第3話 異動 6

 「九条さーん!」

 スーツ姿の御子柴さんが手を振りながら駆け足で現れた。手を挙げて答えると、御子柴さんは投げたボールを咥えて戻ってきた犬のように、息を切らせて俺の前までやってきた。ハアハアと呼吸を整えている姿と乱れた髪が、家からここまで駆けてきたのだということを物語っていた。

 「走ってこなくてもいいのに」

 「九条さんからの、呼び出しなんて、珍しかったので、つい」

 額に汗を浮かべて途切れ途切れに言う。そういえば休日の誘いは御子柴さんからばかりで、俺からしたことは一度もなかった。

 「ごめんね。その珍しい呼び出しがこんな急で」

 「かまいませんよ。仕事から帰ってぼーっとしていたところでしたので。お風呂に入る前でよかったです。入った後だと、メイクが大変ですから」

 そう言って乱れた髪をとかす。普段から化粧っ気を感じさせないナチュラルメイクが基本の御子柴さんなら、ノーメイクでも十分外に出られるだろうに。むしろすっぴんの御子柴さんを見てみたくもある。

 「九条さんは今仕事帰りですか?」

 「うん。そう」

 「お疲れ様です。作業着姿、初めて見ました」

 着替えが面倒で出退勤は作業着でしている為、俺は作業着のままだった。普段はもう慣れたもので、駅前を作業着で歩き回っていても人の目は気にならないけど、誰かと会うのにこの格好はいくらなんでも無神経すぎただろうか。とはいえ俺にとっても突発的に思いついたことだったから、着替えに戻る暇はなかった。一応、変な臭いや、見苦しい目立った汚れがないかを確認しておく。袖に鼻を押し当てて臭いを嗅いだ。多分大丈夫。汚れも、右わき腹あたりに設備のメンテナンスで負った黒ずんだ油汚れがあるものの、自己主張は低めなようで、ひとまず良しとする。

 御子柴さんは、身だしなみチェックをしている俺のことを物珍しそうに上から下まで眺めていた。

 「どうかした?」

 「いえ、似合ってるなーって」

 「……そう?」

 自分の身体を見下ろす。会社指定の薄緑色の長袖ジャケットに、黒のカーゴパンツ姿は、いかにも工場勤務の現場作業者の装いだ。スーツならまだしも、この服装で似合ってると言われるのは素直に喜べない。

 くすくすと笑う御子柴さん。俺は服のポケットから、来る前に自販機で買っておいた温かい紅茶とココアの缶を取り出した。

 「どっちがいい?」

 「あ、ありがとうございます!じゃあ、ココアを」

 「はい」

 差し出された小さな両手に、ココアの缶を乗せる。残った紅茶の缶のプルタブを開け、口に運ぶと、御子柴さんは俺の隣に移動し、同じように缶のプルタブを開けてココアを飲み始めた。

 ごくり、ふう、と二人そろって喉を鳴らし、息を吐く。二人分の吐息が、風に乗って夜空へ吸い込まれていく。まだ息が白くなるには早い時期なようだった。

 流れていったであろう方向に、視線を泳がせる。

 「………それで、伝えたいこととは?」

  御子柴さんが、上目遣いできりだす。

 「ん………」

口を開けずに喉だけで鳴らして返事をする。緊張から手にじわりと汗がにじんできて、缶が滑りそうになる。

 言い辛い。でも言わなければならない。

 「実は俺さ、異動することになっちゃって」

 「………いどう?」

 御子柴さんは、言葉の意味がよくわかっていないようで、首をかしげて質問をするみたいに語尾を上げた。

 あまり異動と言うのは一般的ではないのかな。

 「えっと、ようは転勤だよ」

 「ああ、転勤!」

両手が空いていればポンと手を打ちそうなほど晴れやかな顔で、御子柴さんがオウム返しする。

「転勤……え……」

 御子柴さんの表情が、途端に呆然としたものに変わる。俺の顔を見上げたまま、固まる。明るかった表情が真冬に冷水をかぶったように、青白くなってゆく。俺に向けられたビー玉のような二つの目が大きく見開かれて、揺れていた。

 俺は、唇を強く噛んだ。そうしないと、罪悪感で押しつぶされてしまいそうだった。耐えろ、耐えろ、と念じながら、ゆっくりと語る。

 「もうすぐ他県にうちの会社の分社ができて、その立ち上げに俺が加わることになったんだ。もともとは俺じゃなくて別の人だったんだけど、前に田辺ってやつが辞める話をしたでしょ。それがらみでひと悶着あってさ。唐突に俺の名前が挙がったんだ」

