も手伝っていこうか?」

 「いえいえ。そんなに人員必要なほど貯めてもいないでしょうし、俺一人で十分ですよ」

 せっかくの申し出だが、断っておく。楽しい気分でいるところに水を差したくはなかった。

 「そうか?まあ、どのみち俺が残ったところで資材室のことはちんぷんかんぷんだから足手まといになるだけか。じゃあ、終わってからでも一井ちゃんと一緒に来なよ。連絡くれれば場所教えるから」

 「はい。あ、無茶だけはしないでくださいね。特に橘君に対して」

 「わかってるよ。じゃ、お疲れー」

 「お疲れ様です」

 清水さんに続いて小杉さん、橘君が、お疲れ様です、と挨拶を残して詰所を去っていった。メールの確認と連絡帳の記入を手早く終わらせて、俺も詰め所を出た。

 「一井。大丈夫?」

 資材室の扉を開け、顔だけ覗かせて尋ねると、一井は泣き出しそうな顔で言った。

 「大丈夫に見えますか?これが」

 床に詰まれた大小さまざまな段ボールの山と、デスク上に散らばった紙束を交互に指さし嘆く。

 「あーあ。こりゃまたずいぶんため込んだな」

 「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。あたし超頑張ったんですよ!」

 今どきの若者のような喋り方で抗議してくる。実際若者なのだが。毛先を巻いた茶髪のショートに、自前なのか付けてるのかわからない長い睫毛、ぱっちりとした目なんかはファッション雑誌に載ってるギャルモデルそのもので、二十歳になり立てであることも踏まえると社会人というより学生を意識させられる。唯一、身にまとっている薄緑色の作業着が彼女を社会人であると主張しているが、控えめに言っても美人な顔立ちに細身の体は、私服やスーツなら映えようものの、さすがに作業着は相反するジャンルのようで、あまり似合っていないとつくづく思う。

 そんな一井に、俺はわざとらしく肩をすくめて言う。

 「超頑張ってこれじゃあ、どうしようもないな」

 「ひどっ!血も涙もない!」

 「だって事実だし。超つけるほど頑張ったなら終わらせてくれよ」

 「今日は尋常じゃない仕事量だったんですよ!超付けたからここまで減らせたんですよ!」

 「ええー、ほんとかよ」

 疑惑の目を向けながら、わずかに床が見えるところに足を突っ込んで、ぎゃあぎゃあと喚く一井の隣に立つ。来客用の予備の椅子に腰かけようとしたが、その上にも段ボールが三つ重なっていたので、仕方なく立ったままでいることにする。

 「で、あと何が残ってんの?」

 「今日入ってきた資材を棚にしまうのと、データ入力、あと棚卸です」

 「発注は?」

 「全部済んでます!」

 えへんと一井が胸を張る。

 「なら、及第点かな」

 最低限やっておいて欲しかったことはやってあるようだ。連休前は定時間外に発注メールを出しても、仕入れ先が早めに受付を終了している場合があるので、これだけは忘れずにやっておけと口を酸っぱくして教えておいたかいがあった。もしやっていなければ各所に拝み倒してでも受理してもらわないと、納期が遅れてしまい年明けに各部署からクレームが来るところだった。

 「じゃあ俺は資材の整理をしていくから、一井はちゃっちゃと入力を終わらせて棚卸しやっていって」

 「手伝ってくれるんですか!」

 一井がキラキラと目を輝かせる。

 「手伝わないと日またぎそうだ」

 「わーい。ありがとうございます」

 遠慮するでもなく手を挙げて喜ぶ。助力を申し出るのは早まっただろうか。

 段ボールに占拠された領地を少しずつさら地へと変えていく。箱の中身は資材室の在庫として納品された物もあれば、誰々様宛と個人を指定している物もある。ここは他部署が個別で発注した資材の受け入れ場所でもあるため、資材室で何も頼まなかったとしても、荷物は定期的に納品されてくる。

 床を埋め尽くしている段ボールのほとんどは個人宛だった。納品される日はわかっているのだから、すぐに引き取りに来てくれればいいののに、いつまでたっても引き取りに来ないことも多々あって、その場合は取りに来るまで保管していなければならない。本社にいた頃もそうだったが、この会社はとりわけズボラな人間が多いらしく、たとえ連絡してもすぐに取りに来る人は一握りしかいない。資材置き用の棚には各部署必ず一つは物が乗っているし、乗り切らない大物が何日も床に置かれていたりもしている。今日納品されたものも、一体いつ取りに来るのやら。宛名がバラバラの段ボールの山を仕分けていきながら、あまりにひどい奴には警告メールをしてやらなければと考える。

