第3話 異動 5
「ゼロ災で行こう!ヨーシ!」
「「「「「ゼロ災で行こう!ヨシ!」」」」」
一週間の始まりの朝。不慣れな号令に続いて、声が重なる。号令を出したのは、俺が入社した翌年に新卒で入社した後輩で、先週まで林田さんの直にいた次期班長の岡崎だ。いつも号令を出していた俺は、約二年ぶりに後に続く側に回っていた。新鮮であり、少し寂しくもある複雑な心境だった。
本日付で、俺は通常業務から外れ、異動先での準備に専念することになっていた。夜勤をやる意味がなくなったことで、勤務形態も、昼勤夜勤の交互から常時昼勤となる。俺が受け持っていた直は、代わりに林田さんの後を継ぐ予定だった岡崎が任されることになり、一部変更があったが、我が部署は一足早く来年度の体制を迎えることとなった。
「九条さん。俺、なにからしたらいいですか」
細目がちな目の奥を揺らして岡崎が寄ってくる。一年近く林田さんの下にいて、こちらの直とは関わりが浅かったし、教育中だったところをいきなり実践に切り替えられたのだから、不安に思うのも無理はない。
「とりあえず、林田さんに教わっている通りに班長業務のルーチンからお願い。直が変わっても、やることは同じだから」
「了解です」
素直に頷く。歳が一個違いで、岡崎が入社してからしばらく同じ直で仕事をしていたこともあって、学校の先輩後輩に近い関係の為、敬語は使っても硬さはなかった。俺も岡崎にだけは作業者の誰とも違う、フランクな接し方をしていた。
「なんかわからないことがあったら遠慮なく聞いてきてくれていいし、間違ったことやってたらその都度指摘するから、まずは自分なりにやってみて」
「はい。あ、でも、林田さんに九条さんをなるべく頼らずに、いないものとしてやれって釘を指されてるんですけど」
「そうなの?」
多分異動に専念できるよう、林田さんなりに気をつかってくれているのだろう。
「まあ、逐一来られたらそりゃあたまったもんじゃないけどさ。俺も岡崎がどれくらいできるかは見たいし、できないまま任せきるのも嫌だから口出しはするし、わからんことは聞いてきてもらった方が嬉しい」
通常業務から抜けたとは言え、全く介入しないのは無責任だ。林田さんの心遣いは嬉しいが、直を任せた後に困らないためにも、指導できるところはしていきたい。
岡崎はどちらに従うか迷った末、言った。
「じゃあ、適度に頼ることにしますよ」
「おう。くれぐれも、適度にな」
冗談めかして強調する。直が分かれてからまともに話せていなかったけど、壁が生まれたり、ギクシャクしたりすることはなかった。きっと、それまでに十分に打ち解けているからだろう。
御子柴さんともこんな感じで、再開を果たせる。だから早く伝えなければ。
「にしても、災難ですよね九条さん。いきなり異動だなんて」
岡崎が苦笑いを浮かべて憐れみの目を向けてくる。
「あのあと林田さん、すげー愚痴ってましたよ」
「怒ってた?」
「そりゃあもう。GMのことボロカス言ってました。九条さんのことは、不憫だ不憫だって嘆いてましたね」
「そうか」
会議室を出てから、林田さんは俺が帰るまで一言も喋らなかった。次の日からも今後の動きを話し合うために残業で残ったりしたが、林田さんとは業務的な会話しかしていなかった。もしかしたら俺が下した決断に憤慨しているのではと思っていたけど、岡崎の話を聞く限りそうではなさそうだった。ひとまず安心した。
「まあ、しゃあないよ。上司に行けって言われて断れるほど、俺は肝が据わってないから。岡崎にも悪いことしたな」
岡崎は顔の前で全然、と手を振った。
「受け持つ直が変わるのは思うところがありますけど、九条さんに比べたら些細なことですよ」
「いい奴だなあ。でも、岡崎も三年後は俺とチェンジになるかもしれないから、油断してられないぞ」
「いやいや、俺より先に林田さんでしょ。常識的に考えて」
「だと思うじゃん。俺もついこの間までそう思ってたよ」