 「………」

 「それで、先週GM………部署の一番トップの人に、決断迫られてさ。いろいろ思うところがあって、承諾した。来年の一月から、分社での勤務になる」

 「………」

 御子柴さんは俺をじっと見つめたまま、動かない。俺は、ただただ説明の義務を果たそうと必死になって口を動かしていた。

 「突然のことで準備なんかも全然できてなくて、そのくせ期日が短いからさ。今めちゃくちゃ忙しいんだ。平日はオール超残業、土曜日は休日出勤が決まっているし、日曜は自習と引っ越しの準備を進めなくちゃならない。せっかく飲み会に誘ってくれた明日も、休日出勤の予定が入ってるから、電話で無理って言ったのはそういう理由。今後も御子柴さんと会うのは、難しくなると思う」

 最悪の状況を踏まえて、スタートからかなり無茶苦茶な計画が組まれていた。遠山職長と林田さんが大丈夫と判断するまでは、実質休みはないに等しかった。裏を返せば、それだけ時間を取らないと全てを吸収しきれないかもしれないわけで、遊んでいる場合ではないということ。まるで受験前の学生だ。二人の基準がどこにあるのか把握しようがないので、いつ頃解放されるのかは全くもって未定なのも辛い。正確にいつから御子柴さんとの飲み会が再開できるかもわからないし、もしかしたら、再開する前に俺は引っ越すことになるかもしれないのだ。

 話しながら、俺の視線は徐々に下降線をたどっていった。御子柴さんを見なければいけないのに、自分の足元ばかりが視界に入ってくる。黒の安全靴が、コンビニからの光で鈍い光沢を放っていた。

 「せっかく友達になったのに、こんなことになってごめん。ましてや俺が友達になるきっかけを作っておきながら、こっちの都合で会えなくなります、引っ越しますなんて、勝手すぎると思う。本当に、ごめん」

 深々と頭を下げる。

 御子柴さんはなにも言わなかった。ただ俺のほうを向いて、立ち尽くしていた。怒っているのか、悲しんでくれているのか、困惑しているのか、頭を下げた俺にはわからない。たとえどうであったとしても、今の俺には頭を下げることしかできなかった。

 声が掛かるまで頭を上げるつもりはなかった。どのくらいそのままでいただろう。通行人から奇異なものを見る視線を感じながらも、下げ続けた頭に、か細い声が降ってきた。

 「……ないですよ」

 「え?」

 聞き返す。御子柴さんが言ったことは間違いないが、小さすぎてよく聞こえなかった。 

 恐る恐る機嫌をうかがうように頭を上げる。泣いていたら、怒っていたらどうしようと、息を飲みながら視線を御子柴さんの顔に向けていく。

 御子柴さんは、少し残念そうな顔はしていたものの、笑っていた。

 「仕方がないですよ。会社に勤めていればそういうこともあります。九条さんのせいじゃないんですから、頭なんて下げないでください」

 あまりにもあっさりとした印象を受ける模範的な回答だった。そりゃあ、受け入れてくれるだろうとは思っていたけど、もっとこう、泣き出したりして俺がなだめるみたいなことになるんじゃないかとも考えて身構えていただけに、虚を突かれたように瞬きを繰り返す。

 「気にしないでください。私なら大丈夫ですから」

 「いや、でも、俺がいなくなったらまた一人に……」

 「そんなの、九条さん以外にも友達を作ればいいだけですよ」

 「そ……そう」

 やけにはっきりと言い切る御子柴さんの勢いにおされてしまった。あれ、御子柴さんってこんなアグレッシブ思考をしていたっけ?