 「九条さんはもう仕事終わったんですか?」

 一井がパソコンから顔を上げずに聞いてきた。

 「当然。一井が仕事残してなければ、今頃清水さんたちと飲みに行ってたよ」

 わざと嫌味ったらしく言ってみる。しかし、一井には効果がなかった。悪びれずにてへへと頭に手をやる。

 「いやー、すみませんね。毎度毎度部署が違うのに手伝ってもらっちゃって」

 「ほんと。いつになったら任せられるのやら」

 資材室はうちの部署の隣にはあるものの、厳密にいえば違う部署となっている。しかし隣同士という位置関係と、行っている業務が若干類似していることから、本社でも分社でも一緒くたにされることが多かった。工場で働いている人の中には、同じ部署だと勘違いしている人も少なくない。やっかいなことに上層部も同様の認識であることから、分社発足当時は俺が兼任していたほどだ。去年一井が入社して仕事を教えてからは任を解かれたが、前任者であることからなんだかんだと面倒を見るのが俺の役目になっていた。

 「でもですよ?おっさん達と飲みに行くより、あたしと仕事していたほうがよくありません?」

 一井がくるりと椅子を回転させ底抜けに明るい顔で言う。

 「仕事するよりは飲みに行ったほうが断然いいよ」

 吐き捨てて、段ボールから取り出した100双入り手袋の箱をサイズごとに区分けされた棚に置いていく。

 批判的な視線を背中に感じた。

 「一井だって早く済ませて帰りたいだろ?ほら、無駄口たたいてないで手を動かす」

 「あたしはー、九条さんがいるから早く帰りたいなんて思ってないですよ。むしろ長引かせたいぐらいです」

 語尾にハートマークがつきそうなくらい甘えた声を出す。

 「はいはい、はた迷惑な話だこと」

 空になった段ボールを畳んで次に移る。

 適当に返答したことが気に入らなかったのか、抗議するようにぶー、と一鳴きする一井。無視を決めこんでいると、諦めて渋々とパソコンに向き直っていった。

 



 黙々と作業すること数時間。資材室を占領していた段ボール群は、中身を取り出されて、わずかに開けたスペースに平らに潰された状態で積み重なり、俺の膝上くらいの高さに到達していた。分けるのが面倒くさくて大も小も滅茶苦茶に積んだにしては、うまい具合にハンバーガーのような形に仕上がっている。最後の一つを畳み終え、山の頂上に載せても、崩れることはなかった。

 資材整理完了。思った以上に個別に発注されたものが多く仕分けに手間取ってしまった。大きく伸びをして、肩を回す。

 「ちょっと段ボール捨ててくるな」

 「……」

 声を掛けたが、応答がなかった。不審に思い横顔を覗き込む。ぱっちりとした目は、パソコンの画面をひたすら見つめ、ゆっくりと左から右に流れていた。手が止まっている辺り、どうやら打ち込んだ数字に間違いがないかを確認しているようだった。もし間違っていたらこの後の棚卸にも影響が出るから、慎重になっているのだろう。

 集中しているところ邪魔しちゃ悪い。俺は両手で段ボールの山を挟んで、スライドドアを足で静かに開けて、部屋を出た。

 通路に出た途端、暖房のついた部屋との温度差に身体が震える。ごみ捨て場は恨めしいことに外にあった。室内でこれだけ寒いのだから外なんてもっと寒い。二往復もしたくないからと、強引にも全ての段ボールを抱えて外に出たことは間違いじゃなかったと確信する。ただ、横着の代償として視界が悪いのと動きにくい。

 外に通じるシャッターを潜って、外周路を挟んだ先の倉庫に向かう。真っ暗な中、工場から漏れる光を頼りに、真冬の北風に身を固くして、風のあおりを受けた段ボールの束に翻弄されながらも前に進み、なんとか外周路を渡り切り、倉庫の前へとたどり着く。

 倉庫の中は分別ごとのコンテナが壁際に整然と立ち並んでいる。開け放たれたシャッターの奥からは、油や鉄さびの臭いに混じって、生ごみの臭いもかすかに鼻を刺激してくる。聞いた話では、臭いにつられて、時々野良猫が出入りして、生ごみを漁っているらしく、物音を立てると驚いてコンテナから飛び出してくるのだそうだ。

 今日はいるのだろうか。不意打ちを食らうと段ボールをぶちまけかねない。両手が塞がっていて電気が付けられないので、軽く壁を蹴ってみる。ガシャンと甲高い音が響いてから数秒耳を澄ませたが、小動物が動いたような物音はしなかった。