俺が肩をすくめると、岡崎は、げ、と顔をしかめた。そう、常識が通用しなかった例が目の前にいるのだ。
「ま、頭の片隅に置いとくことだね」
「そうすね」
忠告をして、別れた。岡崎は、一人一人声を掛けて回ってきますと作業場に向かい、俺は一人詰所に向かう。
先に詰所に戻っていた遠山職長が、俺を見るなり待ちかねたという表情で「さっそく始めようか」と用紙の束を両手で抱えた。その厚みを見ただけで、自分がどれだけの情報を詰め込めなければならないかを自覚する。始まる前から憂鬱になった。
それでも、やらなければならない。残された時間はわずかなのだから。
毎日上限いっぱいまで残業をした。休憩時間も資料とにらめっこ状態で過ごした。それぐらいしないと、分社のことに無知な俺が、問題を抱えることなく異動できるだけの知識を蓄えるのは不可能だと思われたからだ。発足当時から定期的に行われてきた説明会、定例会で配られた莫大な量の資料に目を通すだけでも相当な時間を有するのに、その先には本題の部署立ち上げの前準備がある。あまり悠長に構えていられなかった。たとえ辛かろうと使える時間は全て仕事に回さないと、あとで頭を抱えるのは俺だった。
一週間は、あっという間に過ぎていった。楽しい時は時間が早く感じるものだと言うけれど、楽しくなくても大変な時は早く感じるものだ。この一週間でやっていたことを思い返してみると、ずっと分社のことを入社当時の気分を味わいながら勉強していたような、岡崎に付いて引継ぎをしたり、異常処置の付き添いをしていたような、遠山職長の愚痴に付き合わされていたような。ひどくおぼろげだった。全部やっていたのだろうけど、もっといろいろとやっていたような気がする。連日の超残で疲れすぎて、記憶が混濁しているらしく、正確に思い出すことはできそうになかった。
最終の送迎バスから降りた俺は、その場に崩れそうになる足を引きずって帰路についた。連日目を酷使しすぎたせいで、瞼がひくひくと痙攣を起こしている。ひどく鬱陶しい。なんとか止めようと目を強くつぶって開いてみるが、数秒後にはまた意思に反して動き出した。実にうざい。セロテープがあったら瞼を固定してやりたかった。
違和感を取るのに気を取られて、前から来た人にぶつかりそうになる。寸前のところで避けたが、相手のしかめっ面が横目に映る。軽く頭を下げて、歩き続けた。
おなじみのコンビニの前に来たところで、俺は足を止めた。まぶしく光る看板をぼんやり眺めて、飯を買って行くかを考える。今週は帰りが遅くなるから飯の用意はしなくていいと親に事前連絡してあるので、夕飯を食べたければ自前で買って帰る必要がある。長時間の残業があった日は、帰っても飯を食って風呂に入って寝るのみなので、面倒な時は一番必要性のない食事を省くこともあった。今週も、月曜以外は夜は食べずに済ませている。今日はどうしようか。腹は多少空いている気もするが、面倒くさくもあった。
「あ、そうだ。ボールペン」
ふと思い出す。インクが切れたから、どのみちコンビニで買っていかなけばならないのだった。だったら、寄るついでにおにぎり一個でも買っていこう。
店内に入り、寄り道せずに三色ボールペンと鮭のおにぎりと野菜ジュースを手に取って、レジに置いた。
お預かりしますと商品の一つを持ちバーコードをスキャンしたのは、いつぞやの女性店員だった。確か名前は、上末さん。
「今お帰りですか?」
俺の後ろに誰も並んでいないのを確かめるように目を動かしてから、上末さんが尋ねてくる。
「ええ、まあ」
「大変ですね。お仕事お忙しいんですか?」
「予期せぬ事態があったもので」
はは、と愛想笑い。
「そうですか。身体壊さないように気を付けてくださいね。あ、六百十二円になります」
値段を読み上げられてから、カバンを漁り、財布を探す。カバンの中は分社の資料で一杯だった。その資料の束を掻き分け、間に挟まれた黒の財布を見つけ手を掛けると、それに寄り添うように重なった携帯の存在に気付く。携帯は、上部の着信があるときなどに光る箇所を、蛍のようにゆっくりと青色に点滅させていた。
