第3話 異動 4
『ごめん御子柴さん。今週も飲み会は駄目っぽい。ちょっと仕事関係で予定が入っちゃって。ほんと、ごめん』
送信を押し、携帯を枕元に投げ捨てる。ベッドに横たわった俺は脱力し、目をつぶる。
俺は初めて、御子柴さんに嘘をついて、飲み会をキャンセルした。
かつてないほど長く感じ、恐ろしいほどの倦怠感に襲われた夜勤週をどうにかこなして迎えた土曜日。家に帰ってひと眠りした俺は、夕方の六時すぎに目を覚ました。
御子柴さんと飲み会があったら、急いで出掛ける準備に入るのだが、今日はその必要がなかった。のそりとベットから起き上がり、台所へ向かった。
台所では、母さんが夕食を作っていた。肉の焼ける匂いが微かに香り、寝起きの食欲を刺激する。おはようと一声かけると、はい、おはようと返ってくる。肩越しに母の操るフライパンを覗き込むと、拳大のハンバーグが二つ寝そべっていた。
「今日は出掛けるの」
冷蔵庫から麦茶の入った容器を取り出しコップに注いでいると、母が尋ねてきた。
「いや、今日はどこも」
乾いた口に麦茶を流し込む。
「そう。ここんとこ毎週出掛けてたから、また行くんだと思ってた」
「飯用意してない?」
「少し前にお父さんから電話があって、帰りが遅くなるんだって。よかったわねー」
いたずらっぽい口調で言う。冗談にしろ、あるにはあるらしい。それならいいやと軽くあしらって、ダイニングテーブルでテレビを見ながら出来上がりを待つことにした。
「それであんた、引っ越しの準備はどうするの」
テレビから流れる音に紛れて、母の声が聞こえてくる。
両親には、火曜日の段階で異動のことは伝えてあった。二人ともはじめこそ急なことで驚いてはいたが、割とすんなり受け入れていた。うちは全員働きに出ているから休日ぐらいしかまともに顔を合わせないし、休日は休日でどこかへ出掛けるような仲睦まじい家族ではないから、別段悲しむ要素がなかったのだろう。複雑な心境ではあったが、娘ならまだしも息子だしな。
「ぼちぼち進めていくよ」
「あたしもお父さんも転勤になんてなったことないから、役には立たないことだけ言っとくよ」
「知ってる。おとなしく自分で調べるからいい」
頬杖をつき、チャンネルを切り替えながら答える。引っ越しに必要なことはネットで調べれば一覧ででてくる。便利な世の中だ。
土曜の夕方はろくな番組がやっていなくて、仕方なく適当なニュース番組で手を止める。
「そうそう。友達にはちゃんと伝えときなさいよ」
ふいに俺が一番指摘されたくないことを突っ込まれ、心臓が跳ねた。
「最近出掛けてるのだって友達とでしょう。高校の友達だか誰だか知らないけど」
女性と飲みに行くと親に言うには恥ずかしさがあって、御子柴さんのことは言っていない。
「そのうちするよ」
「早めにしなさいよ。直前だと相手も困惑するし、伝えずに行ったりなんかして、それっきり疎遠になることだってあるんだから」
「わかってるって」
わかっているけど、それができないから俺は自宅にいた。何度かメールで伝えようかとも試みたが、一向に文章が打てず、電話は通話ボタンがいつまでたっても押せなかった。他の友達には簡単にできたのに、だ。一番付き合いは短いが、ここ一か月ほぼ毎週飲み会を開いていて、他のどの友達よりも密に過ごしていたせいで、情が湧いてしまっているのだと思う。何より、御子柴さんと友達になるきっかけを俺が作っていたから、安易に異動になりましたと告げてしまうのは、俺に非がなくとも身勝手な気がして良心が痛む。
だからと言って、伝えないわけにはいかない。たとえ離れていても、御子柴さんとは友達でいたいから。そして、三年後になるかはわからないけど、いつか戻ってきたときに、また一緒に飲みに行ったり、遊びに行ったりできるような仲でいたいから、必ず伝えはする。
近いうちに、な。