 「あ、勘違いしないでくださいよ。だからって九条さんと友達じゃなくなるってわけじゃないですからね。九条さんも、転勤するからって友達解消なんて言わないですよね?」

 「もちろん」

 力いっぱい頷く。

 「だったら、私は大丈夫です」

 御子柴さんが屈託のない笑顔を向ける。俺はなんだか拍子抜けして、がっくりと肩の力を抜いた。

 ドラマティックな展開を思い描きすぎていたのだろうか。それとも、友達の転勤ってこんなものなのか。御子柴さんは広い心で俺が異動になることをいとも簡単に受け入れてくれた。はじめこそ驚いていたが、今ではもう仕方がないやと割り切っているみたいだった。望んだ結果ではあるし、後ろ髪ひかれる思いをしない分いいに決まっているのだけど、あっさりとし過ぎていて、肩透かしを食らった気分だった。安心したような、残念なような。うまく言い表せない心境だった。

 まあ両手で数えられるくらいしか会っていないし、いくら最近になってメールのやり取りが頻繁になってきたといっても、所詮は最近できた友達ってことなのだろうか。むしろ俺が変に重く考えすぎていただけなのかもしれない。

 しれないが、

 「御子柴さんって、意外と淡泊な性格してるんだね。知らなかった」

 「あ、非情な奴だと思ってますか?」

 そこまでは言ってない。

 「私だって寂しいですよ。寂しいですけど、どうしようもないじゃないですか。それとも私が泣いて九条さんに懇願したら、転勤がなしになって、これからも飲み会や遊びに行ったりできるようになるんですか?」

 「いや、それは………」

 「だったら私にできることは、九条さんの重荷にならないようにするだけです」

 非情どころかめちゃくちゃいい子だった。コンビニの前でいじけて座り込んでいたとは思えないほど大人な対応だ。

 かと思うと、今度はからかうように、

 「行かないでくださいって駄々こねたほうがよかったですか?」

 と目を細めて聞いてくる。

 「それはさすがに引いてたかもしれないな」

 それだけ自分を大切に思っていてくれているんだと優越感に浸れてもいたかもしれないが。そうとは言えずできる限りの強がりを見せると、御子柴さんは、ですよねと笑った。その笑いにつられて、俺も頬がゆるむ。

 一応、やり遂げた、ってことでいいんだよな。

 紅茶を飲んで、緊張しっぱなしだった心を落ち着かせる。ほうっと息を吐くと、二酸化炭素に混じって、御子柴さんへの罪悪感がいくらか体内から出て行ったような気がした。

 「ありがとう」

 受け入れてくれたことに感謝を述べる。

 「いえいえ。ちなみに、異動ってずっとですか」

 「ううん。三年の予定」

 「それを聞いて安心しました。いつ、引っ越すんですか?」

 「まだそれすら決まってないんだけど、多分十二月二十三、二十四あたりになると思う。年末近づくと引っ越し業者も休みに入るから、会社の冬季連休に有休繋げて、早めに発つ予定」

 「クリスマス直前ですか。そんな日に引っ越しっていうのも、なんだかさみしいですね」

 言われて、ああ、そうなるなと気付いた。

 「まあどうせクリスマスなんて俺にとって縁のないイベントだから、別になんとも思わないよ」

 御子柴さんが、えー、と眉をしかめる。

 「でも、世間がクリスマスムードの中引っ越しでバタバタするのって、嫌じゃありません?単身だと特に」

 「そうかなあ」

 想像してみる。クリスマス前に引っ越し業者に指示を出す俺。道中にひしめくカップルや家族連れを旅行鞄を持ってすり抜ける俺。町中に響き渡るクリスマスソング。そして新居で一人コンビニ弁当を食べる俺。

 「空しいね」

 「でしょう?」

 日程ずらそうかな。でも、そんなことをしていては年越しまでに最低限の生活水準すら満たすことができなくなる。新居に行った後も、買いそろえなければならないものはたくさんあるから、悠長なことを言って店が休みに入ってしまえば面倒なことになってしまう。

 この際空しさには目をつぶることにしよう。どうせ去年も一昨年もその前も、クリスマスは全スルーしていたのだから、今更傷心もなにもない。

 迷いを断ち切り、咳払いをする。

 「それはそれとして。そんなわけで、引っ越しまで猶予があまりないんだ。さっきも言ったけど土曜は仕事、日曜は自習と引っ越しの準備になるから、御子柴さんとはこれまでみたいに気軽に会えなくなると思う。もし引っ越す前に時間が空きそうなときは、こっちから連絡するようにするよ」

 「はい」

 「あ、メールは今まで通りでオッケーだから。今日みたいにならないように、できる限りチェックも欠かさないようにする」

 「はい」

 御子柴さんは、相変わらず笑顔で頷く。

 「無理をして身体を壊さないようにしてくださいね」

 「無理をしないと、この壁は越えられそうにないよ」

 先週遠山職長とたてたスケジュールを頭に浮かべて、げんなりする。気を抜けばすぐに足元をすくわれることになるハードなものになっている。分社に行ってからのことばかり不安に思っていたけど、行く前からすでに茨道は始まっているのだ。