 とっくに漁った後か、寒いから寝床で丸まってるんだろう。いないとわかればさっさと済ませてしまうに限る。俺だって寒い。記憶を頼りに暗闇を進み、紙類のコンテナに段ボールの束をまとめて放り込んで、早足で外に出る。

 ポケットに手を突っ込み、ダッシュで資材室へ戻ろうとする。

 とその前に、少し寄り道をすることにした。外に出るために使ったシャッターではなく、すぐ近くにある来客用のロビーを通り、自販機で温かいココアと紅茶を買う。

 かじかんだ手をポケットに入れた缶のぬくもりで温めながら、資材室に帰ってくる。

 「さみー」

戻ってきたことを知らせるようにつぶやいて、鼻をすすりながら室中に入る。程よい温かさを保った部屋の空気が、強張って固まっていた肩の力をほぐしてくれる。

 「あ、九条さん。どこ行ってたんですか!先帰ったんじゃないかと思ってメチャ焦りましたよ」

 一井はデスク横の大型プリンタの前に立っていた。プリンタが低い駆動音を上げて排出している紙を拾いながら、ふくれっ面で俺を迎える。

 「段ボール捨てに行くって声掛けたよ」

 「えーうっそ。全然気づかなかった」

 「まあ、集中してたから悪いと思って一回呼んだきりだからな。それで、その様子だと入力は終わったみたいだけど」

 「はい!ばっちりです」

一井が親指と人差し指で円を作り、顔の横に掲げて見せる。

「なら少し休憩しよう。好きなほう選べ」

服のポケットから出した2つの缶を一井の前に突き出す。

 「九条さんのおごりですか?ありがとうございまーす!ちょうど喉が渇いたなーって思ってたんですよ。ナイスタイミング」

 過去に何度も先輩風に吹かれて後輩におごってきたが、ここまで素直に喜んでくれるのは彼女だけだった。大抵遠慮するか、申し訳なさそうに礼を言われるかの二択で、そういう場合、むしろ気を遣わせてしまっただろうかと不安になってしまう。その点一井は、無遠慮ながらもさっぱりとしていて、こちらとしてはおごりがいがあった。軽食用の自販機でも何か買っておけばよかったかな。

 「じゃあー、ココアにします!」

 右手に持っている缶を一井が指さす。どちらであろうと快く差し出すつもりだった俺は、手のひらに伝わる缶の熱に別れを告げて、ココアを一井に渡そうとする。


 『あ、ありがとうございます!じゃあ、ココアを』


 その時、懐かしい声が聞こえた気がした。そういえば前にもこれに似たことがあって、あの子もココアを選んだんだっけ。

 「どうかしたんですか?」

 一井の声に、はっと我に返る。

 疑問符を浮かべた一井が渡す寸前で固まった俺の顔を覗き込んでいた。

 「何でもない。ほい」

 一井の手にココアの缶を乗せる。

 「ごちそうになります!」

 椅子に座り、早速受け取った缶のプルタブを開けて中身を飲み始める。俺も同様に椅子に座って紅茶を飲む。身体の内側を熱が駆け巡り、その心地よさにほっと息を漏らした。

 あれから、もう三年になるのか。彼女は元気にしているだろうか。また、コンビニの前で座り込んだりしていないだろうか。

 「あ、そうそう。九条さんは年末年始予定あります?」

 一井が足をぷらぷらと揺らしながら、尋ねてくる。

 「普通に、実家に帰省」

 「そっか。九条さん元は本社で働いてたんですもんね。いつからいつまでですか」

 「明後日の二十九日から三日まで」

 「それって連休のほとんどじゃないですか!」

 一井が通路にまで響くほどの音量で叫ぶ。うるさいなあと顔をしかめる。

 「いいじゃん別に。母方の実家で集まりとか、いろいろあるんだよ」

 毎年年始の二日と三日は親戚一同、母方の実家に集まる決まりがあった。昔から特に理由がなければ全員参加が基本である。俺の場合、遠方に住んでいることを理由に欠席することもできなくはないのだが、去年それを理由に行かなかったら、二年連続はやめておけよと母に電話でくぎをさされたので、今年は面倒でも行かなければならなかった。