そういえば、ここしばらく携帯をろくに確認していない。家では確認する間もなく寝てしまうし、会社では携帯を開く暇があったら資料に目を通すようにしていた。この一週間充電をした記憶もなく、バックに放りっぱなしで、存在すらも忘れていた。
これはまずい。俺は金額ぴったりの小銭で支払いを済ませ、商品の詰まった袋を掴むと、気遣ってくれた上末さんに礼を言って外に出た。すぐ脇のごみ箱の横に陣取り、この場で手早く確認してしまおうと携帯の電源ボタンを押す。
幸いにも、画面はすぐに点灯してくれた。意外にもバッテリーも半分近く残っていた。
それよりも、画面に表示されたメールの数を見て、ぎょっとした。
二十一件。携帯を手にしてから一度も経験のない数だった。慌ててロックを解除し一番古い物から確認していく。
予想はしていたが、ほとんどが御子柴さんだった。内容は、雑談から今週末のお誘い、そして連絡がないことへの心配を匂わすもの。御子柴さん以外は、高校からの友人の飲み会の誘いと、通販サイトのお知らせメールだった。
御子柴さんの名前が連なっているのは、正直背筋が凍った。怖いとかではなく、やらかした、という意味でだ。仕事で頭が一杯で、プライベート用のメールチェックを完全に失念していた。御子柴さんと頻繁にメールを交わすようになってから、もともと放置気味だった携帯を持ち歩き、確認する習慣ができてきたはずなのに、仕事が忙しくなった途端にそれができなくなっていた。定着には至っていなかったということか。
やばいな。絶対怒ってる。早く謝らないと。それから事情を説明して………。 焦った俺は、携帯の電話帳を開き、表示された電話番号を押して、耳に当てた。
コール音が始まった。そこで、我に返る。
ちょっとまてよ。謝るはいいとして、事情を説明ってことは異動のことを言うのか。俺はまだ御子柴さんに異動のことを伝える心構えができていないぞ。
別の理由で背筋に悪寒が走り、通話を切ろうとする。
ちょうどその時だった。
「もしもし九条さん!?」
耳から数センチ離したあたりで、コール音が途切れて慌てた様子の御子柴さんの声が届いた。遅かった。
仕方ない。顔をしかめて、離れた携帯を耳元に戻す。
「もしもし。ごめん御子柴さん。携帯放置してて、メールに気付かなかった」
「あ、そうだったんですね。よかったー。連絡取れて。鬱陶しくて無視されてるのかと思ってましたよ」
心底安堵したように御子柴さんが言う。久しぶりに聞く御子柴さんの声は、仕事で張り詰めっぱなしだった俺の胸に優しく響いてきた。思えば、三週間ぶりに生の声で言葉を交わしていた。それだけ会っていないことにもなり、今更ながらその事実に驚く。
「それか、なにかあったのかと」
「なにかって?」
「ニュースで時々やってるじゃないですか。工場勤務の人で、機械に挟まれて、とか」
ああ、なるほど。
「大丈夫。そういうのではないから。いらない心配かけちゃったかな」
「いえ、無事で何よりです」
御子柴さんが電話口で笑う。俺も、つられて笑った。久しぶりに本心から笑えた気がした。カピバラ画像とは違い、生の声は鼓膜を震わせ脳を直接刺激し、幸福度を高めてくれる。電話もメールもためらっていたのが嘘のように、俺は御子柴さんの声に安らぎを求めて聞き入っていた。
「っていうか、わざわざ電話でなくてもメールしてくれればよかったのに」
御子柴さんがもっともなことを言う。
「メールの件数見たらビビっちゃってさ。謝んないとって思ったら、とっさに電話を選んでた」
「えー。それ、私が九条さんに助けを求めた時と変わらないじゃないですか」
御子柴さんが抗議の声を上げる。言われてみればその通りだ。仕事と私用の違いはあれど、焦りから考え無しに動いたという意味では同じだった。少し冷静さに欠けていたようだ。