 「まあ、死なないようにだけはしとくよ」

 冗談交じりに言うと、御子柴さんは、心配そうに顔をゆがめた。

 「本当に気を付けてくださいね」

 保証はできないけど、頷いておく。

 御子柴さんは、それを見て安心したように笑顔に戻った。

 「それじゃあ、九条さんは明日も仕事があるようですし、解散にしましょうか」

 「あ、うん」

 「お休みなさい。頑張ってくださいね」

 そう言って、御子柴さんは踵を返した。

 もしかしたら、会うのはこれが最後になるかもしれない。

 「あ……あのさ」

 脳裏を嫌な予感がかすめ、思わず呼び止めてしまう。御子柴さんが振り返らずに立ち止まる。

 「えっと……」

 次いつ会えるかわからないのだから、伝えられることは今のうちに伝えておこうと言葉を探る。

 「三年後には戻ってこれるからさ。そうしたらまた、飲みに行ったり遊びに行こうね」

 いや、これでは本当に別れの挨拶じゃないか。帰ってくるまで二度と会えないみたいだ。

 「引っ越すまでにも、なんとか時間見つけて、どこかに誘えるようにするから」

 御子柴さんの首が縦に振られる。違う。こんなのメールでも電話でも伝えられる。

 もっと、あるだろう。

 「九条さん」

 御子柴さんが振り返らずに俺の名前を呼んだ。

 「ん?何?」

 「ついて行ったらだめですか」

 「………え!?」

 耳を疑った。

 「ついてくる?異動先に?なんで?」

 素直な感想が漏れる。御子柴さんと俺は友達のはずだ。結婚以前に付き合ってもいない。友達が引っ越すから私もなんて、聞いたことがない。御子柴さんには御子柴さんの生活がすでにあって、勤めている会社もあるのに、なぜそんなことを言うのか。

 俺が言葉の意味を理解できないでいると、

 「なーんて、冗談ですよ。本気に捕らえないでください」

 御子柴さんは首だけを回して、笑みを見せた。

 「だいぶ疲れてるみたいなので、早く帰って休んだ方がいいですよ」

 御子柴さんはそう言って会釈をして、歩き出してしまった。

 俺は再度呼び止めようにも、あっけにとられて言葉が出てこず、去っていく御子柴さんの背中と揺れる黒髪をただ眺めていた。

 御子柴さんに電話を掛けた後に見た月は、完全に建物の陰に隠れてしまっていた。





  頻度を増していた御子柴さんからのメールは、異動を伝えた日からぱったりと止んだ。

 理由はわからなかった。携帯が壊れたのか、御子柴さんも仕事に追われているのか、それとも、忙しいであろう俺に気を遣っているのか。もしくは御子柴さんはあの夜。本当は怒っていて、引っ越していく俺のことを見限ったのかもしれない。そんな人じゃないと思っても、御子柴さんからのメールが来なくなった理由としては適切だとも思った。

 気にはなったが、俺からメールを打つことはしなかった。いや、打てなかったと言うべきか。週六の夜遅くまでの残業、日曜の自習と引っ越しの準備に追われることで、頭が仕事で一杯になり、それ以外のことに思考を巡らす余裕がなくなっていた。たとえ連絡を取ろうかと思ったとしても、仕事の波が押し寄せ飲み込んでしまい、数日が経ち、また思い出しては飲み込まれるの繰り返し。一向に行動に移せないまま、月日は瞬く間に流れていった。

 ようやく肩の荷が下り始めたのは、教育過程が終わり、惜しまれながらも一足早い冬休みに入り、引っ越し業者への荷渡しが滞りなく進んで、久々の家族そろっての食事をした後だった。くしくも引っ越し前夜で、結局俺はそれまでの間、御子柴さんのことをどこかに誘うことはおろか、メールもしなかった。

 関係が切れている可能性もあった。それでも、最後の報告ぐらいしておくべきだろう。久しぶりで緊張しながらも『明日、引っ越します』とだけ文字を打ち、御子柴さんに送信してみた。

 『最後に会いませんか』そんな返事が来るかもしれないと期待して。

 

 返事はすぐに来た。『お体に気を付けてください』だけだった。

 俺と御子柴さんとの連絡は、どこか他人行儀なメールを交わしたその日を境に、完全に途絶えることになった。

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