 「ちぇー。どこか連れてってもらおうかなって思ってたのに」

 一井はあからさまに不機嫌を見せつけるように、唇を前につきだした。

 「そんなの友達と行きゃいいだろ」

 「だって、友達は皆彼氏か彼女持ちで、年末年始構ってくれないんですもん」

 それはまあ………、気の毒だけど。俺にはどうしようもない。

 「一井彼氏は?」

 「いません。フリーです。いたら九条さんに頼んでませんよ」

 「そりゃそうだ。で、なんで俺なんだよ」

 「九条さん車持ってるしー、お金持ってるしー」

 最低な理由だった。見た目がいいのに彼氏がいないのも頷ける。

 「帰省しなくてもお前とはどこにも行きたくないわ」

 「いやいや、他にもありますって。優しいから」

 「薄いな」

 「じゃ、ノリがいいのも追加で」

 料理でも注文するかのような気軽さで追加されても嬉しくない。

 「なんにせよ、俺も無理。おとなしく家でのんびり過ごすことだな。年末特番見て、年始特番見て………」

 「えー!つーまーんーなーいー!」

 言葉を遮り、椅子に座ったままバタバタと手を振り駄々をこねる。実に面倒くさい。どこからか一井の年末年始のおもり係になってくれる人物が降って湧いてこないだろうか。そのまま彼氏になってくれてもいい。

 「そうだ!なら橘君誘いなよ」

 俺は名案を思い付いたとばかりに指を鳴らした。

 「えー橘ー?」

 一井が苦いコーヒーを飲んだ後みたいに顔を歪める。

 「そう。金持ってるかは知らんけど、車は持ってるし。何より齢が近いじゃん。彼二十三歳で、一井二十歳だろ。俺なんかと行くより話も合って楽しいって」

 「嫌ですよ。あいつ大人しすぎっていうか、根暗なんだもん。一緒にいても絶対楽しくない。ノリが合わない。話が合う合わない以前の問題」

 力いっぱい否定されてしまう。年上なのに呼び捨て、しかもあいつ呼ばわりまでされて否定されると橘君が不憫でならない。

 結構ありだと思うんだけどな。活発でサバサバしてる一井とおとなしい橘君。一井がぐいぐい引っ張って行き、それに橘君が付き従う姿は、想像してみるとなかなか型にはまっているように思う。凸凹コンビというか、女王と召使いというか、意外性カップルというか。

 諦めきれない俺は、少し食い下がってみることにする。

 「話が合うかどうかは実際話してみないとわからないじゃん。案外好きな音楽とか本とかが一緒だったってこともあるかもしれないしさ。一井、橘君とまともに喋ったことないでしょ?」

 「そりゃそうですけど」

 「いい機会じゃないか。誘ってみなよ。二人でどこかに遊びに行って、親睦を深めたら、彼の意外な一面が見れるかもよ」

 「意外な一面って、例えば?」

 「それはほら………。実は女性に対して紳士的だったり」

 一井がぷっと噴き出す。

 「あいつが?ないない。絶対ない。あたしのとこに資材もらいに来るとき、『あ、あの、てぶ、手袋穴開いちゃって。替えをその、九条さんが一井さんに直接もらってくれって、その』って年下のあたしに対しておどおどしながら言ってくるような奴ですよ?意外性にしてもありえなさすぎますって」

 「まあ、紳士は言い過ぎかもしれんが、知らないだけでそれくらい意外な面が彼にだってあるかもしれないってこと」

 「仮にそうだったとしても、素があれじゃあねえ」

 「なんなら今から電話してみるか。あいつがオッケーかだけでも聞いてみよう」

 俺はお節介脳全開で携帯をポケットから取り出し、ロックを解除した。まだ飲み会の途中だろうから出ないかもしれないなと考えながら、電話帳を開こうとする。

 さっと手から携帯が抜き取られた。椅子から腰を浮かせた一井が、俺から奪った携帯をつまみ上げながら、ぴしゃりと言う。

 「余計なことはしなくていいですって。なんであろうと橘と遊びに行くつもりはないですから」

 「そんなに嫌か」

 「嫌っていうか相性の問題です。あたしああいう暗いタイプの人間と昔から馬が合わないんですよ。そばにいるだけでイライラしちゃって。それに、多分橘は橘で、あたしみたいなノリ重視の人間が苦手だと思いますよ。普段からそんな空気出てますもん」

 確かに、橘君を一井のところに向かわせようとすると、一瞬躊躇することが多々あった。てっきり恥ずかしがってるんだと思っていたが違うのか。だとすると、コンビは成り立たない。無理に近づけたところで、お互い反発し合うだけだ。

 「それじゃ、だめだな」

 「そういうことです」

 冷静に考えてみれば、どこにいっても陰は陰同士、陽は陽同士仲良くする傾向が強い。陰と陽でバランスが取れるかもという考えは、あまりに短絡的な考えだったかもしれない。危うく二人の間にいらん亀裂を入れるところだったみたいだ。厄介払いするにしても相手をよく選ぶべきだったな。ちょっと反省。