「以後、気をつけるよ」
俺は見えるはずもないのに、頭を下げる。
「あ、いえ。電話していただけるのは嬉しいんで、全然かまわないんですけどね」
なんじゃそりゃ。
「それで、どうかしたんですか?携帯が確認できないほど、お仕事が忙しかったんですか」
きた。そうだよな。こちらから理由を話さなくても、普通聞くよな。
先週同様、具体的なことは言わずにやり過ごすことも可能だった。『そうそう、最近忙しくてさー』と乗っておけばいいだけだ。今回は実際忙しかったわけだし、嘘にもならないから、罪悪感を覚える必要もないはずだった。
でも、伝えたくても踏ん切りがつかなかった中、理由はどうあれ、伝えられる絶好のチャンスが巡ってきたのに、またはぐらかして先送りにしてしまうのは、散々決断が遅いと非難した影野GMと同じに思えて嫌だった。
御子柴さんは、突然の音信不通にも怒ることなく心配してくれて、且つ受け入れてくれている。そんな彼女なら、異動の話をしても受け入れてくれるだろう。都合のいい解釈かもしれないが、そう思うことで、自分の中の勇気を奮い立たせる。
言おう。先に延ばせば、余計に言いづらくなる。
「そのことなんだけどさ」
一拍置いて、覚悟を決める。
「ちょっと訳ありで、御子柴さんにも話さなきゃいけないことがあるんだけど」
「え?私に関係があるんですか?」
不思議そうな御子柴さん。
「んん、まあ直接関係があるかと言われればないんだけどね」
「はあ」
「んーと………」
覚悟を決めておいて、いざ言おうとすると躊躇してしまう。そんな自分にやきもきする。電話ごしだと最悪通話を切るなりはぐらかすことで逃げれてしまうから、喉まで出かかった言葉が引っ込みがちになる。
ああ、くっそ!もういいや。
「あのさ、今から外って出てこられる?」
「外ですか?}
度重なる意味不明発言に御子柴さんが怪訝な声を発する。
「そう。できれば電話より、直接伝えたい」
自分を追い込むことで、言わざるを得ない状況を作り出そうと画策する。
「明日とかではだめなんですか?あの、メールでも送ったんですけど、明日また飲み会がやりたいなって思っているところですし、その時では」
明日。そうだ、御子柴さんからのメール群には、誘いのメールがあった。
でも、
「ごめん。明日は無理なんだ」
胸をわしづかみにされたような痛みに耐えながら言う。明日では伝えられないという意味と、飲み会には参加できないという、二重の意味。
「そうですか………」
御子柴さんの声の調子が明らかに暗くなる。
「それも含めて、今日会って話したい。駄目かな」
時刻は十二時を回っている。電話ですら憚る時間帯なのに、呼び出すのはどう考えても非常識だ。しかも相手は女性。断られても文句は言えない。
「わかりました。すぐ行きます」
御子柴さんははっきりとした返事を返した。
自分から誘っておいて、心配になる。
「大丈夫?こんな時間だけど」
「はい。少し前に仕事から帰ってきて、まだ服を着替えてないので、すぐ向かえます。それに、夜は慣れてますから」
最後の部分はあまり褒められたことではないけど、今の俺にとっては都合がいいのが複雑な心境だった。
「ありがとう。場所は………」
「コンビニですよね」
待ち合わせはいつもコンビニだった。言わずとも御子柴さんも把握していた。
「すぐ行きます」
「待ってる。気をつけてね」
通話を切る。
携帯をポケットにしまい、夜空を仰ぐ。雲一つ見当たらない空には、綺麗な三日月が昇っていた。しかし、俺がいる位置からだと、もうすぐビルに隠れて見えなくなってしまいそうだった。
最後まで見守っていて、できればよい結果になるよう祈っていてくれ。っていうかいい結果にしてくれ。
理不尽な願いを月に浴びせながら、俺は御子柴さんの到着を待った。
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