だって、考え無しに動いて、彼女を幻滅させてしまい友達解消なんてことになられたらそれこそ困るじゃないか。そうならないためには、関係を壊さない伝え方をしなければならない。御子柴さんがどんな反応をしてもいいように、あらゆる場面を想定しておく必要があるのだ。
決して日和っているわけではない。
言い訳がましいセリフを心中で吐く俺の前に、ハンバーグの乗った皿を持った母が呑気に鼻歌を歌いながら現れる。
「あんた、ただでさえ友達少ないんだから、大事にしなくちゃだめよ」
余計なお世話だ。実際そうなのだけど。
食事を済ませて部屋に戻ると、ベッドに腰かけた。空腹が満たされ、睡眠も十分にとった。さて、何をしようと考える。
一か月ぶり、完全フリーの土曜の夜だった。考えなくてはならないことは山ほどあったが、来週からは異動に向けての準備で平日も休日も忙しくなるし、御子柴さんとの飲み会も逃げ続けるわけにはいかないから、ひょっとしたら年内で自由に過ごせる土曜の夜は今日で最後かもしれなかった。不本意で生まれた空白だけど、厄介な考え事は明日に回して、今日くらいは自由に過ごしても罰は当たらないだろう。
パソコン。読書。ゲーム。音楽鑑賞。それぞれが置かれた場所に目をやりながら、それをやっている自分を思い描いていく。その中で、一番気分の乗りそうなものを選ぶ。
しかし、いまいちどれもしっくりとこなかった。手をつけたところで、すぐにやめてしまいそうだった。他にないかと部屋を見渡してみるも、人並みな趣味しか持ち合わせていない俺の部屋には特別興味を引くものはなかった。
ならば出掛けようか。駅前をぶらぶらするだけでも、気分は晴れるだろう。
起き上がろうとしたが、すぐに思い返す。やっぱりなしだ。今から用もないのに着替えて身だしなみを整えるのはおっくうだった。今日はもう部屋着のままで過ごしたい。出掛けるのなら明日にして、部屋でできること限定にしよう。
いくつか考えついては却下を繰り返していく。なかなか決まらない。そもそも俺って、御子柴さんと会うまでこの時間はどうやって過ごしていたんだっけ?一か月前のことなのに、思い出せなかった。
仕方なく、帰ってきてから枕元に転がしたままにしていた携帯を、確認がてら手に取る。
メールが一件届いていた。差出人は、御子柴さん。『夜勤お疲れ様でした』という短い文と共に、末尾にはデフォルメされた犬のスタンプが押してあった。いい子だな、と思う。確か先々週の夜勤週にも同じようなメールを送ってくれた。友達でここまでする人もそうはいないだろう。御子柴さんが律儀なのか、引っ越して初めての友人ができたことがよほど嬉しいのか。
反射的にすぐに返信しようとして、やめた。詳しくは話してないが、俺は仕事を理由に飲み会を断ったことになっている。すぐに返信したら、不信感を抱かせかねなかった。
時間を空けよう。メール画面をとじ、ホームに戻ってくる。画面に映るのは相変わらずの御子柴さんとカピバラのツーショットだ。異動の話を聞くまでは活力剤として効果を発揮していた画像も、今ではすっかりとその効力を失っていた。飽きたわけではなく、俺自身が浄化しきれないほどの闇を抱えてしまっているのだ。御子柴さんに嘘をついてしまってからは、眺めているだけでも罪悪感にかられる。画面の奥に微かに映る俺は難しい顔でため息をついた。
見るに耐えなくて、携帯の画面をすぐに暗転させる。もうホーム画面を変えてしまおうか。携帯を無造作に放り、ベッドに身体を投げ出して脱力する。
「御子柴さんに、どうやって伝えよう」
口から漏れたのは、明日まで考えないようにしていた目下の問題の一つだった。自由に過ごすだなんだといったところで、問題が山積みな状態で他に手が出せるほど俺は器用ではなかった。
結局、貴重な時間は悶々と考えを巡らせるだけで終わっていった。
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