 「わかった。電話はしない。だから携帯返して」

 「あははは!九条さん。なんですかこの待ち受け!」

 俺の要求を無視し、一井はそう言ってゲラゲラと笑った。視線は俺から奪った携帯の画面にくぎ付けだった。

 「お前、何勝手に見てんだよ」

 「だって画面点いてたんですもん。普通見るでしょ。なんですかこれ。っていうか、なんて動物でしたっけ、これ」

 一井がまだ笑いの残る顔でうーんと首をひねる。俺は、恋人に携帯を覗かれたような気分になった。見られて困る画像ではないのだけど。

 「カピバラ」

 正解を口にすると、一井がああ、そうそう!カピバラカピバラ!と勢いよく頷いた。

 「めっちゃ可愛い。で、そのカピバラもいいけど、隣の女の人。これ、カピバラの顔真似ですよね。めっちゃ似てる」

 うけるー、とまた笑いだす。今まで誰にも見せたことがなかったからわからなかったけど、他人が見てもこの画像は笑えるらしい。撮影者である俺にしか理解できない代物だと思っていた。

 携帯の待ち受けは、もう何年も変えていなかった。変えるのが面倒だったのもあるが、一番は設定している画像より気に入る画像がなかったからだ。ネットサーフィンをしていて、良いなと思う画像はあっても、この写真に勝るものは一つもなかった。

 愛着が湧いているとも、自画自賛とも言える。いや、単に未練がましいだけかもしれない。とっくに縁は切れているはずなのに、俺はこの待ち受けにし続けることで彼女との関係が終わったことを否定しようとしているのかもしれない。

 都合のいい男だ。

 「それ、俺が撮ったんだ」

 俺が言うと、一井は目を見開いた。

 「え!?うそ。ネットで拾えるやつじゃないんですか」

 「どこにも流してないから、俺の携帯にしか入ってないね」

 「へー………え?ってことはこの人、九条さんの彼女か奥さんですか!?」

 むち打ちしそうなほどの勢いで携帯の画面から顔を引きはがす。

 「いや、友達」

 正確には、友達の前に元が付く。口には出さず、胸の中で付け足した。

 「友達………片想いの?」

 「なんでそうなる。ただの友達」 

 一井が胸に手を当てほっと息をはく。

 「なんだ、びっくりした。一人身に見せかけて実は意中の相手がいるのかと」

 「早とちり過ぎだ」

 「だって自分で撮った女の人の写真を待ち受けにするって、相手とそれなりの関係があるか、片想いか、ストーカーのどれかでしょ。写真からして盗撮したものではないから、そうなると残りの二つのどっちかって考えますよ」

 「珍しいことじゃないだろ。友達の写真待ち受けにするぐらい」

 反論すると、一井はいやいやいやと首を振る。

 「だとしてもそういうのは自分も含めた数人で映ってる写真でしょう。異性単体ではなくないですか」

 言われてみれば、一井の言う通りだった。珍しいことじゃないと言って想像したのは、どれも携帯の持ち主+αの写真だった。

 変か?初めてそう思う。

 でも、この写真は異性単体ではない。

 「カピバラ映ってるじゃん。みこ………隣の子も変顔だし、面白い写真が撮れたから待ち受けにしただけだよ」

 待ち受けにした時のことはよく覚えている。面白くて、気力が湧いてくるいい写真だったから、いつでもすぐに見られるようにした。画面を付けるだけで、彼女の無邪気な姿を拝めるようにしただけだ。他意はない。

 ない、よな。

 「ふーん。まあ、これを待ち受けにしようとする気持ちは、わからんでもないですけどね。あたしも好き」

 「だろ」

 「無防備な表情してますよね。よーっぽど仲良かったんですね」

 紅茶を飲む俺に、ジトっとした目が向けられる。

 「………なんだよその目は」

 「べっつにー」

 はぐらかして、ココアをぐいっと煽る。

 「ま、いいや。この人とは友達、なんですよね」

 「そうだって」

 「はい携帯」

 一井が携帯を差し出す。俺はそれをひったくるようにして受け取った。不用意に人前で携帯をさらすものではないなと教訓を得て、すぐにポケットにしまう。特に一井みたいな何しでかすかわからない奴の前では注意するべきだろう。

 「九条さん。一つ忠告しときます。いくら面白くても、女性の写真を待ち受けにしておくと、婚期が遠ざかりますよ」

 「ほっとけ」

 結婚なんてまだまだする気はない。相手すらいないからな。

 悲し。

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